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 プロローグ


「――以上が今回の作戦の概要だ」
 画面越しに見える四十歳ぐらいの男は、不敵な笑みを浮かべていた。その目は鋭く、こちらのわずかな油断も逃さぬよう、常に目を光らせているように感じられる。レーベルは直立不動の姿勢を崩さぬまま、こう思った。この男は昔から好きになれない。
「レーベル・セオドールくん。二十八歳の若さで大佐まで上りつめた君の実力、期待してるよ。では、速やかに作戦を遂行したまえ。健闘を祈る」
 男が冷たげに言い放つと、ブリッジ前方の上部に取り付けられたモニターの映像が乱れ、プツンと途切れる。モニターは元の光彩のない画面に戻った。同時に張り詰めた緊張も途切れ、側の椅子に力なく腰を下ろした。上半身を背もたれに押しつけると、深くため息を吐く。しばらくは動きたくもない――そう思わなくとも体に力が入らないのだが。
 ブリッジを軽く見渡して自分の置かれた状況を確認し、頭を抱え込む。あのやろう、人に面倒なことを押しつけやがって。画面の向こうにいた男に悪態を付くが、今さら聞こえない。
 ふと誰かの気配を感じた。「大佐?」とても優しげな声がする。
 声のする方に視線を向けると、少し小柄な幼顔の女性が立っていた。彼女はわずかに屈んで、レーベルの顔を覗き込んでいる。
「なんだ、どこの子供かと思ったら、アルか……」
「子供で悪かったですね!」
 ぷいとそっぽを向く、その動作がたまらなく可愛く思えた。怒らせたかなと思いつつ、しばらく彼女を見詰める。
 彼女は補佐官のアルミシア・マカリウス。短めの黒髪、透き通るようにきれいな黒目、端整な顔立ちで優しげな笑みを浮かべている。見た目は十四、五歳だが、本当は二十三歳の立派な大人だ。けしてグラマーとは言えない体型だがスタイルが良く、運動神経抜群。頭も良くて、誰にでも優しい……のだが――
 彼女は視線を戻すと、レーベルを睨み付ける。
「レーベル大佐こそ、なんなのそのだらしない格好は!? 格好つけて金髪にしてるくせにぼさぼさじゃない。パーマのつもり? これじゃ寝癖と変わんないわよ!」
 その荒々しい口調に、思わず後ずさりたくなる。「地毛なんだけどな」ぼそっと言うが、彼女は聞く耳を持たない。やっぱり怒ってるんだな……
 今日二度目のため息を吐きながら、後悔の念に囚われた。
 アルは子供扱いされることが特に嫌いなのだ。それが分かってて言ってしまうのはなぜだろう。今さら考えても遅いことを真剣に考えてみる。
「軍服だって整ってないし。ちゃんとすればね、凛々しい顔なんだから絶対格好良くなるのに、ああもう、レーベル見てるといらいらしてくるわ。何でこう、身だしなみをちゃんと出来ないのかしら」
 そう言いながらレーベルの襟元を荒々しく整える。
 アルはなぜかレーベルだけには厳しい。相手が上官だということを忘れてるのではないか。時々そう思うのだが、なぜか言い返せない。なんていうか、逆らってはいけない人というのは必ずいるものだ。まあ、尻に敷かれるのも悪くはないか――最近はそう感じるようになった。そして、こんなやりとりを繰り返す内に楽しんでいる自分を見つけていた。
 とはいえ、大体このタイミングであいつの横やりが入ってくる。
「アルミシア少尉、レーベル大佐は仮にも上官じゃぞ。口の利き方には気をつけたらどうかね」
 それは至極当然の発言だ。襟を整えていたアルの手が止まる。
 半眼で白髪白髭の老人を見やる。
 彼は副官のアスレッソ・ホルスティン。見た目は八十歳の退役前軍人だ。本人は六十歳と主張するが、誰も信じていない。顔のしわが多く、太い眉毛も真っ白、まぶたは垂れ下がって瞳の色を確認できない。中背だがレーベルより少し低く、小太りだ。
「だって少佐、悪いのはレーベルの方よ」アルが振り向きながら訴える。「せっかく心配したのに、冷たいんだから……」
 アスレッソは何度か頷くと、わずかにまぶたを開けて目を光らせた。その癖が出た時、彼は大抵ろくでもないことを考えている。
「しかしな、言葉遣いは正すべきじゃ。丁寧な口調で上官に対する礼儀をわきまえてじゃな、さりげなく嫌がらせをするものじゃぞ」
「えー、でも……」
 本気で悩むなよ。喉から出かかった言葉を飲み込み、レーベルは無視を決め込むことにした。関わらないのが一番だ。
 アルはアスレッソの側に行き、耳打ちする。
「……どうしたらいいの?」
「そうじゃな、今回の場合は……ごにょごにょ……」
 でも、やっぱり気になる。視線を二人に向けると、アスレッソがちらりとこちらを見た。必死に笑いを堪えているのだろう、口元が引きつっている。聞く耳を立てても会話が聞こえなくて、それが非常にもどかしかった。
 話し終わり、アスレッソに背中を押されてアルが来た。目の前で立ち止まると、さっきと同じように少し屈む。「大佐?」元の優しい口調だ。
 彼女が満面の笑顔をレーベルに向ける。恥ずかしくなって慌てて視線を外すと、半眼で見据えた。
「あいつに何を吹き込まれたんだよ」
「なーんにも」アルは首を横に振る。恥ずかしそうに舌を出してこう付け加えた。「諭されちゃった」
「そんなわけないだろう? あれだけ長く話し込んでたのに」
「本当だもん。優しくしろって言われたのよ」
 そう言って頬をふくらませるアルに、ますます疑念を深める。
 一つ一つの動作がわざとらしい。ちらりとアスレッソを見るが、相変わらず笑いを堪えるのに必死なようだ。視線の隅でアルが深呼吸してる。そんな彼女から笑顔が消え、きりっとした表情に変わる。なに気に冷たさを感じるのは気のせいだろうか。
「大佐、襟元がまだ乱れてますよね」
 そう言いながらレーベルの首に手を伸ばす。
 レーベルはびくりとして後退りしようとするが、逃げられなかった。それもそのはず、まだ椅子に座ったままなのだから。アルの顔が鬼の形相に見える。掴まれる瞬間、あまりの恐怖に思わず目をつぶっていた。
 首に圧力を感じた。そのまま首を絞められるのだろうか。それもいいか、と思いつつじっと待つ。しかし、いつまでたっても苦しくならない。
「何してるんですか」
 アルの声だ。恐る恐る目を開いてみると、不思議がるアルがいた。彼女はレーベルの襟を持って、丁寧に整えている。
「こんなに優しくしてるのに、なんで怖がるかな」
「いや、だって……アルが本当に優しくしてくれるなんて思わなかったから」
「へー、そう……」
 アルの表情が僅かに曇る。その変化に気付いた時にはすでに遅かった。手がわらわらと震えだし、襟を握る力が強くなる。
「悪かったわねっ、どうせいつも優しくないわよ!」
 思い切り首を絞めるアル。
 ――苦しい、苦しいって!
 ものの見事に気道を押さえられ、抗議すら出来なかった。体を椅子に押さえつけられて自由を奪われては、抵抗の余地もない。
「……でもね、元はといえばあなたが悪いんだからね。無神経なことを言って悪びれた様子もない。それどころか、私が一番気にしてることを言うから!」
 息苦しさも通り越して、頭がぼーっとしてきた。徐々に視界が掠れていく。
 ――あー、隣の家のお姉さんだ……子供の時、よく遊んでくれたよなー。あのおじさん、顔が怖いんだよね。そうそう、あそこの犬は人面犬なんだよ。ははは、いろんなことがあったなー。
 死ぬ間際になると、走馬燈のように思い出すと言うけれど、これがそうなんだろうか……
「アル、もうやめるんだ。いくらなんでも死ぬぞ」
「うるさい、赤毛男!」
 誰かが助けに入ったのか、首の締め付けが緩んだ。真っ白になった視界に光が差し込んでくる。僅かにだが、なんとか艦内を確認できた。
 それも束の間、首を絞める力が再び強まる。なんとか片目だけ開くと、男の声がした方を見た。たったの一言で撃沈したのだろう、止めようとする体勢のまま項垂れている。これ以上助けを求めるのは無理だ。
 再び諦めていた時、後ろの方で大きな音がした。ドアが開く時の機械音だ。意識が遠のく中、力強い足音だけが頭に響く。
「……もうやめたらどうかね」
 ハスキーな声に驚き、横に目をやる。そこには体格のいい、すごく男らしい――女性が立っていた。彼女はアルの片腕を掴むと、力任せに引き剥がす。
「さすがに艦長を死なせるわけにはいかないんだ」
「あ、ちょっと!?」
 思わぬ人間の登場に困惑するアル。それでも自分のしていることの意味に気付いたのか、抵抗は全くしなかった。
 肺に空気が勢いよく入ってくる。「げほっ、げほっ」思わず咳き込みながら、現れた女性を見た。
「よっ、艦長。相変わらず余計なこと言ったんだな。あんたも懲りないねぇ」
「……ははは、おかげさまで」
 殺されかけたのにねぎらいの言葉もない。でも、そのあっけらかんとした性格が彼女の特徴だ。
 彼女は整備士のシェリル・イサス。褐色の短髪と肌、長身で筋肉質、男らしい顔立ち。色気の欠片もない機械オタクだ。その彼女が何でここにいるのか。
「全く、あんたらはいつまで経っても変わらないねぇ。アルも艦長のことになると真剣だから。ただね、そこにつけ込むじじいは油断ならないよ。たまに睨みを利かせにこないと、ねぇ?」
 シェリルは副官の席に座る老人を横目で見る。びくりとするのがレーベルにも分かった。顔を引きつらせる姿が容易に想像できる。
「な、何の事じゃろうか……わ、わ、わしにはさっぱり分からんのう……」
 動揺を隠しきれず、アスレッソの声が裏返った。シェリルは満足げな笑みを浮かべると、視線をもう一人の男に向ける。
「それと、そこの赤毛! あたしゃ軍曹だから少尉様には偉そうなこと言えないけどねぇ、ちょっと怒られたぐらいで引き下がるな!」
「は、はい!」
 赤毛の男は飛び上がるように背筋を伸ばした。さっきまでの落ち込んだ様子もなく――無理に抑えてるのだろう――きりっとする。そしてシェリルに向かって敬礼していた。彼の名前はケナス・ダマスク。すらっとした長身に長めのスポーツ刈り。アルとは同期で、操舵を一手に引き受けている。
 ――おいおい、そこまでせんでも……
 いつものことだが、彼らの行動には呆れてものも言えない。本当にここは軍隊なのだろうか。焦点の定まらない視線を天井に向けながら、ぼーっと考える。
 レーベルに威厳がないのが悪いのか、部下達は好き勝手な振る舞いをしていた。今さら叱っても、言うことを聞くのだろうか。せめてまともな人間が一人でもいれば……
「大佐、そろそろ時間です」
 淡々とした口調。冷たさを感じるでもなく、ただ無感情な……この場にあってどこか場違いのような女性の声。アスレッソとは反対の席に座る彼女は、すらりと立ち上がりレーベルを見据えている。
 彼女は通信士のパトリシア・ナル。長い金髪で青い目、透き通るような白い肌、スタイルも良くて気品にあふれてる。絶世の美女といっても過言ではないが、いかんせん表情が乏しい。笑顔どころか怒ったことさえないのではないか。
 パトリシアはじっとレーベルを見ていた。けして余計なことは言わず、ただ返事を待っている。
 レーベルは思わず笑みを浮かべた。
 ――まともな奴もいたじゃないか。
 現実に引き戻されたレーベルは立ち上がると、少しふらつきながらも声に答える。
「分かった。お前らも聞こえたな? さっさと持ち場に戻れ!」
 彼らは口々にやる気のない返事をしながら席に戻る。シェリルだけはなぜか笑い声を張り上げながらブリッジを後にした。
 さっきまでの賑やかさは消え、ブリッジは静寂に包まれた。しいて聞こえる物を挙げるならば、部屋中に敷き詰められた精密機器から発せられるノイズぐらいだ。
 レーベルは一度深呼吸して、インターホンを手にする。
「総員に告ぐ。本艦はまもなく作戦宙域に入る。そろそろ目標惑星の映像が本艦のカメラでも捉えられるだろう。本日一八〇〇時をもって惑星の地表にワープする。今回は偵察だが、惑星内に潜入する危険な任務だ。心してかかるように」
 無人偵察機では分からない点が多いとの判断により、異例の有人偵察が行われることになった。それがどれだけ危険なのか想像も付かない。レーベルは自分に言い聞かせるように何度も呟いた。
「映像、入ります」
 パトリシアの言葉に合わせて上部のモニターに映像が映し出される。暗い中に無数の光点がちりばめられ、まんべんなく小さな光を放つ。なぜか中央部だけは何も映し出されていない。カメラの故障かと思っていると、“それ“を囲むように円状の光が包みこんでいった。すぐに円状の光が端から消えて行き、同時に、“それ“の影からまばゆい光を放って太陽が姿を現す。太陽の光に照らされて、“それ“が青い輝きを放っていく。
「ほう、これが」
 地球。それが本作戦の目標惑星の名前だ。さほど高度ではない知的生命体が君臨する、広大な海に囲まれた惑星だと報告を受けている。宇宙進出は最近の話で、我々の技術の足下にも及ばない。そんな星のどこに、軍上層部の決断を踏み止まらせる理由があるのだろうか。レーベルには想像も出来なかった。
「大佐」すぐ側の席にいるアルがささやく。「キレイですね、この星は」
 レーベルは頷く。透き通るような青い輝き、白い雲、それらを照らす太陽の光。黒いパレットの上に描かれた輝きが、一帯を包み込まんとするほどに満ちていた。
 そんな感動を崩すかのようにパトリシアが淡々と言う。
「一七四〇時現在、地球から約五十万メートルの地点を航行中。潜行中の無人偵察機より入電。『映像と我の座標を送る。我は最良の場所だと判断す。貴艦の判断でワープアウト地点を決められたし』とのことです」
「通信は傍受されてないのか」
「そのようです」
 映像が変わり、広い平地が映し出される。地面は硬めの土で覆われ、至る所にいびつな物が建てられている。階段と坂がつながっている物、穴あきだらけの回転する球体、中心でバランスを取った横長の板、そのどれもが考えられない大きさだ。
「こりゃ、一つ一つがコンビニぐらいはありそうじゃのう?」
「まさか。何かの錯覚じゃないかしら」
 無人偵察機の映像は、普通の公園に見える。遠くには道路が見え、時々人通りもある。人々はレーベル達とは何ら変わらぬ背格好をしていた。さらにその先、一戸建てが立ち並んでいる。どうやら住宅街の真っ只中のようだ。
 特別変わった点はないのだが、大きさに違和感がある。全く遠近感がつかめないのだ。レーベルは軽いめまいを覚えてその場にうずくまる。
「パトリシアー、無人偵察機が壊れてないかー」
 力なく声を出し、視線だけは彼女に向けた。振り向くパトリシアは表情をぴくりとも動かさず、レーベルをじっと見る。しばらく沈黙が続き、唐突に口を開いた。
「残念ながら……」
 軽く首を横に振り、そこで言葉が途切れる。すぐに視線を外して元の向きに戻ると、手元のキーボードを操作する。
 そんなパトリシアの一連の動きを眺めていると、レーベルは無性に空しくなった。
「せめて残念そうな顔しろよ……」
「いいじゃないですか、無人偵察機は無事なんだから」
「アル、慰めになってないって」
 ――やっぱり……ここにはまともな人間はいないな……
 そう自分を納得させて、視線をモニターに戻した。
 一方向を映し続けていたモニターが動きだし、違った角度で公園を映し出す。しばらく見ていると、それが故障ではないことを理解した。一つ一つの物の配置から、大体の大きさの見当は付く。見当は付くのだが、いまいち信じられない。アスレッソの言う通り、それらの大きさは――
「まさか……そんなわけないよな」
 あまりの驚きに腰を抜かして立ち上がれない。自分の考えが正しければ恐ろしいものを敵に回すことになる。上層部が踏み止まる理由も理解できる。だが、レーベルはその答えを信じたくなかった。信じれば、今まで培ってきたもの全てが瓦解していく。それだけはあってはならない。
 ブリッジのクルーも驚愕し、口々に声をあげる。レーベルが呆れるほど優秀な彼らだ。その優秀さがあだにならなければいいのだが。
「わあ、すごい! ねえねえ、このアトラクション、どうやって作ったの?」
 子供のようにはしゃぐアル。「……おい」レーベルは冷や汗をかきながら、つっこみを入れようか本気で悩んだ。そんなレーベルに追い打ちをかけるようアスレッソが言う。
「なるほど……これは遊園地じゃな。巨人の世界を体験できるというあれじゃな」
「やっぱり? だよねー、凄いよね」
「これが事実なら相当な技術力を有してるおそれがあります」
 パトリシアまでもが一緒になって言う。聞いた途端、レーベルはこんな部下を与えた上層部を呪った。この際、作戦なんかどうでもいいとさえ思う。
「帰りてーーーーーーーーーーーーー」
 投げやりに言うと、がっくりと項垂れた。
 本来は作戦開始までにワープアウトポイントの協議をしなければならない。浮かれる彼らにまともな判断力は残ってないだろう。悩んでる間に時間は過ぎ、開始三分前になって通信が開く。整備班からの定時連絡だ。
「艦長、こっちの準備は出来きた。いつでも命令してくれ」
「わ、分かった。時間まで待機してくれ」
 シェリルの力強い言葉に慌てて答えると、自分の席に着いた。その時にはブリッジのクルーもそれぞれの仕事を再開していた。
「ワープアウトの座標を確認、無人偵察機の指示通りに。全クルーにワープ後の対ショックを想定して着席を指示。三十秒前から秒読みを開始」
 レーベルは指示した後考え込み、物の数秒たたぬ内に言葉を続けた。
「あまり心配はないが、敵の攻撃を想定してくれ。ワープは一瞬だ。その直後が一番危ない。間違っても見つからぬよう細心の注意を払ってくれ。これより作戦を開始する」
「カウントダウンを開始します。三十、二九、二八……」
 パトリシアの声だけが艦内に響き渡る。
「……五、四、三……」
 レーベルは息を呑む。そして今にもワープしようとした時だった。
 ウィィィィン、ウィィィィン――
 突然のエラー音に思わず立ち上がり、同時にパトリシアが声を張り上げる。
「不測の事態が生じた。我の地点へのワープを中止にされたし!」
 無人偵察機からの入電のようだ。しかし、もう間に合わない。パトリシアが読み上げる前に周囲の空間が歪む。ブリッジがガタガタと揺れ、空気が淀んでいく。視界が暗闇に包まれ、感覚もなくなっていく。
 ――いつものワープならこんな事は起こらないのに……
 心の中で愚痴った直後に意識が途切れた。

 …………

 …………あれ?

