降る雪は悲しみの欠片

 プロローグ


 開け放たれた校舎の玄関から冷たい風が流れ込み、俺は思わず身震いした。いっそう厳しくなる寒さに身が凍り付きそうだ。
 冬も深まる二月、俺は残り少ない中学校生活を楽しむため、寒空の下をわざわざ登校してきた。別段、勉強が好きというわけでもなく、正直な話、恋人の片倉遠香に会うのが目的である。遠香は一つ年下の後輩で、小さい頃からの知り合いだ。小学生の頃によく遊んでいたのを思い出し、顔がほころんだ。
 俺が遠香よりも一年早く中学生になると彼女とは疎遠になり、会うこともなくなった。一年後、中学で再会した時、遠香は見違えるほどキレイに、儚げな笑みを湛える女性になっていたのだ。およそ中学生とは思えないほど大人びていた。そんな遠香に心を奪われ、彼女も俺を好きになり、恋人となるまでさほどの時間を必要としなかった。
 午後の授業も終わり、俺は玄関で遠香が来るのを待っていた。いつものように一緒に下校するためだ。
 風がいっそう冷たさを増し、校庭ではちらほらと雪が舞い始めた。厚着していても寒さが身に染みる。今朝の天気予報でマイナス三十度の寒気団がどうのと言っていたのを思い出して後悔していると、親友の鴨居悠人が顔を出した。
 悠人はそのひょうきんな性格から、常にクラスの人気者だ。彼も遠香と同じく幼馴染みで、幼稚園の頃からの付き合いでいわゆる腐れ縁だ。
「一輝、今日も遠香ちゃん待ちか。お前達は本当に仲がいいよな」
 そんな軽口を叩きながら隣に並ぶ。
「二人が付き合い始めてもうすぐ二年か……お前達は昔からいつも一緒だよな。本当に羨ましすぎるよ」
「用事がないならさっさと行けよ」
 冷たく言い放つと、悠人はなぜか不敵な笑みを浮かべた。
「残念ながら用事はあるんだよ。俺じゃなくて彼女がな」
 悠人に促されて姿を見せたのは、遠香の親友の橋本優奈だった。それほど話したことはないが、知らぬ仲ではない。それなのに、俺に対してはよく冷ややかな目をする。嫌われるようなことをした覚えはないのだが。そんな彼女が不安げな表情をしている。少し訝しみながら促した。
「相原先輩、最近の遠香……少し様子が変なの。今日も教室でずっと暗かったし、それとなく聞いてもらえませんか」
「遠香の様子か……俺の前ではいつも通りだったが」
「彼氏には心配をかけたくないんじゃねえの。遠香ちゃんも健気だねぇ」
 橋本は軽い調子の悠人をきっと睨み、すぐに視線を戻した。
「私が聞いても教えてくれないの。相原先輩、遠香のことをよろしくお願いします」
 そう言うと橋本は軽くお辞儀をして校舎を出て行った。俺は彼女の後ろ姿を見据えながら、遠香に思いを馳せる。最近の遠香の様子を思い出してはみるものの、笑顔ばかりで悩む顔も思い詰める素振りも浮かばない。
「教室まで迎えに行ってやれよ。ちょっとした気遣いが嬉しいこともあるぞ」
「そうしてみるか」
 考えても仕方がないと感じ、遠香のクラスまで様子を見に行くことにする。そうして歩き始めた時だった。
 校庭が騒がしくなり、気になって振り返る。すると、帰宅する生徒が校庭に止まり空を見上げていた。その中の何人かが甲高い悲鳴を上げる。尋常ならざる何かが起きているのは間違いない。俺も校庭に出ようとして野次馬の一言に足を止めた。
「あれは二年の片倉じゃないのか。屋上の柵の外に出てるなんて、飛び降りる気か」
 二年の片倉? 屋上? 飛び降り?
 それは何の冗談だろう。それはまるで遠香が飛び降り自殺を図っているかのように聞こえる。まさか遠香がそんなことをするなんて。いつも俺に笑顔を向けていた彼女が飛び降りだなんて考えられない。それでももしそれが本当なら……。
 嫌な予感を振り払い、俺は校舎の奥へと駆けていく。「廊下を走るな」と言う教師の怒号を無視し、階段を駆け上がった。二階、三階と上がり、さらに上を目指す。永遠に辿り着けそうにない気がして、不安が膨れあがっていった。

 遠香、早まるんじゃないぞ!

 あまりの苦しさに息が詰まりそうになりながらも最後の段を上り終えると、鉄製の重い扉を力任せに開けて、屋上に出た。前屈みになり息を切らせながらも、視線だけは前に向ける。その先には良く見知った顔があった。
 呼吸を整えながら、柵の向こう側に立つ少女を見据える。舞う雪に包まれる様は幻想的で、瞬きするだけで消えてしまいそうな、触れることさえ許されぬほど弱々しく、儚く思えた。
「遠香、何でそんなところにいるんだ」
 少女はゆっくりと振り向き、無表情だった顔に笑みを点した。その少女はまごうことなく恋人の片倉遠香だった。
 なぜ彼女が屋上に、柵の外側に立っているのか。今日だって昼休みに一緒に食事し、他愛のない会話をし、下校を共にする約束をした。それなのに、今はここにいる。一歩踏み外せば死ぬかも知れない、そんな危険な場所に。
「遠香、すぐに側に行くから、そこでじっとしていろよ」
 不安にかき立てられながらも、ゆっくりと遠香に近付いていく。後二メートルというところまで近付いた時、彼女の笑顔に陰りが見られた。思わず立ち止まり、息を呑む。だが、言い知れぬ不安をすぐに振り払い、片足は踏み出した。
「それ以上来ないで」
 普段の遠香からは想像できない冷たい口調に、体が固まった。次の一歩が踏み出せない。
 遠香の表情はすぐにいつもの笑顔に戻る。
「先輩、それ以上近付いたらすぐに飛び降りるからね」
 柔らかな口調とは正反対のとげのある発言に驚き、足が竦んだ。この状況を目の当たりにしてもなお、遠香が何をしようとしてるのか理解出来ない。いや、とうに理解していたが、その事実から目を背けていたのだ。
「先輩、私……今まで凄く幸せだったよ。今もこうして私を心配して来てくれたもの。ホントに幸せよ」
「それなら戻ってこい」
 俺の言葉に、首を振って答える。
「ううん、もうそっちには行けないの。これから私はずっと遠くに、先輩の手の届かないところに行くから。だから先輩とはもうお別れよ」
 今にも消えて無くなりそうな、弱々しい笑顔を浮かべた。
「もう私は生きていられない。これ以上先輩の優しさに触れていたら……きっと壊れてしまう。そんな自分を先輩だけには見られたくないの」

 なぜ? どうして?

 そんなことばかりが頭に浮かび、消えていった。その時に彼女が何を言ったのか、俺が何を答えたのか、よく思い出せない。遠香が自殺を決意した理由は何だったのか。ただ、最後の言葉だけは今でもはっきりと覚えている。

 先輩が悪いんだよ……

 そう言って、遠香は儚げな笑みを浮かべた。そして、ゆっくりと宙に身を任せたのだ。俺は無我夢中になって走り、彼女の体を抱きとめようと手を伸ばす。遠香も俺の手を掴もうとするが、空を切り、彼女の体は地面へと落ちていった。
「遠香ーーーーーーー!」
 柵に身を乗り出しながらその様を見続けた。校庭からは悲鳴が上がる。それはまるで断末魔のように響き渡り、俺の心を奈落へと突き落とした。
 地面に打ち付けられた遠香の体はそれからぴくりとも動くことはなかった。何度も彼女の名前を叫び、その場に崩れ落ちた。この時の俺にはただ泣くしか出来なかったのだ。
 いつも傍にいて笑っていた少女はもういない。頬に当たっては溶けていく雪のように、俺の手からこぼれて消えた。もう抱きしめることさえ出来ないのだ。
 遠香のいない世界……その現実を突きつけられた俺は、ただただ逃避するべく自分の殻に閉じこもった。

 この日を境に、俺は人と深く関わることを止めた。人を愛することも、自分を愛することさえも……。
 中学三年の冬、俺は絶望と言う名の永遠を知った――



   第一章


 遠香が自殺して二年が経つ。
 あの時から俺の人生に狂いが生じ、家族や友人に多くの心配をかけた。それは今でも変わらず、遠香が最後に見せた儚げな笑みが脳裏に焼き付き、俺の心を蝕み続けている。
 二年前の俺は彼女を救えなかったことを嘆く間もなく、“受験”という社会の荒波に飲まれていった。夢があるとか期待に応えるとか、尤もな理由は何一つ無い。ただ、遠香のいない世界を直視しないように自分を追い込んだ。気持ちが張り詰めてさえいれば悩むことはないからだ。
 だが、受験も終わり、心にゆとりが出来たことで緊張の糸が切れてしまう。気付かぬ間に溜まっていたショックによるストレスが爆発。突然のめまいと胸を締め付ける痛みに呼吸も満足に出来なくなった。受験会場で倒れた俺は、周囲が騒然とする中、病院に担ぎ込まれた。
 薬品の匂いが鼻を衝き、俺はベッドの上で目を覚ました。頭がぼーっとする中、周囲を見渡して始めて自分に何かが起きたことを悟る。
 しばらくして医者が現れた。
「君の病気は“パニック障害”です」
 聞き慣れない病名が告げられ、それでも何となく大変な病気なのだと察した。
「これは必ず完治する病気です。時間はかかりますが、一緒に頑張りましょう」
 何とも頼もしい言葉に、俺はただ頷いた。
 パニック障害は、極度のストレスにより自律神経が乱れたり、強い不安感を覚える病気だという。俺が経験した動悸や息切れ、めまいはこの病気による物だ。
 原因は一つしか考えられない。遠香を失い、それを忘れようと必死になったこと。思い返せば幾度なく息切れやめまいに襲われていた。疲れたのだと言い聞かせ、不安を押し殺してきた。それが知らず知らずの内に俺の精神を侵していたようだ。
 治療を受けながらも高校へ通い始めた。理解ある家族や友人のおかげで少しずつ回復していった。だが、人と関わることへの不安を拭えず、他人との距離は以前よりも広がっていた。自分自身それを望むかのように。
 高校二年の冬を迎え、今もなお遠香がいないことへの不安を抱いたまま発作を恐れて過ごしていた。
「あれから二年も経つのか」
 ぼそっと呟くと、目の前で弁当をつつく鴨居悠人が眉根を寄せた。
「お前が自分から口にするなんてどういう風の吹き回しだ」
「あの時のことを思いだしてな」
 そう言いながら自分の顔が苦痛に歪むのを自覚する。
「無理に話すことないって。一輝は自然のままにしてればいい」
 悠人の言葉に僅かながら気持ちが軽くなった。
 彼は常に俺のことを見守り、けして過保護にならぬように気を配ってくれる。そのおかげでこうして学校にも臆することなく来られる。だが、冬だけはどうにも苦手だ。今日みたいに寒い日はあの日を彷彿とさせた。
 ため息を吐くと、白い息がこぼれる。そこに覆い被さるように二つの影が現れた。見上げると、見知った一組の男女が立っていた。中山大誠と長津田咲希だ。二人は中学からの友人で、遠香が自殺した時にも居合わせている。数少ない俺の理解者だ。
「相原、今日の五時間目の体育はどうするんだ」
 比較的無口な中山が、いまいち機嫌の分からない表情で聞いてくる。少しだけ考える素振りをし、端から決まっている答えを口にした。
「今日も休むよ。先生には中山から伝えておいて」
 中山は分かったとだけ言うと、それきり黙った。俺達の間に沈黙が流れ、痺れを切らした長津田が口を開いた。
「それにしても今日は寒いわね。こんな日に外で体育なんて憂鬱よ」
「運動神経のいい長津田がそうなら俺はどうなる。動いただけで心臓発作か」
 珍しく軽口を叩くと、長津田が頬をふくらませた。
「何よそれ、か弱い女の子に向かって失礼よ。相原くんって、デリカシーがないのね」
「いやいや、一輝の言うことは一理ある。お前もそう思うだろ、大誠」
 悠人が中山に話を振ると、長津田は鋭い視線を彼に向けた。こういう会話に入りたがらない中山は困惑して口ごもる。彼が口下手なのは知っているだろうに。同情しながらも、原因の一端は俺にあるので、矛先が向かぬように黙って見過ごす。
 長津田に迫られる中山。知らない人が見れば虐められてると思うだろうが、実際は違う。この二人は休日に二人で出かけたりと、とても仲がいい。付き合ってるとの噂だが、本人はけして認めないのだ。俺に気を遣ってるのは明らかなので、少し心苦しい。以前、それを悠人に話すと、なぜか笑われた。そしてこう言われたのだ。
「二人とも一輝が心配なんだよ。気を遣われるのが嫌なら彼女を作れよな。それがお前にとっても良い影響をもたらすはずだ。あーあ、万年独り身の俺に出会いはないのかね」
 寂しそうに目を泳がせる悠人に苦笑いで答えながら思う。それが出来れば苦労はない、と。
 常につきまとう失うことへの不安。深く関わりさえしなければ、それに怯えることはない。遠香を失ったときのような辛い経験は二度としたくない。そんな弱い俺に誰かを愛することなど出来るだろうか。それどころか最近の俺は痛みにも鈍感で、いつ死んでも良いとさえ思っている。それでも生きてるのは勇気がないからだ。踏み出す勇気も、踏み外す勇気も。
 中山の首根っこを掴み、整った顔立ちを歪めて迫る長津田。何かを思い出したのか、視線を俺に向け、不思議そうに見つめてくる。
「そういえば、相原くん、時々痛そうにお腹を押さえてるけど、どうしたの」
「そういや、そうだな。腹の痛みも症状の一つなのか」
 いつの間にか弁当を食べ終わっていた悠人がご飯粒を飛ばしながら言葉をつなげる。汚いな、と思いつつ首を横に振った。そんな話は医者から聞いてない。
「よく分からないが、一昨日から凄く痛むんだよ。お腹の右下あたりが」
「盲腸じゃねえの。あれって不摂生が原因の一つらしいぞ。場所もぴったりだし」
「本当にそうなら早く病院に行かないと。軽い内なら手術しなくてすむそうよ」
 過剰に心配するのは長津田の悪い癖だ。それに、今は不思議と痛みは引いている。この分だと、病院に行く必要はなさそうだ。
 安心しきって気持ちが緩んでいたのだろうか。迂闊だった。何気なく視線を外に向け、いつの間にか舞っていた雪を見てしまったのだ。

