トントン……
 何かを優しく叩くような、とても小さな音だった。二度三度聞いていると、その音が徐々に大きくなっていく。
 俺はどこか息苦しさを感じながら、重いまぶたを開ける。切れかけた蛍光灯の薄明かりが部屋の中を不気味に照らし出していた。ベッドにしがみつくようにして寝ていたことに気付き、体を起こしてその場に腰を下ろす。カーテンが閉じていて日差しも入らず、今が何時なのかさっぱり分からない。
 部屋はさほど広くなかった。ベッドやタンスなどの家具で埋められ、それだけで歩くスペースがほとんどない。かろうじて歩けるのは俺がきれい好きだからだ。ゴミを散らかすこともないし、荷物は常に整理整頓されていた。人生そのものはさほどこだわらなかったのに、整理だけはこだわっていた。今考えると不思議ではあるが。
 トントン……
 それはもう何度目だろうか。ぼーっとする頭にむち打って考えてみる。記憶が希薄なせいか全く思い出せず、かろうじてノックの音だと理解した。誰かが訪ねてきたのは分かるが、わざわざ家まで訪ねて来る知り合いはいない。新聞の集金か、借金取りぐらいしか思いつかなかった。
 ――だりいな……
 体を起こそうとテーブルに手をつこうとした。が、何にも触れられずにバランスを崩し、横に倒れ込む。視界がひっくり返る中、茶色い何かが目の前を通り過ぎた。明らかにぶつかっていると意識するほどの距離で。
 あまりの驚きに体が硬直し、視線だけ天井に向ける。天井は思いのほか低く――というより、すぐ近くにあった。さっきまでの薄明かりも、狭いなりにある空間も無い。まるでテーブルの底を床から見上げているみたいだ。いや、目の前にあるのはテーブルに間違いない。何が何だか分からず、客が来たことも忘れて考え込む。
 前後の状況から推測される答えは一つ。確率論から言うと物理的には可能だと言われている。だが、さすがの俺でも天文学的数字の低確率を鵜呑みにするほどバカではない。タイミングが合えば壁さえもすり抜けられるなんて。やはり、答えは……。
 仰向けになってじっと見つめると、そっと手を差し出した。ぶつかる瞬間、少し躊躇しながら触れてみる。
 ――あれ、何で?
 目をぱちくりさせてその光景を見る。何の抵抗もなく、指先の半分ほどが埋もれていた。はまっているわけでもなく、自分の意志で手は動く。まさかと思いながら、今度は体をゆっくり起こす。
 テーブルが視界いっぱいに広がると、思わず目をつぶった。ぶつかる、ぶつかると何度も念じたが、またぶつからない。テーブルをすり抜けて起きあがり、目を開いた時にはさっきと変わらぬ光景があった。
 視線を落とすと手の平を見据え、幾度となく握っては開く。確かな感触があるのに、テーブルに触れることさえできない。俺の体はどうしてしまったんだろう。
 気付いた時にはノックも止み、再び静けさに包まれる。その直後、不意に覚えた浮遊感に驚いて思わず立ち上がった。ふわっと浮き上がるかのように。
 立ち上がるのさえ嫌なほど体が重かったはずなのに、今はやけに軽い。突然足下の圧迫感が消え、不思議に思って下を見る。しかし、地についているはずの足が見あたらない。それもそのはず、体が宙に浮いていたのだ。後れて足がないことに気付く。僅かだが体が薄い。これじゃ、まるで……。
 ――そんなことはない!
 首を振って必死に否定する。そう、これは夢なのだ。そうとしか考えられない。
 いくら言い聞かせても至った結論を消し去ることはできなかった。その一番の原因が今も下にある。ベッドにしがみつくようにして寝ている人、その男こそが俺自身だからだ。わずかに肩にかかるほどの髪、ぼさぼさ頭、袖付けが破れかけた黒のスーツ、切れ長の目、形の整った顔。少しやつれて見えるのは苦労の絶えない人生だったからだろう。それらは背中越しから個人を判別出来るほどの証拠ではない。だが、そこにはさっきまで俺自身が寝ていた。その男と寸分違わぬ場所で。
 そう、俺は死んだのだ。今は幽霊になり、自分の死体を見下ろしている。なぜこうなったのか、いくら考えても思い出せない。
 ぐったりとして項垂れていると、ドア越しに女性の声がする。
「ねえ、いるんでしょ」
 二十代半ばぐらいだろうか。それはとても優しげな声だった。とても聞き覚えのある、俺に温もりを与えてくれる……。
 ――香織……何で?