 目を差すような強い光に、レーベルは否応なく意識を戻される。自分が座ってることを確認してから恐る恐る目を開ける。周囲はさっきまでいたブリッジとなんら変わらず、意識を失っているものの、クルーも未だ健在だ。
 上部モニターには、無人偵察機から送られてきた映像とほぼ同じ景色が映っていた。ただ違うのは、逆光のせいで目を開けているのが辛いことだ。手元で機械を操作し、太陽が映らない方へカメラの向きを変える。
 ほっと一息つき、椅子にもたれかかる。機械は正常に動き出し、周囲の状況を知らせた。大気の状態、ワープアウト地点の座標確認、全クルーの生命反応……
 ブリッジのクルーも順に意識を取り戻していく。その矢先のことだった。
 船体が大きく揺れ、立ち上がろうとしたクルーを転ばす。座っていたレーベルも振り落とされそうになり、慌ててしがみつく。
「な、何が起こったんだ!?」
 すぐに揺れは治まり、上部モニターが何かの影に覆われた。唖然として目をしばたたき、開いた口が塞がらない。そこにいるのは、どう考えても――
『宇宙船のラジコンなのかな……にしてもリアルだし、こんな種類は見たことないよ』
 そこには首を傾げる少年がいた。十歳を超えたばかりの、あどけなさが残る男の子が。それ自体はさほどおかしくないが、何かが間違っている。とにかく間違っている。そう自分に言い聞かせた。何度も何度も。
 だが、現実は目の前に存在し続ける。
 カメラを覗き込むには船体をよじ登らなければならない。空中に浮いているはずの船体に。
 それが不可能なことをレーベルは知っている。地面に足が着いた上でカメラを覗くにはかなりの身長が必要だ。しかし、それじゃ、まるで――
「巨人じゃないかーーーーーーーーー!?」
 レーベルの悲痛の叫びだけが空しく響き渡った。





 第一章


       1

「ちょっと待ってよ芽依ー」
 前を歩く少女に慌てて着いていく。かれこれ十分ほど経つのだが、少女が歩を緩める気配はない。半分呆れながら、それでも彼女に合わせる自分も自分だが。
 気付けば周囲には一戸建ての家が建ち並んでいた。ビニール袋を抱えた買い物帰りの主婦、泥まみれになるまで遊び帰宅する子供達。そんなありふれた景色の中を十二歳の少年――之浦宙は歩いていた。
 汗が頬を伝って落ちる。じめじめとした暑さと強い日差しが容赦なく襲う。七月の中旬を迎え、梅雨も明けていよいよ本格的な夏が訪れていた。なぜそんな中をひたすらに歩き続けているのだろうか。
 先を歩く少女との差が徐々に開いていく。それに気付いたからか、少女は立ち止まり振り返る。宙は息を切らせながら追いつくと、彼女をじっと見た。もしかしたら睨んでたかもしれない。
 少女の名前は能代芽依。色黒で整った顔立ち、左右でまとめた長めの黒髪。背は百五十ちょっと。活発ではきはきしている十二歳で、宙とは普段からよく一緒に遊ぶ仲だ。
「何してるんだよ。早く行くよ、宙!」
「わっ、待ってよー、すぐ行くから」
 止まっていたのはほんの数秒のことだった。芽依は背を向け、宙のことなんかお構いなしに歩き出す。慌てて付いていくが、思うように足が進まなかった。それもそのはず、宙は芽依の分のカバンまで持っていたからだ。
「学校の帰りに誘われたと思ったら……僕は荷物持ちなの?」
 心のどこかで期待してたのだろうか……何を?
「なんか文句ある?」
 思ったよりも近くで声がして驚き、尻餅をつく。視線を上げると、いつの間に追いついたのか芽依が立っていた。やっぱり睨んでる。
「私の荷物を持たせてもらって光栄でしょ? これでも小学校のアイドルなんだから」
「そりゃ、みんなは本性知らないから」
 黙っていれば清楚な感じの可愛らしさがある。六年生ともなれば体付きも女性らしさを現し始め、それが子供受けするのはごく自然なことだ。その中でも芽依は一際目立っていた。何よりも人当たりの良さが人気を誘う。
「もうすぐ夕方だってのに……こんな幼なじみを持つと苦労するよ」
「よく言うじゃない、クラスで下の下のくせに。このドチビ超平凡顔!」
「な……」
 なんてことを言うんだ。確かに背は低いし何ら特徴のない顔かもしれない。際だった部分はないし、歪んでもなく、バランスだけは非常にいい。そう言われ続けて六年。宙の小学生生活は平凡の一言で終わりかねない瀬戸際だ。
 持っていたカバンを地面に捨てて、ふつふつと沸いてくる怒りに後押しされて立ち上がる。
「いくら芽依でも言っていいことと悪いことが……」
「それよりさー」
 何事もなかったような素振りをして、芽依が横を向く。つられるように横を見ると、そこには公園があった。
「……公園に何かあるの?」
「うん」
 刺のある口調で言うが、やはり食いついてこない。それどころか、芽依はじっと公園を見つめ、黙り込んでしまった。
 怒りづらい雰囲気に困り果てた宙は、カバンを拾って公園周りの柵にかける。しばらくぼーっと辺りを見渡した。滑り台やシーソー、砂場が主を失ったかのように静まり返っている。とうてい何かがあるようには思えない。
 再び芽依の表情を伺い、新種のいじめかと思い始めた頃に彼女は口を開く。ゆっくりと言葉を選ぶように。
「……おじいちゃんがね、今日この町でよからぬことが起きるって。宇宙人の襲来があるかも」
 宙は思わず吹き出した。何かと思えば、芽依の祖父の戯言か。思い詰めた顔をしていたから心配したのに、損した気分だ。
「UMAとかUFOとかの研究をしてる奇特な人の言うこと、信じるの?」
「おじいちゃん、宇宙人研究家なのよ!?」
「宇宙人なんて未だに見つかってないのに?」
 宙の現実的な見解に芽依はたじろぐが、それだけでは食い下がらない。
「いるよ、宇宙人は。それに私もなんか起こるような気がするし。今朝も学校に行く時、公園が気になってしょうがなかったんだから」
「でも、今見たけど、何もないよ」
「そ、それは……」
 芽依の言う違和感は宙には分からなかった。しかし、口をつぐむ彼女にこれ以上何も言えない。しばらく声をかけられずにいた。
 芽依の言うような異変は何も起きず、ただ時間だけが過ぎていく。そろそろ潮時だと思い、彼女のカバンを手に取り向き直る。
「ほら、あんまり遅くなるとおばさん達が心配するよ」
「え、う、うん」
 とても暗い表情の芽依にカバンを渡すと、彼女の背中を押した。芽依が何か言いたげな目で宙を見ると、しぶしぶ歩き出す。
「一人で帰れるよね」
 こくりと頷く。芽依の寂しげな背中は何かを訴えているような気がした。
 芽依は祖父のことが好きなのだろう。宇宙人研究家といえば、その変わった主張で周りから蔑まれてきた。信じている人もいるが、実際に宇宙人に会ったことを公に認められる証拠は未だにない。そんな状況で苦労する祖父を見かねて、自分が証拠を見つけようと考えたに違いない。そんな健気なところも可愛らしく思う。
 芽依が見えなくなると、宙は再び公園を見る。
 何の変哲もない公園。
 公園の中にゆっくりと足を踏み入れていく。
 そういえば久しく公園には来てなかった。宙は登下校でも通らないし、友達と遊びに来ることもない。よくよく考えてみると何年も前の記憶でしかなく、些細な違いに気付けるわけがない。今更ながら懐かしさに浸る。
 周囲を見渡していたら、視界の端で何かがちらつく。目を凝らすと、公園の奥の方で何かが光って見えた。
 ――何だろう、誰かの忘れ物があるのかな。
 見ても持ち主は分からないだろう。そう思いながら近づいたが、地面にめぼしい物はない。首をかしげて視線を戻すとそれが目に入る。
「うわっ!」
 思わず飛び上がり、その場に座り込んだ。
 小さな球体が目の前を通り過ぎていく。ゆっくりと、ふらつきながら浮遊していた。よく見ると頭にアンテナのような棒が立っている。質感からして何かの機械だと想像はつく。小型のラジコンにも見えるが、動力が分からない。どうやって浮いてるんだろう。
 おそるおそる手を出すと、触れる寸前に機械が振り返った――どこが正面か分からないが――。直後、中心が赤く点滅しだす。
 今まで何の変化もなかった公園が、蜃気楼のように揺らぎ始める。何重もの円を描くように視界が歪み、先を見通せなくなった。さらに歪みがひどくなり、正面の五十センチ四方が黒い影に覆われる。
 黒い影を中心に風が吹き、渦を巻いていく。公園の乾いた砂が巻き上げられ、小さなつぶてとなって四方に飛び散る。痛くはないが、目を開けているのが辛い。宙は手で顔を庇いながら正面を見据えた。
 すぐに風は弱まり、つられるように歪みも収まっていく。同時に、黒い影は何かを形作り、全長一メートルほどの固まりになった。
 それは宙に浮いている。最初はぐらついていたが、しばらくすると静止した。
 ゴゴゴゴーー……
 わずかな騒音を発し、何事もなかったかのように浮遊する。真下では未だに空気が渦を巻いていた。
 太くて長い胴体の片側は丸く、反対側は左右に短い翼、下に二基のエンジンがある。戦闘機といえば格好いいが、あまりに寸胴で浮いていることすら不思議な形だ。ただ何かの航空機であることに違いない。
 下を覗くと、ちょうど四方から足が生えてきた。中程に、忙しなく小刻みに動く機関がある。よく見るとプロペラのような物が回転している。回転で得た浮力では心許ないが、目の前のそれは確かに浮いている。いや、ゆっくりとだが降下していた。
 宙はそっと手を出し、触れる直前に止まる。何の反応もないのを確認して、思いっきりつかんだ。
「ぅわっっ!」
 それは思いの外ぐらつき、驚いて手を離す。少し乱暴すぎたかな。そう思いながら、今度は正面をのぞき込む。透明ガラスのような物があるが、反射で中を確認できない。それが航空機のたぐいならコックピットなのだろう。
 それなら何の航空機だろうか。
「宇宙船のラジコンなのかな……にしてもリアルだし、こんな種類は見たことないよ」
 首を傾げて考えこむが、詳しくない宙には想像もつかなかった。
 誰かの玩具かもしれない。周囲を見渡すが、ラジコンを操作している人影は見あたらない。
「どこかの軍隊の秘密兵器?」
 そう言いながら吹き出す。機密を一個人に見られて黙っている軍など、聞いたことがなかった。だが、個人の持ち物とも思えない。おもちゃにしては逸脱した技術が使われている。それが子供の宙にも分かった。
 ――持って行っても大丈夫だよね。
 周りに誰もいないことを再び確認し、両手で挟み込むようにそっと掴む。その瞬間、激しい風が宙を襲い、それは急激に離れていく。手をはじかれ、巻き上げられた砂に驚いて尻餅をついた。
 目をぱちくりさせて、凝視する。目の前にあったそれは、一瞬の間に公園の端まで飛んでいった。それこそ意志を持ったかのように、恐怖に襲われた時のように、無我夢中に逃げている。あまりの速度に、唖然として開いた口が塞がらなかった。思考は意外と冷静で、慌てるそれの末路が容易に想像できる。
「あー、そのままじゃ……」
 グワシャンッッッッッッッッッ!
 ものの数秒のことだった。公園の柵に船体をぶつけ、一部が壊れてばらばらに飛び散る。柵が大きくへこみ、それはふらつきながら降下した。荒々しく着陸し、一度粉塵を巻き上げるとそれきり微動だにしなくなった。
「あーあ、やっちゃった」
 頭を抱えてぼやく。嘆息して見に行くと、意外と破損していないのに驚く。形はほぼ保たれていて、後部の装甲がはがれてその辺に散らばっているだけだった。ラジコンにしては頑丈すぎる。一体何なのだろう。
 ――持って帰ろうかな、調べたら何か分かるかもしれないし。
 壊れても放置されているとあれば、本当に持ち主がいないのだろう。主観的な判断で決めつけ、それを持ち上げる。
「あれ? 意外と重いな」
 何とか持ち上げることはできたが、ずっと抱えている自信はない。特別鍛えていない子供なのだと、今更ながら悟る。
 ――どうしようか。
「なんなんじゃ! これはどういうことじゃ」
「え?」
 突然聞こえた老人の声にびっくりして、それを放り投げてしまう。慌てて掴もうとするが叶わず、激しく地面に叩きつけられた。と同時に、十センチほどの小さな物体が投げ出される。船体がまた壊れたのだろうか。
「ふんぎゃーーーーーーーーーーー!」
 再び聞こえる老人の声。すぐ近くで聞こえたはずの声の主は見あたらない。ついに幻聴が聞こえだしたのだろうか。宙は本気で考え込む。
 小さな物体が地面に落ち、微動だにしなくなった。そこに群がるように、同じぐらいの大きさの物体が集まってくる。
「大丈夫ですか」
 今度は柔らかい口調の女性の声が聞こえた。目の前の地面からはっきりと。よく見ると、群がる物体は人の形をしている。小さな老人形の周りに青年達が駆け寄ってくる、そんな光景がそこにあった。
「調子に乗って。だから痛い目に遭うんだよ。普通、宇宙船から身を乗り出すか?」
「いい年して、あんたは馬鹿だねぇ。ついに惚けたか、えぇ?」
「こんなのが上司だなんて……」
 口々に冷たい言葉をかける人形達。先に飛び出した老人はげんなりして、垂れ下がったまぶたの隙間から涙がこぼれる。それすらも攻撃のネタにされていた。
 そこから少し離れた場所に、顔を真っ青にした赤毛の人形がいる。宙を指さして、奥歯をがたがたさせていた。何かを恐れているのだろうか。
 青が色調のがっちりとした服、縦に白いライン、胸に紋章、まるで軍服だ。ほとんどが同じ衣装を身につけている。制作者は軍人マニアではないだろうか。それにしても良くできた人形だ。趨向にして緻密、その上自立型なのだから。まるで本物の人間を見ているみたいだ。
 ――でも……夢だよね、こんなことって……
 あるはずがない。宙の知りうる限りの技術では、二足歩行がやっとのはずだ。目をこすって改めて見るが何も変わらず、愕然とする。夢でなければ、目の前の光景をどう説明すればいいのか。
 ――世紀の大発見かも。うん、絶対にそうだ。
 胸が躍るのを必死に抑えながら眺める。正体を見極めようと必死に見る。軽率だったかもしれない。一つの答えにたどり着いた時、言葉が口を割って出ていた。
「お兄さん達って……妖精?」
 金髪の男が振り返り、こちらを見据える。
「は? …………あ゛」
 途端にぽっかりと口を開け、赤毛の青年と同じく宙を指さしたまま固まった。遅れて振り返ったのは、金髪美人と褐色で男前の女性、黒髪の少女。三人は特別驚かず、なにやら感心している。後ろの老人にいたっては、いじめのショックから立ち直らぬまま。
「妖精じゃないの?」
「ええ、私達はそんな空想の生き物ではありません」
 答えたのは金髪美人だ。宙はしゃがみ込み、小さな彼らをのぞき込む。
「それなら……小人かな」
「おいおい、そっちが巨人なんだろ?」
「え? うそ?」
 男前の女性に言われて驚く宙。いきなり巨人と言われても、信じられるはずがない。宙の身長は百四十センチ。同じ六年生の中でも小さい方で、巨人と言われる要素を何ら持ち合わせていないからだ。彼らの方が小さいとしか考えられない。でも――
「私達から見たら巨人なんだと思いますよ」
 老人に話しかけた時と同じ優しい口調。黒髪の少女が発した声だ。
「あなたから見たら、私達は小人なんでしょうね」
 優しげな笑みを浮かべて言う。宙はドキッとして目をそらすと、頭をかきながら考える。年が近そうなのに、芽依とは大違いだ。
「おーいアル、何で和んでるんだよ」
 金髪の男が、妙になれなれしく口を挟む。彼に呼ばれた少女――アルは、つっこみの意味が分からず首を傾げた。その仕草が余計に宙の心をくすぐる。しかし、その淡い気持ちは一瞬で消え去ることになる。
「何でお前は平気なんだよ、こんなでかいのを目の当たりにして……ははあ、もしかして無邪気な子供だから巨人に出会えるの夢に見てたんだ。ガキだな」
 軽い調子でしゃべり続ける彼。その横で、アルの表情が見る見るうちに歪んでいく。鬼のような形相で睨み、男の首を掴む。
「あ、ちょっ、たんま!」
「……子供で悪かったですね。レーベルにすればどうせ私は子供ですよ。でもね……これでも二十三なのよ」
 ぎりぎりと力を込めていく。レーベルの表情は冷や汗まみれだ。周りが止めに入ろうとしたが時すでに遅し、アルが思い切り力を込めた。
「いくらレーベルとはいえ、これ以上言ったら容赦しないから!」
「ウギャアーーーーーーーーーーー!」
 レーベルの悲痛の叫びが響き渡る。しばらくするとぐったりとし、ぴくりとも動かなくなった。そのおぞましい光景を見て考えを改める。芽依と同じだ。御年十二歳にして女性の怖さを知る夏。
 とりあえずアルとレーベルはほっといて、金髪美人と男前の女性に向き直る。結局のところ、根本的な部分の質問がまだだった。
「あのさ、ところで君達は何なの?」
「あ、いや、あたしらはその……パトリシア?」
 男前の女性は慌てて口ごもり、金髪美人――パトリシアに目配せする。仕方なさそうな顔をし、「仕方ないわね、シェリルは」そうぼやくとパトリシアが言葉を続けた。
「私達はこの辺に旅行しに来ました。少し休もうと思ってここに寄ったのですが、この星の人に迷惑をかけたようですみません」
「あ、いや、迷惑だなんて」
 パトリシアはほとんど表情を変えず、心なしか気持ちがこもっていないように感じた。それでも礼儀をわきまえていて、まじめな人なのだろう。
 男前の女性――シェリルがパトリシアの手を叩き、「ナイス、フォロー」意味ありげな言葉をかけた。何のフォローをしたのか。そういえば……
「この星の人に、って言ったけど、別の星からきたの?」
 我ながらおかしな疑問だとは思う。
「あ、え、えーと……あたしらは……なんていうか……」
 シェリルは焦りを浮き彫りにし、その横でパトリシアがため息をついていた。触れてはいけないことに触れてしまったようだ。とするとやはり。
 目を細めて彼女らを見据える。
「……それじゃあ、宇宙人なんだ」
 言いながらも、その答えに納得できなかった。芽依の言うことを散々否定して、今更認めるわけにはいかない。だが、宇宙人ではないとすれば何なのか。
 シェリルだけは宙と目を合わせようとしない。嘘はつけない性格なのか。
「な、何のことかな、パトリシア?」
「シェリル軍曹、自分の失態を私にふらないで下さい」
 凍るような冷たさに、シェリルは何も言えずしょぼくれる。そんな彼女らの反応は、とどのつまり宇宙人であることの証明だ。
 ――あー……芽依が知ったらなんて思うかな。
 彼女の勝ち誇った顔が目に浮かぶ。明日のトップニュースに彼女の祖父が誇らしげにインタビューを受けていることだろう。宇宙人は研究所に連れて行かれ、実験や解剖をされて死んでいく。考えただけでもおぞましい。彼らをそんな目に遭わせていいんだろうか。善良な市民だと自負する宙の良心が許さない。
 そう心に決めた矢先に、ことは起こった。それも必然的に。
「ああっ! 宇宙船が!?」
 息絶えたと思っていたレーベルが悲痛の叫びを上げる。皆の視線が彼に向けられ、宙も反射的に引き寄せられた。彼の驚愕に歪んだ視線の先には、鬼……ではなく、無惨にも壊れた宇宙船が地面に横たわっていた。
「宇宙船が壊れてんじゃねえか。どうすんだよ、帰れねー」
 シェリルがその場に崩れ落ちる。悔しさのあまり何度も地面を叩いた。
「大佐、どうしますか」
「あわわ、駄目だよ、その呼び方は」
 レーベルが慌ててパトリシアの口を押さえる。「俺達が軍人だってばれるだろ?」彼女の耳元でぼそっと言った。
 ――聞こえてるんだけど……
 宙は困り果てて、頬をぽりぽりとかく。
 彼らは宙には言えない秘密を持ってここを訪れたのだろう。ただの旅行というのは、おそらく嘘だ。とはいえ、小さな彼らに何があるというのか。いざ質問しようと口を開くが、レーベルの鋭い視線に何も言えなくなる。
「どうしてくれるんだよ、よくも宇宙船を壊しやがって」
「はあ? 勝手にぶつかって壊れたんだよ。なんで僕の責任なの」
「その後、船を投げたのはどこの誰だ?」
「それは……でも、どっちにしたって壊れてたよ」
「いや、元はと言えばお前が目の前に現れるから……」
「ぐにゃぐにゃして出てきた方が悪いんだ!」
「ぐにゃぐにゃ――って壊したのはお前のせいだからな」
「お前お前、ってなれなれしいよ。僕には之浦宙って名前があるの!」
「……之浦……宙?」
 レーベルが目をしばたたき、拍子抜けしたようにトーンを下げる。責任のなすりつけ合いも、あまりの空しさに続ける気が失せた。
「うん、そうだよ。僕が名乗ったんだからそっちも名乗ってよ」
「え? あ、ああ、俺の名はレーベル・セオドール。一応、我々の責任者だ」
「ふーん。あの人、アルさんだっけ? レーベルさんより偉いと思ったんだけど。若くして偉い、青年実業家の女社長みたいに?」
「ははは、そう言えなくもないな。でも、青年と言うより少女だよ、あの童顔なら」
 レーベルは照れくさそうに笑う。いろいろと意味ありげな笑みだと思ったのは宙だけだろうか。
「それよりレーベル、これからどうするの?」
 そう言いながら、アルは冷たい目つきでレーベルを見た。話のネタにされたのがよほど気にいらないのだろう。彼女の視線が宙に向き、背筋が凍り付くような錯覚を起こす。
 アルは何も気にする風もなく言葉を続けた。
「船が壊れたらどうしようないよね。宙くん、隠れたまま修理できる場所を知らないかしら」
「修理できる場所?」
 咄嗟には思いつかなかった。自衛隊やアメリカ軍は駄目だし、打ち上げ場でも人がたくさんいる。近所の工場はどうだろうか。いくつも考えを巡らせ、出た答えは少し心許ない物だった。
「最近つぶれた工場はどうかな。確か、あそこは宇宙船の部品を作ってたらしいよ」
「宇宙船の部品!?」
 声を上げたのはシェリルだ。何やら血が騒ぐと呟いているが、無視。
「この辺ってね、ロケットの打ち上げ場が近くにあるんだ。だから、結構立派な工場だったと思うよ。まだ部品が残ってるか分かんないけど」
「そうか……」
 レーベルが悩んでいる間に、宙の気持ちは決まった。だめ元でも行ってみよう。壊した責任もあるし、何より好奇心がそうさせた。
 そんな宙の気持ちを察したかどうか定かではないが。
「分かった。お前を信じて行ってみよう。皆も異論はないな?」
 全員が頷き、宙はそれを確認してから言う。
「みんな、ここで待っててね。自転車を取ってくるから!」
 彼らを残し、宙は公園を後にした。