 学校の屋上――頬に触れては消えていく雪――

 寒空の下、柵の外側に立つ遠香が俺に笑いかけ、口にした言葉が頭をよぎる。

 ――先輩が悪いんだよ……

 遠香の儚げな笑顔。笑っているのに、どこか非難しているような表情。俺に見せた死に際の姿が鮮明に浮かび上がる。
 言い知れぬ不安に襲われ、圧迫感に頭が支配される。めまいがし、頭を抱えるようにうずくまった。
 息が苦しい。
 呼吸が出来ない。
 胸が引き裂かれそうな異様な感覚に襲われ、立ち上がることも出来なくなる。遠香の笑顔が頭の中を巡り、今にも気が狂いそうだ。
 倒れる間際、友人達の“しまった”と言いたげな顔が視界によぎるが、こうなっては手遅れだ。症状が落ち着くまで安静にするしかないのだ。
 友人達の視線が気になり、それが余計に不安を煽る。誰もいない場所、一人になれる場所を求め、立ち上がった。ふらふらと歩き出した時、引いたはずの腹痛がぶり返す。今までにない鈍痛に顔をしかめ、その場に崩れ落ちた。為すすべもなくうずくまり、呻き声を上げる。

 病院! 救急車! 先生に?!

 友人達が傍であたふたするのも、遠くで他人が騒いでるかのように感じられた。痛みや息苦しさの中、意識が薄れていく。俺の周りに人だかりができ、しばらくして誰かに声をかけられた。意識を確認してるのだろう。何とか声を絞り出すと相手は頷き、「もう大丈夫だ」と言って俺を運んでいった。
 サイレンを聞いて初めて救急車に乗せられたことを気付く。その頃にはめまいは治まり、呼吸も落ち着いた。発作そのものは軽くてすんだようだ。だが、腹痛は激しさを増すばかり。
 俺はこのまま死ぬのだろうか。
 発作と重なったことでまともな判断力を失い、漠然とそんなことを考える。さほどかからずに病院に搬送され、検査結果を聞き、ようやくほっとした。
「腹痛の原因は虫垂炎です。炎症が進んでいるので手術した方が良いですね。よくここまで我慢できました。でも、安心して下さい。次に目を覚ました時には痛みも引いてるはずです。五日ほどの入院が必要となるので、ご家族の方は手続きをお願いします」
 医者は淡々と、実に事務的な口調で言う。それが気に入らないとか考える余裕は今の俺にはなく、必要な単語だけを記憶した。
 手術。五日間の入院。また家族や友人に心配をかけることになる。そう思うと胸が苦しくなった。その一方で、大した病気でもなく、死にそびれたことを悔やんだ。
 朦朧とする意識の中、手術室に運ばれた。数人の緑の塊を見たのを最後に意識を失い、目を覚ました時には病室のベッド上に横たわっていた。


 半眼で白い天井を見据える。
 目をつぶっては開き、何度も繰り返してみるがそこにあるのは変わらずの圧迫感。白は清潔感をもたらす色ではある。だが、四方を囲まれると、その極度の閉塞感に気分を害する。今までも何度か世話になったことはあるが、慣れる物ではない。
 無事に手術を終えた次の日、一般の病室に移された。俺の症状は軽く、すぐにでも起き上がれるようになった。看護師からも「予定通り退院したいのなら起きなさい」と言われている。力むと切開したところが痛むが、たいした問題ではない。
 それから一日が経ち、三日目の朝を迎えた。
 目を覚ました俺は何も考えず、しばらくぼーっと天井を見つめていた。たまに細かいシミのような模様を数えたりと、およそ普段では考えられない行動をとりもした。それほどここの生活は退屈なのだ。そもそも病院は生活の場ではないのだが。
 どれだけ時間が経ったのだろうか。窓にかかるブラインドの隙間から光が差し込む。眩しくて視線を室内に向けた。
 俺がいる病室は標準的な六人部屋で、同じように軽い症状の老患者がいる。半分は空きベッドなので若干閑散としていた。
 そろそろと起き始める時間でもあり、老人達の理解不能な世間話が始まる。
 廊下が少しずつ騒がしくなり、忙しなく動く看護師が目の端に映った。見つかってガミガミ言われるのも面倒なので、検診に来る前に起き上がることにした。
 精神疾患持ちなのを知らないのか、外科の看護師は無神経だ。こちらの言い分に聞く耳を持ちはしない。今日も理不尽な理由で俺の神経を逆なですることになる。
 朝の見回りをかねて中年女性の看護師が現れた。オペラ歌手に似た怒号のような声で挨拶をすると、視線を部屋の奥に向ける。ずかずかと室内に入り、無造作にブラインドに手をかけた。
「開けないでくれ!」
 反射的に声を荒げると、看護師は手を止めて視線を俺に向ける。
「何を言ってるの。朝なんだから開けるわよ」
 そのきつい言い方と憤怒の形相にたじろぐ俺を無視し、轟音を立ててブラインドを上げていく。強い光が部屋を照らすのと同時に目をつぶった。動悸がして背筋から汗がにじみ出てくる。びくつきながら相手の言葉を待った。
 それから数秒後、「今日も良い天気だわ」と言うのが聞こえ、足音が遠ざかっていくのを待ってから目を開いた。快晴の空が眼前に広がるのを確認する。
「今どきの若者は何を考えてるのかしらね、全く……」
 そんな捨て台詞が聞こえたが、聞こえないふりをした。天気が良いのであれば問題はない。雪が降ったりさえしなければ。
 雪――それはあの日を思い出させる。
 あの日以来、俺を悩ませてきた発作。
 以前は遠香のことを想うだけで不安になり、圧迫感に押しつぶされてきた。それでも治療を続けた結果、今は日常生活に支障をきたすことはない。滅多に発作を起こさないし、こうして彼女のことを考える余裕もある。
 記憶が薄れたからなのかも知れない。それはそれで悲しいことのように思える。だが、病気が完治してないのもまた事実。俺の場合、“雪”が引き金になるのだ。二日前に学校で発作を起こしたのは雪を見たからだった。
 ぱらぱらと舞う雪。寒空の下の屋上。それらが死に際の遠香の姿を鮮明に浮かび上がらせる。だから、出来るだけ関わらぬように注意して生きてきた。冬になるとカーテンを閉め切り、出かける前は天気を確認する。それでも学校に行くのは、休んで皆に余計な心配をかけたくないからだ。
 看護師が戻ってこないのを確認してから側のブラインドを下げる。ようやく動悸も治まり、寝転がった。病院にいるのは苦痛でしかなく、長く入院していられる人の気が知れない。俺なら気が狂いそうだ。
 しばらくしてから検診を受けた。術後の状態は良好。炎症も治まり、体温も平熱通り。自由に歩き回れるようになり、さっそく院内を徘徊することにした。
 俺が入院してるのは外科病棟だが、この市民病院には様々な分野が乱立している。
 よく世話になっている精神科もここにある。
 昔は良く発作を起こして搬送されていたし、今も通院している。要するに、この若さにして常連なのだ。
 構造も把握してるし、心臓外科の権威がいるなんて話も聞いたことがある。ただ、他の病棟を徘徊するわけにはいかず、内部は知らない。人通りの激しい外科病棟の廊下に荷物が乱雑に置かれてるとは思いも寄らなかった。
 そんなことに驚きながらナースステーションの前を通り過ぎた。
 エントランスのように拓けた場所を通ると、重病患者の多いフロアに着いた。この辺は動けない患者が多く、比較的静かだ。すれ違う看護師に怪訝な顔をされるが、無視して歩き続けた。
 そうして病棟の端が目前に迫ってきた時、近くで何かが落ちる音が響き渡った。びくりとして音がした方に視線を向けると、そこには病室があった。この辺は確か、個室のはず。
 突然扉が開き、看護師が泣きながら飛び出してくる。初々しさがある、箱入り娘といった雰囲気の女性だ。偏屈じじいから嫌がらせでも受けたのだろうか。
 興味本位で病室を覗いた。そこはやはり一人部屋で、病室にしては広めの造りだった。とても殺風景で、ベッドと医療機器以外は本が少しばかり。そんな部屋の床には食器が転がり、食事がぶちまけられている。
 もう十一時になるのに食事だなんて、どういうことだろう。今頃朝食のことでもめていたのか。
 そういえばさっきの看護師の制服が汚れていた。朝食を食べないことを注意され、怒った偏屈じじいにかけられたのだろうか。可哀想に。
 そんなことを考えながら病室にいる人物を見た俺は、あまりの驚きに頭が真っ白になった。
 窓から差し込む光に照らされて一人の少女が浮かび上がる。逆光ではっきりとしないが、俺には彼女が見知った少女に見えた。

 遠香……?

 まさか、そんなことがあるはずない。彼女は俺の目の前で確かに――いくら望んでも手の届かない場所に消えた。
 それなら、そこにいるのは誰なのか。
 儚げに窓の外を見るパジャマ姿のこの少女はいったい……。
 何度も頭を振り、あり得ない光景を必死に否定する。端から見ると精神病患者と間違われかねないが(実際はそうだが)、今の俺にはそんなことを考える余裕はない。
 目を凝らすと、その少女は遠香ではなかった。当たり前と言えば当たり前なのだが。
 それならなぜ見間違えたのか。
 彼女の何が遠香を彷彿させるのか。
 少女は誰もが思わず見とれるほどキレイだった。色白で顔立ちも佇まいも両家のお嬢様のようで、見る者を惹きつけて離さない。何よりも驚いたのは、外を見る彼女の儚げな横顔だった。
 生きることに失望した、あの――俺を非難するような遠香の目。
 少女の雰囲気は、死ぬ間際の遠香を思い出させた。この手をすり抜けて落ちていくあの日の笑顔――それは俺の心に確かな傷跡を残した。
 けして忘れることのない、遠香の最後の姿。それが目の前の少女と重なる。
 胸が苦しい。
 このままでいると発作を起こしてしまう。
 少女が俺に気付き、こちらを向く前に去らなくては。
 鼓動が高まるのを必死に抑え、身を翻して個室から離れた。そんな俺と入れ替わるように、さっきの看護師がベテラン風の中年女性に連れられて少女の部屋に入っていく。
 振り返ってはいけない。
 関わってはいけない。
 そう自分に言い聞かせ、廊下を進んでいく。誰にも見られぬように、誰にも気付かれぬように。けして心中を悟られぬように。
 自分に充てがわれたベッドに入り、布団をかぶってうずくまった。昼食が運ばれたことにさえ気付かず、心を静めることに努めた。その結果、発作は起こらず、すぐに動悸は治まった。しかし、少女に見られたのではないか。そんな強迫観念に支配され、布団から顔を出すこともはばかられた。
 そんな俺に救いの手を差し伸べたのが看護師だった。
「食事されてないようですが、どうしますか。もう片付ける時間ですし、食べるのなら残しておきますが」
 恐る恐る顔を出し、心配そうに覗き込む看護師を見た。布団の中に怯えるようにうずくまる俺の異変を感じたのだろう。
「食欲がなさそうなのでデザートだけ残しておきますね」
 そう言って食器を片付けると、顔を拭くようにとタオルを渡された。気付かぬ内に涙で顔が濡れ、目が充血していたようだ。気恥ずかしくなり、顔を背ける。
 親が面会に来る前にキレイにしておこう。そう考えながらデザートを口に押し込み、顔を洗いに行く。その頃には気持ちも落ち着き、何食わぬ顔で家族と話をした。
 その夜、少女の横顔が頭から離れず、後ろ髪を引かれる思いのまま眠りについた。