 ただでさえ混乱しているのに、追い打ちをかけるように彼女が現れた。これから何が起きても動じないのではないか。そんな不思議な自信を抱く。
 香織のことはよく覚えているし、忘れるはずがなかった。物心付いた時には近所にいた、活発で可愛らしくて――とても優しい子、それが彼女だ。
 幼稚園の頃から仲が良く、大学まで一緒だった。成長していくに連れ、香織を意識していく。気付いた時には彼女に恋をしていたが、気持ちを伝えられずにいた。卒業してからも、時には飲みに行ったりと今でも仲良しだ。ただ、今は彼女と顔を合わせるのが辛い。
「ねえ、いないの、洋平! さっきからノックしてるのに……洋平、いるんなら返事してよね……」
 今にも泣き出しそうな言い方で俺の名前を呼ぶ。俺は無意味だと分かっていながら、吸い寄せられるように玄関に行く。
 洋平――「分け隔て無く誰にでも優しい人間になるように」そんな思いを込めて母親がつけてくれた名だ。だが、俺はそんな人間にはなれなかった。何かにつけて反発し、会社の上司ともケンカしてクビにされたばかり。いい加減、生きてることに嫌気が差していた。そして……死のうと考えた。
「私ね、心配だったの。今日のあなた、変に思い詰めてるようだったから」
 まるで会っていたような言い種。だが、確かに彼女を誘って出掛けた記憶がある。
 ――あ、そっか。俺、香織と飲みに行ってたんだ。
 何か辛いことがあると、彼女と一緒に行きつけの居酒屋に行く。そこは学生の頃からの馴染みで、昔の仲間と会うこともしばしば。彼女はいつも俺の愚痴を聞いてくれて、ただ笑いかけてくれた。振り向いてくれなくても、笑顔を見てるだけで幸せだった。ほんの数日前までは。
 あれはいつだったか。何気なく散歩していた日、昼過ぎに彼女を見かけた。いつものように話しかけようとしたが、すんでの所で思い留まる。香織の横に見慣れない男がいたからだ。二人は笑顔を絶やさず、とても楽しそうに見えた。俺なんかが入り込める隙間が無いほどに。いたたまれなくなり、逃げるようにしてその場から立ち去った。そして、今日になり――
 ふと時間が気になり、部屋中に視線を巡らせる。見つけた時計は午前一時を指していた。酔っていたからはっきりしないが、帰ってきたのはほんの三十分前だ。
「途中で別れて家に帰ったけど、どうしても気になって。すぐに来たんだけど……まだ帰ってきてないのかなぁ」
 今日、彼女を誘ったのは他でもない。一緒にいた男のことを聞こうと思っていたからだ。彼氏じゃないよ――その言葉が聞きたくて。
 結局、喉の奥につっかえて言葉に出来ず、そのことを考えてばかりでほとんど喋らなかった。自分に度胸がないことを悔やみ、いつも以上のペースで酒を飲み干していく。そんな俺の行動を不審に思ったのだろう。気の利く彼女なら心配するのも無理はない。しかし、そんな彼女の優しさに気付かなかった。気付けなかったのだ。それほどまでに俺の心はすさみ、余裕をなくしていた。
 家に帰った俺は、迷わず薬箱から睡眠薬を取り出す。不眠症を患っていたから常備していたのだ。通常なら一粒で充分だが、掴めるだけ掴んで一気に飲み干した。そんなことをすればどうなるか、正常な判断が出来たかどうか分からない。でも、その時は死にたい衝動に駆られて迷わず飲んでいた。
 しばらくして酷い眠気に包まれると、間を置かずに胸が締め付けられるような痛みが襲ってくる。そのままベッドにしがみつくようにして倒れ込んだ。シーツを力の限り握りしめる。その傷みで紛らわそうとするが、苦しさは治まらない。悪化の一途をたどり――気を失った。
 それから少しして目を覚ました。とはいえ、幽霊としてだが。
「ホントにいないのかなぁ、洋平……あれ?」
 不思議がる声と共に、ガチャリと音がした。
「何で開いてるの? もう、不用心なんだから。私が泥棒だったらどうするつもりなの」
 彼女の呆れ顔が手に取るように思い浮かぶ。そういえば、家に着いた時、鍵のことなんか全く頭になかった。考えていたのは嫌気が差した人生のことだけ。
 軋む音を立てながらドアが少し開く。香織が隙間からちょこんと顔を出した。腰まであるきれいな長髪、優しげな目、艶めかしい唇、形の整った顔、絶やさぬ笑顔。その全てが思い浮かんでいたとおりの可愛らしい顔だ。そんな彼女の表情が見る見るうちに険しくなっていく。
「……え? 洋平……? 洋平!」
 ドアを蹴破るかのように激しく開けると、横たわる俺の元に駆け寄る。その後ろをふわりと付いて行きながら思った。あんなに慌てる彼女は見たことない、と。
「よ、洋平! ど、どうしたの?」
 香織は俺の体を仰向けにし、反射的に脈と呼吸を確認した。止まっていることに驚き、表情がさらに険しくなる。忙しげにきょろきょろし、何かを探しているようだ。目ににじむ涙を堪えながら、テーブルの上に無造作に置いてある俺の携帯を掴む。
 こんな時にどこに電話するのだろうか。彼氏のところだろうか。そんな不謹慎なことを想像してしまう。
 はたから見てるとまるで他人事にしか感じられなかった。それに、もう死んでるのだから自分のことのように考える方が難しい。状況から考えれば察しが付くだろうに。
 電話の向こうの人と、ほとんど悲鳴を上げるように喋っている。俺の体の状態を話してるのが聞こえる。ほどなくして、彼女は電話を抱えたまま俺の応急処置を始めた。人工呼吸、心臓マッサージ――素人に出来ることは限られている。それだげではおそらく命は救えない。そう判断し、彼女の必死な処置をどこかあざけり笑っていた。だが、彼女は一向に諦める気配を見せない。
 ――香織……どうして……?