       2

 宙は公園を出てから一心不乱に走った。早くなる鼓動を必死に抑え、自分の家の前で立ち止まる。
 住宅街の一角にある二階建ての一軒家が宙の家だ。これと言った特徴もない普通の家。ドアを開けると乱雑に靴を脱ぎ、大きな足音を立てて二階に駆け上がる。
「宙、帰ってきたの?」
 母の声だ。そういえば、今日は珍しく平日欠勤の日だった。階段から身を乗り出し、わずかに見える母の姿を確認する。
「うん。でも、すぐ出かける!」
「夕飯までに帰ってくるのよ」
「分かった!」
 二階の自分の部屋に入ると、カバンをベッドに放り投げた。机の引き出しから手探りで鍵を見つけ、押し入れからロープを引っ張り出して部屋を出る。勢いよく降りて思わず滑りこけたが、すぐに立ち上がると荒々しく靴を履いた。母が顔を出し、不思議そうな視線を向ける。照れ笑いを浮かべて家を出ると、自転車に飛び乗った。
「え……と、鍵穴はどこだっけ」
 しばらく探して見つけると、鍵をねじ込んでブレーキを外した。道路に出ると、ふらつきながら何とか姿勢を保つ。普段はあまり乗らないからか、運転が下手になっていた。それが仇となり、思うように進まない。
 徐々にいらいらが溜まり、あきらめて自転車から降りる。
 ――歩いてもたいして変わんないよね……
 とぼとぼと歩きながら公園に向かう。そう時間がたたぬ間に公園に着き、レーベル達の姿を探した。
「あれ、どこ行ったんだろう?」
 体が小さいから見つけにくいのかと思ったが、目をこらしても分からない。周囲を見渡しながら進み、無惨に破壊された宇宙船の陰をのぞき込む。
「何してるの?」
「うわっ!?」
 そこには口々に悲鳴を上げる小さな宇宙人達がいた。身を寄せ合い、びくびくと体を震わせている。現れたのが宙だと気付くと、ホッとしたように陰から出てきた。
「宇宙人の遊び?」
「違うっ!」
 レーベルが力強く否定する。
「誰かに見つかったら大変だろ。こうして宇宙船の陰に隠れてだな……」
「分かってるよ。でも、僕に見つかってるんだけど」
「いや、まあ……でも、お前はいいんだよ!」
「ふーん、変なの」
 何が目的か知らないが、地球人に見つかった時点で悪いのではないか。そんな疑問を抱くが、追求するのがかわいそうに思えた。
「それじゃ、みんなは自転車に乗ってもらうよ」
 宙は両手を彼らの前に出し、全員が乗るのを待ってから持ち上げる。自転車の前のカゴに手を添え、飛び降りてもらった。カゴが穴あきだったため、数人が足を踏み外してはまり込む。
「ふぉっふぉっ、若造どもは降りるのがへたじゃな。わしが手本を見せてやろう」
 と偉そうに語る老人。最初に宇宙船から投げ出された老人だ。彼は自分の年を顧みず、思い切り飛び上がった。空中に浮かび上がり、重力に引かれて降下していく。何やらポーズを取っていたが、それに気を取られて着地できず、隙間に脇まではまり込んだ。
 どっと笑い声が上がる。
「じじいが調子に乗るからだよ、あははは」
 シェリルがここぞとばかりに高笑いを上げる。その間抜けな姿に呆れるが誰一人として助けようとしない。それぞれが自分の場所を確保し、腰を落ち着かせた。
 そうこうしている間に宙は宇宙船を抱え上げた。自転車の後ろのシートに置き、ロープでくくりつけて固定する。
「みんな、準備はいい?」
 レーベル達は顔を見合わせて頷く。それを確認して自転車を押し始めた。

「うー、重いよー」
 いくら自転車だからとはいえ、重い荷物を持つともの凄く大変だ。今更嘆いても手遅れだが。その上、途中からずっと上り坂だ。暑さもたたって体力の限界が近い。帰りのことは考えたくもなかった。
「まだなのか」
 とレーベル。こちらはいたって涼しい顔。こんなことなら歩かせれば良かった。心の片隅に住まう鬼が目覚めたような気分だ。
「もうちょっと。この坂を登り切れば見えてくるはずなんだけど」
 宙は平静な表情を作って答えた。レーベルが怪訝な表情を浮かべるが、取り合わない。
 しだいに坂は緩やかになり、住宅街を抜けてから少しはあった家が見当たらなくなる。高台に登り切ると拓けた土地に広大な敷地があった。雑草が生い茂り、サビの浸食を受けた鉄格子が覆うように張り巡らされている。その中にコンクリートの大きな建物があった。
 敷地内にある建物はほとんどが壊されている。周囲は何年もほっとかれたかのように乱れているが、残された建物は今でも使われている感じがあった。側に雑草はなく、窓やドアの少々の汚れに目をつぶれば普通に使える。
「最近つぶれた……って、いつ頃のことだ」
 レーベルが鋭い口調で聞く。
「うーん、半年ぐらい前かな」
「半年? 微妙なところだな……」
「何が?」
 レーベルは考え込んでしまい、宙の質問に答えてくれない。仕方なく、隣に座っているアルに視線を向ける。
「え? 私?」
 驚いて目をぱちくりさせるアルに頷き、何が微妙なのか問いただす。
「えーとね、使われてない建物ってほっておくと結構汚れるはずなの。半年だと、やっぱりきれいすぎるのよ。そういえば、何で解体工事が中断してるの?」
「なんでだろう。途中でお金が無くなったのかな」
「宙くん、シビアなこと言うね」
 そう言うアルの顔に笑みが浮かぶ。
 以前は解体業者が入り浸り、建物を壊していた。見に来たことはないが、遠くにいても音はよく聞こえていた。それが一ヶ月ほど経って、ぷつりと途切れる。業者の特殊車両が連なって帰って行くのを覚えている。あまりに突然のことで、近所の人も眉根を寄せていた。
 工場の入り口の前で立ち止まる。錆びた鉄格子が、牢屋のように閉鎖的な雰囲気を醸し出していた。中を見渡すが、人がいる様子はない。
「みんな、ちょっと待っててね」
「俺も行く!」
 自転車を固定して離れるのと同時にレーベルが引き留める。振り返ってしばらく逡巡したが、レーベルの真剣な眼差しを見ると拒否しづらい。仕方なくレーベルを胸のポケットに入れる。
 ギギギギッ
 鈍い音を響かせて入り口を開ける。「ゴホッ、ゴホ……」錆びた鉄の破片が飛び散り、思わず咳き込んだ。涙がにじみ出るが、袖で拭き取り入り口を睨む。
「何だよこれ。錆びるにも限度があるって」
 気を取り直して工場の敷地内に足を踏み入れた。
 遠くから見るよりかなり荒れている。入ってすぐは駐車場になっていて、アスファルトの上にはゴミが散乱していた。その周りには雑草が生え、手入れの無さが目に見えて分かる。壊れた建物の瓦礫も残されたまま。その中に一棟だけ無傷の建物がある。それが問題の建物だ。
 建物の近くまで行き、汚れたドアの先をのぞき込む。中の床や壁はさほど汚れていない。明かりこそついてないものの、やはり放棄された建物とは思えなかった。
「誰か使ってるのかな」
「まさか。もう五ヶ月も人が寄りついてないんだろう?」
「え? だって、レーベルさんがおかしいって……」
「いや、俺は微妙だと言っただけだが」
「そうだっけ」
 ほんの数分前のことを思い出してみる。確かにレーベルの言うとおりだ。アルの発言と一緒くたになっていた。自分の記憶力の無さに、恥ずかしくなって顔を背ける。
「そ、それより、裏に回ってみよう?」
「あ、ああ、構わんが」
 レーベルの返事を聞く前に宙は歩き出す。建物の周りを小走りで進んでいく。周囲の警戒を忘れ、気付いた時には建物の裏にいた。いくら恥ずかしさを紛らわすためとはいえ、軽率な行動だ。もし誰かに見つかればただではすむまい。
 寒気を感じて身震いする。そんな宙をレーベルが不思議そうな目で見ていた。
 裏から見ても特別変わった様子はない。鉄筋コンクリートの固まりであること以外、めぼしい情報は得られなかった。
 がっかりして座り込む。壁に背中を預けて一息ついた。
「うわぁ、広い場所だな」
 そこにはだだっ広い、アスファルトが一面に敷かれた空間があった。入り口の閉鎖的な雰囲気と違い、解放された場所だ。建造物も障害物も何もない。短めの滑走路が二・三列並んでいるぐらいの広さだ。
「何に使われていたんだろうね」
「宇宙船の実験場かもな」
 たとえば飛行実験、エンジンの動作実験などを行うのには十分だろう。夏の熱気にやられ、全体的にもやもやした空気が漂っていた。その中央に、誰かがぽつんと立っている――蜃気楼の陰のように。
「あれ?」
 気付くのとほぼ同時に人影は消えた。目をこすって確かめるが、やはり見定めることはできなかった。
「どうした?」
 レーベルが身を乗り出して宙を見上げる。
「ううん、誰かいたような気がしたんだけど」
「そうか?」
「うーん……気のせいなのかな」
 一瞬で消えるなんて普通の人間にできる芸当ではない。ぼやけていたし、やはり見間違いなのだろう。
 嘆息して空を見上げる。空は少し赤みがかり、気持ち暑さを和らいでくれる。地上を焼く勢いすらあった日差しも、今では山の向こうに沈む景色としての役割しかない。毎日のように繰り返す日没。
「地球の夕日はこんなにも雄大なのか」
 レーベルは目を爛々と輝かせて言う。宙にとって当たり前なことも、彼にとって初めての感動なのだろう。
「レーベルさん、嬉しそうだね」
「ああ……こんな景色を見たのは久しぶりだ」
 レーベルを見てると、不思議と自分まで嬉しい気持ちになる。
「それならさ、今度は海を見せてあげる。夕日は遠くまで行かないと駄目だけど、近場でいいなら朝日のきれいな場所があるんだ」
「へー、それはたのしみだ」
「だねー」
 自然に笑顔がこぼれる。今のこの瞬間だけは何のわだかまりもない。今なら言えるだろう。
「レーベルさん、あのね……」
 レーベルの視線が宙に向く。
「……あのさ……その……」
 口ごもり視線が泳ぐ、そんな宙をレーベルが不思議そうな目で見ていた。
「早く言えよ」
「う……うん……さっきはごめんね、宇宙船を壊しちゃったこと」
 目をぱちくりさせ、レーベルは苦笑する。
「何だ、そんなことか」
「そんなこと、って何だよ! 人が真剣に言ってるのに!」
「ごめんごめん。そのことならお互い様だろ? 俺達が目の前に出てこなければ壊されることも無かったんだし。それに……」
「それに?」
 首を傾げ、押し黙るレーベルの言葉を待った。
「……いや、何でもない」
 レーベルは表情を暗くし、首を横に振る。どことなく弱々しく感じるのは気のせいだろうか。彼はすぐに笑顔を作り、言葉を続ける。
「気にしてたんだな、宇宙船のことを。でもさ、修理できる場所を一緒に探してくれてるんだし、お前はいい奴だよ」
「ほ、ほめたって何も出ないからな」
「分かってるって」
 再び苦笑するレーベル。宙は顔がほてるのを感じながら、思わず背けた。ほめられるのは恥ずかしいが、悪い気はしない。
「ただ問題なのは、地球で俺達の船を直せるかだ」
「そればっかりは僕にも分からないよ」
 宙は背中の壁を軽く叩き、苦笑しながら言った。
「ここが宇宙船の工場なのは確かだけど、つぶれたのが半年前だから」
 レーベルも同じように笑う。こればっかりは調べてみないと分からないからだ。ひとしきり笑い、宙は立ち上がる。
「……そろそろ戻ろう?」
「ああ。中を調べる時間がなくなるからな」
 今度はちゃんと周囲を気にしながら来た道を戻る。
 歩きながら、どこかほっとした気分になる。レーベルが怒っていないことが分かったからだ。せめてもの罪滅ぼしだと思ったが、彼の優しさに救われた。余計に協力したい気持ちが強まる。
 ふと立ち止まる。もう一つ気になってたこと思い出したからだ。
「レーベルさん達は軍人なの?」
「……は? な、何で?」
「だって、軍服でしょ、来てる服は。それに、大佐って呼ばれてたもんね」
「ははは、よく分かったね、我々が軍人だと。いやー、君の観察力は素晴らしいな」
 笑ってごまかすレーベル。心なしか慌てているのは気のせいではないだろう。
「ところで、レーベルさんは本当に一番偉いの?」
「はあ? 何だよ急に!?」
 レーベルは素っ頓狂な声を出す。彼の動揺する様子を見て、宙は心の中でほくそ笑む。
「いや、他にも偉そうな人がいっぱいいたから」
「う゛っ……確かに、あいつら俺を指揮官だと思ってないからな」
「うん、特にアルさんはね」
「……は……?」
 宙は満面に笑みを浮かべてレーベルを見る。口をぽかんと開けたまま固まり、それがおかしくて吹き出した。
「ア、アルがどうしたんだよ、か、関係ないだろ」
 口を尖らせて言うレーベル。
「反応が露骨だね、大人のくせに」
「だから関係ないって。あいつは新米のくせに偉そうなだけなんだよ」
「本当に何もないの?」
「当たり前だろ!」
 その慌てようが全てを物語っている。と思うのだが、嫌そうに見えなくもない。しばらくはこの話題を伏せておこう。それが優しさというものだ。などと納得し、トドメの一言。
「ふーん、レーベルさんがそう言うなら黙っててあげるね」
「だ・か・ら!」
 レーベルが項垂れる姿は見なくとも想像できた。
 ――意外と可愛いとこがある人だな。
 出会った直後にけんかしたから、てっきり怖い人だと思った。人は見かけによらず、今日はそんな教訓を反復させられる特別な日なのかもしれない。


       3

「――で、結局のところどうなんだ、アル?」
 ハスキーな声が遠くから聞こえた。目をこらしてみると、シェリルがアルに詰め寄っている。アルはほとほと困り果てているようだ。
「だから何度も言ってるでしょ、彼とは何もないって!」
「本当かい?」
「ええ! 疑われる私の身にもなって下さい!」
 そんな堂々巡りのような会話が続けられている。アルの否定する姿が可愛そうに思えてきた。しばらく聞いていたが、いまいち何の話か分からない。声をかけようにもシェリルの覇気が怖くて踏みとどまってしまう。ポケットに入っているレーベルも、呆れて頭を抱えていた。
「大佐がお帰りになりました」
 パトリシアだ。空気に呑まれることもなく、たんたんと報告する。それに合わせて全員の視線がレーベルに集中する。ただ、当事者の二人は視線をそらした。シェリルは空を見上げて口笛を吹き、アルはうつむいていた。
 よほどやましい会話だったのか、誰もしゃべろうとしない。沈黙したままでは埒があかず、仕方なく宙が言った。
「あ、あの……見回ってきたんだけど、報告していいよね」
 冷や汗をかきながら見渡し、未だ続く緊張感を呪った。レーベルが嘆息する。
「こいつらは俺がいないと遊んでばかりだな」
「そうじゃそうじゃ。わしには面倒見切れん」
「お前が言うか?」
 口裏を合わせる老人を、レーベルは半眼で見る。老人は心外だと言わんばかりの表情で憤慨する。レーベルの評価は妥当だと思うのだが。この老人は自分がまともだと思っているのだろう。
「大体じゃな、わしに任せて指揮官たる大佐がこの場を離れることが問題なのじゃ」
「じゃあ、お前が行ってくれたのか」
「いや、それはじゃな、もっと下っ端の赤毛とかに命令すればいいだけのことであって……そもそもわしには向かん!」
「ほう……偉そうに言うもんだな」
 どすの利いた声に周囲の人達が後退りする。当の老人は気付いた様子もなく熱弁をふるう。
 目に見えた結果に宙は呆れた。これ以上かき回されるのは好ましくない。何度目かのため息を吐き、二人の間に割って入る。
「あの、老人Aさん?」
「わしはそんな名前ではない。さっきも教えたじゃろ、わしはアスレッソじゃ。いい加減、覚えろ!」
 当然といえば当然の反応。しかし、アスレッソという名前、どこで聞いたのか思い出せない。というより、自己紹介したのはレーベルだけだ。
「……聞いてないんだけど。それより、しばらく黙っててもらえませんか」
「はあ? わしは副官じゃぞ。そのわしに黙れと言うのじゃな」
「うん。ていうか、偉いのならもうちょっと自分の性格を知った方がいいよ」
「なっ……ぬぬぬ、言わせておけば」
 垂れ下がったまぶたの狭い隙間から、鋭い眼光が垣間見える。だが、そんなアスレッソに動じる宙ではない。誰が十センチの人形を恐れるものか。
「何が出来るの? 相手は泣く子も黙る巨人だよ」
「う゛っ……わ、わしが脅しに屈してなるものか!」
 アスレッソが自転車のカゴから思い切り跳び上がる。柵に掴まりよじ登ると、宙に向かってダイブした。
 ――元気なおじいさんだね。
 呆れながら軽々とかわすと、レーベルを自転車のカゴの中に入れる。
「それじゃ、レーベルが代わりに報告してね。僕はおじいさんの面倒を見るから」
「……ん? あ、ああ、頼む」
 レーベルは呆然としていたのか、突然呼ばれて驚いたようだ。すぐに我に返り、報告を始める。そのやりとりの間も、アスレッソの執拗な攻撃は続いていた。