 彼女の名前は成瀬美月。小学生の頃から病院にいる十七才の少女だ。高校に通っていれば同級生になっていたのかも知れない。性格は温厚なのだが最近は色々と問題があり、情緒不安定なのだそうだ。
 プライバシーに関わることなので看護師から聞き出せたのはこれだけだ。そして、誰もがこう付け加えた。「あの子だけはやめた方が良い」と。
 美月に興味を抱く俺に釘を刺したのだろう。悪い子ではないのになぜ口を揃えて止めるのか。どちらにしろ関わる気はないので何の問題もない。
 どうせ明日には退院する身。間違っても出会さぬよう、美月のいる方に行くのはやめておこう。そう心に決め、暇つぶしにと院内を徘徊することにした。
 昨日と同じようにナースステーションを通り過ぎると、それ以上奥には進まず、拓けたフロアの端にある階段に向きを変えた。ゆっくり踏みしめながら上り、体力が戻りつつあることを確認する。少し力んでも痛みはなく、なぜかほっとした。
 結局俺は死ぬのを嫌がっている。
 その事に気付き、自分は卑しい人間なのだと痛感した。遠香を救えなかった俺に何の価値があるのか。そう責めるのも、ただ自身を正当化したいだけなのかもしれない。
 階段を最後まで上がると、屋上への扉に背を向けて来た道を戻ることにした。
 三段ほど下りたところでふいに足を止める。片足を降ろしたまま振り向き、なぜか扉を凝視していた。
 屋上も俺には危険な場所で、行くべきではない。ここは学校ではないし、発作を起こすことはないだろう。だが、気分の良い場所ではない。それなのに扉の向こう側が気になって仕方なかった。
 行ってみたい。
 行きたくない。
 相反する気持ちに葛藤するが、答えはすぐに出た。
 すぐに階段を上り直し、扉に手をかける。若干早まる鼓動がドアノブから伝わる冷気に相殺され、さほど緊張することなく回すことが出来た。
 扉に体重を乗せてゆっくり開けると、隙間から冬の冷気が入り込んだ。
 思わず身震いし、厚着しなかったことを後悔した。それでも力を緩めたりせず、そのまま一気に開いた。
 外に足を踏み出すと同時に風が吹き、頬を突き刺した。目をつぶり、風に逆らうように進み出る。背後の扉が閉まる音を聞いてから恐る恐る目を開いた。そこには何一つ遮る物のない青空が広がっていた。俺にして珍しく感嘆の声を上げる。それほど気持ちの良い景色だった。
 冬の冷たく乾いた空気は、嫌な気持ちを吹き飛ばしてくれる。そんな感想を久しぶりに抱きながら視線を前に向けた時だった。

 どくん。

 鼓動が強く波打つのを感じ、ごくりと息を呑んだ。屋上の隅で柵にもたれながら少女が本を読んでいたのだ。パジャマの上に暖かそうなコートを羽織り、膝に毛布を掛けた異質な出で立ちで。
 陽光に照らされてたたずむ少女がこちらに気付いて顔を上げる。俺を見て少し驚きの表情を浮かべた。
「あなたは昨日の……?」
 首を傾げ、綺麗な顔に儚げな笑みを点す。それはまるで――

 ……と……お……か……

 突然、頭にハンマーで殴られたような痛みが走った。激しいめまいに襲われてその場にうずくまる。近くのベンチに手をつき、倒れぬように体を支える。胸が苦しくなり、思うように息が出来なくなった。
「だ、大丈夫?」
 少女は驚き、慌てて駆け寄ってきた。彼女は俺の体を支え、ほっそりとした腕で必死にベンチに誘導させる。思わず振り払おうとするが、今の俺にはその力すら残されてなかった。
 俺がベンチに腰を下ろすと、彼女は手にしていた毛布をベンチに敷く。そして俺を寝かせ、少し迷ってからコートを掛けた。
 あたふたする今の少女には儚さの欠片も無い。どうして彼女を遠香と見間違えたのか。心配そうに俺を見る少女は全くの別人だ。
 薄れゆく意識の中、むず痒い感覚に顔が緩む。このまま死んでしまうと思えるほど苦しいのに、心は澄んでいく。安らかな気持ちのまま意識を失った。
 それからどれだけの時間が経ったのだろうか。
「くしゅんっ」
 可愛らしいくしゃみで眠りから呼び戻された。目をゆっくりと開けると、そこには意識を失う前と変わらぬ表情の少女がいた。ベンチの前で膝をつき、心配そうに俺を見ていた。彼女の手がコートにくるまれたままの俺の手を優しく握っている。
 確かな温もりを感じながら彼女をよく見ると、昨日個室で見かけた少女、成瀬美月だった。鼻をこする姿が愛らしく、俺の頬は自然と緩む。
「な、何で笑うのよ」
「ご、ごめん。何だかおかしくって」
 美月のふくれっ面が余計におかしくて吹き出してしまう。そこで初めて重大な事実に気付いた。彼女は寒そうに震えていたのだ。
 俺は起き上がり、コートを美月の肩にかけた。
「あ、ありがとう」
 きょとんとする彼女に優しく笑いかけて言った。
「こんな寒い中、気絶した俺をずっと看ててくれたんだよな。ありがとう」
「ど、どういたしまして」
 戸惑いながらそう答え、しばらく目を泳がせる。そして何かを決心したのか俺をじっと見つめ、顔を綻ばせた。とても優しい笑顔にどきりとした。
 美月は再び心配そうに俺を見て言った。
「さっきは急に苦しそうにするからびっくりしたんだよ。死んじゃうんじゃないかって。でも、良かった……無事で」
 目の前に現れた見知らぬ俺が突然倒れたのだ。気が動転するのは仕方ない。そんな中でも俺を安静にさせる手際の良さに感心した。
「でもな、看護師を呼べばすむことだろ」
 それが俺の率直な感想だ。
 美月はばつの悪そうな顔をして答える。
「それは私が困るの。ここには内緒で来てるし」
 視線をそらし、遠くを見つめる。その横顔がとても寂しそうに、悲しげに思えた。彼女なりに問題を抱えてるのだろう。深くは追求するべきではない。
 再びくしゃみをして鼻をすする美月を見つめた。そんな俺を、彼女は困ったように首を傾げて見つめ返した。
「俺のせいで風邪を引かせるのも嫌だから部屋に戻ろう」
 そう言って視線をそらし、俺は立ち上がった。しかし、中に戻ろうとする俺を美月が引き止める。
「もうちょっとここにいようよ。せっかくなんだし」
 何が“せっかく”なのか理解に苦しんだ。とはいえ、断る理由もなく、この場に残ることにした。本当に風邪を引いたりしないのか。その疑問に対し、根拠もなく大丈夫と言い続けるので、説得は諦めた。
「あなたは……えーと……」
 何を困っているのだろうか。引き止めるぐらいだし、話題には事欠かないはずだ。美月は俺を見ては考え込み、一向に話し始めない。俺から話題を振るべきなのか。面倒だなと思いつつ、口を開きかけた。遮るように美月が言う。
「……名前」
「は?」
「名前、まだ聞いてない。私達、お互いに自己紹介してないよ」
 そう言えばそうだ。会って早々俺が発作を起こしたし、それどころではなかった。だが、自己紹介は必要なのか。どうせこれっきり会うことはないのに。
 渋る俺が不満なのか、美月は不機嫌になる。
「私はあなたを介抱してあげたのよ。名前ぐらい教えてくれてもいいじゃない」
 親切の押し売りかよ、誰も頼んでいないのに。思わず胸中でつっこみを入れた。寒空の下で気絶したとしても少し酷い風邪を引くだけだ。運が悪くても肺炎になるだけ。ここは病院だから嫌でも適切な治療を受けられるし、けして死ぬことはない。
 とはいえ、そんなことを助けてくれた人に口が裂けても言えるわけがない。死ぬ勇気のない自殺志願者なんて、それほど惨めな自分をさらけ出したくなかった。
 そんな葛藤を知らぬ美月は、俺が答えるのじっと待っている。仕方なく頷くと、彼女は頬を緩めた。
「俺の名前は、相原一輝。近所の高校に通っている」
 高校二年の十七才。誕生日は九月。趣味は無し。そんな履歴書に書くような当たり障りのないことを言うと、美月はなぜか満足げに微笑んだ。
「そう……あなたが相原一輝くんね……」
 そんな呟きに眉根を寄せる。だが、俺が何かを喋るよりも早く言葉を続けた。
「あなたのこと、一輝って呼んでいい?」
 にこにこして俺の返事を待つ美月に他意は感じられず、深く考えるのを止めて頷いた。彼女は少しだけ考える素振りを見せて自己紹介を始める。
 成瀬美月、六月生まれ十七才。趣味は読書。体が弱くて、小さい頃から入院しているそうだ。
 看護師に聞いていたのでさして驚くこともなかった。何の病気なのかは知らないが、重病なのだろう。一見すると元気でも、普通と違うのは珍しくはない。
「友達は私のことを美月って呼ぶの。だから、一輝にもそう呼んでほしいな」
 今日限りの友達だ。問題はないだろう。
 俺を見上げる美月に横に来るように促すと、彼女は軽い足取りでちょこんとベンチに座った。時折見せる、顔をさする姿が猫みたいだ。そんなことを考えて眺めていると、視線に気付いた美月が俺を見た。
「一輝はいつから入院してるの? 昨日初めて見たからどうなのかなって思って。ほら、私って長くここにいるでしょ。だから顔見知りも多くて」
 やはり病室の外から見ていたのに気付いていたようだ。不覚をとった。看護師に俺のことを聞いたのか。それなら包み隠さず言ってもいいだろう。
「三日前になるかな。でも、明日には退院だ」
「え?」
 退院が意外だったのか、目を丸くし、視線をそらして残念そうにうつむく。そして不思議そうに俺を見た。まるで百面相だ。
「俺が入院した理由は盲腸なんだ」
「え、嘘でしょ。盲腸であんなに苦しそうにするなんて何かの間違いよ。まさか、最近の盲腸は気絶するほど辛いの?」
 美月は本気で驚いてるようだ。それにしても、気絶する盲腸って……。
 手術する前は確かに苦しかった。それでも発作の辛さと比べれば大したことはない。心の痛みほど不確かで不安なものはないからだ。
「いや、もう治ったから平気だ」
「それじゃ、さっきのはいったい……」
 初対面の彼女に言うべきなのだろうか。悩みつつも、美月の様子をしばらく眺めることにした。真剣に悩む姿を見るのも悪くはない。
「何てゆうか……心臓発作を起こしたみたいだよね」
 このまま放っておくとどんな結論に至るのか。死と隣り合わせの不治の病にされかねない。そろそろ止めるべきか。
 俺の視線に気付いた美月は申し訳なさそうにし、慌てて言った。
「あ、あの、私に言えないのならそれでもいいの。無神経な女だって思われたくないし。だ、だから……」
 俺に関わろうとするだけで十分無神経だと思うのだが。でもまあ、十分に楽しませてもらったし、教えないのは可哀想だ。
「俺が入院したのは確かに盲腸だ。でも、それとは別にある病気を持ってるんだ。それが原因で、時々発作を起こすんだよ」
「どこか悪いの?」
 美月は俺の顔を覗き込む。そんな彼女に笑いかけ、頭を指差した。
「頭が……悪いの……?」
 よくもまあそんな言いにくい言葉を口になさる。感心して笑い、首を横に振った。
「正確には心の病気だ」
「精神障害? まさか、解離性同一性障害?」
 おいおい、多重人格でどうして発作を起こすんだよ。
 俺のつっこみに恥ずかしそうに笑う美月。心の枷が取り払われていくのに危機感を覚えたが、それでも話を続けた。
「病名は“パニック障害”。二年前に診断されて治療を受けて障害はもうない」
「治ったのね?」
 俺は首を横に振る。
「精神疾患の場合、はっきりとしたことは言えないんだ。精神は不安定なままだし、未だに発作を起こす。動悸やめまい、呼吸困難に襲われ、気絶することさえある。原因は俺自身の心にあるから自分で立ち向かうしかないんだが」
 自分に言い聞かせるように丁寧に言う。一言一言を噛みしめながら。
 こうして他人に話せるようになったのは大きな進歩だ。相手が美月だから話しやすいのか、それとも治る兆しが見えてきたのか。どちらにしろ凄いことだ。だが、本当に治って良いのか。

 遠香、俺だけ呪縛から解き放たれてもいいのか?