 彼女はそういう人だ。何事にも一生懸命で、何だかんだ言っても俺のことを支えてくれた。そんな彼女の優しさが、余計に胸を締め付ける。
「何で……何でこんなことになったの……?」
 弱々しい声で嘆き、今にも泣き出しそうだった。俺にはもう答える術がない。死人は何も語らず、残された人に悲しみを与えるだけ。だが、出来ることなら抱きしめてやりたい。許される行為ではないと分かっていても、無性にそうしたかった。
 どれだけ時間が経ったのだろう。救急車のサイレンにはっとして時計を見た。通報から十分ほど経過し、家の外が騒がしくなる。
 開けっ放しのドアから数人の救急隊員が入ってきた。一人が香織を優しく引き離すと、彼女に状況確認する。他の隊員は俺の症状を確認して担架に乗せると、足早に部屋から運び出した。
「では、一緒に来て頂きますが……」
「……はい。お願いします」
 救急車に向かう彼女に付いていきながら、ふと不思議に思った。結果が分かっているのなら付いていく必要はないのに。
 その答えに辿り着く前に救急車に乗り込む。ガタガタと揺られる中、ぼーっとして宙に浮いていた。することといえば、悲しみに沈む彼女の顔を見つめるだけ。
 救急隊員の手際は見事なものだった。ただ、全員の表情は険しく、助かる可能性の低さが見て取れる。香織はその光景をじっと見つめていた。助かることを一身に願ってるかのように。
 ふいに窓の外を見ると、大きな病院がすぐ側まで迫っていた。
 ――ここなら解放してくれるんだろうか……彼女の苦しみを。
 俺さえいなくなれば彼女が苦しむ必要もなくなる。それを自分が与えておきながら、今さら願うのは無責任だ。だが、これ以上彼女の苦しむ姿を見ていられない。
 そう考えていた俺の耳を、信じられない言葉が突き刺さる。
「……私じゃ駄目なんだ……私じゃあなたの苦しみを消せないんだ」
 いつの間にか握っていた俺の手に、ポタリとしずくが落ちる。今まで堪えていた涙が、頬を伝って流れ落ちていく。くしゃくしゃになりながら無理に笑顔を作り、弱々しい姿を隠そうとする。なぜ彼女はそこまで強がろうとするのか。
 俺の前ではけして見せることがなかった一面。考えてみれば分かることだ。彼女だって俺と変わらぬ一人の人間。時には弱さを見せることだってある。それすら気付かずに彼女の優しさにすがっていた。
 唯一安らげる場所だと思っていたのは、彼女の努力の元に成り立っていた。彼女が一番頑張って……苦しんでいたのだ。俺の苦しみを和らげようと今まで必死に。
 ――それなのに俺は……
 揺れが止まったと思うと、ガタンと音を響かせながらフロントドアが開く。すぐさま運び出された先は病院の玄関。何の躊躇もなく入ると、看護師に先導されて手術室に向かった。時間が時間だけに、普段はごった返す廊下も人通りがほとんどない。何の邪魔もなく手術室に入るとドアが閉められ、手術中の文字が赤い光に照らし出される。すぐ側の椅子に腰掛けた香織の隣で俺は止まり、彼女と同じように正面を見据えた。俺の体が入っていった部屋を。
 ――取り返しの付かないことをしてしまったんだろうか、俺は……
 今さらになって後悔の念が芽生える。
 廊下は完全に静まりかえっていた。部屋の中から微かな物音が聞こえるぐらいで、人が通ることもない。せめてもの救いは急患が来ないことか。だが、それがいっそう静けさを際だたせる。あれから香織は一言も喋らない。長い時間じっと黙っているような錯覚に囚われる。壁掛け時計で確認すると、十分ほどしか経っていなかった。
「洋平……」
 蚊の鳴くような声に耳を傾けた。彼女は誰に話しかけるわけでもなくしゃべり始める。
「私ね、楽しかったんだ。洋平と一緒にいれて」
 ――俺もそうだよ。
 俺自身も、なぜか無意味な相づちが口を割って出ていた。
「私達、ずっと仲良しだったよね。楽しいことも辛いことも一緒に……それが出来なくなるのは寂しいな。やっぱりこれからも一緒に……」
 彼女は顔を曇らせ、首を横に振る。
「ううん、駄目だね……私が頼っちゃったら。だって洋平、甘えん坊だからね」
 返す言葉もない。本当に頼り切っていた、ほとんど一方的に。
 気恥ずかしさを覚えてそっぽを向く。今さら恥ずかしがることでもないが、改めて言われるとは思わなかった。
「ずっと前から知ってたんだよ。洋平って私のこと好きだったんだよね」
 ――え?