「――とまあ、そういうことだ」
 やっと報告も終わり、さすがの宙もアスレッソの面倒に疲れた。息を切らせながら、レーベルの所に戻る。
「ところで、大佐」
 事務的な口調でパトリシアが問う。
「我々が軍人だというのは彼に知れているのでは?」
 無表情のままなのが余計に冷たさを引き立たせる。レーベルは今にも泣きそうな声を出しながら答えた。
「うーん、そのことなんだが、俺が注意した時に聞こえてたらしいんだ」
「それで教えたのですか」
「まあ、簡単には。でも、何も疑われてないと思うから安心してくれ」
 何とも心許ない後ろ姿を見て、宙は疑いを深める。彼らの態度は軍人にあるまじき行為だ。レーベルの心配とは裏腹に、本当に軍人なのかを信じられなくなる。
 宙の視線に気付いたレーベルが振り返る。
「あ、宙、ちょうど良かった。これから探索を始めるが、付いてきてくれるな」
「うん。で、みんなで行くの?」
「いや、パトリシアとシェリル達整備班、それにもう一人……赤毛?」
 そい言った瞬間、小人の群れから赤毛頭の男が跳び上がった。レーベルをビシッと指さし、声を張り上げる。
「誰が赤毛ですか! 俺にはケナスという名前が……」
「ああ、分かった分かった。とにかく今言ったメンバーで探索する」
 向かってくるケナスを押さえ付けながら宙に視線を戻した。
「アルさんやアスレッソさんは?」
「見張りだ」
 レーベルは自信たっぷりに言う。子供の宙でも納得できる構図だ。当然、見張りは必要だし、組み合わせも重要だ。アルとシェリルが一緒にいれば不毛の争いが再開するだろうし、アスレッソは宙を目の敵にしている。今も、鋭い(?)視線が宙の背中に突き刺さっていた。
「宇宙船は?」
 レーベルは首を横に振って答える。
「中に持って行くわけにはいかんだろ。物陰にでも隠しておこう」
「そうだね」
 少し離れた場所に見つけた木陰に移動すると、宇宙船ごと自転車を隠す。遠目には木陰から自転車が顔を出す風景だ。異様であるが。
「怪しいぞ」
「仕方ないよ、他に隠す場所がないんだもん!」
 口を尖らせてそっぽを向く。そんな宙を見て、レーベルが吹き出した。
 彼は一足先に建物の入り口に向い、手前の石段を登る。歩きながら引きつり笑いを浮かべ、透明ガラスのドアにぶつかった。「痛っ!」そのまま崩れ落ちる。
「ははは、人のこと、馬鹿にするからだよ」
 レーベルの間抜けな姿に、涙目になって笑う。宙を鋭い視線で睨み、レーベルは声を荒げて言った。
「じ、自動ドアだと思ったんだ!」
「ふーん、本当はガラスが見えなかったんじゃないの?」
 半眼で見つめると、レーベルがいっそう激しく動揺する。
「み、見えてたよ! で、でも、ドアが開かないから……」
「開くわけないよ。半年も動いてないんだから」
「なっ……!」
 レーベルの頬が紅潮し、恥ずかしさのあまり背を向けた。そんな二人のやりとりを黙って見ていたパトリシアが大きく嘆息する。
「……遊んでないで仕事しろよ」
 ぼそっと冷たく、しかし異様なまでの殺気を込めた呟き。パトリシアが初めて感情を露わにした瞬間だ。
「そそそ、それもそうだな。宙、早く行くぞ」
「う、うん」
 冷や汗がだらだらと流れていく。宙は顔を引きつらせてパトリシアの横を通り過ぎ、ドアの前で立ち止まる。
 ごくありふれた透明ガラスのドア。縁には埃がたまり、取っ手が黒ずんでいるが、錆びはない。ドアに手をかけると、ゆっくり引く。何の抵抗もなくすんなり開くが、舞った埃を吸い込んでしまう。
 思わず咳き込み、腕で鼻と口を塞ぐ。床には埃が溜まり、天井には蜘蛛の巣があった。しばらく閉めきっていたのは一目瞭然で、誰かが使っていたとは到底思えない。考え過ぎなのだろう。
 そうやって放棄された証拠が一つずつ増えていく。安全を確保する上で大事なことだ。それは逆に、修理する場としては相応しくないことを意味する。工場として機能しなければ何も意味はない。いいことなのか悪いことなのか、複雑な心境だ。
 二枚目のドアを開けて奥に進む。レーベル達が付いてくるのを確認し、彼らのペースに合わせて歩く。照明は全て消され、入り口から差す夕焼けだけが中を照らしていた。奥にはほとんど届かず、薄暗い。子供一人通るのにも狭い廊下を進むと、鉄のドアが行く手を塞いでいた。
「この向こう側が工場なのか」
 不安げに言うレーベル。
「だといいんだけど」
 としか答えられず、宙自身も不安が募る。
 みんなと目を合わせると、ごくりと息を呑む。そっとドアを開けるが、想像以上の重さでびくともしない。
「こなくそ!」
 思いっきり引くと、少しずつ開いていく。オレンジ色の明かりが差し込み、わずかだが廊下が明るくなった。
「おおーーー!」
 開けるのに必死な宙をよそに感嘆の声が上がる。レーベル達は先に中に入り、気付いた時には近くに誰もいない。
「待ってよぉーー」
 半泣きになりながらドアを固定すると、遅れて足を踏み入れる。そこにはだだっ広い空間があった。天井は大人が手を伸ばしても到底届かず、つい見上げてしまう。壁の上部には窓が張り巡らせられ、そこから日が差していた。
 ベルトコンベアが中心を大きく囲い、内側や外側、ベルトの上に様々な機械がある。奥にも様々な機械があり、溶鉱炉らしき物もある。それらで何が作れるのか、宙には想像も付かなかった。宇宙船の部品工場なのだから、安易な答えでいいはずなのに。
「これなら要塞だって作れそうですね、軍曹」
 整備士の誰かが言った。「あほか!?」シェリルの怒声と共に殴る音が響く。
 機械はそのどれも稼働していない。静寂に包まれ、捨てられてしばらく経っていることは明らかだ。再び動かすのにも電力がいる。
「艦長、どうすんだ」
 シェリルが珍しく覇気のない声を出す。
 稼働していないのは至極当然だ。そもそも期待するのが間違いだった。レーベルががっくりとして情けない顔を向ける。
「無駄だと思うが、手分けして調べてくれ。使えそうな部品が残ってるかもしれないし」
「あまり期待しないでくれよ」
「ああ、分かってる」
 嘆息してその場に座り込み、投げやりに手を振る。さっさと行け、と言わんばかりの表情に、シェリルは少しむっとしたようだ。
「よーし、お前ら。艦長様のご命令通り有益な証拠を掴んでこい。見つけられん奴は帰って来なくていいからな」
 いつも以上の荒い口調で指示をすると、シェリル自身もこの場を離れた。「いいご身分だな」そう捨てゼリフを吐いて。
 彼女らが離れたのを確認すると、レーベルの視線がパトリシアに向く。
「ははは、俺、嫌われたみたいだな」
「ええ。ですが、私は最初から嫌いですので」
 パトリシアは、相も変わらず無感情に言い放つ。それもほとんど呟きのように。彼女もシェリル達と同じようにいなくなる。残されたのは宙とレーベルだけだ。
 遠くから足音や物音が聞こえるだけで、工場内は静かだ。レーベル達のやりとりの後ではどうにも話しかけづらく、レーベルも堅く口を閉ざしている。
 ――困ったな、慰めるのも悪い気がするし。
 言葉が見つからず、宙も座り込み嘆息する。
 しばらく天井を見上げていた。窓から差す日は徐々に青みを帯びていく。日没を過ぎ、そろそろ夕食の時間だ。今から帰っても間に合わず、大目玉を食うのは目に見えていた。あの優しい母が変貌する様を想像してぞっとする。
 横にいるレーベルの様子は何も変わらない。何もせずにいるのも居心地が悪く、思い立って立ち上がった。レーベルの視線が宙に向く。
「どうした?」
「ううん、まだ時間かかりそうだから外に」
 来た道を指さして言うと、小走りに部屋を出る。狭くて暗い廊下を戻り、出口のドアに手をかけようとしたところで止まる。アルとアスレッソの話し声が聞こえたからだ。
「すまんのう、わしが口を挟むとボロが出そうじゃったから」
「いえ、いいんです。結果的にはばれなかったんだし」
「シェリルの奴、どう考えても疑ってるじゃろうに」
「うーん……確かにそうだけど、あれだけ強く否定すればそうしつこくは聞いてこないと思うわ」
「お前は楽観的じゃな」
「よく言われます」
 祖父と孫が楽しげに会話している。そんな縁側の風景のように、和やかな雰囲気があった。出るに出られなくなった宙。それに気付いたアルが手招きする。
「ははは、なんか悪かったかな」
 ばつが悪く、二人と視線を合わせずに外に出る。何でこんな事で恥ずかしい思いをしてるのか、不思議でならない。
 アルは首を横に振り、優しげな眼差しを向けた。
「そんなことないわ。こっちに来て話しでもしましょう?」
 しぶしぶ頷く宙。アルの横に座ると、一呼吸置いて彼女が口を開く。
「中はどうだったの?」
「うんとね――」
 中での一部始終を話し、居づらくなって出てきたことを伝える。アルは深く考え込み、こう言った。「しばらくしたら行こうね」と。
 何だかほっとし、肩の荷が下りた気分だ。彼女なら事態を収拾してくれるだろう。そんな期待すら抱く。だが、横から突き刺さる視線だけはどうにかならないものか。
 がさっ……
 どこからか草を踏みしめる音が聞こえた。「えっ?」慌てて見渡すと、瓦礫の山に人影を見つける。
「みんな僕に掴まって。隠れるよ」
 ポケットにアル達を入れると、ドアをくぐって身を隠す。見つけられてないことを祈りながら、様子を窺った。
 工場の入り口を開けた様子はなく、いつ、どこから入ったのだろうか。遠目には初老の男に見える。かなり汚れが目立つ白衣を着込み、何かを探すかのように行ったり来たりしている。明らかな不振人物だ。しかし、距離と暗さでよく顔が見えない。見えないのだが、どうも気になる。
 ――どこかで見たことがあるような……
 そんな気はするが、結局は見えないのだから思い出しようがなかった。
 程なくして何かを見つけたのか、男は座り込んだ。すぐに立ち上がり、どこかに消える。しばらく警戒したが、それきり姿を見せなくなった。
「宙くん、レーベル達に教えに行こう?」
 さっまでとは一転して、アルの表情がこわばる。
「え? う、うん……あ、でも、誰かに見張っててもらわないと」
「それならわしが残ろう」
 この老人でさえ真顔だ。宙が想像していたよりも緊急事態のような気がする。そう思うと、自分の顔までこわばってきた。

 レーベルの所に戻ると、調査が終わったのか全員が集まっていた。レーベルは宙達が来たのに気付くとこちらを向く。
「ちょうど良かった、今終わったとこ……アルまでどうしたんだ」
 アルの神妙な顔つきに、レーベルは首を傾げた。
「終わるまで待ってて良かったのに」
「そうもいかなくなったの。緊急事態よ」
「緊急事態?」
 レーベルは怪訝な顔をする。
「何かあったのか」
「ええ。不審者が工場内を出入りしているみたいなの。早々に立ち去るべきよ」
「……ああ、そうだな。ここもあらかた調べたし、思った通りめぼしい物はなかった」
 そう言いつつ、いまいちだらけた表情が抜けない。レーベルには危機感はないのか。疑問を抱かずにはいられない。
「分かってるなら早くこの場を離れましょう。これ以上地球人に見つかるわけには……」
「ああ、分かった分かった。でもな、宇宙船を直せないようじゃ逃げても意味ないんじゃないか」
「え? そ、それは……」
 レーベルの冷たい言葉に、アルが戸惑う。レーベルが続けて言おうとするが、シェリルが制止した。
「一応、通信機だけでも直そうと思ってる。宇宙船の部品を使えば何とかなるかもしれない。あたしらは本部から助けが来るのを待つしかないんだよ」
「分かりました。そのぐらいしか私達に出来ることはないんですね……」
 アルは表情を曇らせ、シェリルの陰に隠れたレーベルに視線を向ける。彼はわずかに困った顔をするが、すぐにだらけた表情に戻る。それきり全員が黙り込んだ。まるで希望を失い、今にも心中しそうな雰囲気だ。
 行き場を失い、帰る方法もない。来るあてのない助けを待ち、恐怖におびえて生きていく。宙には想像できない辛さがそこにはある。だから少しでも彼らの助けになりたい。そう思ってここまで来た。それなら最後まで面倒を見る義務があるのではないか。子供ながらに難しく考え、ある答えにたどり着く。行くあてがないのなら――
「みんな僕んちに来ればいいよ。その――通信機だっけ? それが直せれば帰れるんだよね。だから僕にも協力させてよ」
 気付いた時には言葉が出ていた。
 レーベル達は驚いて目を見開く。視線が宙に集まり、何か悪いことを言ったのかと不安になる。それが焦りを呼び、頭がこんがらがった。
「あ、あの、ぼ、僕が直すわけじゃないんだけど」
「分かってるよ、そのぐらい!」
 レーベルが芸人ばりのつこっみを入れる。ハリセンが出てきそうな勢いすらあった。
 当たり前のことが逆におかしいのか、アスレッソが笑い転げる。シェリルは声を張り上げ、アルにいたっては涙を浮かべていた。そんな彼らの反応に、宙は余計に恥ずかしくなる。
「もー、そんなことはいいから! どうするの?」
 顔をふくれさせて言うと、さすがに悪いと思ったのか、レーベルが必死に笑いをこらえようとした。
「ごめんごめん、宙がいいのなら俺達は喜んで転がり込ませてもらうよ。お前らも異論はないな? ……ぷぷ」
「また笑ったな!?」
 今度ばかりは怒りがまさり、拳を振り上げて小さな集団に向かって行く。一瞬にして、笑い声が断末魔に変わったのであった。





 第二章


       1

 ジーーーーーバチバチッ……
 耳障りな音が、眠りを妨げる。重いまぶたを開くと、宙は音のする方に視線を向ける。そこには数人の人影があった。青で統一された服、顔全体を覆うゴーグル、オレンジ色に飛び散る光。それらを見つめ、はっとして飛び起きる。
「何でこんなところで熔接してるんだよ!」
 布団を放り投げると、パジャマ姿のままベッドから降りる。周りには目もくれず、熔接現場の机の前で立ち止まった。ようやく気付いたのか、その中の金髪の男が手を止め、視線を宙に向けた。
「ああ、おはよう」
 疲労の見える顔で爽やかさを取り繕い、彼は自分の作業に戻る。それが当たり前のように、ごく自然に。
「って、そんなことより、レーベルさん達は何でこんな所にいるの!?」
「はあ? 宙が来いって言うから来たんだぞ」
「いや、確かにそうだけど」
 レーベルの言うことは何ら間違ってない。でも、根本的に間違っている気がするのは何でだろうか。
「部屋の中で危ないことしないでよ。それに、両親には内緒なんだから。大きな音をたててばれても知らないよ」
「あ、そうか」
 妙に納得するレーベル。大の大人が揃いも揃ってそんな簡単なことに気付かないとは。宙は思わずため息を吐いた。
「それなら、居ない時を見計らえばいいんだな?」
「だから、危険なんだって」
 言い返しながら、頭を抱え込む。言うだけ無駄だと今更ながら思った。宙がそれ以上口を挟まなかったからか、レーベルは作業を再開する。
 宙は視線を外し、何となく周囲を見渡す。左にはドアがあり、その向こうの壁には本棚とクローゼットが並んでいる。さらに向こう側には小型のテレビがある。レーベル達が占拠した学習机とベッドの間に窓があり、閉めきったカーテンの隙間から光が漏れていた。手探りで窓を開くと、生ぬるい風がカーテンをなびかせる。隙間から顔を出すと、雲一つない青空が広がっていた。
「今日も暑くなるよなー。こんな日に学校なんてね……」
 アスファルトからは陽炎が立ち上っている。
 ――そう言えば、レーベル達にあった日も暑かったな。
 もう三日も前のことだ。あの日は母親にこっぴどく叱られた。思い出すだけでもぞっとする。それよりも大変だったのは、外に待たせていたレーベル達を部屋に連れてくることだ。怒り狂う母の目を盗み、外と部屋を往復。宇宙船だけは庭の陰に隠し、誰もいない時間を見計らって部屋に運ぶ。
 昨日までは宇宙船の中にこもり、時々出てきては机の上にゴミを置いていく。「部品だ」と何度も言われたが、扱いは荒く、ゴミの山にしか見えない。何をするのか楽しみに眠ったのだが、起きてみるとこれだ。机の上で熔接など、素人としか思えない。もし火事にでもなったら、と思うとぞっとする。
「宙ー、ご飯出来てるわよ!」
 下の階から、母の声がする。
 聞いた途端に気分が悪くなった。とはいえ休んでいる暇もなく、体を引きずって部屋を出る。一度振り返り、レーベル達に軽く睨んで釘を刺す。
「物音もたてないでよ。僕は部屋にはいないんだからね、分かった?」
「おう」
 いまいち覇気のない返事に不安を覚えながら、宙は一階へと下りた。

 出勤する両親を見送ってから部屋に戻ると、一仕事終えたレーベル達が談笑していた。宙が戻ってきたのに気付き、レーベルが視線を向けた。
「あれ、今日も学校じゃないのか」
「うん、そうだよ」
「そうだよ……て、もう登校時間は過ぎてるぞ。遅刻するんじゃないか」
「今日は終業式だからちょっと遅いの」
「へー。小学校ってそうだったっけ」
 それだけ言うと、宙には興味を示さなくなった。時折笑い声が上がり、宙の入る隙間がないぐらい楽しそうに盛り上がっている。彼らを連れてきたものの、それからまともな会話をしていない。話しかけても表面的な言葉を返すだけだし、つっこんだことを聞けば話をそらされる。警戒心は感じられないが、やはり宙は他人なのだろう。
 肩を落とし、ドアの脇に置いてあるカバンを手に取る。何も言わずに部屋を出て、階段を下りた。戸締まりや電気の消し忘れを一通り確認すると、玄関に向かう。
「よう!」
 突然声をかけられ、驚いてのけぞった。目を瞬かせて見ると、レーベルがきざったらしく立っていた。それこそ、バラの花をくわえてそうな雰囲気がある。嬉しさがこみ上げ、宙はつい悪態をつく。
「似合わないよ」
「悪かったな!」
 そっぽを向くレーベル。そんな子供っぽい態度がおかしかった。宙が微笑を浮かべると、僅かに頬を赤らめる。
「みんなの前じゃあんまり親しくするわけにもいかないだろ。お前は地球人だから、警戒するのは当然だ」
「うん、分かってる」
 事実を突きつけられ、むなしさを覚えた。分かっていたことだけに余計に辛い。
「でも、俺は宙を信用してる。だからそんな顔するなよ」
「うん……」
 レーベルの少し不器用に感じる優しさが嬉しい。この三日間の冷たい態度も、みんなを想ってのことだった。悔しいが、宙はまだ子供だ。そこまで気が回らない。
「私のいないところで何してるの」
 ふいに声をかけられ、驚いて振り返る。そこには、冷たい目でレーベルを見るアルが階段の最下段に座り込んでいた。驚かすのが好きなのだろうか、この宇宙人達は。
「何だよ、アルまで来たのか」
「そうよ、悪い?」
 どこか冷たく感じるアルの態度も、あの日と同じだ。相変わらず、レーベルには強いようだ。アルは階段から下りて宙の横で立ち止まる。彼らはなぜかにらみ合っていた。
「アルさんこそ、どうしたの?」
 宙が二人の間に割って入り、口を挟む。途端に暖かい笑みを浮かべる。
「私の宙くんを口説こうとする不届きものがいるらしくて」
「は? いつから?」
 思わず聞き返す。しかし、聞こえた素振りを一瞬だけ見せて、無視するかのように言葉を続けた。
「レーベルは若い子を見たらすぐこれなんだから」
「人を浮気性みたいに言うなよ。それに、宙は男だぞ。ていうか、いつ口説いたんだ」
 力なく言い返すレーベル。アルは不敵な笑みを浮かべた。
「そうだったかな……あの時も男の子だったような気がするわ」
「へー、レーベルさんってそんな趣味があったんだ」
「そうなのよ、だから気をつけなさい」
「うん、分かった」
「おい!?」
 項垂れるレーベルを横目で見ながら、思わず笑いがこぼれる。
 宙には二人のやりとりが心地よかった。宙を前にしても自分をさらけ出せる。それだけ宙のことを信用している証拠だ。そんな彼らを一度は疑った自分を恥じた。
 何気なく視線を落とすと、左手首にはめてある腕時計が目に入る。
「あーーーー!」
 目を凝らすと、時計の針は八時四〇分を指していた。急がなければ遅刻する時間だ。
「どうしたんだ、宙」
「ごめん、もう行くね」
 それだけ言うと、急いで外に出る。ドアを閉めようとしたところで止まり、振り返ってレーベルを見た。
「今日はどうするの?」
 レーベルがアルと顔を見合わせる。
「うーん、どうするかな……その辺を徘徊してみようか」
 宙は玄関の端を指さしながら間髪入れずに言った。
「車を置いてあるから、それに乗っていくといいよ。外は危ないから気をつけてね」
「あ、ああ」
 レーベルは気のない返事をしながら、宙が指さす方に視線を向ける。そこには、大型トレーラーの――何十分の一に縮小された――ラジコンがあった。