 即座に首を横に振る。それだけは駄目だ。俺はこれからも十字架を背負って生きていく。それが遠香を救えなかったことへの贖罪だから。
 隣に座る美月がうんうんと唸る。俺の話が難しかったのか。
「ううん、私の発作と似ていたからてっきり……」
 美月は難しい顔をして呟く。残念そうに見えるのは気のせいだろうか。
 もしかして、親しげに話しかけてきたのは同類と思ったからなのか。それで、違うと分かってがっかりした。俺に何かを期待されても困るし、これで二人の関係が終わるのならそれでもいい。
 少し残念ではあるが、もう傍にいる理由もない。
 膝にかけていた毛布を畳み、うつむく美月に渡す。彼女が無言で受け取るのを確認して立ち上がった。
「ねえ、一輝……」
 振り返る。
 美月は顔を上げて俺を凝視する。
 彼女が口を開くのをじっと待った。
 意を決した美月は立ち上がり、柵の側まで歩いていく。それを目で追い、二人の距離は三メートルほどを開いた。まるでそれが、俺達の心の距離だと言わんばかりに。
「私が勘違いしたせいで一輝に嫌な思い、させちゃったね。ごめん」
 本当に申し訳なさそうで、逆に俺が悪いことをしたような錯覚に陥った。胸がちくちくと痛み、鼓動が高まっていく。
「だからね、私のことも話すね」
 無理をしているのがひしひしと伝わり、いたたまれなくなった。俺は美月の提案を丁重に断る。しかし、断固として受け入れてくれない。
 気付けば空に雪が舞い、美月の周りを飛び交っていた。彼女の吐息が白く染まり、俺の目に痛々しく映った。いや、痛々しいのは俺自身か。
「わあ、雪が降ってきたね。真っ白ですっごくきれい!」
 子供のようにはしゃぎ、その場でくるくると回り出す。鼓動が早まる俺の異変を知らぬままひとしきり踊ると、美月は真っ直ぐな目で俺を見た。その目には強い決意が込められているような、そんな気がした。
「あなたには私のことを知ってほしい」
 美月は俺をしばらく見つめ、視線をそらす。そして寂しげな笑みを浮かべてうつむいた。その姿はまるで、最後の告白をする遠香を彷彿とさせる。あの目で、あの表情で――俺を非難するかのように……。
 雪の中、儚げな顔で俺を見つめる遠香。彼女が最後に残した言葉が頭を巡り、途端に胸が苦しくなった。そんな俺の異変に気付いた目の前の少女があたふたし始める。だが、このままでいると発作を起こしてしまう。日に何度も発作を起こしていては病気が再発しかねない。早く彼女が目に入らぬ場所に行かなければ……。
 俺は目の前に美月がいることも忘れ、驚く彼女を後目に、逃げるように離れた。
「え? か、一輝?」
 中へと続く扉だけを見て、他の何にも目をくれずに足早に歩いた。目に映る雪も、頬を伝う滴も、今の俺には感じられない。そして扉を開けて中に入り、バタンと閉まる音に驚いて我に返った。
 美月を置いてきてしまった。
 似ても似つかぬ彼女を遠香と重ねてしまった。
 冷や汗をかきながら振り返り、扉を凝視する。美月を迎えに行かなければ。でも、彼女を見ると遠香を思い出してしまう。今の状態ではまた迷惑をかけてしまう。
 俺はすぐ側の壁にもたれかかり、必死に心を落ち着かせた。ゆっくりと息を吸い、倍以上の時間をかけて吐く。とにかく心を無にすることに努めた。美月が扉を開けて俺の様子を窺っていることさえ気付かぬほど集中して。
「一輝、大丈夫?」
 声をかけられたことに驚き、目を見張る。
「雪が降ってて寒いのならそう言ってくれれば良かったのに」
 俺の身を案ずるかのように言い、視線を泳がせた。
「あの……さっき呟いた名前って……」
 そこまで言って口を噤み、首を横に振る。
「私が無神経に色々と聞くから悪いんだよね。もう聞かないから」
「違うんだ。君が……美月が悪いんじゃない……美月が悪いんじゃないんだ」
 何かを守ろうとして必死に否定する。それで何が守れるのか分からないまま、必死に。なぜそこまでして否定するのか。
 美月は俺の側に来ると、抱えていた毛布を優しく掛けてくれた。
「まだ寒いんだし、これで体を温めてね」
 そう言う美月の声が透き通るように心に響いた。体が震え上がる。必死に堪えていた涙があふれ出てきた。
 そんな俺をじっと見つめる美月。彼女はしばらく迷った末に意を決し、俺の背中に腕を回した。少し背伸びをしながら俺を抱き寄せ、自分の肩に顔をうずくまらせる。片手を頭の後ろに回し、力を込めてきた。
 俺はただただ身を任せた。美月の温もりが伝わり、冷え切った俺の体を温めていく。
「何でか分からないけど、辛い時は泣いた方が良いよ。我慢すればするほど余計に辛くなるから。ね?」
 美月の声を聞き、彼女の優しさに包まれ、俺は声を荒げて泣いた。涙が涸れるまでひたすら流し続けた。
 どうしてこんなに感情が溢れてくるのだろう。
 どうしてこんなに素直になれるのだろう。
 どうしてこんなに愛おしく思えるのだろう。
 彼女の前では抑制が利かなくなる。彼女の言葉に、行動に一喜一憂してしまう。今日会ったばかりの彼女に。
 美月を見てると遠香を思い出す。小学生の頃の明るくて優しい笑顔、中学生になってからの儚げな笑顔。どちらも俺にとって大事な、とても大切な宝物。この手をすり抜けてこぼれ落ちた今も俺の心に強く刻まれ、残されている。

 大好きよ、一輝くん――

 先輩、私……凄く幸せ――

 今はもう聞けない言葉、見ることの出来ない笑顔。俺だけに向けられていた想い。でも、もう触れることは出来ない。必死に忘れようとしていたのに、気持ちを抑えられない。何度も遠香の名前を呼び、涙を流した。
 泣き疲れた頃、ようやく遠香を思い出す理由に気付いた。美月には、遠香が同時に持ち得なかった二つの笑顔があったのだ。希望に溢れた笑顔と絶望に満ちた笑顔が。だからこんなにも惹かれているのだ。
 自分ではない誰かの名前を呼び続ける俺を、美月はどう思ったのだろうか。美月から自分の体をそっと離し、彼女を見る。
「やっと落ち着いたね」
 俺は頷く。
「発作は起きなかったね」
 また頷く。
「思いっきり泣いたらすっきりしたでしょ」
 彼女の問いかけに、俺はただ頷くだけ。
 美月は俺に笑いかけ、一歩、また一歩下がる。これ以上踏み込んではいけないと思う俺の気持ちを察したかのように距離を空けた。そして俺も、崩れかかっていた壁に泥を塗り込むように、はっきりとした境界線を引いた。これで俺達は出会う前の二人に戻れる。そう感じていたら、美月がまた可愛らしいくしゃみをした。
 思わず吹き出す俺に、美月は頬を膨らませて言った。
「笑うことはないでしょ、笑うことは。介抱してあげた恩を忘れて」
 そして美月も笑った。今までで一番の、最高の笑顔で。
「本当に風邪を引きそうだし、もう病室に戻るね」
「近くまで送るよ。寄り道して恨まれても嫌だし」
「子供扱いしないでよ。それに、寄り道する所なんてどこにもないでしょ」
「それはまあ、病院だし」
 そんなやりとりをしてから美月は黙り込み、逡巡してから俺の申し出を受けた。
 俺達はけして触れることのない隙間を作り、並んで階段を下りていく。外科の病棟に着き、美月の部屋を目指した。すれ違う看護師が意外そうに見る。俺達の関係を怪しんでいるのか。数分後には別れ、もう二度と会うことはないし、気にすることはない。
 一言も喋らぬまま美月の部屋の前に着いた。
「ここまででいいよ」
「ああ」
 俺は美月が部屋に入るのを待った。彼女は俺が帰るのを待っている。これでは別れを惜しむ恋人ではないか。
 気まずい雰囲気を打破しようと話題をひねり出す。そうして口にしたのは色気の欠片もない話だった。昨日、部屋の外から見た惨劇だ。
 美月は頬を赤らめ、うつむいた。
「どうしてそんなことを思い出すのかな。恥ずかしいよ」
「新人の看護士を虐めるなんて、どんな偏屈じじいかと思って覗いたんだ」
「へ、偏屈? 私ってそんなに屈折してるの?」
 ショックを受けて項垂れる美月を見て、頷くべきか迷った。話してみて感じたのだが、いたって普通の少女だ。
「私ね、最近はあまり食欲がなくてね、そのことで注意されたの。それでね、無理に食べさせようとしたから振り払ったの。そしたら、食器に当たっちゃって。後は一輝の見た通りよ」
 蓋を開けてみれば大した事件ではなかった。ただの事故だったのである。とはいえ、それだけで大の大人が泣くとは思えず、原因は他にもあるはずだ。しかし、すまなそうにする美月を追求する気にはならなかった。
 緊張が解けて口も滑らかになったので別れを切り出した。美月は頷き、俺が差し出す毛布を受け取る。
「今日はありがとう、話し相手になってくれて」
「俺の方こそ迷惑をかけてごめん」
 屋上に行きさえしなければ出会わなかったし、発作を起こして迷惑をかけることはなかった。複雑な気分だ。
 美月は何かを言いかけ、言葉を飲み込む。それが合図となり、俺は彼女に背を向けて歩き出した。
 これでいいのだ。俺にとっても、彼女にとっても。俺達はこれ以上関わるべきではない。そう自分に言い聞かせた。だが、美月は意を決して言う。
「また会えるよね」
 その問いかけに驚き、不覚にも振り返ってしまった。美月は寂しそうに笑って言葉を続ける。
「私は会いたい! またあなたとこうして話したい!」
 振り絞るようにして言う美月に、周囲にいた人達も驚いて視線を向けた。
 まさか彼女が再会を望むとは。思いも寄らない事実に、警鐘が鳴り響く。俺が断りさえすれば元に戻れる。それなのにその言葉が出てこない。ただ一言、会わないと言えばいい。それなのにどうして――
 口を割って出て来たのは信じられない言葉だった。
 一週間後に診察を受けに来る。その時に会いに来る、と。
 美月の顔がみるみるほころんでいく。それを見て俺の心が浮き足立っていく。自分の顔が緩んでいくのが許せず、見られまいと背を向けた。自分の病室へと急いで戻る。そんな俺の背中越しに美月の声が響いた。
「一輝のバカ」
 けして非難とは思えないほど優しく、嬉しそうな、愁いを帯びた言葉だった。美月の言うとおり俺はバカだ。どうしようもないバカだ。してはいけない望みを抱くなんて。でも、これで後戻りは出来なくなった。
 動き始めた刻はもう止まらない。その先にどんな結末があるとしても、それを受け入れなくてはならないのだ。

              ◇    ◇    ◇

 私ね、あなたに会えて幸せだったよ。
 あの日、あの寒空の下で、絶望する私に一しずくの輝きを与えてくれた。
 だから生きたいって思えたの。
 ねえ、あなたはどう?
 余命幾ばくもない私に会って辛くはなかった?
 今はそれだけが心配なの。
 私に出会ってあなたが不幸になったんじゃないかって。
 考えれば考えるほど悲しいよ。
 でも、私にはもう、あなたに何もしてあげられないんだね。
 ごめんね……。



   第二章


 僕が片倉遠香に初めて会ったのは小学三年生の時だった。それは鮮明に心に刻まれ、今でもはっきりと思い出せる。
 僕が居間で遊んでいると、玄関から知らないおばさんの声がした。最近、近くに引っ越してきた人で、挨拶回りをしているらしい。僕の母が応対し、甲高い声で世間話に花を咲かせている。
 大人の会話には全く興味はなかったけど、小腹が空いたのでお菓子をねだろうと母を呼びに行った。母が相手をするおばさんは子供の僕から見てもキレイだった。でも、どこか悲しげな人に思えた。
 僕は母を何度も呼び、世間話を終わらせようとした。母は「待っててね」と言うだけで一向に会話を止めない。痺れを切らして上着の裾を引っ張ると、くすりと笑う声が聞こえたのだ。声のする方に視線を降ろすと、一人の少女がおばさんに寄り添うように家の中を覗き込んでいた。
「君は誰?」
 その少女はとても愛らしく笑うと、すぐに答えてくれた。
「遠香。片倉遠香。あなたは?」
 透き通るような心地よい声が耳に入り込んでくる。聞き惚れていると少女――遠香は頬をふくらませて僕を急かした。僕ははっとし、慌てて表情を取り繕った。
「僕の名前は一輝。相原一輝。三年生だよ」
「三年生? 私の一つ上だからお兄ちゃんだね、一輝くん」
「え、そうなの? 遠香ちゃんは二年生なんだ」
 そんなことを言いつつ、僕は遠香に見とれていた。笑った顔もふくれっ面も、彼女を形作る全てに惹かれていた。
 なんて可愛いのだろう。そう思い、密かに恋心を抱いていた。その時の遠香も、僕に運命を感じていたらしい。
 笑いあう僕らに気付いた大人達は、どうせなら遊んできなさいと言って背中を押す。半ば追い出されるようにして外に出ると、僕は遠香を近くの公園に誘った。そこで遊びながら色々なことを話した。
 遠香の両親は仲が悪くて口論が絶えなかった。理由はよく分からないけど“浮気”という奴らしい。それで離婚して、両親は離ればなれになった。遠香は母親に引き取られ、新しい“パパ”がいるこの町に引っ越してきた。
 遠香は本当の父親と離ればなれになって、今ここにいる。七才にして、もう辛い経験をしているのだ。それが心苦しくて、彼女を抱きしめた。
 なぜそんなことをしたのだろうか。不思議がる遠香に理由を答えられず、口ごもってしまう。でも彼女は「何だか嬉しい」と言い、僕に身を預けてくれた。
 そんなこともあってか、僕らは心のどこかで相手を拠り所にし、共に育っていった。
 僕は遠香を、遠香は僕を大切に思い、これから先も一緒にいると誓い合った。
「大好きよ、一輝くん」
 その言葉を聞く度に未来がとても輝いて感じられ、どんな辛いことも平気だった。
 でも、僕が六年生になった頃、遠香の母親が急死してから何かが狂い始めた。
 悲しむ遠香を慰め、必死に支えた。彼女が頼れるのはもう僕しかいない。僕が遠香を守る。大人になっても、それからずっと先も僕が彼女を守っていく。そう思い、ずっと傍にいた。
 それが愛情からなのか同情からなのか、今はもう分からない。でも、それが正しいことだと信じていた。
 それからしばらくして、遠香は痣を作るようになった。理由を聞くと黙ってしまい、口を聞いてくれない。仕方なく放っておくことにした。それが全ての過ちの始まりだったのだ。無理にでも聞き出していれば、彼女も僕もこんなに苦しむことはなかったのだ。悔やんだところで何も変わりはしない。
 遠香は僕を避けるようになり、僕も彼女の心に踏み込む勇気を失った。そして、中学生になる少し前に、思い切って遠香の家を訪ねた。そこで僕は彼女に拒絶された。
「もう一輝くんの顔も見たくない。もう家に来ないで!」
 傷だらけの体で、苦しそうな顔で、泣きながら言う。それきり遠香は会ってくれなくなった。何が悪かったのか、どこで間違ったのか。訳も分からず泣き崩れ、その後の一年間、孤独を味わうこととなる。