 急いで振り返ると、少しばかり微笑む香織を見る。まさか知っているとは考えてもみなかった。そう思うと、彼女の表情が意地悪い笑みに見えてきた。
 彼女は視線をこちらに向ける。ドキリとして思考が固まる俺のことは無視して――幽霊なんだから見えてないだろう――言葉を続けた。
「何で知ってたんだと思う? とっても簡単なことなのよね。だって、あなたが好きになる前から私……洋平のことが好きだったから」
 それは何かの間違いだと思った。俺の頭を支配したのは驚きばかりで、それ以上のことは考えられなかった。
「ずっと洋平のこと、見てきたから……すぐに気付いたよ、私を見る目が変わった時はね。だって、やらしいんだもん。私って、こんなにやらしそうな人、好きになったんだな……って」
 香織はその時のことを思い出したのか、少し声に出して笑った。俺は慌てて自分の手で顔を確認してしまう。それで分かるわけないのだが、つい。
「洋平は私のこと気付いてなかったのかな……って、知ってるわけないよね……。あーあ……私が悪かったのかな。ちゃんと繋ぎ止めてればこんなことにならなかったのに……」
 視線を前に戻しながら、再び表情を曇らせる。うつむく彼女にかける言葉が見つからない。
 彼女はこれからずっと寂しさを秘めたまま生き続けるのだろうか。それとも、他に愛すべき人を見つけて幸せになるのだろうか。どちらにしろ俺は見守るしかできない。その道を自殺という形で選んでしまったから。でも……。
「……私も……洋平に付いていこうかな……」
 ぼそっと言う。聞き逃しそうなほど弱々しく。
 俺ははっとして彼女を見る。今にも消えそうなほどはかなく、肩が震えていた。涸れたはずの涙があふれんばかりににじみ出てくる。必死に堪えていたが、膝に落ちるのを止められなかった。
 ――やっぱり、俺……
 俺は香織の前に行くと、何度か躊躇しながら彼女の肩に触れる。手はすり抜けて空を切った。何度も何度も繰り返す俺の目にも涙がたまる。がくがくと震えながら涙をぬぐうと、背中に手を回して抱きしめた。感触も温もりも伝わってこない。それでも必死に抱きしめた。
 俺は一人で苦しいつもりでいた。いつも誰かに慰めてもらおうとしていた。それがたまたま香織だったのかもしれない。ただ自分の寂しさを埋めようと彼女を欲した。彼女の気持ちなど考えず、愚痴ばかりを言っていた。聞いてくれていたからそれでいいと思っていた。でも、それは間違いだった。
 香織は今にも狂いそうなほど苦しんでいる。それを招いたのは俺自身だ。何でそのことに気付けなかったのだろう。今さら気付いても俺はもう……。
 それでもやっぱり香織を失いたくない。叶わぬ願いだとしても、やっと大事なことに気付けたのだ。長い間俺を支えてきた彼女を、今度は支えてやりたい。本当の意味で彼女を愛したい。不可能だとしてもやっぱり……。
 気付けば、俺の体が徐々に薄れていった。ついに消える時が来たのかもしれない。そう思ったが、不思議と恐怖はなかった。視界も薄れ、しだいに何も見えなくなる。感覚もなくなり、残った希薄な意識の中で強く願う。
 ――生きたい……!
 目が覚めた時には目の前に香織の姿があるだろう。そう確信して……ゆっくりと意識を閉ざしていく。彼女の笑顔を思い浮かべながら。