 レーベルは玄関で呆然と立ちつくしていた。玄関の端にあるトレーラーを見てはため息を吐く。それを何度も繰り返す。
「宙の奴、本気でこれに乗らせる気か」
「そうみたいね」
 隣に並んだアルが微笑を浮かべて相づちを打つ。
 宇宙船で作業している間、部屋の隅でトレーラーをいじる宙を何度も目撃した。元々は遠隔操作するタイプの車両だ。宙の手にもあまるほど大きなコントローラで動かす。それを、レーベルが直接乗って運転できるように改造している。以前に聞いた時、宙はそんな説明をしていた。それが完成したのだろうか。
 見た目には普通のトレーラーだ。背丈はレーベルの倍ぐらい。後ろに大きな貨物車両がつながり、荷物の運搬も出来る。ただ、改造したのは十二歳の少年だ。機械いじりが得意だとしても、天才ではない。動かした途端に故障でもしたら、それこそ大問題だ。
「アル、お前が乗ってみろよ」
 そう言って、彼女の背中を押す。アルは何かにつまずいたかのように倒れ、その場で突っ伏した。あまりの大きな音に驚き、しばらく呆然と見ていた。我に返ると反射的に言う。
「あ、ごめん……」
「ごめん、じゃないわよ! ……あいたた」
 顔を押さえながら起きあがると、アルはレーベルを睨んだ。
「私の顔に傷が付いたらどうしてくれるの? 責任を取ってくれるんでしょうね」
 言いがかりをつけられているような言い方だ。悪いのはレーベルだが、それでも気にくわない。思わず声を荒げた。
「はあ? 何の責任だよ。ちょっと押したぐらいで倒れる方が悪いんだろ」
「何よ、その言い方。部下をなんだと思ってるのかしら」
「何だと!? 俺が悪いってのか、そうか……そこまで言うなら俺にも考えがある」
 つい意地になって吐き捨てると、迷わずトレーラーに向かう。ドアを強引に開け、迷わず乗り込んだ。そして後悔する。全身から血の気が引いていく。
 コントローラを分解し、空いたスペースにはめ込んでいるだけの代物が運転席に取り付けられていた。二つのレバーを操作して運転する。それはけして難しいわけではない。それより問題なのは、素人が不用意に分解したことだ。所々に導線が顔を出している。
 苦笑いを浮かべて降りると、アルが近寄ってきた。
「どうしたの? そんなに青ざめて」
 ついさっきまで言い合っていたとは思えないぐらい優しい口調だ。アルがレーベルの顔をのぞき込む。
「あ、いや、その……あれ」
 思わず目をそらし、運転席を指さす。アルがそっちに視線を向けると、レーベルは慌てて後ずさる。気付けば顔がほてっていた。なんでそんな反応をするのか、自分でも分からない。なんせ彼女は……
「あー、確かにこれは危ないね。でも、気をつければ大丈夫なんじゃない?」
 運転席に乗り込んだアルは、軽い口調で言う。本当に危険だと分かっていないかのようだ。
「いや、でもさ、感電したらどうすんの?」
「感電するほど強い電流じゃないよ……多分」
「多分って何だよ、多分って」
「ははは、気にしないでよ」
 何がおかしいのか、アルはくすくす笑いながら降りる。「出かけるわよ」そう言ってレーベルの手を引っ張った。どこに行くかと思えば玄関のドアの方だ。連れられながら、トレーラーに乗らなくてすむと思うとほっとする。それもつかの間のことだった。
 ドアの前で止まると手を離し、彼女はすぐに背を向けた。
「玄関、開けといてね」
 それだけ言うと、すぐに離れていく。
「おう。お前はどうするんだ」
「運転するわ」
 思わず聞き逃しそうになるほど、自然な口調だった。理解した時には、アルはトレーラーに乗り込もうとしていた。
「ちょっと待て!」
 慌てて止めに入るレーベル。それを不思議そうに見つめるアル。
「どうしたのよ、そんなに慌てて」
「どうしたこうしたもない! こんな危険な物に乗りたくないわぁ!」
 レーベルは力の限り叫ぶ。それで思い止まったのか、アルがトレーラーに乗るのをやめる。それを確認すると、安堵の息を漏らし、その場にへたり込んだ。
「……でもね」
「今度は何だよ」
 逡巡するアルを半眼で見る。よからぬ事を考えているのでないかと思い、頭を抱え込んだ。その予感はものの見事に当たる。
「せっかく作ってくれたんだし、乗りませんでした、とは言えないわよ」
 仰せの通り。あんなに嬉しそうな宙を思い浮かべると、口が裂けても言えない。何か方法はないのか、必死に考えるがどれもいまいちだ。だめ元で言ってみる。
「修理してからでもいいよな」
「そんな時間はないわ。修理してる間に宙くんが帰ってくる」
「そんなにかからないって。あいつが帰ってくるの、夕方だろ?」
「今日は終業式だって言ってたじゃない。お昼には帰ってくるのよ」
「あー、そうか。今からじゃ無理だな」
 あっさり説き伏せられ、これでは艦長も名折れだ。こうなったら最後の手段を使うしかない。そう覚悟を決める。そっと立ち上がると、慌てて逃げようとした。
「待ちなさい!」
 それは一瞬のことだった。レーベルが身を翻すのと同時に襟首を掴まれ、引き倒される。大きな音をたてて背中から叩きつけられた。
「ぐはっ?!」
 肺から息が押し出され、激しいめまいに襲われる。反射的に息を吸い込むと、思わず咳き込んだ。
「何すんだよ! 俺を殺す気か!?」
 がんがん痛む頭を押さえて起きると、アルを睨み付ける。彼女は、しまった、と言わんばかりの顔をしていた。慌てて取り繕い、何も頭を下げる。
「ごめんなさい、こんなに派手に倒れるとは思わなかったから」
 ちらちらとレーベルの反応を見ては、頭を下げ続けた。さすがにここまで謝られると、起こる気も失せた。
「分かったよ。さっきは俺も悪かったんだし、お互い様ということでいいよな」
 頭をかきながら言うと、アルの表情がぱっと明るくなる。
「ホントに許してくれるの?」
「ああ、当たり前だろ、俺とお前との仲なんだから」
「さすがレーベル。話が分かるわね」
「調子に乗るなよ」
 アルの額を小突く。彼女は嬉しそうに笑い、レーベルの手を掴んで引っ張った。
「どこに行くんだよ」
「徘徊するって自分で言ってたじゃない。出かけるのよ」
 それを聞いた途端、足が硬直する。額ににじみ出てくる汗を袖でぬぐい、おそるおそる口を開いた。
「もしかして、あのトレーラーで行くのか」
「うん、そうよ」
 当たり前のことのように言うアル。この展開で逃げるわけにもいかず、深くため息を吐いた。そんなレーベルに、彼女は微笑を浮かべて言う。
「心配しないで。私が運転するから」
 ――そういう問題じゃないって。
 呆れて声にもならなかった。今更どうこう言おうが手遅れなのだが。
 レーベルは再び嘆息する。


       2

「おはよう!」
 元気のいい声が響き渡る。視線の先にカバンを片手に持った少女達がいた。その中心には能代芽依の姿を見つけ、宙は三日前のことを思い出す。彼女とはそれきり、疎遠になっていた。
 あの時は見ていられないほど辛そうだった。宇宙人を見つける、と意気込み、結局は見つけられなかった。宇宙人研究者である祖父の協力をしたかったのだろう。レーベル達のことを話せば元気を取り戻す。それは分かっていても、話すわけにはいかない。
 それもあって、学校では顔を合わせてもあいさつをするぐらい。まともに言葉を交わしていない。
 だが、思いのほか芽依は元気そうだ。少女達に囲まれ、笑顔を振りまいている。宙はほっとして校門をくぐる。
 一学期最後の登校。しばらく学校に来なくていいと思うと、勉強嫌いな宙は胸が躍る。宿題そっちのけで遊びそうだ。そんなことを考えながら学校を見る。
 三階建ての中規模の小学校。古ぼけた雰囲気が特徴の、開校五十年の校舎だ。早い話がボロ校舎だった。高台を切り崩した所に建てられている。
「宙?」
「わあっ?!」
 物思いにふけっていた宙は、驚いて腰を抜かす。視線を向けると、芽依が不思議そうに見ていた。
「……さんざんな一日だよ」
「え? 何が?」
「こっちの話。それより、どうしたの?」
 聞き返すと、芽依は少し考えてから言葉を返す。
「宙、何かぼーっとしてたよ」
「そうかな?」
「うん。悩みがあるんなら相談してよね、幼なじみなんだから」
 芽依は満面の笑みを浮かべて言った。普段とは違う優しい口調だ。宙は彼女の笑顔にドキリとし、思わず目をそらす。これじゃ、まるでどこかの艦長みたいだ。
 周囲に人だかりが出来始める。芽依は仮にも小学校のアイドル的存在だ。そんな彼女が一人の男に優しさをふりまく。それがどれだけ危険な状態か容易に想像できる。鋭い視線が四方から突き刺さり、宙は慌てて立ち上がった。芽依の手を取り、駆け足で校庭を進む。校舎に逃げ込むと、そのまま教室の前まで駆け上がる。
「はあはあ、追っ手は来ないみたいだね」
 周囲を見渡して安全を確認する。
「頼むから気をつけてよ、危険なんだから」
「どこが? 私は安全よ」
「僕が危ないの!」
「そんなのどうでもいいじゃない。私には関係ないって」
 こんな冷たいことをさらっと言える彼女の、どこがいいのだろう。さっきの笑顔も消え失せ、普段の表情と変わらない。呆れてものも言えなくなる。
 ため息を吐くと、教室のドアを開けた。
 バコンッッッッ!
「痛っ!」
 頭に何かが激しくぶつかる。宙は涙目になりながらうずくまった。床にはチョークの粉をまき散らした黒板消しが転がっている。
 教室の中を見渡すが、全員がそしらぬ顔をしていた。芽依が苦笑しながら横を通り過ぎていく。
「みんな、おはよう!」
 芽依が満面の笑みをふりまく。口々にあいさつを返すクラスメート達。
 ――作り笑いなのに。
 宙の声にならない嘆きを、誰一人として知るものはいない。
 女友達の一人が近寄ってきた。
「二人で来るの、久しぶりだね」
「そういえばそうね。私、アイドルだしぃ、特定の男性とぉ、一緒にいたらぁ、悪いんじゃないかなぁ」
「芽依ちゃん、キャラ違うって……あ、でも、結構お似合いだと思うよ」
 女友達がそう言った途端に、少年達の視線が鋭くなる。教室全体が殺気に包まれた。宙は後退り、そっとドアを閉じる。顔だけを覗かせて。
「宙とはただの幼なじみだよ。みんな誤解しないでね」
「なあーんだー、つまんないのー」
 芽依の一言で少年達の殺気は消える。しかし、宙は胸に何かがつっかえるのを感じた。そうこうしている間に芽依は自分の席に座る。
 遠くから重い足音が聞こえてきた。担任が近づいてきたのだと直感し、首を横に振って教室に入る。ふと芽依の姿が目にとまる。一瞬で覚悟を決めて芽依の側に行き、耳打ちした。
「芽依、あれからどうもないの?」
「何のこと?」
「んー……いや、やっぱりいいや。元気そうだもんね」
「だから何なのよ」
「何でもないって」
 ふてくされる芽依に、宙はごまかして逃げる。ちょうどチャイムが鳴り、席に着くのと同時に担任の教師が入ってきた。担任はすぐにしゃがみ、床に転がっている黒板消しを拾う。なにやら怒っているようだが、被害者である宙が気にすることでもない。粉まみれの頭をかきむしり、傍観を決め込む。じきに首謀者が名乗りを上げ、こっぴどく叱られるだろう。

 宙が学校にいる頃、レーベル達は住宅街をさまよっていた。
 工場と公園、公園と宙の家をつなぐ道は覚えている。道案内が無くてもたどり着く自信はある。しかし、人目を避けて裏道に入ったが最後、迷宮から抜け出せなくなった。なんせ、自分で運転するのは久しぶり。ほとんどペーパードライバーなのが今更ながら悔やまれる。
「って、何で俺が運転してるんだ?!」
 レーベルはコントローラを投げ出した。両手を振り上げたまま、横目でアルを睨む。ここはまだ道のど真ん中だ。
「な、何のこと?」
「とぼけるな! お前が運転するんじゃなかったのか!?」
「えーと……そうだっけ?」
 まるで心当たりがない、と言わんばかりにとぼけるアル。引きつった笑顔を浮かべてごまかす。レーベルは呆れて言い返す気力を失った。
「あ、ま、前!」
 アルが慌てて正面を指さす。つられて視線を向けると、すぐ目の前に巨大な柱が迫ってきていた。
「ブ、ブレーキはどれだ?!」
 慌てて探すが、どこにも見当たらない。あたふたしていると、アルが横からコントローラを掴んだ。レバーを横に倒すと、車体がわずかに傾く。ほとんど滑るように柱をかわす。その直後、横から強い衝撃が加わる。車体がぐらつき、レーベルは側の何かにしがみついた。
 すぐに揺れは収まり、レーベルは視線だけを外に向ける。車体を柱にぶつけた状態で止まっていた。とりあえず何も問題は起きていないようだ。
「――レーベル」
 下から声がする。視線をおろすと、そこにはアルがいた。レーベルにしがみつかれ、運転席の隙間に押し込まれていたのだ。
 ――あれ、なんだろう。
 何やら手に柔らかい感触がある。それが何なのか気付いた時には手遅れだった。
「どこ触ってんのよ!?」
 慌てて離れるレーベルの顔に、アルの肘鉄が食い込む。彼女は勢いよく起きあがると、襟首を掴んだ。
「私の胸を触るなんて、いい度胸ね」
「ご、ごめん、悪気はなかったんだ」
「問答無用!」
 ぐいぐいと力を入れられ、レーベルの意識が遠のく。視界が真っ白になりながら思った。つい最近、同じように首を絞められたな、と。今にも意識を失いかけたその時、アルは突然手を離した。
 助けられたことには安堵したが、アルの様子がおかしい。咳き込みながら声を絞り出す。
「……どうしたんだ」
 視界が戻るとすぐにアルの様子を窺う。顔を真っ青にし、自分の肩を抱いて震えている。焦点も定まらず、何かを言おうとしても口が震えて喋れずにいる。レーベルは自分の過失を疑ったが、思い当たる節はない。どうしたというのか。
 ドスン……
 突然地面が揺れた。ビクッとして周囲を見渡す。今まで全く人気がなかった通りの、後方に人影があった。サイドミラー越しに確認し、レーベルは息を潜める。
 白衣を着込み、両手には曲がった金属棒を持っている。まばらだが、髪の半分が白く染まり、角張った顔立ちの男。宙と比べたらかなり色黒だ。しわも目立ち、一見すると初老だが、ぎらついた目をしている。間違いなく老人とは言えない生きた目だ。何度も左右を見ながら、確実に近づいてきた。歩くたびに地面が揺れる。
 十数メートルほどの距離で男は止まった。手に持つ棒が外側に広がる。
「……この……は……」
 男はぼそっと言う。いまいち聞き取れなかったが、嫌な感じに襲われる。未だに震えるアルを抱き寄せて、状況が変化するのを待った。
 男はすぐに動き出すが、さっきよりもゆっくりだ。何かを探しているのか、やけに慎重だ。だんだんと棒が広がり、トレーラーのすぐ側で真横に向く。そこで再び立ち止まった。一度周囲を見渡し、視線がトレーラーに止まる。じっと見据える男の目は、何かが起こるのを確信したかのように自信に満ちていた。
 男の陰がトレーラーを覆う。見上げれば宙よりもさらに大きな巨人がいる。その圧倒的な威圧感に、レーベルは息を呑む。背筋が凍るような寒気に襲われるが、今は振り払うしかない。
 ――何なんだ、あいつ。
 サイドミラー越しではなく、直接見れば少しは状況がつかめるかもしれない。だが、少しでも動けばどうなることか。レーベル達の姿は男に見られている。おそらく人形だと思ってくれているのだろう。もし人形ではないとばれたら、宙の時のようにはいかない。男の目がそれを物語っているかのようだ。
 どのくらい時間が経ったのだろうか。のどに渇きを覚え、額には汗がにじむ。自らが感じる恐怖を紛らわそうとアルを強く抱きしめる。視線はサイドミラーから離せない。瞬きすら惜しまれる。今にもプレッシャーに押し潰されそうだった。
 ふいに男が薄ら笑いを浮かべる。すぐに歩き出し、手にしていた棒を腰に差す。あきらめたのだろうか、トレーラーの横を一瞥もせずに通り過ぎた。
 びくりとして体が思うように動かない。何とか視線を動かせた時には、男が路地を曲がっていた。すぐに姿は消え、レーベルはやっとのことで息を吐く。動く気力は失せ、座席にもたれかかった。
「あ……?」
 アルの口から、声が漏れる。未だに抱きしめていたから、一緒にもたれかかってきたのだ。いつの間にか震えも止まっている。
 アルは顔を上げて、レーベルと目が合う。突然頬を染めたため、レーベルは驚いて手を離す。アルも慌てて体を起こし、自分の座席に戻った。
「あ……あの……」
 いつになく恥じらいを見せるアルに、レーベルは戸惑う。いつもなら軽い調子でいたぶられるのに。
 ――て、それはそれで問題だよな。
 慌てて首を横に振り、嘆息する。視線を外し、天井を見上げた。
「なんか、凄く震えてたから。もう大丈夫だよな」
「う、うん」
 不気味なほど素直な返事。
「さっきの奴、恐ろしかったな」
「うん」
 後で悪いことが起きそうな予感。
「俺達のこと、気付かれたんじゃ、ってびくびくしたよ」
「うん」
 額に汗がにじみ出てきた。苦笑いを浮かべながら、袖で汗を拭く。
「アルがびびるほどの人間がいるとはな。誰なんだ、あいつ」
「うん」
「お前な、うんしか言えな……」
 反応の悪さに呆れ、半眼でアルを見て驚く。彼女はレーベルを見て微笑していたのだ。戸惑いを隠せず、レーベルは途中まで言いかけた言葉を詰まらせる。
「あ、いや、その……」
「ありがとう」
 満面の笑みを浮かべ、優しい調子で言った。
 つられて笑うレーベル。まともに目を合わせられなくなり、頭をかく。
 ――こんな事は久しぶりだな。
 最近は気が張っていて、こんな気持ちになる余裕がなかった。謎の男の脅威にさらされたが、結果的に心が和らいだ。おかしな事だが、感謝すべきなのだろうか。
「久しぶりだね、二人きりで出かけるの」
「ああ、そうだな。大変だったけどな、ははは」
「そのことなんだけど……」
 アルの表情が沈む。そしてためらいがちに言葉を続ける。
「さっきの、どこかで見た記憶があるの。確か、宙くんと工場に行った時……ほら、私が不審者がいるって……あの時に見た人に似てるわ」
「じゃあ、お前の姿は見られてるのか?」
 アルは首を横に振る。
「それはないわ。宙くんがとっさに隠れてくれたし、気付いたのなら様子を見に来るんじゃない?」
「まあそうだよな」
 口では言いながら、レーベルは納得していなかった。男の一連の行動は、偶然の一言では片付けられないだろう。
「一応、みんなに報告した方がいいよね」
「ああ……よし、今日はすぐに帰って作戦会議だ」
 言うや否やアクセルを全開にし、トレーラーを急発進させた。準備の出来てないアルが、背もたれに背中を打ち付ける。
「何すんのよ!」
 もの凄い剣幕で怒るアルを、レーベルは慌てて見た。それがまた悲劇を生むとは知らずに。
「ごめん、大丈夫?」
「それより、前! 前を見て! ぶつかる?!」
「え? 前が何……って、うわぁーーーーーーーーーーーー!!」
 レーベルが視線を戻した時には、反対の壁がすぐ目の前に迫っていた。避けることも叶わず、無抵抗のままぶつかる。何かが壊れる音が響き、同時に全身が激しく揺れた。衝撃は一瞬だったが、脳震盪を起こしたのだろう、しばらく意識がはっきりしない。
 正気を取り戻してアルを見た時、強く後悔する。彼女は鬼のような形相でレーベルを睨み付けていた。こっぴどく叱られたのは言うまでもない。せめて無事であったことを感謝しようではないか。