              ◇    ◇    ◇

 病院の屋上で成瀬美月に出会い、俺と友達になった。別れ際に再会の約束をしたあの日、二人の噂はすぐさま病棟中に広がった。あの気難しい美月が心を許した少年として、俺は看護師から注目の的に――いや、冷やかしの的になったのだ。
 付き合ってるのか。手は繋いだのか。キスは? どうやって堕としたのか。どこに惚れたのか、等々。
 どこまでも妄想が飛躍し続ける彼女らに、俺は律儀に否定した。それが余計に妄想をかき立て、暴走は止まる気配さえない。さすがに抱擁したことは口が裂けても言えず、ほとぼりが冷めるのを待った。
 美月も同じ目に遭っているのだろうか。彼女を冷やかした日には七代末まで呪われる。そんな気がして恐ろしくなった。とはいえ、看護師らの言うとおり本当に気難しいのなら冷やかされはしないだろう。
 くすくすと笑う俺を同室の老人が不気味がっていた。それに気付くと愛想笑いを浮かべて取り繕う。何か言われる前に寝るのが得策だ。明日にはもう退院し、二度と会うことはないんだし。
 そして、翌日。
 屋上での一件がたたり、美月は熱を出した。会うことも叶わず、病院を後にする。その後、俺を待っていたのは変わらぬ日常だ。寝て起きて、食べて学校に行き、友人達と話し、発作に怯えながら眠りにつく。ただ一つ違うのは、生きることに目的が出来たこと。次に美月に会うまで日々を重ねていく。
 退院後の登校初日の昼休み、悠人にいきなり核心を衝かれた。
「なあ一輝、お前、少し変わったな」
 どこがどう変わったのか自分では分からないが、悠人が言うのならそうなのだろう。幼稚園の頃から知る仲だ。腐れ縁と言ってもいい。俺が様変わりしていくのを一番近くで見てきたのだ。僅かな変化も見逃さない。ある意味、怪しい関係だ。
 思わず笑みをこぼすと、悠人は怪訝そうに俺を見た。
「まさか、病巣と一緒に発作も摘出したのか」
 そんなことが出来れば苦労しない。出来たとしても、それはちょっと遠慮したい。虫垂に心があるみたいで不気味だ。
 俺は首を横に振り、術後に発作を起こしたことを伝えた。
「入院する前よりも酷い発作を起こしたのか。その割には清々しい顔をしてるな」
「発作を起こした時の対処法を教わったから」
 さらっと言うと、悠人は驚きをあらわにした。それもそのはず、彼は俺と一緒に精神科医の話を聞いている。治療するにあたり心がけること、発作時の対処法も心得ている。悠人が知らないことは、ひいては精神科でも分からないこと。それを教わるなんて理解の範疇を超えている。
「そんな方法があるのなら、何で今まで教わらなかったんだよ」
 その疑問は尤もだ。だが、余計なことを勘ぐられる前に話を進めよう。そう思い、無視して話を続けた。
「悠人、俺が辛い時、お前の胸で泣いてもいいか」
 真面目な顔で悠人を見つめると、彼は後ずさった。予想通りの反応にほくそ笑み、悠人の返事を待つ。さすがの彼も困っているようだ。
「いやまあ、お前がどうしてもと言うのなら拒まないが、相手を選んだ方が……」
 そう言って視線を横の中山に向ける。話を振られると思ってなかったのか、中山は驚き、慌てて首を横に振った。
 次に悠人が視線を向けたのは長津田だった。彼女は頬を赤らめ、すぐに視線をそらす。
「わ、私はほら、体育系だし、む、胸も小さいし、き、気持ちよくないよ。だ、だからやめた方が……」
「さ、咲希……」
 あの中山が呆れるほど長津田が慌てている。いつもなら長津田にいびられてあたふたするのは中山なのに。
 そんな光景に、俺は思わず吹き出して言った。
「長津田にそんなことはしないよ。俺はまだ命が惜しいし」
「な、何ですって!?」
 怒りをあらわにする長津田を中山が必死になだめる。それがさらに笑いを呼ぶ。本当に殺される前にフォローした方が良いようだ。
「中山との仲を邪魔するほど無粋な真似はしないってこと。お前達は俺に気を遣わず付き合えよ」
 さらりと言うと、目の前の三人は目を丸くした。
「一輝がおかしい。冗談を言うわ、命を惜しむわ、少し前のお前には考えられない」
 悠人が言うと、残りの二人も頷いた。改めて言われ、俺自身も納得する。確かな変化が目に見えて表れていた。
「絶対に何かを隠してるな。白状しろ」
 悠人が掴みかかってくるが、俺は愛想笑いを浮かべてごまかした。病院の一件ですっかり愛想笑いが上手くなった。
「そうか……ようやく遠香ちゃんのことを吹っ切れ――てないか」
 遠香の名前を聞いて俺の顔が苦痛に歪んだ。それを見た悠人は吐息を漏らして首を横に振った。
 前進する勇気は確かに芽生えつつある。しかし、吹っ切れるには何かが足りない。心の傷は治らないのではないのか。他の何かで埋めたとしても、必ずしこりは残る。そう思えてならない。
 美月のことを悠人達に話すのは止めておこう。これ以上みんなの不安を増やす必要はない。そう思って黙りこむと、悠人は追求の手を緩めた。と同時に昼休み終了のチャイムが鳴り響いた。
 それからは変わらぬ日常が流れ、気付けば診察日を迎えていた。
 その日は学校を休み、病院に行った。ロビーでの待ち時間が長い割には外科での診察は短く、通過儀礼のような物だった。痛みはとうの昔に消え失せ、炎症も起こしていない。止められていた激しい運動をしてもいいそうだ。医者の話を適当に聞き流して、すぐさま診察室を後にした。
 俺はかかりつけの精神科に顔を出した。今日の本来の目的はこっちで、今でも月一回の診察を受けている。診察とは言っても特にすることはなく、医者と会話をするだけだ。精神疾患に重要なのは対話。患者は心の内を曝すことで自分を見つめ直し、医者は患者の精神状態を把握する。信頼関係あって初めて可能なことだ。
 いつものようにこの一ヶ月の出来事や発作の頻度などを話した。他には社会情勢や芸能関係の話題など、どうでも良いような話題ばかり。内にこもりがちな精神疾患患者の、外部への感心を計るのに有効らしい。
 大抵のことは話し、話題が尽きると、医者があの話を切り出した。すでに噂が病院中に広がっているようだ。
「君は外科病棟の成瀬美月と付き合っているそうだな」
 断定的な偽情報に、俺は思わず吹き出した。それは誤解だ。彼女とはあの日に会ったきり、連絡すらしていない。恋人のわけが無く、友達という関係すら怪しい。そう話すと、医者は少し迷ってから言う。
「だが、今日会う約束をしたのだろ? 私としては友人を増やすのには賛成だ。相手の境遇がどうだとしても」
 それはどう意味だろう。美月が特殊な境遇だということか。
「あの子は確かにキレイだし、惹かれるのも分かる」
 ……ロリコン?
「心配せずとも私は愛妻家だ――って、そういうことではない。だが、あの子だけには深く関わらない方が良い。万が一のことがあれば、今度こそ君は立ち直れなくなる」
「それは精神科医としての意見ですか」
 医者は首を横に振り、真面目な顔で俺を見つめる。
「人としてだ。詳しいことは私の口からは言えない。だが、もう会うのは止めなさい。それが君のためだ」
 断固として譲らない口調。患者を否定するとは、精神科医とは思えない行為だ。それほどまでして止める理由は何なのか。

 ――あなたには私のことを知ってほしい。

 あの日、美月が言いかけた言葉。それと関係があるのかも知れない。とすると、今日会えば話を聞くことになるだろう。目の前の医者は知っている。職員は皆、知る事実。美月が入院してる理由。
 いくら考えても無意味だ。精神科医の言うことも聞けない。だって、彼女と会う約束したのは俺自身の意志だから。
 来月の診察の予約をし、美月の病室の前に着いた時には正午を回っていた。途中、売店で軽く腹を膨らませて行くと、病棟も昼食時だった。彼女は食欲がないと言っていたから少し心配だ。風邪は良くなっただろうか。
 扉の向こうには一週間ぶりに会う美月がいる。心なしか緊張しながら、病室の戸を叩いた。返事が返ってくるのを待って扉を開いた。その先には口元に箸を運び、あんぐりと口を開ける美月がいた。
「か、一輝!?」
 美月は俺を見るなり、声を荒げた。箸からご飯がこぼれ落ちる。汚れたテーブルを慌てて拭き取り、室内に入る俺に苦笑いを向ける。
「どうして一輝がここに……?」
 会う約束をしたではないか。それともあれは建前だったのか。困り果てる俺に、美月は首を横に振って答えた。
「ううん……だってまだ学校の時間だし、てっきりお母さんが来たのかと思ったの。恥ずかしいとこ見られちゃったよ」
 頬を赤らめて視線をそらす様は、年頃の少女そのものだ。なかなか面白い物を見せてもらい、得した気分だ。
 俺も美月も舞い上がって、時間を決めることをすっかり忘れていた。デートではないし、ただの見舞いだから問題はないだろう。この時間になった理由を説明すると、彼女は納得してくれた。
 ちらりと食器の中を覗くと、半分以上なくなっていた。
「あの時はちょっと嫌なことがあったから。でもね、一輝には元気な姿を見せたいから頑張ってるんだよ」
「頑張る……か。確かに病院食は不味いからな」
「でしょ? もう何年も食べてるから大変なのよ」
 彼女は本当に嫌そうに言う。俺みたいに短期入院なら少々不味くても我慢できる。それをずっとだなんてどれほどの苦痛か想像も出来ない。
「この間はごめんね」
 唐突に呟いたので、いつのことかすぐには分からなかった。
「一輝が退院する日のことよ。せっかく会いに来てくれたのに、風邪引いちゃって」
「謝るのは俺の方だ。俺に付き合わせたのが原因なんだし。もう治ったのか」
「すっかりこの通りよ」
 自信ありげに笑い、袖をめくって力こぶを作ってみせる。皮膚が少し震える程度だが。体力なんてほとんど無いのは分かりきっていた。
 透き通るような白い肌をまじまじと見てると、美月は慌てて腕を隠した。
「やらしい目で見ないでよ」
 ふくれっ面で非難するが、どこか嬉しそうに聞こえた。しかし、やらしい目なのも遠からずだったので反省する。それにしても綺麗な肌だ。
 俺が来てから美月の箸が止まったままだったので、会話を中断し、食べ終わるのを待つことにした。その間、外を眺めたり、彼女の本をぱらぱらとめくったりして暇をつぶす。食器を片付けに来た職員が珍しい物を見るように俺を物色するのを無視し、美月に促されてベッドに腰を下ろした。
 椅子では駄目のか、と問うと、友達はこうする物なのだと諭された。違うような気がしたが、座れるのならどちらでも良い。
「一輝はもうすっかり元気だね」
「元々大した病気じゃないって」
「それはそうだけど……」
 口ごもる美月。彼女はもう一つの病気のことを言っているのか。美月に遠香を重ねることはもう無いだろうし、よほどのことがない限り心配はない。
「でも、良かった。こうして会いに来てくれて」
 美月はうつむきながら言葉を続けた。
「ちょっと不安だったの。初対面の私に付き合ってくれただけでも驚きなのに、会う約束までしてくれて。ほら、私ってずっと入院してるでしょ。だから友達も少ないの。お見舞いに来てくれる友達はもう一人だけだし」
 長い入院生活がそれまでの生活を、友達を奪った。子供にとってそれがどれだけ酷なことか。それでも会いに来てくれる友達は本物だし、大切にするべきだ。俺にとっての悠人達のように。
 美月の友達――それは男なのだろうか。
 彼女はくすくすと笑い、答えてくれた。
「心配しなくても女の子よ。私のことでも妬いてくれるんだね。嬉しいな」
 美月は遠くの方を見ながら呟くように付け加える。男の子はすぐに離れていったから、と。とても辛そうに言う彼女は、失恋に苦しむ五年前の俺のようだった。
 俺が慰める前に美月は笑顔を浮かべた。
「一輝は優しいね。何の得にもならないのに傍にいてくれて」
 笑ってるはずなのに、次の瞬間には壊れてしまいそうなほど弱々しい。そう感じたのはその時だけで、すぐに普通の少女に戻った。
 俺と美月は色々な話題に花を咲かせた。お互いの家族のこと。俺の友人達のこと。学校のこと。病院での生活のこと――果ては政治のことまで。今の総理大臣は他人事のようだとか、ありとあらゆることが話題になった。
 二人でいるこの瞬間が、他愛のない会話をする何気ない時間がとても大切に感じられた。
 俺が笑い、君が笑う。ただそれだけなのに。
 ただそれだけの些細なことすら許されなかった。俺達の人生は常にどん底で、安らぐ時がなかった。今だけは解放されてもいいはずだ。そう、今だけは……。
 美月はやけに興奮していた。今までの鬱憤を晴らすかのように喋り続けている。そんな彼女を、俺はどこかで見た気がしていた。何かにすがるような必死さ――その様子に違和感を覚える。胸がちりちりする。
 彼女を落ち着かせるべきなのか。しかし、途中で話を止めるのは気が引ける。俺はこの時間が楽しいし、彼女もきっと楽しいはずだ。
 心配は徒労に終わるはず。そう自分に言い聞かせた。何度も何度も、呪文のように。だが、不安は治まるどころかどんどん高まっていく。
 その時だった。
 美月は突然苦しそうに胸を押さえだした。それはまるで発作を起こしたかのようだ。全身から汗が噴き出し、見る見るうちに顔面が蒼白になっていく。彼女の症状は明らかに異常だ。俺の発作とは違って危険な物に思えた。死と隣り合わせのような、そんな匂いがする。
 俺は美月の肩を支え、分かりきったことを聞いた。彼女は首を横に振り、絞り出すように答えた。
「……大丈夫じゃ……ない……」
 目の前で苦しむ美月に、俺は気が動転し、あたふたして何も出来ずにいた。とりあえずはナースコールを押すものの、スピーカー越しに応対する看護師に「美月が!」としか言えなかった。後は看護師が来るまで手をこまねくしかない。
 俺の慌てように緊急性を感じたのか、十秒と経たずに看護師が駆けつける。
「大丈夫ですか、成瀬さん」
 苦しそうに何かを答える美月。
「すぐに先生が来ますから、安静にしていて」
 そう言いながら美月を寝かせると、視線を俺に向け、面会者は外に出るようにと言い放った。有無を言わさぬ態度に気圧され、しぶしぶ病室の外に出た。
 廊下で立ち尽くす俺の前を医者が通り、美月の病室に入っていく。室内が少し騒がしくなるが、それもすぐに収まった。
 医者がホッとした顔で出てきて、とぼとぼと帰って行く。少ししてから看護師も出てくるが、俺に対して冷たい目を向けた。
「少し落ち着いたけど、無理はさせないで下さい」
 そう言い放つと、足早に去っていく。それを見届けてから病室の前に立った。入るべきか迷っていると、俺を呼ぶ美月の声が聞こえた。それはか細く、今にも消え去りそうなほど弱々しかった。
 意を決して室内に入ると、美月が俺を見て苦笑いを浮かべる。
「良かった……まだいてくれて……」
 俺はベッドの側に行き、膝をついた。まだ何かを言おうとしたので、それを制した。
「俺はまだここにいるから安心してくれ。美月が落ち着いたら話を聞くから」
「うん……ありがとう……」
 発作は治まったようだけど、美月は酷く疲れている。虚ろな目、紫がかった唇、血の気の失せた頬、そのどれもが痛々しかった。
 時間が経ち、少しずつ生気が戻ってくる。だが、じっと見つめる俺と目を合わせようとしない。
 見られたくない物を見られた。
 知られたくないことを知られた。
 美月の表情が彼女の気持ちを如実に物語っている。せっかく得た友人を失ってしまう。それを恐れているかのようだった。
 美月はゆっくりと口を開く。
「これが私の発作なの。心臓が弱くてね、いつ死んじゃうか分からないの」
 寂しそうに、それでいて他人事のように。
「特発性拡張型心筋症。それが私の病気よ」
 彼女の説明はこうだ。心臓の筋肉が収縮できずに伸びて心臓が拡張。ポンプ機能が低下し、循環にも異常をきたす。最悪、突然の心停止による死が考えられている。根本治療は心臓移植しかない、と。なるほど、だからこの病院に心臓外科医の権威がいるのか。
「先生の話だと私の命はもって一年。こうして生きてること自体が奇跡なの」
 自らの口で死刑宣告をする。それがどれだけ辛いことか。自分の病気を話す美月の表情は、どこまでも曇っていく。俺は返す言葉を失い、黙って見つめているしかなかった。
 全てを話した美月は、一度だけ優しく笑ってから目を閉じた。
 彼女から離れていった友達のように俺が消えるのを待っているのか。
 目を開けた時、誰もいない部屋を見て嘆くのか。
 今も言い知れぬ不安に胸を引き裂かれているのか。
 美月の発作は死を呼ぶ発作。
 今ここで死んでもおかしくない。
 絶望に心を痛める美月。
 生きる希望さえ抱けない美月。
 そんな美月に対して、俺はどうすればいいのか。
 逃げ出すのか、それとも亡くなるその日まで傍にいるのか。