       3

「なんだか雲行きが怪しいな」
 宙は空を見上げ、独りごちる。
 朝は雲一つ無い青空だった。退屈な終業式も終え、友達に別れを告げてそそくさと学校を抜け出る。その時には太陽が雲に隠れていた。山からは厚い雲が姿を現し、辺りが少しずつ暗くなる。真夏の暑さが少しは和らぐが、じめじめとした感じだけは残ったままだ。
 帰り道を早足で進む。急いで帰らなければ、と気が焦る。それもそのはず、家に残したレーベル達のことが心配だからだ。
 心配なのは今日に限ったことではない。家を空けるたび、後ろ髪を引かれる思いがあった。宙がいない間に何かがあったらどうしよう。そう思うと、学校の授業も上の空だった。
 しかし、今日からは夏休みだ。友達と遊ぶ機会は減るが、その分心配事も減る。そう考えれば大したことではない。
 ――小学生ってこんなに心配事が多いものなのかな。
 まるで自分が普通じゃないみたいだ。宇宙人と一緒に生活してるのだから十分普通じゃないが。
「ぷぷっ」
 周りに人がいるかどうかも考えずに吹き出した。
「何がおかしいの、宙」
 聞き覚えのある声にびくりとして、宙はゆっくりと振り返る。そこには不思議そうに見つめる芽依がいた。
「うぉわぁっっ!」
 思わず腰を抜かす。驚きのあまり涙がにじみ出てきた。まさか芽依が来るとは思わず、困惑する。
「ひどいな、化け物を見るみたいな目で見ないでよ」
「うう、ごめん」
「男なんだから泣かないの。ほら、目を拭いて」
 芽依がポケットからハンカチを取り出し、宙に押しつけた。受け取ると、頬を掻きながら目線をそらす彼女を見つめる。
「何よ、私が優しくしたらおかしいの?」
 宙はとっさに首を横に振る。
 確かに芽依が優しくしてくれるのは珍くはない。彼女は元々気が利く優しい子だ。クラスのみんなにも、近所の大人達にも評判がいい。ただ、宙にだけは厳しいはずだ。いつもなら。
「芽依って、たまに女の子ぶるんだよな」
「何よそれ! 失礼でしょ、誰もが認める清純派アイドルの私に向かって」
「本当にそうなら自分で言わないって」
 ふくれる芽依を半眼で見ながら言うと、ズボンをはたきながら立ち上がる。
「そういえば、どうしたの?」
「どうした――て、何が?」
 唐突すぎて分からなかったのだろう。当たり前だと思いつつ、ため息を吐く。宙はすぐに言い直した。
「学校が終わってすぐに抜け出したんだよ。よく追いついたね」
「宙が帰るのが見えたから慌ててきたの」
 芽依は心なしか息を切らせている。さっきは気付かなかったが、本当に慌ててきたのだろう。観察していると、芽依が頬を赤らめた。
「べ、別に一緒に帰りたいから来たわけじゃないよ」
「うん、分かってる」
「用事があったから。本当は学校で引き留めようと思ったんだけど」
「いや、それはまずいって」
 そういつものノリでつっこみを入れたのだが、芽依はなぜか不機嫌な顔をする。「……何も分かってないんだから」ぼそっと呟き、目をそらす。
 宙は首を傾げた。何が悪かったのか分からず、呆然とする。
「そ、それより、学校を抜け出すのって結構大変よね」
「……僕には人だかりは出来ないから」
「そうそう、みんな私の所に来るからね。やっぱりアイドルだし……」
 言いながらも、ちらちらと宙を見る。しかし、けして目を合わせようとはしない。
 ――やっぱり僕が何かしたんだ。
 宙には、芽依の態度が怒っているようにしか感じられなかった。いつものように悪態をついただけなのに。そう思っていると、今度は芽依がため息を吐く。
「……なんで私が気を遣わなくちゃならないのよ」
 そうぼやくと、芽依が宙の横を通り過ぎる。振り返ると、すぐに立ち止まった彼女が宙を見つめていた。
「歩きながら話そう?」
「……うん」
 宙は慌ててついていき、歩き出した芽依の横に並ぶ。何を話していいのか分からず、宙は黙していた。芽依の横顔をじっと見ていると、彼女が口を開く。
「やっと一学期が終わったね」
 顔を向けてにこりと笑う。宙はドキリとして慌てて頷いた。
「夏休みは忙しい?」
「あんまり暇はないけど。何かあるの?」
 問い返すと、芽依が首を横に振る。
「ううん……あのね、小学生最後の夏休みなんだし、二人で……」
 芽依は口ごもり、最後が聞き取れなかった。「二人で?」宙が聞くと、考える素振りを見せて苦笑いを浮かべる。
「ふ、二人で宿題しようよ」
「えー、もう宿題するのー? やだよー」
「そんなこと言って、いつも夏休みの終わりに慌ててしてるのは誰?」
 半眼で見られ、宙はしょぼくれた。しかし、芽依の言うとおりだ。
 宙は毎年のように夏休みが明けると先生に怒られている。そんな現状を打破しようと思っての提案なのだろう。今年はレーベル達の心配もある。彼らが見つかった時、宙には自由な時間が残されているのだろうか。
 そんな宙の心配を知るわけもなく、芽依は言葉を続けた。
「今年ぐらいはちゃんとして目にものを見せてあげようよ。宙が宿題をすればおばさんも喜ぶよ」
「ママは関係ないって」
 そんな宙なりのつっこみはあっさり無視された。こちらの言い分も聞かず、芽依はさらに話を進める。
「ねえねえ、宙は明日、暇?」
「うん、暇だけど」
「それなら明日からでも始めようよ。何事も早いに越したことはないし」
「本気なの?」
 あまり乗り気にはなれず、かといって芽依が心変わりするとは思えない。聞きながらも、宙は脱力感に襲われた。
「当たり前よ」
 芽依は自信たっぷりに頷く。続けて言った言葉に、宙は動揺した。
「じゃあ、明日の十時に私の家で」
「えー!? いくらなんでもそれはまずいよ」
「決まりだからね。遅刻したらどうなるか分かってる?」
「う゛っ」
 宙は言葉を詰まらせた。芽依に押し切られたものの、よく考えたら二人でなのだ。その事実に気付いた途端、鼓動が早くなる。ちらりと彼女を見ると、なぜか満面の笑みを浮かべていた。それを見た途端に頬がほてりうつむく。
 それからしばらく沈黙したまま歩いた。恥ずかしさで会話が思いつかない。先に変化が起きたのは芽依だった。
 芽依は何かを悩んでいるのか、考え込んだりぶつぶつ言っている。それを横目で見ながら、宙はびくびくしていた。いつになく女の子らしい芽依に、恐怖すら覚えた。悪いことが起きる前触れではないか。そう思えてならない。
 そんな宙に気付いていないのか、芽依が覚悟を決めたかのようにきりっとした顔を向けた。
「あのね、この間の宇宙人のことなんだけど」
「え?!」
 宙は驚きのあまり声を上げた。本当に悪いことの前触れだったのか。
「どうしたの、そんなに驚いて」
「ははは、なな何でもないよ」
 宙は無理に笑顔を作るが、口元がぴくぴくと震えるのを抑えられない。そんな宙を芽依が首を傾げて見る。
「ふーん、まあいいや。それより、やっぱり宇宙人は来てるみたいなんだって。おじいちゃんが目をキラーンとさせて言ってたよ」
「へー、そ、そうなんだ」
 とりあえず相づちをうちながらも、気が気ではない。鼓動がさらに早くなる。
「近い内に証拠を掴むって。証拠さえ見つかれば、誰もおじいちゃんのこと馬鹿にしなくなるよね。だから早く見つかるといいな」
 話し始めた芽依はとても嬉しそうで、宙の様子を窺う素振りもない。
「宇宙人ってどんな人なんだろう。足が八本もあって、口が長くて、もしかしたら頭が丸かも。口からは真っ黒な墨がビューって出たりして。ねえ、宙はどう思う?」
「え……と、宇宙人だから僕たちの想像もつかない姿だよ、きっと」
「例えば?」
 額に汗がにじむ。それとは逆に、背筋が凍り付くような寒気を覚えた。脳裏にレーベル達の姿が浮かぶ。
「そうだな……もの凄く小さかったりして。手のひらぐらいに」
 口にした途端に後悔した。見たままを表現すれば、問いつめられたら言い訳のしようがない。ただ、そこまで心配する事ではなかった。
「そこまで私に合わせなくてもいいのに……まあいいや。とにかく、ちゃんとニュースを見るのよ。びっくりしてからじゃ遅いんだから」
 宙をビシッと指さし、誇らしげに言う。
「言いたかったのはそれだけ。じゃ、私は帰るね!」
 芽依は手を振りながら駆けだした。彼女の姿がどんどん小さくなり、すぐに見えなくなる。
 宙はその場にへたりこむ。張りつめた空気もなくなり、肩の荷が下りた気分だ。芽依が元気になったのは良かった。だがその理由は、宇宙人のことを気にしてないからではない。逆に宇宙人が芽依を元気にしたみたいだ。
 ――芽依のおじいさんって何者なの?
 小さい頃に会った記憶はあるが、ただの宇宙人マニアだという印象しか無い。そのおじいさんが、芽依を元気づけたのだろう。
 宇宙人がいる証拠がどこにあるのか。少なくとも、レーベル達は今日まで家から出ていない。まさか監視されていたのか。考えれば考えるほど、不安が募る。とはいえ、芽依は近い内にと言っていた。ということは、まだ……
「きっと大丈夫だ。よし、早く帰ってレーベルさんに知らせよう!」
 相談すれば解決策を思いついてくれる。何よりレーベル達の安否が気になった。

 家に着くと、真っ先にラジコンが目に入った。目立った破損はないが、かなり汚れている。ざっと見ただけでへこみが数カ所もある。どんな運転をすればそうなるのか。少なからず貸したことを後悔する。そして、出先で何かあったのだと直感した。
 慌てて階段を駆け上がり、部屋のドアを勢いよく開ける。即座に中に入り、真っ正面にレーベルを見つけて固まった。
「何してるの?」
 宙は冷たく言い放つ。
 後ろ手に縛られたレーベルが床に座らされている。そんな彼を囲むように、男達が並んでいた。周囲には女性しか残っていないから全員だろう。男達の中心にはアスレッソとケナスがいる。その様は、レーベルに何かを問いつめているかのようだった。
 レーベルが泣きそうな顔を向ける。
「宙、こいつらをどうにかしてくれよ」
「どうにかって言われても……」
 いまいち状況がつかめず、ベッドに腰掛けるアルに視線を向ける。
「アルさん、何があったの?」
「私もよく分かんないんだけど……帰ってきたら、みんながね」
 アルはレーベルに群がる男達に目を向け、首をかしげた。
「そうなんだよ。こいつら、鬼のような顔で俺を捕まえて――」
 言い終わる前にアスレッソの蹴りが飛ぶ。その歳からは考えられないほど軽快に。
 ゲシッ!!
 鈍い音と共に頭に当たり、レーベルが床に転がった。
「痛っ! 何しやがる?!」
 横倒しになりながらもアスレッソを睨み付ける。そんなレーベルを勝ち誇った表情で見下ろすアスレッソ。これではどっちが上官なのか分かったものではない。
 アスレッソに便乗してケナスが一歩踏み出る。
「何でそんなに偉そうに出来るんですか。いくら大佐でも、していい事と悪いことがあるはずです。それなのに……」
 力の限りに拳を握り、レーベルを責め立てる。自分のことを棚に上げて怒っても、どこかおかしい。そう思うのは宙だけだろうか。おそらく当事者であろうアルは、楽しそうに傍観している。
「それなのに、部下であるアルを惑わし、職権を利用してたぶらかし、あまつさえ任務をほったらかしてデートしに行くとは……全くもって甚だしい。アルが大佐のせいで汚れていくのはこれ以上は見ていられない!」
 力強く言い切ると、なぜか天井を見上げて感涙する。と同時に、周囲から歓声が上がる。
「そうだそうだ!」
「よく言ったぞ、ケナス!」
「お前の言うとおりだ。我々のアルさんを返せーーーっ!」
「我々のアイドルを返せーーーっ!」
「我々の青春を返せーーーっ!」
「我々の給料を返せーーーっ!」
 口々に言う彼らを、それでもアルは他人事のように見ている。神経が図太いというか、何というか。
 ――この構図って、芽依と一緒の時と同じだよな。
 しみじみと考える宙。彼らが怒っている理由がそうなら止められるものでもない。そうそうに離れる方が得策だ。
 宙はその場で背を向けると、気付かれないようにそっと歩く。
 ミシ……
 自分がたてた物音に驚き、立ち止まってしまう。慎重に動いたのが裏目に出てしまった。背中越しに集中する視線に、再び動き出す機会を奪われる。
「ははは、どうしたのかな」
 振り返りながら笑うと、レーベルと目があってしまう。責められた心の痛みか、蹴られたときの痛みか、レーベルは苦痛に顔をゆがめていた。
「宙、こいつらに何とか言ってくれ」
「無理だよ、悪いのはレーベルさんだもん」
「そんなことを言うなよ。お前だって知ってるだろ、俺達のことを」
「そうなのか!?」
 聞き捨てならない、と言わんばかりの形相でケナスが迫ってきた。宙は頬を掻きながら視線をそらす。
「知ってたわけじゃないんだけど」
「裏切る気か」
 間髪入れずに言うレーベルを半眼で見据え、嘆息する。
「僕が聞いたら違うって言ってたよ。忘れたの?」
「う゛っ」
 力なく崩れ落ちるレーベル。そんな彼を無視し、宙は視線をケナスに戻した。
「本当に知らなかったんだ。でも、好きなのかな、ていうのは僕にも分かったけど」
 ケナスが驚愕する。他の男達も、信じられないと言わんばかりの顔だ。彼らは色恋沙汰には無頓着なのだろうか。
「何で分かるんだ」
 その問いに、宙は暗い気分になる。少女の顔が思い浮かんだからだ。いつもは意地悪で、時には健気な。
「多分ね、同じなんだ」
「何と同じなんだよ」
 宙は慌てて首を横に振る。笑顔を作ってケナス達に向けた。そこではっとする。これでは何のために急いで帰ってきたのか分からない。
「そういえば、レーベルさんに大事な話があったんだ」
「それで慌てておったのじゃな」
 とアスレッソ。
 ――分かってるなら最初に聞いてよ。
 宙はげんなりしたが、思い切り首を横に振って話を戻す。
「一度聞いたとは思うけど、レーベルさん達は僕以外の人には会ってないんだよね」
「ああ、そうだ」
 いつの間にか復活したレーベルが答えた。
「地球に来た直後に会ったのが宙だからな。それからはお前の知っているとおりだ」
「それじゃ、外には出てないんだね」
「まあ、昨日までは。でも、今日は大変だったよ」
「何かあったの?」
 レーベルがアルの方を見る。彼女は驚く素振りを見せて、こくりと頷いた。レーベルの額に汗がにじみ出る。何かを恐れているような表情を浮かべて。

 レーベル達が外で遭ったことの一部始終を聞き、宙はうんざりした。ただでさえ、芽依の祖父のことで頭を悩ませているのに。
「だから、ラジコンがあんなになってたんだ」
 そんな意地悪を言いたくなるのは仕方がない。そう自分を正当化した。いじけるレーベルを尻目に言葉を続ける。
「でもさ、アルさんの言うとおり工場で見た人なら、近所の人かも」
「知り合いなの?」
 そう聞くアルに、宙は首を横に振る。
「違うと思う。でもね、どこかで見たような気がするんだよね」
 あの時そう思ってからずっと考えてるのだが、一向に思い出せない。思い違いならいいのだが、嫌な予感は未だにぬぐえなかった。
「何年も前にどこかで――」
「無理に思い出さなくていいのよ」
 アルが優しく声をかける。そんな些細なことが心に染みる。しかし、それをぶち壊すかのようにアスレッソが冷ややかに言った。
「じゃがのう、危険のはわしらじゃ。所詮、お前は地球人じゃからな」
「分かってるよ!」
 むかっとしながらも、アスレッソの言うことは痛いほど分かる。理解できるからこそ、たいして協力が出来ない自分の無力さに苛立つ。
 ――こんな板挟みがこれからも続くのかな。
 今日一番の深いため息を吐きながら、宙はへたり込んだ。あまりの辛さに、動く気力も失せる。ただ、それでも楽しみが一つあった。レーベルとアルを交互に見やり、にたりと笑う。
「覚悟は出来てるよね、二人とも」
 二人の顔から血の気が引いていくのがはっきりと分かる。それが余計におかしくて、宙は思わず吹き出した。
 ――当分は楽しめそうだね。
 この時の宙の顔が鬼のように見えたと聞かされたのは、しばらく後のことだ。





 第三章


       1

 その日は朝から雨が降り、夏の気温と相まってひどい蒸し暑さだった。
 ベッドで寝ていた宙は、あまりの寝苦しさに耐えられず目を覚ます。時計を見ると、すでに十二時を回っていた。
「うわぁー、寝坊だ」
 慌てて起きあがると、水玉模様のパジャマに手をかけた。
 ピタリと手を止めて考える。じめじめした感触、汗だくの体、このまま着替えても余計に暑苦しいのではないか。
 宙は肩を落とす。立ち上がると、タンスから服を取り出した。部屋を出て真っ先に風呂場に向かう。
 ――失敗したな。よりによってこんな日に……
 汗を流す間、宙はため息ばかり吐いていた。
 着替えて風呂場を出ると、とりあえず部屋に戻ることにした。とぼとぼと廊下を歩き、ちょうど階段を登ろうとした時だった。
「よっ、宙。今日は元気がないな」
 背中越しに男の声がする。振り返って探すが、人影はどこにも見当たらない。暑さにやられて幻聴が聞こえるようになったのか。
「おい、どこ見てるんだ。下だよ下!」
 言われるがままに足元を見ると、小さな人形が置いてあった。誰かが置き忘れたのか思い、しゃがんで握ろうとする。
「何だ、レーベルさんか」
 肩をすくめてぼそっと言うと、手を引っ込めた。よく見ると、普段の青い軍服ではなく半袖のTシャツを着ている。手には工具が握られ、全身が汚れている。こんな暑い日に何をしているのだろう。
「って、おいっ。今、やれやれって顔しただろ」
「し、してないよ」
「冷たい奴だな、暗そうだったから声をかけたのに」
 慌てて否定する宙を、レーベルが半眼で見据えていた。今の宙には言い返す気力もなく、その場に腰を落とす。再びレーベルを見ると、軽く微笑んで言った。
「ありがとう」
「分かればいいんだよ、分かれば」
 照れくさそうにそっぽを向くレーベル。「じゃあな」そう言って宙に背を向けた。そして玄関の端に置いてあるラジコンの方に行く。すると、陰からアルが顔を出した。
「レーベル、何してるの」
 言いながら出てくると、アルはレーベルの手を掴んで引っ張ってきた。
「さっき通った時に話したでしょ、理由を聞こうって」
「分かってるよ」」
「それなら何で戻ってくるの?」
「だってあれはお前が」
「私が何?」
 アルにじろりと睨まれ、レーベルがおびえて後ずさる。が、手を握られていては逃げようがない。覚悟を決めて言い返すと、アルのさらなる攻撃がレーベルの鼻をへし折る。
 そんなやりとりを見ていると、だんだんと苛ついてくる。普段ならいつものことだと割り切れるのに、今日の宙には無理だった。我慢できずに二人の間に割って入って言う。
「二人とも、何で朝っぱらからけんかしてるの」
「もう朝じゃないわよ!!」
 アルに怒鳴られ、宙はしゅんとする。へたに口を挟めば怒られるのは分かっていたはずなのに。
 彼女の言うとおり、もう朝ではない。十二時を過ぎれば誰がどう考えても昼間だ。そう思うと急にむなしさがこみ上げてきた。すぐに部屋に戻って寝込もうかと考える。
 そんな宙の気持ちに気付いたのか、アルはしまったと言わんばかりの表情を浮かべる。憤怒の形相も一瞬で青ざめた。
「ごめんね、怒るつもりはなかったの。ほら、レーベルも謝って」
 必死に頭を下げるアル。レーベルにも強引に頭を下げさせる。話をややこしくしたのはアルなのだが、この際気にしない。もう朝ではないのだ。
「あーあ、僕の青春も終わった……」
 ぼそっと言うと、涙が頬を伝って落ちた。十時に約束していたのに、二時間も過ぎたとなれば、今頃かんかんに怒っているだろう。嬉しそうに笑顔を振りまいていた芽依の姿を思い浮かべ、特大級のため息を吐く。
 誰かが体をそっと叩く。涙をぬぐって下を見る。レーベルだ。
「何があったのか話してみろよ。言えば楽になることもあると思うぞ」
 さっきまでアルの尻に敷かれていたとは思えないほど力強い言葉だ。宙は安心感を覚えて頷いた。
「うん。実はね――」

「ううっ、お前って奴は」
 宙のズボンを引っ張りながら、レーベルが号泣する。何に感動したのか、いまいち計れない。
 きょとんとしていると、アルが口を挟む。
「レーベルはね、そうやって悩んでる宙くんが羨ましいのよ」
「悩むのが羨ましい?」
「そうよ」
 自信たっぷりに頷くアル。そんな彼女に、宙は怪訝な顔を向けた。
 羨ましいと言われて素直には喜べない。何のやる気も起きないほど打ちのめされた、それだけ辛い悩みなのだ。今まで芽依との約束を破ったことは一度もない。それが宙にとって彼女との関係をつなぐ唯一の物だと思っている。学校一のアイドルが冴えない宙といるなんて、今でも非現実的な気がしてならない。それは大げさなことではないはずだ。それなのに、目の前の二人は――
「そんな顔しないでよ。文句があるならレーベルに言ってよね」
 悪びれた様子もなく適当にあしらわれる。仕方なくレーベルに視線を向けた。声をかけようと口を開きかけるが、未だに泣いていることに気が付き、思い止まる。今聞いたところで、まともな答えは返ってくるまい。
 嘆息し、半眼でアルを見る。
「それより、何で羨ましいの?」
「うーん……多分ね、真剣に悩んでいた頃が懐かしいんじゃないかな。純粋な恋をしていた頃が」
 さらりと言ったアルの言葉にドキリとした。
「こ、恋?!」
 思わず声がうわずる。アルは微笑して言葉を続けた。
「そうよ。宙くんの気持ちもそうなんじゃないかな」
「そ、そんなんじゃ……」
 頬が紅潮し、両手をふって必死に否定する。その反応で確信を深めたのか、アルは含み笑いを浮かべた。
「芽依ちゃんだっけ。どんな娘なの?」
 速くなる鼓動を必死に抑えながら芽依を思い浮かべる。
 可愛らしくて、小六にしては大人びていて、けして清楚とは言えないが人当たりも良く、そのくせ宙の前では意地悪だったり……あれで色黒じゃなければ、テレビで見るアイドルよりもアイドルらしい。幼なじみなのに遠くに感じるのは、宙よりも大人だからなのかもしれない。そんな彼女に必死に着いていこうとしていた。
「ふーん、宙くんは色白の方が好みなんだ」
「ち、違うよ。どちらかと言えば、色黒の方が……あ!」
 つい乗せられて口を滑らせてしまった。慌てて口を塞ぐが、時すでに遅し。
 アルがにたりと笑う。背筋にいい知れない寒気を感じた。優しげな彼女の笑みが、初めていやらしく映る。
「なんだ、自分でも分かってるじゃない」
 軽く肘を打ち込みながら言う。
 宙はその場でぐったりし、素直に負けを認めた。
 見た目がいくら小さくても、アルは歴とした大人だ。ごまかし通せると思ったのがそもそもの間違いだ。
「それじゃ、洗いざらい吐いてもらおうかしら。それまでは昼ご飯は抜きよ」
「はーい、分かりました」
 投げやりに答えながら、ふと思う。昼ご飯を食べるのにアルの許可はいらない。十センチの彼女を振り切るのは造作もないことだ。
 鼻で笑うと、アルはなぜか不敵な笑みを浮かべる。思わず身構えると、背中からテーブルを出して、その上に器を置く。
「このカツ丼を食べたかったら、正直に言うのよ」
 よく見ると、ミニチュアのように小さな器の中に、卵でとじたトンカツがある。ラップで密閉されて匂いは分からない。
「そ、それは俺の昼飯……?!」
 レーベルが目を充血させながらカツ丼に飛びつく。間一髪のところでアルが割って入り、カツ丼は守られた。
「アルさん、それ、どこで覚えたの?」
 半ば呆れながら聞く。アルは考え込み、すぐに居間を指さした。
「私ね、テレビにはまっちゃって。特に刑事ドラマが好きなの。警察署の中からブラインド越しに外を見るシーンなんか、見てて痺れたわ。レーベルもあの人みたいに格好良ければいいんだけど」
 やけに嬉しそうに語るアル。宙は深くため息を吐いてぼやいた。
「なんか古い番組に偏ってる気がするよ」
 そしてレーベルは、アルに浮気相手がいると勘違いして抜け殻のようになっていた。ちらりと見て視線を戻すと、タイミング良くアルが口を開く。
「話を戻すけど、宙くんの気持ち、いつからなの?」
 思い起こしてみる。
 能代芽依との出会いは、幼稚園の時までさかのぼる。宙は誰とも友達になれず、隅でじっと座っていることが多かった。そんな宙に声をかけたのが芽依だった。なぜか彼女とは意気投合し、共に遊び、共に成長してきた。そんな彼女との距離を感じ始めたのは小五の冬。
 芽依は同級生の中でも一際目立つようになる。みんなにもてはやされ、宙と一緒にいる時間が減っていく。気付けば、芽依と自分との間に溝が出来ていた。いや、自分で築いたのかもしれない。
 まるで半身を失ったような気分だった。離れて初めて芽依の大切さを知る。考えてみれば簡単なことだ。出会った時からずっと助けられてきたのだ。そんな彼女を意識するのには、さほど時間を要しなかった。
 小六になると、何かと芽依に心配されることが増えた。「私がいないと暗いんだ」そう口癖のように言われ、何度ドギマギしたことか――人の気持ちも知らないで――その度に胸中で嘆いた。
 夏休みを目前に控えたある日のこと。芽依に連れられて公園に行ったあの日。レーベル達に出会ったあの日。芽依の寂しげな背中を初めて目にした。今まで気付いてやれなかったのだ。その時、芽依への気持ちが確信へと変わった。
「最近のことなんだね」
「うん。だから、自分でもどうしたらいいか……」
 宙は首を横に振る。声に力がないのが自分でも分かる。一週間足らずのことだが、完全に気持ちを持て余していた。
 話したところで問題が解決するわけもなく、辛さが増しただけだ。聞かれたことも答えたし、もう用事はないと決めつけて立ち上がる。考え込むアルの姿が視界に入るが、気にせずに歩き出した。その直後に彼女が呟く。
「それで約束なのね」
「え?」
 宙は反射的に振り向く。聞き返すのもほぼ条件反射だった。
「約束……って?」
 思いつくことは一つしかない。昨日の芽依との約束だ。初日から破ってしまった約束。「……多分、芽依ちゃんはそんなに気にしてないんじゃないかな」
「そうかなー」
「大丈夫よ。私が保証する」
「って言われても、アルさんは芽依のこと知らないでしょ」
「説得力無い?」
 アルが頬がふくらませて言う。宙は頷きながら、彼女の仕草が可笑しくて吹き出した。
「失礼ね、心配してあげてるのに」
 余計にふくれるアル。
「よく言うよ。最初はおもしろ半分だったくせに」
「あら、分かってたのね」
 意地悪な笑みを浮かべるアル。宙はため息を吐いて元いた場所に座り込む。
「それで、約束にどんな意味があるの?」
 それが聞きたくて立ち止まったのだ。芽依が気にしていないという根拠も知りたい。不安が拭えるかもしれない。その期待を目の前のあるに向けた。だが、返ってきた答えは拍子抜けする物だった。
「女のカンよ」
 一言。
「……は?」
「だから、女のカンだって」
 そう言うアルにはふざけてる様子もない。たんたんと事実を述べただけ。あれだけ自信たっぷりに保証すると言ったのに。
 疑いの目をアルに向ける。目があった彼女は、困った表情を浮かべた。
「いや、だから……ほら、芽依ちゃんとは面識ないから」
「さっきと言ってることが違う!」
 ビシッと指さす。アルはたじろぎ、目が泳ぐ。
「あのさ、今度会う時は私も連れて行ってよ。第三者が見た方が分かるかもしれないし……ね?」
「うーん、その方がいいのかな」
 そう言うと、アルが嬉しそうに頷く。だが、間髪入れずに言葉続けた。
「でもさ、さっきのは言い訳にもなってないよ」
 それがトドメになり、アルは廃人のような表情で固まった。その姿は、さながらレーベルのようだ。彼の専売特許だと思っていたが、どうも違うようだ。恋人同士だと似るのかもしれない。
 呆れて物も言えなかった。宙はその場でぐったりし、廊下の壁にもたれかかる。天井を見上げ、今日はもう会うことはない芽依の姿を思い浮かべた。
 ――やっぱり怒ってるよね。
 誰に言うでもなく、胸中でぼやく。
 そして、それは唐突に起こった。
 ピーンポーン!
 宙は跳ぶように立ち上がる。玄関のチャイムが鳴ったのだとすぐに気付けなかった。数泊の間が空き、二度目のチャイムが鳴る。はっとして自分に置かれた状況に気付く。誰かは分からないが、レーベル達がいる現場を見られるわけにはいかない。
「レーベルさん、アルさん、早く片付けて部屋に戻って。念のため、みんなに隠れるように言ってよ」
 外に漏れないように囁く。
「あ、ああ」
 そう答えたレーベルは手際よく片付け、アルを連れ立って階段を登り始める。その様子を眺めている時に、外にいる誰かが声を発した。
「ねえ、いるんでしょ! 宙?」
 宙を呼ぶ声。それはよく聞き知ったあの声――
「め、芽依?!」
 思わず振り返る。困惑して声を出したが、慌てて口を押さえた。
 ドアの向こうに、芽依がいる。そう考えただけで鼓動が高鳴る。十分な間をおいて、ドアの側に向かった。


       2

 薄暗い部屋の中で、男はパソコンに向かっていた。
 素早い手つきでキーボードを叩く。画面に文字の羅列が出来上がっていく。一際強くキーを押すのを最後に手を止めた。と同時に画面が下へとスクロールしていく。
 しばらく眺めていると、一度だけ強く光って暗闇に包まれた。部屋も真っ暗になるが、数秒の間だけだった。画面に光が戻り、灰色で頭でっかちな人型の絵が映し出される。その時には興味も薄れ、視線を外した。
「また反応無しか」
 しわがれた声で呟く。パソコンの前に置いてある金属棒をちらりと見ると、ため息を吐きながら椅子から立った。
「まあいい。この町にいることは分かっているんだ」
 無造作に歩き出し、わずかに揺られるカーテンの側で止まる。窓は開いていないはずだが、時折光が差し込む。
 カーテンを少し開くと、外の様子が見て取れる。雨音も耳に入り、男は初めて今日の天気を知った。
「この天気では今日の探索は無理か」
 男は吐き捨てるように言うと、視線を落とした。しわくちゃの白衣の裾の黒染みが目に入る。数秒間だけ逡巡する素振りを見せたが、それだけだ。散らかった床さえ気にもとめずパソコンの所に戻る。電源を消し、金属棒を持った。
「久しぶりに我が家に帰るか」
 言いながらポケットから携帯を取り出す。電話をかけるが、二言発しただけですぐに切った。口元が引きつるような笑みを浮かべ、部屋を後にした。

 宙はごくりと息を飲み込んだ。
 どんな形相で怒っているのか想像もつかない。謝る暇もないぐらい、怒濤のように怒られるのではないだろうか。アルに話したことで希望を持ちかけた矢先に、まさか芽依が訪ねてくるとは思いもしなかった。
 覚悟を決め、思い切り目をつぶってドアを開ける。反射的に身構え、おそるおそる目を開いた。芽依の姿がいつもより大きく見える。
「や、やあ」
 何とか声を絞り出す。しかし、なぜか芽依はきょとんとしていた。
「どうしたの? 腰が引けてるよ」
 普段の口調だ。そこには怒りの欠片すらない。
「怒ってるんじゃ……」
「何で?!」
 そう決めつけられたのが気に入らないのか、芽依は不機嫌な顔をする。宙は反射的に視線をそらした。
「……僕が約束を破ったから、てっきり」
「怒ってるよ! 怒ってるけど……」
 その怒りを宙に向けていいのかどうか迷っている。そんな気がした。芽依はそっぽを向きながら言った。
「でもさ、訪ねてきた人に聞くようなことかな」
 確かにその通りだ。宙は言い返す言葉が見つからず、申し訳なく思ってうつむく。
「ごめん」
 それが精一杯だった。
 視界の隅で芽依が笑ったような気がした。しかし彼女を直視する勇気もなく、ただ時間だけが過ぎていく。
 気まずい雰囲気だ。
 一つだけ救いはあった。それは芽依が、想像していたほど怒っていなかったことだ。アルが言っていたことは、あながち間違いではなかったのだ。それだけでもほっとする。ついさっきまで絶交される覚悟を決めようとしていたのだから。
 自分の行為が可笑しくて、笑いが漏れる。
「何が可笑しいの?」
 さりげない問いに、声が出ていることを気付かされる。驚いて顔を上げると、芽依が怪訝そうな目で見つめていた。慌てて口を隠すが、今更遅い。笑ってごまかすしかなかった。
「それより、私を中に入れない気なの?」
「え?」
 なぜ聞かれたのか分からず、きょとんとする。芽依は考え込み、はっとする素振りを見せた。宙に疑わしげな目を向ける。
「もしかして、私以外の女を連れ込んでるの?」
 宙は思わずずっこけそうになった。
「そ、そんなわけないよ」
 完全な誤解だ。それなのに少しどもってしまい、あらぬ疑惑を深めさせたのではないか。視線を芽依に向けると、案の定にやにやしていた。
「ふーん、違うんだ。私はてっきりそうだと思ったんだけどな」
 宙はため息を吐くしかなかった。
 胸中で自分の浅はかさを呪う。とはいえ、芽依の言うことは完全に間違いとは言えない。それはレーベル達のことだ。彼らの中には女性が何人もいるし、さっきまでアルとしゃべっていた。それを知れば、芽依は怒るかもしれない。いや、彼女のことだから自分にも会わせろと言うはず。なんせ、宇宙人なのだから。
「女の人がいるのなら紹介してもらおうと思ったんだけど……違うんだ」
「当たり前だよ」
「それならいつまで塞いでるつもりなの?」
 そこではたと気付く。外は大雨で、芽依は傘を差したまま突っ立っていたのだ。いくら傘があっても、雨に打たれれば服が濡れる。髪の毛はしっとりしているし、肩にかけたカバンがびしょぬれだ。
「ご、ごめん」
 慌てて道を空け、招き入れる。芽依は入り際に傘をたたみ、わざとらしく振る。水飛沫がかかるが、宙に文句を言う権利はない。宙は消沈し、ドアを閉めて振り返ると、さらなる驚きが待っていた。芽依が家の中に視線を巡らせ、何かを探っている。慌てて彼女の前に立ちはだかった。
「早く上がってよ。何もないけどさ」
 両手を広げて塞いでることに気付き、すぐに手を引っ込める。首をかしげる芽依に、引きつった笑みを向けた。片手を出して、手を取るように目配せする。
「何のつもりなの」
 眉根を寄せる芽依。警戒してるのか、しばらく考えてから手を取った。
 彼女を居間に通し、麦茶を注いで差し出す。
「ありがとう」
 受け取りながら、芽依はどこかそわそわしていた。さっきまでの強気な態度が嘘のように見える。そんな彼女をじっと見つめていた。
「おばさん、いないんだね」
 そう言って口を付けるが、宙の視線に気付いて飲むのをやめる。しばらく見つめ返し、何かに気付いたのか息をついた。麦茶を差し出して言う。
「のど乾いてるんならいいよ」
「そ、そうじゃ……」
 手振りで否定するが体は正直だ。直後に腹の虫が鳴り響く。顔が紅潮するのが自分でも分かった。
「うう、さっき起きたばかりだから何も食べてなかったんだ」
「だからね」
 宙とコップを交互に見やり、くすっと笑った。
「笑わないでよ」
 ふくれっ面をする宙。そんな宙を見つめながら、芽依はふいに立ち上がる。何かを思い立ったのか、その足で電話機に向かった。
「ちょっと電話借りるね」
 そう言う芽依に、宙は居間から顔を出して答えた。
「いいけど、どこにかけるの?」
「私の家。ちょっとママにね」
「ふーん」
 来て早々に電話する理由が分からなかったが、別段心配する必要もない。元の場所で座り、テーブルに突っ伏した。
 そういえば母親はどこに行ったのだろう。不意に疑問を抱くが、すぐに答えに気付く。自分が夏休みだからいるものだと決めつけていた。よくよく考えてみれば今日は平日だ。朝早くに出勤し、家には宙一人だった。
 一人でいることはさほど珍しくなく、今では自分で料理を作れる。とは言っても、インスタントや電子レンジですむ物ばかりなのだが。
 ――まあ、仕方ないか。
 嘆息して立ち上がると、台所で食材を探し始める。しばらく探すが、自分で調理可能な物は何もない。がっくりして項垂れると、その場にへたり込んだ。
「飢え死にするーーーーーーーっ」
 手足をばたばたさせる宙。そんな宙を、いつの間にか戻ってきていた芽依が呆れ顔で見ていた。
「何してるの?」
 芽依は冷たく言い放つ。そのあまりの冷たさに、体と思考が凍り付いた。そんな宙の前を通り過ぎていく。
「さっきママにね、昼ご飯は食べてくるって言ってきたんだ」
 冷蔵庫の前で立ち止まった。
「もしかして、僕んちで?」
 半信半疑で問う。芽依は冷蔵庫の中を物色しながら答えた。
「うん、そうよ」
「誰が料理するの」
「わたし」
 あっさり答える芽依に、宙は身震いした。好きな娘の手料理が食べられるのは、普通は嬉しいことだ。しかし、芽依の料理は――
「さーて、出前でも取ろうかな」
 冷や汗をかきながら芽依から離れようとした。その前に掴まえられ、脱出は容易ではなくなる。
 宙はおそるおそる振り返った。芽依は拳をわなわなさせ、鋭い眼光で宙を見据えている。思わず視線をそらしてしまう。
「あのね、勘違いしてるようだから言うけど、あの時は練習し始めたばかりだったから失敗したんだよ」
「あの不味さは尋常じゃないって。簡単に直るわけ無い」
「大げさね。大体、あれはもう一年も前じゃない。私だってママに教えてもらって上達したんだから」
 自信たっぷりに言うが、それでも宙は信用できなかった。
 一年前の今頃、初めての料理を食べてほしいと頼まれ、芽依の家に行った。そこで出された料理は悲惨な物だったか。味付けは濃く、訳の分からない臭みが立ちこめ、見た目はグロテスク。芽依の母親がその場にいたし、突き放すわけにはいかず、泣く泣く食べた記憶がある。あの後、急いで家に帰って吐いたことは言うまでもない。
「食べてから文句言ってよね」
「へぇ、そこまで言うんなら食べてやろうじゃないか。不味かったら出前だからね」
「望む所よ。腰を抜かしても知らないから」
「ふーん。ところでメニューは?」
「チャーハン」
 あの時も確か、チャーハンだと言っていた。聞いた途端に、嫌な予感が強さを増す。やっぱり逃げようかと思い、台所を出て足を止めた。今ここで逃げ出せば、レーベル達が何事かと顔を出すかもしれない。
「そっちで待ってていいからね」
 芽依は背を向けて言う。宙は少し悩み、振り返って答えた。
「……やっぱりここにいる。見張ってないと」
「信用ないんだね、私って」
 苦笑すると、それきり一言も喋らなくなった。
 しばらく観察していたが、芽依の包丁さばきは様になっていた。一年も経てば変わるものだと感心し、台所から出る。彼女が料理に集中してる間、レーベル達の様子を見に行くことにした。
 階段を登り始めると、部屋の前に佇んでいるアルを見つける。慌てて側に行くと、一度下を確認してから小声で言った。
「いつからそこにいたの?」
「最初から」
「隠れてて、って言ったのに」
「見つからなかったからいいでしょ」
「そういう問題じゃないんだけどなー」
 売り言葉に買い言葉だ。これ以上言い返しても空しいだけ。肩を落としてその場に座り込む。
「それじゃ、ずっと見てたんだ」
「そうよ。何だかんだ言いながら、仲良さそうじゃない?」
「あいつは優しいから」
「それだけなのかな……」
「え?」
 宙は驚いて振り返る。
「だって、宙くんのこと、心配そうに見てたよ」
「そうかな……怒ってたと思うんだけど」
 頬をかきながら言うと、アルは首を横に振る。
「それは宙くんが余計なことを言うからだよ。芽依ちゃん、宙くんの元気そうな姿を見てほっとしたんじゃないかな」
「まさか。それじゃまるで、僕に……」
 慌てて首を振る。そんなわけはない、と胸中で否定した。芽依が自分のことを好きになるわけがない。心配してくれたのも、幼なじみだから……いや、彼女は誰にだって優しい。アルはそれを知らないから、芽依の優しさを特別なもののように感じたのだろう。
「……あれがいつもの芽依だよ」
「ふーん、宙くんが言うのならそうなのかもね」
 それで納得したのか、それ以上は芽依のことを聞いてこなかった。
 宙は黙ったまま、階段の下の方を見つめていた。ふと、芽依が訪ねてきた時の発言を思い出す。彼女は宙に、「女を連れ込んでいる」と言って疑っていた。そして今は、彼女に隠れてアルと話している。非常に面白い構図だ。妙な状況だなと思い、苦笑する。と同時に、芽依の声が聞こえた。
「宙ー、もうすぐ出来るよー!」
「うん、今行く!」
 宙は立ち上がり、階段を数段下りてから振り返る。
「……それじゃ、生きて帰ってこれたら、また」
 見よう見まねのぎこちない敬礼をすると、アルが軍人らしいビシッとした敬礼を返す。
「頑張ってね」
 宙は頷き、急いで芽依がいる台所に向かう。着いた時には、ちょうど盛りつけが終わったところだった。チャーハンの香りが流れてくると、宙の腹の虫がいっそう騒ぎ出す。想像していたよりもいい香りだ。
 芽依は宙が来たのに気付き、胸を張る。
「私の自信作よ。不味いなんて言わせないから」
 味に自信があるのかと思いきや、手にはフライパンが握られている。不味いと言えばぼこぼこにされそうだ。
 冷や汗をかきながらテーブルにつくと、芽依に視線を向けられたままそれを前にした。具材がきれいに混ざらず、偏りはある。とはいえグロテスクとは言えず、誰が見ても普通のチャーハンだ。期待を裏切られた気はするが、心なしかほっとする。
「頑張ったんだ」
 一年前からは考えられない成長ぶりに、味のことは忘れて感慨にふける。じっと見つめる芽依ににこりとして、スプーンですくって一口……
「……辛っ!」
 油断したせいか、口を割って出た。慌てて口を塞ぐが、すでに遅い。芽依の全身から黒いオーラが噴き上がる。フライパンを振り上げ、ずりずりと近寄ってきた。
「いい度胸ね。私の味付けにケチつけるなんて」
 宙は慌てて逃げるが、テーブルに足を引っかけて倒れ込んだ。
「ご、ごめん。で、でも絶対に濃いって」
「そ、そんなわけ……」
 信じられない、と言わんばかりの顔を向ける。どこからそんな自信がわいてくるのか、皆目見当もつかない。
「味見したの?」
 その問いに、芽依は首を横に振る。その瞬間、思考が凍り付いた。
 宙の反応が理解出来ないのか、芽依は首をかしげる。そんな彼女が妙に可愛らしく思えて息を呑む。しかし、ここで心を鬼にしなければならない。そんな気持ちに後押しされ、立ち上がった。
「料理はただ作ればいいんじゃないよ。ちゃんと自分で味見して、人にあげても恥ずかしくないように作らなきゃ」
 芽依がしぶしぶ頷く。視線を落とし、チャーハンをじっと見つめて考え込んだ。
「怒る前に、芽依も一口で食べてみて」
「……うん、食べてみる」
 そう言って口に入れると、しばらく租借する。視線を仰ぎ、首をかしげる姿は、まるで言葉を探しているようだ。そして――
「……辛いね」
 優しく微笑むと、また一口。
 眉間にしわが寄る。そしてまた一口。
 見る見るうちに顔が歪んでいく。宙を見つめるその目に涙が溜まっていく。
「ごめん、宙。こんなに不味いのに無理して……」
 言葉を詰まらせた拍子に、涙が頬を伝って落ちた。何度もぬぐうが一向に治まらない。さすがに悪いことをしたと宙は思った。
「いや、あ、あの……そんなにひどい味じゃなかった……と思うよ。だから、もう泣かないで」
「うう……でも……グスッ……」
 それでも泣きやまぬ芽依に、宙は仕方なく残りを食べる覚悟を決める。スプーンを口に運びながら言った。
「大丈夫だって。ほら……モグモグ……美味しい! やっぱり美味しいよ……ハハハ」
 半泣きになりながらも必死に食べ、最後の一口を平らげる。満面の笑みを芽依に向けると、彼女は嬉しそうに笑った。
 ――いつの間に泣きやんだんだろう。
 ふと思ったが、彼女の笑顔が見られたことが嬉しくてすぐに忘れた。泣いたのは芽依の作戦だとは知らずに。