 ――万が一のことがあれば、今度こそ君は立ち直れなくなる。

 先刻の精神科医の言葉を思い出す。彼はこのことを言っていたのだ。美月と関われば否が応でも失う恐怖を持ち続けることになる。失う痛みを味わうことになる。それを背負うことが俺に出来るのか。支えることが出来るのか。そして、共に歩むことが出来るのか。彼女亡き後俺は――
 目の前が真っ暗になった。遠香を失った時の喪失感、これまでの絶望の日々が浮かんでは消えていく。二年の歳月は傷跡を消し去れず、遠香を救えなかった苦しみは俺の心を蝕み続けている。
 今もなお遠香に囚われている俺が美月の傍にいる。そんなことは許されるはずがない。今すぐにでも去るべきだ。軽い気持ちも同情もお互いを傷つけるだけ。だから美月が目を開く前に病室を出よう。そう決心した。
 美月は唇を固く結び、全身を震わせている。それを一瞥して俺は立ち上がると、彼女に背を向けた。病室の外に向かい、足を踏み出す。扉の前に着くまでの時間が永遠のように思えた。
 扉に手をかけて息を呑む。
「……かずき……」
 限りなく小さく、限りなく弱い美月の声。僅かな希望にすらすがれない現実。彼女はどれだけ辛さを噛みしめてきたのか。その痩せた体でどれほどの絶望を受け止めてきたのか……。
 美月のことを考えるほど胸が締め付けられる。
 振り向いてはいけない。振り返ってはいけない。そう自分に言い聞かせ、手に力を込める。これでさよならだ。

 ――私は会いたい! またあなたとこうして話したい!

 あの日の美月の必死な表情。俺との再会を望み、喜ぶ優しい笑顔。たったの二日間の思い出なのに、なぜ大切に思えるのか。なぜこれほど尊いのか。考えるまでもない。答えなど端から分かっていた。
 俺は振り返り、美月を見据えた。彼女が目から涙をこぼしている。声にならない悲しみでシーツを濡らしている。それを見て我慢できず、彼女の名前を呼んでいた。
「美月!」
 俺は傍に歩み寄り、美月の手を握りしめた。彼女は驚き、目を見開く。
「どうして戻ってきたの?」
 信じられない物を見るかのように俺を見つめる。
「私といてもいいことなんて無いのに。明日には消えてるかも知れないのに。それなのに何で?」
「そんなの関係ない!」
 彼女の言葉を遮るように声を荒げた。呆気にとられた美月に優しく言う。
「君は今もこうして生きているんだ。俺の前にいる。ちゃんと息をしてる。笑うことだって出来るんだ。この先に希望はないかも知れない。目の前にあるのは絶望だけかも知れない。それでも、楽しいことはきっとある。思い出はこれからも作っていける」
 それはまるで自分に言い聞かせているかのように。一言一言大切に紡いでいく。
「君が望むのなら俺はここにいるよ。君のためになるのならずっと傍にいるよ。だって、それが俺の望みだから」
 俺は美月に惹かれている。ただそれだけの理由が俺の背中を押した。

 遠香、これでいいんだよな。

 遠香のことを忘れ、これからは美月のために生きていく。けして恋人とは言えない危うい関係だとしても。この先に不幸が待っているとしても。美月が生を全うできるように支えていく。それはまるで遠香への贖罪のようだ。
「本当に良いの?」
 俺は頷く。
「私なんかでいいの?」
 黙ったまま頷く。
「いつ死ぬかも分からないのに?」
 首を横に振って言った。
「今は生きてる。それだけで十分だ」
 今はまだ声が聞ける。触れられる。そんな些細なことがどれだけ大切なのかを俺は知っている。美月にも知ってほしい。
 俺は美月の頬にそっと触れ、優しく笑いかけた。
 彼女は驚きのあまり言葉を失い、しばらく呆然とする。ことの重大さに気付いたのか、涙が溢れ出て来た。そして、精一杯の笑みを作って俺の名前を呼ぶ。
「一輝!」
 美月が俺の背中に腕を回し、顔を胸にうずくまらせる。俺は彼女の背中に触れ、そっと抱き寄せた。と同時に歓声が上がり、それに後押しされて見つめ合う。

 ――歓声?

 そんな疑問を抱き、俺達は首を傾げた。同時に恥ずかしさがこみ上げてきて、慌てて離れた。二人の間に気恥ずかしい空気が漂う。それより何より背後に感じる気配が気になって仕方ない。
 部屋の外を見てくると小声で伝えると、素早く扉を開いた。
 多くの視線と目が合う。
「何をしてるんですか」
 冷ややかな目で言うと、いつの間にか集まっていた患者や看護師が苦笑いを浮かべながら散っていった。よほど暇なのだろうか。いつから聞かれていたのか。言いたいことは山ほどあるが、今は追求するまい。
「しらけちゃったね」
 本当にその通りだ。だが、この連中に邪魔されなければどうなっていたのか。俺が美月の――く、くちびるに……?
 その事実に今さら気付き、途端に顔が紅潮する。邪魔されたことを感謝すべきなのか。雰囲気を壊され、美月が不機嫌そうだ。でもまあ仕方ない。それに、俺達は感情に流されるわけにはいかないだろう。全てのことを大切に紡ぎ、重ねていくべきだ。彼女も同じ気持ちでいてくれてると信じてる。
 俺が美月を見ると、彼女は笑った。とても優しい、可愛らしい笑顔で。
 この笑顔をあと何度見られるのか分からない。だからこそ尊いものなのだと、今の俺は強く思った。
 この頃から俺の発作はぴたりと治まった。

              ◇    ◇    ◇

 いつかあなたは言ってくれたよね、“ずっと傍にいるよ”って。
 あなたの言葉が例え嘘だとしても、私は嬉しかった。
 すぐに別れが訪れたとしても、最期を看取ってもらえなくても。
 そんな私にあなたは幸せの意味を教えてくれた。
 今、私は生きてる。
 こうしてあなたの声が聞けるし、触れることも出来る。
 それが幸せの形なんだって。
 私があなたを見ると笑ってくれたね。
 それが嬉しくて私も笑顔になれた。
 そんな日々が本当に大切で、他愛のない会話の全てが私の宝物。
 もう取り戻せないけど、だからこそ大事なの。
 失いたくないの。
 あなたにとってもそうであってほしいな。
 ううん、そうだと信じてる……。



   第三章

 俺が中学生になる少し前、淡い初恋を失った。
 あの頃の俺は幼くて、この世の中に絶望があることを知らなかった。いつまでも一緒にいると誓った子に拒絶されるまでは。
 あの日、悲痛に歪むあの子に別れを告げられた。あの子が何を悩み、苦しんでいたのか――それすら分からぬまま。そしてあの子は引っ越し、あの明るくて優しい笑顔を二度と見ることはなかった。
 その後の一年は暗い日々だった。何も手につかず、全くやる気が起きない。そんな俺を明るい世界へと誘ったのが二度目の恋だったのだ。
 中学二年生になった俺の前に一人の天使が舞い降りた。いや、舞い戻ってきたと言うべきか。新入生の中に一際輝く映る一人の少女、その子こそが一年ぶりに会う片倉遠香だったのだ。
 遠香は見違えるほどキレイになっていた。幼さの残る顔に、中学生になったばかりとは思えない大人びた雰囲気。その儚げな笑みに俺は心を奪われてしまう。だが、また拒絶されると思うと怖くて近寄れない。俺の気持ちが恋になることはないのだろう。そう漠然と考えていた。
 そんなある日、遠香は俺に気付き、側に来た。びくつく俺をあざ笑うかのように気さくに声をかけてくる。
「先輩、お久しぶりですね」
 俺は昔から遠香の声が好きだった。その仕草も、何もかもが俺の心をくすぐる。今でもその気持ちに変わりない。
 俺のぎこちない返事を訝しみ、何かを思い出してすまなそうな顔をした。
「そうですよね、あんな別れ方をしたのに会話なんて出来ないよね」
 自分が悪いのだから仕方ない、と付け加えて残念そうにする。俺に背を向け、去り際にこうも言った。
「私の気持ちは変わってないよ。今も先輩が好き。それだけは知っててほしいから」
 俺だって好きだ。今ここで遠香を抱きしめたい。でも、あの拒絶の言葉と一年の歳月がそう簡単に許してくれなかった。もう拒絶されるのは嫌だ。
 自分のことで精一杯だった俺は、遠香が名前で呼んでくれないことの真意に気付かず、深く考えもしなかった。その後、一度として呼ばれることはなかった。この時すでに変化は目に見えて表れていたのだ。
 それからの遠香は積極的だった。登校時は偶然を装い、昼休みは食事に誘い、下校時は待ち伏せる。そんな彼女のおかげか、わだかまりは薄れていった。
 また以前のような二人でいられる。以前のように好きだと言ってくれる。そう思うと、再び未来が輝きだした。
 俺達は恋人になり、遠香は離ればなれになってからのことを話してくれた。義父が彼女を養えなくなり、義伯父夫婦に預けられたこと。それが理由で引っ越したこと。俺に会いたくて戻ってきたことなど。
 俺と話す遠香は嬉しそうだったけど、いつもどこか遠くを見ていた。彼女の傍にいられることが俺の幸せ。俺の全て。だから、その行為の本当の意味を知ることはなかった。
「先輩、私……凄く幸せ」
 口づけを交わすと決まってそう言い、俺に身を預けてくる。次第にそれ以上の関係を求めるようになった。中学生だからまだ早いと断り続けるが、少しずつ大人の関係という物を意識していく。
 いつかは遠香の全てを受け入れる日が来る。身も心も全て。それを彼女は望んでいるし、俺も望み始めている。その一方で、そんな日は本当に来るのかと疑問を抱いていた。
 遠香への気持ちが高鳴るほどに不安が募る。彼女を知れば知るほど、失うことの恐怖が膨れあがってくる。
 遠香の心はガラス細工のようで、簡単に壊れてしまうのではないのか。いざ捕まえようとすれば、この手から滑り落ちていくのではないのか。その不安がまさか現実になるとは思いもしなかった。
 今になって悔やむ。あの時、遠香の本当の気持ちに気付いていれば――ちゃんと受け入れていれば、と。