       3

「本当にいいの、送らなくて」
 降りしきる雨の中、傘を差す芽依に聞く。
「うん。だってまだ明るいし、あんまりわがままな女は嫌でしょ?」
「何の話だよ……」
 食事につきあわせたことを言っているのは宙にも理解できた。それとこれとは別だと思うのは自分だけなのか。
 昨日の約束通り夏休みの宿題をした後、家まで送ろうと思い玄関まで付いて来た。だが芽依は、必要ないと言って拒否したのだ。家までけしかけてきたのは自分だから、そこまで迷惑はかけられない。もっともな理由だが、元はと言えば寝坊した宙が悪い。寝坊さえしなければ、宙が彼女の家に行くはずだったのだ。
「あのね、明日からも私が宙の家に来るね」
「え? ……と、それは……」
 それはまずい。なんせ家にはレーベル達がいる。今日は宙の失態が招いた危機だし、これ以上は危険すぎる。
「悪いの!?」
 芽依が詰め寄る。宙は後退り、つい目線をそらしてしまう。それが仇となり、追撃の隙を与えてしまう。
 芽依は何かを察したのか、不敵な笑みを浮かべた。
「ふーん、そっか。やっぱり女の人なのね……」
 半眼で宙を見る。背筋が凍り付きそうになるが、顔を引きつらせながらも視線は芽依に向けた。
「そういえば、宙の家のシャンプーとは違う香りがしたんだよね。特に玄関で」
「お、お客さんでも来てたんじゃないかな。ママのお友達とか」
「うーん、そうかもしれないけど」
 それで納得しないのは目に見えていた。
「でも……シャンプーって、いつまでも匂いが残るものじゃないよ。ついさっきまで誰かいたんじゃないかな」
「え……と……おかしいな、僕が起きてからは誰も来てないんだけど」
「その前からはいたんだ」
「って、何でそうなるの?」
 思わず大声で聞き返してしまう。しまった、と思って慌てて口を押さえる宙。疑惑は確信に変わり、芽依から逃げおおせる自信を失うだろう。ごくりと息を呑み、覚悟を決めた。しかし、芽依はなぜか目に涙を浮かべていたのだ。
「だって、私が来るの、嫌みたいだから」
「い、嫌じゃないよ。今日は会えて嬉しかったし」
「そんなのには騙されないもん。いいよ、明日から一人で宿題するから! 宙なんか、いつものように先生に怒られれば?」
 そう言い放つと、芽依は宙に背を向けた。かすかにすすり泣く声が聞こえる。
 レーベル達への危険を拭えるのは嬉しい。しかし、これでは宙自身があまりにも……
「で、でも!」
 傘も差さずに回り込むと、芽依の手を強く握る。
「せめて一緒にしようよ。ほら、僕、芽依と一緒の方が楽しいし」
「……それで?」
「だからその……」
 目を充血させた芽依をまっすぐ見据えるが、すぐに言葉を詰まらせた。ここで彼女の家で、と言っても解決にはならない。本音を言うと、また寝坊しそうで怖いのだが。
「ああ、もう!」
 頭をかきむしり、雑念を捨てた。再び芽依を直視する。
「やっぱり僕んちに来て。今日みたいに」
 それを聞いてほっとしたのか、芽依に笑顔が戻る。結局言い負かされたのだと気付くが、これが男の性だとあきらめるしかない。
「もう疑わないでよ」
 ほっとしたせいで口を割って出た言葉に、芽依の信じられない答えが返ってくる。
「最初から疑ってないよ。だってねー、宙が女の人を連れ込むなんてあり得ないって。大方、新しいのでも買ったんじゃないの?」
 けろっとした顔で言うと、呆然とする宙の横を通り過ぎて道路に出た。
「また寝坊するかもしれないから、明日はお昼から来るね」
 何気に声が弾んでることに宙は気付く余裕がなかった。芽依の足音、匂い、気配が消えた頃になってようやく思考が働きだす。そして、意味も分からぬ言葉を胸中で呟いた。
 ――この女狐め……

「ぎゃはははっ、何なんだこの三流青春ドラマは」
 赤毛の青年がテレビ画面を指さしながら大笑いしている。それを遠目で見ながら、レーベルはため息を吐いた。
 雨に打たれたまま呆然とする少年。五分以上突っ立ったままでいる。
 それは数時間前のことだ。アスレッソを中心に自分の部下達がテレビを囲んで何かを見ていた。気になって近づくと、画面には宙と一人の少女が映っていたのだ。少女の方は見覚えがない。会話の端から、宙が言っていた能代芽依だと気付く。アスレッソ達がいつの間にか監視カメラを取り付けていたのだ。
 後で回収しようと思いつつ、今は傍観する。宙が真剣に悩んでいたのが気になったからだ。
 ドアの側の壁に背中を預け、しばらく様子を見ていた。
「みんなで集まって何してるの?」
 部屋に戻ってきたアルがレーベルに聞いた。横に並ぶ彼女に視線を向け、苦笑いを浮かべる。
「あいつらが宙を監視してるんだよ」
「ふーん」
 あまり興味がなさそう返事だ。
「後で懲らしめておいてね」
「お、おう」
 無感情に言うと、アルはその場を離れていく。レーベルは慌てて後を追い、隣に並んで歩きながら話しかける。
「なあ、アル」
「なあに?」
「あの娘、宙が言ってた娘だろ?」
「そうみたいね」
「心配じゃないのか」
 心外そうな顔をするアル。レーベルはおかしなことを言ってないのに。首をかしげて考え込むが、思い当たる節はない。
「大丈夫よ。芽依ちゃん、いい娘みたいだし」
 まるで見て来たかのように言う。アルが部屋に入らず廊下にいたのは、二人の様子を見ていたからなのだろう。それに気付き、彼女の周到さに呆れた。慌てて部屋に逃げ帰ったレーベルとは大違いだ。
 それから何時間経ったのか、アスレッソ達の様子に変化が起きた。話し声から、芽依が帰るのだと知る。彼らの側に行き、隙間から画面をのぞき込んだ。そこで見たのが、雨に打たれながら呆然と立ちつくす宙の姿だった。
「いや、なかなか面白い三文芝居じゃな」
「俺ならもっとうまくするぜ。ああ……麗しのアルと……」
「そんなくだらないこと言ってる場合じゃないわ」
 突然割って入ったアルに、その場にいた全員が慌ててスペースを空ける。予期せぬ人の登場に驚いたのか、誰もが口をあんぐりと開けていた。
「みんな、ちゃんと見てたの?」
 強い口調で言い、アルはアスレッソ達を見る。誰もが迷ったあげくに、顔を見合わせながら頷いた。そんな彼らをキッと睨む。
「私達の置かれた状況が分からないの? 芽依ちゃん、これから毎日来るのよ!」
 アルの言うとおりだ。その事実に今まで気付かなかった彼らも、状況を理解する。不安を口にし、混乱が広がろうとした。その矢先のことだ。
「やっぱり、あの巨人の子供、俺達を裏で売ったんだな!?」
 そんなケナスの言葉がきっかけで、いっそう騒ぎ立てる部下達。逃げる算段をする者、宙を倒そうと叫ぶ者、そんな暴徒と化した彼らの隙間からパトリシアが出てきた。それを見てレーベルは目を丸くする。出てきたことに驚いたのではない。この集まりの中にいたのが信じられなかった。
「珍しいな、パトリシアがみんなの輪の中にいるなんて」
「いえ、他の地球人を見る機会は少ないので」
 それだけ言うと、すぐに側を離れた。口を挟む隙もあったものではない。
 暴徒はアルの制止を振り切って行進を始めた。呆れる暇もなくレーベルは立ちはだかる。
「レーベル大佐、どいて……」
「冷静になれ!」
 一喝すると、暴徒は怯んだ。興奮していても指揮官に反応するのは、やはり彼らは軍隊なのだ。
「宙は俺達を売ってない。彼女を泣きやませるには仕方なかったんだ」
「分かるもんか。どうせあれは演技なのでしょう?」
「そんなわけあるか!」
「じゃあ何だって言うんですか」
 集団の中から一歩踏み出していったのはケナスだ。どうも彼は、レーベルに意見することが多い。苛つく気持ちを抑えて、レーベルは言う。
「逆に聞くが、お前はあの歳で大勢の大人を騙す演技力があったのか」
「そ、それは……」
 ケナスはたじろぐ。
「俺達の立場上、常に警戒してなければならない。それは分かるが……他意があったとしても、宙は俺達に手を差し伸べてくれた」
「だけど、宇宙船が壊れたのもあいつのせいだぞ」
「それも悪気はないだろ?」
「……くっ……」
 口では勝てないと悟ったのか、ケナスは悔しげに唇をかむ。だが、暴徒が治まる気配は未だに無い。いつレーベルをなぎ倒していくか、分かったものではない。
 一緒に抑えてくれる人がいないのか。そう思って周囲を見渡すと、パトリシアとシェリルが並んで傍観しているのを見つける。パトリシアは素早く目線をそらし、シェリルはにやりと笑う。何かをたくらんでいるのは一目瞭然だ。
 ため息を吐くと、集団の脇からアルが顔を出した。助けを求めようと声を出しかけ、はたと気付く。アルに引っ張られてアスレッソも出てきたのだ。
「さっさと歩く! 少佐は副官なんだから暴徒を治める義務があるでしょ」
 レーベルの横に来ると、アルはアスレッソを前に突き出す。老人は前のめりに倒れ、あごを打ち、芋虫のような格好で悶絶した。アルの言う義務を果たせぬまま。
 どっと笑い声が上がる。腹を抱えて笑い、しまいにはその場に座り込んだ。抗議運動は一時的だが終息する。
 前言は撤回だ。アスレッソは十二分に義務を果たした。本人にとっては不本意だろうが。
「アル、さっきの続きをお前の口から言ってくれ」
 それが上官としての命令だと理解したのか、表情を強張らせる。
「私が言いたかったのは、芽依ちゃんが毎日来るようになった時の危険性についてです。宙くんの性格なら心配はありませんが、彼女は察しがいいです」
「その根拠は?」
 レーベルが問うと、アルはなぜか頬を赤らめた。
「だって……シャンプーの匂いで女性がいると分かるんだもの。あれって、私のシャンプーなんだよねー」
 妙に嬉しそうに言う。
「だってさー、レーベルってぇ、全然気付いてくれないんだもん。地球に来てから変えてみたのに」
「ちょっ、い、今言うことじゃないだろっ」
 慌ててアルの口を塞ぐ。だが、時すでに遅し。異様な殺気を感じておそるおそる見ると、ケナス達がレーベルを睨み付けていた。そこには軍隊の規律など存在しない。殺戮の予感だけがあった。
 ごくりと息を呑む。アルを抱えたまま後ずさる。
 ずりっ
 全員が同時に動いた。離れた分だけ距離をつめる。
 背中に堅い感触がする。ちらりと振り向くと、壁があった。これ以上逃げられない。
 一つだけ分かっているのは、彼らはアルのファンであり、彼女を傷つける可能性がある以上襲っては来ない。
 人質にしているようで申し訳ない。しかし、離れれば自分の命が危ない。だが、睨み合いをしていても埒があかない。
 ちらりとアルを見る……はずが、釘付けになった。口元が引きつるように震えていたのだ。耳を澄ませば聞こえる笑い声。
 なぜ今まで気付かなかったのか。レーベルは愕然とし、知らぬ間にアルを解放していた。
 アルがそっとその場を離れ、視界から消える。代わりに映ったのは、一斉に襲いかかる暴徒の姿だった。レーベルはその場で膝をつき、天井を仰ぐ。もし神が存在していたら、まず間違いなく恨んでいただろう。
 彼らが今にもレーベルに掴みかかろうとした時、突然ドアが開く。その予期せぬことに、全員が凍り付いた。おそるおそる視線を向けると、巨大な丸い物体が顔を出す。それは人の形をしていた。
 驚きのあまり、口をあんぐりと開けたまま静止する。よく見ると、宙がそこにいたのだ。
「どうしたの、みんなで」
 宙は周囲を見渡し、首をかしげる。なぜ固まっているのか理解できないのだろう。レーベル自身も、なぜ驚いたのかすぐには分からなかった。
「もう帰ったから大丈夫だよ」
「あ、ああ、そうだったな」
 不意に出た言葉に、宙が眉根を寄せた。
「何それ、帰ったの知ってるような言い方だよ」
 その的確な疑問に、レーベルはぎくりとして思わず視線をそらした。
「あーいや、それはだな……」
「わしは盗撮なんぞしておらんぞ」
 アスレッソがぼそっと言う。危うく聞き逃しそうになるところだった。レーベルはアスレッソを睨み付けて叫ぶ。
「って、おいバカ! 何で本当のことを言うん……だ……?」
 そこまで言ってから、自分が墓穴を掘ったことに気付いた。宙に視線を戻して表情を繕う。当の本人はレーベル一度だけ睨み、視線を周囲に巡らせた。数秒後に動きを止め、ある方向を見据える。レーベルも同じ場所を見て愕然とした。テレビ画面に玄関が映されたままだったのだ。
 宙はずかずかと部屋に入り、画面の前で立ち止まる。しばらく黙り込み、肩を落とした。
「……ごめん、断り切れなくて」
 レーベル達に怒るよりも、自分の不甲斐なさが許せない。背中越しでもその気持ちが伝わってくる。
「宙くんは頑張ったよ。誰も恨んでなんかいないって」
 いつの間にか宙の側にアルがいた。彼女は優しく、包み込むような調子で宙を慰める。こういう時にレーベルは無力だ。かける言葉が見つからない。
「……ありがとう」
「今日ぐらいは無理しなくていいのよ」
「うん……でも、明日からのことを考えとかないと」
「強いんだね」
 満面の笑みで語りかけるアルに、宙はぎこちない笑顔を向ける。
 そんな二人のやりとりを見て、宙を疑う者はいないだろう。いたたまれなくなり、ほとんどが自分の持ち場に戻っていく。ケナスだけは鋭い眼光をレーベルに向けて。
「アスレッソ」
「なんじゃ、大佐」
「カメラ、全部外しておけよ」
「わしが一人でか?」
「それが望みなら、そう命令するぞ」
「それは勘弁じゃーーーーーっ」
 慌てて去っていくアスレッソの後ろ姿を適当に見据える。明日からはさらに大変になると思い、レーベルは肩を落とした。