              ◇    ◇    ◇

 じめじめとした空気と夏の強い日差しが俺の体力を奪う。噴き出す汗を拭き取りながらいつものように病室に入ると、手提げ袋から本の束を取り出した。無造作にテーブルに積むと、側にある椅子に腰を下ろした。
 山積みにされた本を透き通るような白い肌が触れる。
「いつもありがとう」
 優しく笑いながら言うと、美月は本を開いて中身を確認し始める。その様子を横目で眺めながら深くため息を吐いた。
 室内は冷房のおかげで若干暑さが和らいでいた。病院だからコンビニとまではいかないまでも、比較的快適に過ごせる。そのおかげか、美月は涼しげな顔で黙々と作業を続けていた。
 美月は心臓が弱い。いつ死んでもおかしくないほど病弱だ。それを知った日、苦悩の末、彼女の傍にいることを選んだ。
 それから約半年、その答えが本当に正しいのか今でも分からない。でも、こうして今もここにいる。それだけで十分だ。
 作業を終えた美月から本を受け取ると、殺風景な病室に異様な存在感を示す本棚に並べていく。本棚には宮沢賢治や夏目漱石のような日本の文豪やシャルルやデュマと言った外国の作家、果ては最近のライトノベルまである。趣味は読書らしいが、ジャンルは非常に幅が広い。
 今までに買い集めた本はかなりの量だ。以前は二・三冊を手元に置いていたが、いつでも読めるようにと本棚を設置したのは少し前のこと。俺が病院と交渉し、邪魔にならなければ、と許可を得た。美月はずっと病院にいるし、趣味の一つぐらい自由にさせてやりたい。そんな俺の気持ちを、美月は喜んでくれた。ちなみに、本棚を組み立てたのは暇人の俺なのだが。
 ふいにカバーでタイトルの分からない本の一群が目にとまる。前からあるな、と気になっていた。
「ああ、それはね、一輝が買ってくれた本だよ。ほら、誕生日とか他の日にプレゼントしてくれたのとか。汚れたりしないようにしてるの」
 とても大切な宝物なのだという。そういえば誕生日の時にせがまれたんだっけ。年頃の女性だからアクセサリーとかを欲しがると思っていたから意外だった。
 ちらりと美月の手元を見る。彼女の指にはきらりと光る指輪がはめられている。本と一緒にあげた物で、えらく気に入ってくれている。
「どうしたの?」
 悟られぬように視線をそらし、何でもないと言って近くの本を手に取る。だが、ごまかすつもりでとった行動がいけなかった。
「いつも本を読まない一輝が何をしてるの? 怪しいな」
 疑いの眼差しを向ける美月に、仕方なく思ったことを話した。すると、彼女は頬を赤らめて追求を止めた。そして指輪に触れながら微笑む。
 なぜ俺がこうも素直に話したのか。俺が優しいとか、根が素直だとか、そういうことではない。たんに美月が怖いからだ。
 彼女はこう見えて性格が悪い。しばしば看護師を困らせるし、俺にも意地の悪いことを言う。疑問への追求は容赦ない。それで何度も痛い目にあった。人の気持ちを利用しやがって。そう独りごちた。
 美月は俺に出会い、周囲に当たらなくなったらしい。矛先が俺の向いたからと言う人もいるが、その分、優しさも向けてくれる。特別な相手だと思ってくれたのだろうか。
 あれから俺達は触れ合うこともなく、友達以上恋人未満の関係を続けている。距離は近いからたまに触れることもある。その時は照れ笑いでごまかしたりする。お互い好きだと言わず、ただ傍にいるだけ。求めてもいいのか分からない。その結果傷つけてしまうかも。その辺のことを美月はどう思っているのだろうか。
 本を戻しながら、気になって美月を見た。
「ねえ、一輝」
 タイミング良く呼ばれ、驚いて返事が裏返ってしまう。美月が怪訝な顔をし、俺は余計に慌てた。だが、意外なことに食いついてこなかった。
「まあいいや。それよりも聞いて。この間の検査結果が凄く良かったの。見違えるように改善してるって。このままいけば来年も元気でいられるかも。それもこれも一輝のおかげだね」
 満面の笑みで自分の余命を語る美月。出会った時に、命はもって一年と言っていた。余命を告げられるのはどんな気持ちなのか。死刑宣告を受けた彼女の気持ちは。
「前はね、とっても辛かったよ。ご飯も喉を通らなくなったし、今すぐ死にたいって思ったわ。でも、今は違う。一輝が傍にいてくれるから。一日でも長く一緒にいられたらいいね」
 そう言って美月は遠くを見た。今までのが嘘のように笑顔は失せ、寂しそうにする。何か辛いことがあるのか。俺が聞くと、少し間を置いて答えた。
「今日で夏休みも終わり、って思ったら何だかね」
 夏休みの間、ほとんど病院に入り浸っていた。だが、明日からはそうもいかない。これまでも夏期講習があったりしたが、明日からは通常の授業が始まる。俺はこれでも受験生だ。適当にしてもそこそこ勉強は出来るが、受験となると話は別だ。暇な時間は減るし、美月と一緒にいられる時間も。
 大学に行かないという選択肢もあるが、就職はまずい。会える時間がさらに減る。そもそも夢のない俺は進路を決めかねていた。
「夢が出来たら一番に話してね」
 以前、美月にそう言われたことがある。彼女は俺のやる気の無さを心配してるのだ。私がいなくなった後はどうするのか、と。だが、将来が存在しない美月に夢を語るのは心苦しい。それに、元気な彼女を見ていると、それだけで満足してしまう。もう少し後回しにしてもいいよな。そう言い聞かせて先延ばしにしていた。
 それよりも、目下、大きな問題がある。美月との時間をどうやって作るか。何かいい案はないのだろうか。
 悩む俺の傍で美月が何か言いたげに目を泳がせていた。それに気付いて促すと、それから逡巡し、恥ずかしそうに言う。
「私も一輝と学校に行きたいな」
「はあ?」
 もじもじする美月の発言に言葉を失った。この娘は何を血迷ったことを言うのか。おいそれと出かけられる体ではないし、ましてや学校に行きたいなんて正気の沙汰とは思えない。そもそも在籍もしていない。希望を叶えてやりたいが、どうすればいいのか。
 いつの間にか方法を真剣に考えていた。
 俺は美月に甘い。ぱしりにされても言うことを聞いてしまう。
「やっぱり無理よね」
 と残念がる美月を見ると、何とかしたいと無性に思ってしまう。俺一人では良案は思いつかず、半分諦めかけていた。
 その日の帰りがけ、病院の廊下で美月の主治医に出会した。相手は俺のことをあまり良くは思っていないが、よほど神妙な面持ちでいたからか声をかけられた。美月に何かあったのか、と。どうも俺は美月の機嫌のバロメーターになっているらしい。俺が険しい時は要注意なのだ。
 美月が学校に行きたがっていることを話すと、なぜか診察室に連れてかれた。
「検査結果が良いというのは、正確には違う。予想とは違い、悪化してないだけなんだ。前向きでいれば長く生きられる。そう思って彼女に説明をした」
 機密である美月の病状の説明を受け、難しいことを再確認した。だが、医者は思いも寄らぬことを口にする。一日ぐらいなら可能だろう、と。
 俺は自分の耳を疑った。素人目にも難しいのは分かるのに、専門家が許可を出すとは。「当然、無理はさせられない。成瀬さんの病気で一番怖いのは突然死だ。だがな、ただ死を待つだけではあまりにも可哀想だ。少しでも思い出を……それを本人が望むのなら叶えてやりたい。君もそう思うから悩んでたのだろう?」
 医者の言うとおりだが、昨日までの敵に言われてもなあ……。
「学校の説得は君が責任を持ってしてくれ。家族へは私から話しておく。当日は我々がしっかりバックアップするから心配するな」
 そんな協力的な発言は、暗に美月の心臓の悪さを物語っていた。この先、学校に行く機会はないのかも知れない。それが余計に心苦しくさせる。
 美月の願いを叶えるため、俺は奔走した。教師陣を説得し、悠人達にも美月のことを話した。悠人達は誰かのために動く俺に驚き、そして喜んでくれた。俺の必死さは学校にも伝わり、九月の中頃にようやく話がまとまった。美月の家族も最後まで渋ったが、折れてくれた。当分は恨まれるだろう。だが、全ては美月のため。少しでも一緒にいたいと願う彼女のため。
 そして、登校日を迎え、俺は一足先に学校に来た。
「それにしても驚いたぞ。俺らの知らぬ間に一輝が彼女を作っていたとは。どうりで最近、付き合いが悪いわけだ」
 悠人はどこか嬉しそうに言う。俺が立ち直ったことを素直に喜んでくれているのだ。だが、美月は正式な恋人ではないし、他人との付き合いも元々悪い。そろそろ二人の関係を真剣に考えた方が良いのかも知れない。
「成瀬美月さんか……どんな人なんだろう。友達になれるかしら」
 長津田もやけに楽しみにしている。とても綺麗で可愛らしい娘だと教えておいた。どうせ猫をかぶるだろうから性格は言及しないでおこう。分かってるとは思うが、くれぐれも大きな騒ぎにはしないでくれよ。そう彼らには念を押した。
 そうこうしている間にも時間は過ぎていった。
 俺は授業が始まる頃に教室を抜け出した。さぼりたいからではなく、美月を校門に出迎えるためだ。正直なところ、堂々とさぼれるのは嬉しい。
 そんなやましいことを考えていると、目の前に一台のタクシーが止まる。中からは美月の主治医と母親が出て来た。母親に挨拶をすると、予想通り苦虫を噛み潰したように顔をしかめる。医者以上に俺が気に入らないのだ。
 俺は悔しさを堪えながら後から降りる美月に手を貸し、車椅子に座らせた。簡単な挨拶をすませると、美月が校舎へと目を向ける。
「これが一輝の学校かぁ。本当に来られるとは思わなかったよ」
 周囲の気持ちを知ってか知らずか、本当に嬉しそうだ。はしゃぎすぎないように自制してるのだろう。立ち上がりそうな勢いを必死に止めている。
 今日はまだ時間はある。ゆっくりと楽しめばいい。そう言うと、美月は俺を見て強く頷いた。そうだ、まだ時間はある。ゆっくりと前に進めばいい。
 俺と一緒に出迎えに来ていた校長が美月の前で腰を下ろし、彼女に声をかける。
「成瀬さん、十分に楽しんでいきなさい。我が校はあなたを歓迎します」
 美月は丁寧に返事をし、お辞儀をした。俺には絶対にしない丁寧な対応。美月にも出来るのだと驚きの目を向ける。それに気付いた彼女は、周りに気付かれぬように俺の手をつねった。この性悪女め。
 一時間目の授業が終わるまでの間、学校内を案内することにした。玄関、売店、体育館や運動場、職員室や校長室などを見て回る。
 小学校以来の学校。美月はどんな思いでいるのだろうか。ちらちらと表情を窺っては目が合い、慌てて目をそらす。そのたびに彼女から笑みがこぼれる。
「なんか、今日の一輝はおかしいよ」
 そりゃ、おかしくもなるさ。たったの一日だけど、美月と学校生活を送れる。こんな夢のような瞬間を喜ばずしてどうする。そんな俺の熱弁を、彼女は照れ笑いを浮かべて聞いていた。
「そろそろ教室に行こうと思うんだけど」
 喋ることも忘れて周囲を見渡す美月に言うと、彼女は俺を一瞥して頷いた。
 俺には当たり前の場所だけど、美月にとっては違う。普通に通い、友達と遊ぶ、誰もが当然持っている時間を病院で過ごしてきた。どんな思いでいたのか、少しは分かるつもりだ。だからこそ、今日という日を大切にしたい。
 他の教室の前を通ると、中の生徒が俺達に気付き、ざわざわし始める。授業の最中に廊下にいること自体不自然なのに、一人は車椅子の美女なのだ。一瞬で注目の的になった。一部の男子生徒が手を振ると、美月はにっこりとして手を振り返す。それが余計に騒ぎを大きくした。
「あまり相手にするなよな」
 美月の耳元で言うと、彼女はきょとんとする。どうしてかと聞く美月に、口ごもりながら答えた。
「他の男に色目を使うのを見たくないんだ」
「えー、駄目なの? 一輝以外は見るなって? でも、そう言われると余計にしたくなるよ。一輝って可愛いんだね」
 何だか照れくさくなって視線をそらす。そもそも美月を独り占めするような発言をした俺が軽率だった。
 反省する間もなく俺の教室に辿り着いた。授業が終わると他の教室から生徒がなだれ込むだろう。それだけは回避せねばなるまい。先生には悪いが、チャイムが鳴る前に後ろの扉から教室に入ることにした。
 統制が利いてるのか、生徒は誰一人として騒がない。ちらちらと美月を見るだけで黙ったまま。何かあるのだろうか。教壇に立つ教師が咳き込み、視線をそちらに向けた俺はこけそうになった。
 心配する美月に、黒板を見るように促す。彼女は黒板に描かれた文字に目を丸くした。
「授業もしないで何をしてるんですか!」
 俺のつっこみはどこ吹く風。教室の中央に道が空き、そこを通って教壇まで行く。振り返りクラスメート達の方を向くと、彼らはかけ声と共に黒板の文字を読み上げた。
『歓迎、成瀬美月さん! ようこそ三年四組へ!!』
 それと同時に歓声が上がり、クラッカーが弾け飛ぶ。その音の裏でチャイムが鳴り、教室の外には人だかりが出来た。あれだけ騒がしくするなと言ったのに。呆れる俺の横で今日の主賓が口をぽかんと開けていた。俺も聞かされてないのだ。彼女の驚きは計り知れない。
 美月は俺を見て、どうすればいいのか問う。笑えばいいと答えると、少し迷って笑顔をみんなに向けた。
 更なる歓声に俺は頭を抱えた。高校生とはいえ、まだまだ子供なのだ。これぐらいのことは想定するべきだった。クラスメートは美月に群がり、次々に話しかける。可愛いねとか、綺麗だねとか言われるし、他にも怒濤のような質問に彼女は律儀に答えていった。五分と経たずに疲労が見て取れ、俺は間に入って止めた。様子がおかしいことに気付いた悠人達が手伝い、何とか騒ぎを収められた。
「美月、大丈夫か」
 俺の問いに、美月は苦笑いを返すだけ。とりあえずは彼女が落ち着くまで誰も近づけないようにした方がいいな。
 俺は周りに睨みを利かせながら美月の心配をし、彼女はそんな俺に信頼を寄せる。そんな光景が幾度となく繰り返されると、周囲からため息が漏れた。やっぱり付き合ってるんじゃないか、と。
「ねえ、一輝」
 美月は俺の袖を掴む。
「私、一輝に迷惑をかけてるのかな」
 すまなそうにする美月に、俺は笑いかけた。首を横に振り、優しく答える。そんなことはない、と。悪いのは騒ぐあいつらだ。よくも美月にこんな顔をさせたな。俺は密かに憎悪を募らせておいた。
 やがて美月も落ち着き、俺の隣で授業を聞き入っていた。休み時間には近くの席の生徒と交流を深めていく。彼女は本当に楽しそうで、そんな彼女の笑顔を見る度に嬉しさがこみ上げてくる。
 やがて昼休みになり、美月は長津田に連れられて女の輪の中に入っていく。その前に長津田に念を押した。
「美月には運動させたり驚かせたりするなよ」
「分かってるって。相原くんは心配しすぎよ。ねー?」
 長津田は美月に同意を求める。美月は苦笑いを浮かべながら頷いた。そして彼女らはだべりながら昼食を取り始めた。女同士の方が何かと会話も弾むだろう。その様子を横目で見ながら一息吐いた。
 友人達には美月が病弱だとしか伝えていない。心臓の病気だと知れば接し方に困るだろう。おいそれと教えられないが、長津田ならその辺も察してくれるはず。彼女に任せておけばそれほど心配はない。
 机に突っ伏して体の力を抜いた。思考を空にして疲労回復に努めた。食事は――昼休みが終わる直前にかき込めばいいか。
 それからしばらく時間が過ぎ、昼休みの終わり頃になって悠人が来た。
「美月ちゃんって本当に可愛いよな」
 何を今さら当たり前のことを言うのだろう。呆れながら顔を上げると、悠人は複雑な面持ちで俺を見下ろしていた。
「お前ら、本当に付き合ってないのか。傍目には恋人にしか見えないぞ」
 悠人が言うのはクラスの共通認識のようだ。だが、出会って七ヶ月、恋人らしいことは何一つしていない。触れ合うことすらしない関係をはたして恋人と呼べるのだろうか。
「それは難しい問題だが、心が繋がっているのならそれでいいと思う。触れ合えないのも理由があるんだろ?」
 理由――そんなのが本当にあるのだろうか。一緒にいることを望みながら、俺は心のどこかで距離を置いている。深く踏み入ることで、何か大切な物を失ってしまう。そんな気がしてならないのだ。
「常に違和感がするんだ。何かが違うような……どこかで間違っているような……」
「遠香ちゃんのことで神経質になってるんだよ、きっと。手に入れたと思うたびにこぼれ落ちていく。お前の人生はそんなことの連続だからな」
 何かを望むことがこんなにも恐ろしい。遠香を失うたびに味わった絶望。そして今回も失うことを前提に美月といる。何も失いたくない。失わせたくない。叶うのならずっと握りしめていたい。それが許されずとも。
 だが、現実は無情だ。こうして美月が笑顔でいるのは奇跡なのだ。それなら、その現実の中で俺はどうすべきなのか。
 考えれば考えるほど悩みの渦に沈んでいく。そんな俺を見かねて、悠人はため息を吐いて言った。
「俺から言えるのは一つだけだ。美月ちゃんとのこと、遠香ちゃんへの贖罪と思うな。美月ちゃんを見て美月ちゃんの為になることをしろ。それがひいてはお前の為になる」
 その時の悠人の言葉がどれほど大事なことなのか。今の俺には理解できなかった。
 チャイムが鳴り、美月が戻ってきた。なぜか頬を染めていて、俺と目を合わせようとしない。クラスの女子に何か言われたのか。聞いてもはぐらかされてしまう。しつこく聞いていると腹の虫が鳴り、美月に笑われた。そう言えば悠人との会話ですっかり昼食を忘れていた。
 午後の授業が始まると、教科書を立てて、その影で弁当を貪る。
「あー、早弁だー」
 面白がる美月に訂正する。早弁ではなく、遅弁だ。そのやりとりが教師の目を引いてしまい、注意された。廊下で立たされてもおかしくないのだが、美月のこともあり今回は許された。嫌な意味で注目の的になったようだ。
 そうして午後の時間も過ぎ去り、下校時刻を目前に迎えた。この一日で仲良くなった女生徒からの遊びの誘いを丁重に断り、人がまばらになるのを待つ。断ったかわりに美月とのことで質問攻めにあった。
 どんな出会いだったのか。関係はどこまで進展したのか。相手のどこが好きなのか。しまいにはキスの味は? とか聞かれて俺は憤慨した。もう勘弁してくれ。
 そんな俺の悲痛の叫びは誰にも届かない。美月さえも面白がってる節がある。
「出会いは病院の屋上なの。一輝がなぜか突然泣き出してね。私が抱きしめて慰めてあげたの」
 美月の言うことに虚偽は一つとしてない。だが、掻い摘んで話すと釈然としないのは何故だろう。そして、それが周囲の想像を上手にかき立てる。一言一言に歓声が上がる。他人の恋路がそんなに楽しいのか。
「それでね、病院だと人目が気になってキスも出来ないの。しようとすると必ず邪魔が入って……まだ一度も……」
 頬を染めて視線をそらす姿は妙に違和感がある。昼休みの時の素直な反応とは違い、わざとらしい。それにしても、事実も表現によってここまで卑猥に聞こえるとは。美月の言葉は凶器だ。
「私達の関係は……そうね……普段は手を繋いだり見つめ合ったり、抱きしめあったりする仲かな。一輝ったらうぶだから、未だにぎこちないの」
 言葉の通りの意味なら凄いことだ。それで人目を気にするなんて、よく言えるよ。だが、その濃密に聞こえてしまう話で、ボルテージがどんどん高まる。一人の女生徒が美月の指に気付いた時、最高潮に達した。
「え? 指輪? ええこれはね、私の誕生日に一輝がプレゼントしてくれたの。私はいいって言ったのに。でもね、嬉しくて嬉しくてこうして肌身離さず着けてるの。一輝も気付いてくれて、時々見てるの。それが恥ずかしくって。これは私の大切な宝物」
「――って、何でそこだけ細かく話すんだよ」
 思わず口を挟み、そこで自分の失態に気付いた。美月の口車に乗せられて墓穴を掘ってしまった。これでは全てを肯定したような物だ。
 美月はニヤリとし、俺の腕に自分の腕を絡めてくる。と同時に、冷やかしの声と共に罵倒が混じって聞こえた。背中に刺さる悠人の視線が凍えるほど冷たかった。
「最後の質問は何だっけ――そうそう、一輝のいいところはね、優しいところかな。私のこと、ずっと支えるって言ってくれたの。あの時はプロポーズを受けた気分だったな」
 そこまで聞いてがっくりとした。恥ずかしさのあまり、美月の顔が見られない。
 どうして女の子はこういう話で盛り上がれるのか。どうしてこんなに興奮するのか。俺が呆れてる間に、一通り聞けて満足した女生徒が散り散りになった。口々に別れをし、教室内はすぐに静かになった。
「なあ美月、疲れてないか」
 目を合わせないように表情を窺う。
「ちょっと疲れたかな。こんなに喋ったの、久しぶりだから。いつもは何だかんだ言っても一輝が私に気を遣ってくれるから」
 過度の疲労や興奮は心臓には良くない。だからこそ、気を遣うのは当たり前だ。だが、今日はかなり無理をさせた。
「でもね、すごく楽しかったよ。これで最後だと思うと感慨深いね」
 そう言う美月の横顔が寂しそうで、胸が締め付けられた。そんな顔をさせたくなくて学校に連れてきたのに。
 俺が落ち込んでいると、美月は俺の手を握り、首を横に振った。
「それは違うよ。私はすごく幸せ。だって、一輝と一緒にいられたんだよ。こうしてここに……ね?」
 結局、美月に慰められてしまう。彼女に出会った日から成長できていない。前に進めてない。
 そんな暗い雰囲気を壊したのが悠人だった。彼は俺の肩を掴み、呪いをかけんばかりの迫力で迫る。
「どこが恋人じゃないんだ。いつまでもイチャイチャしやがって。俺の誘いを断っていつも何をしてるのかと思えば、病院で美月ちゃんとラブラブデート――これは俺への侮辱、冒涜だよな」
 悠人は俺の首根っこを掴み、鋭い眼光で見る。俺は視線をそらし、苦笑いを浮かべて頬をかいた。
「洗いざらい話してもらおうか。美月ちゃんが話したことをお前の口から。彼女の話は事実なのか」
 悠人の迫力に負けて、しぶしぶ頷く。そして、即座に弁解した。美月の表現のせいで卑猥に聞こえるだけで、深い意味は全く無いと。抱きしめられたのもキスをしかけたのも一度だけ。そんな俺の説明に美月が同意したので、悠人は納得してくれた。
「それならどうしてちゃんと付き合わないの?」
 と長津田が話に入ってくる。その手にはなぜか中山の首が収まっていた。
「お互いをそれだけ大切に思ってるのなら何の問題もないのに」
 その疑問は尤もだ。美月を支えると決めてからずっと抱いていた疑問。お互いが切り出すのを渋っていたこと。それを他人の手でさらけ出された。
 美月はどう考えてるのか。彼女の顔を窺い、気持ちを探る。彼女も同じように俺の顔をちらちら見る。そんな煮え切らない態度に、悠人は痺れを切らした。
「ああ、もういい。よく分かった。お前らに恋人の定義を話しても無意味だってな。そうやっていつまでも子供でいればいい。大人になることを恐れて縮こまってればいいさ」
 そう言って悠人は教室を出て行った。長津田もそれを追って出て行く。残された中山がのそりと起き上がった。
「理由があるんだろ、相原達には。でも、後悔だけはしないようにしろ」
 それだけ言うと、中山も二人の後を追った。
 後悔だけはするな。
 その言葉が胸に突き刺さる。中山は美月の病気を知ってるのだろうか。そう思えるほど、中山の声には強い意志が感じられた。
 俺は美月を見た。彼女も俺を見る。言葉にはしないけど、この時に美月は心を決めていたのかも知れない。
 校舎を出ると、おぼつかない足取りで右往左往する美月の母親が目に入った。授業中も時々様子を見に来ていたし、よほど美月が心配なのだろう。応対していた校長が疲れ果てている。
 車椅子を押して側に行くと、気付いた母親が美月を抱きしめた。
「良かった、無事で」
 泣きそうな声を出す母親の腕に力がこもる。
「痛い、痛いよ、お母さん」
「ご、ごめんなさい。私ったらつい」
 娘の無事を心の底から喜ぶ母親。それは当たり前の光景なのかも知れない。だが、腫れ物に触れるような扱いに、胸がちくりとする。
「どうしたの?」
 心配そうに覗き込む美月に、俺は何でもないと答えた。その言葉とは裏腹に一つの疑惑が浮かぶ。母親をちらっと見てそれが核心に繋がった。今にも壊れてしまいそうな悲痛の顔――それは、出会う前に見た美月に、あの日の遠香に思えたのだ。
 頭がぐらりとする。息が苦しくなる。あの目、あの表情を美月との楽しい日々で忘れていた。そして気付く。俺の心の傷は未だ癒えていなかったのだ。
「大丈夫?」
 美月の声にはっとした。彼女を見てぎこちない笑顔を返すと、さっきよりもさらに心配そうに俺を窺う。車椅子から立ち上がり、目の前で真っ直ぐ俺を見つめる。両手で俺の頬に触れた。
「今の一輝は昔のあなたみたいよ。本当に大丈夫なの?」
 美月には何でもお見通しなのか。一人で抱えようとしていた自分がバカらしくなる。俺が美月を支えているように、彼女も俺を支えてくれる。
「私はもう病院に戻るけど、辛かったらいつでも会いに来て」
 そう言う美月に、今できる精一杯の笑顔で答えた。
「今日はゆっくり休めよ。また会いに行くから」
 美月は満面の笑みを浮かべてタクシーに乗った。俺は手を貸すことも忘れて呆然としてると、もう一度にこりと笑いかけてくれた。
「今日はありがとう。本当に楽しかったよ」
 タクシーが動き出すと、窓から身を乗り出すようにして美月が手を振る。向こうから俺が見えなくなるまでずっと。
 うずくまるのを必死に堪えていたせいで余計に疲れた。その場にへたり込み、空を仰ぐ。
「お疲れ様」
 校長がそう声をかけて校舎に戻っていった。気疲れしたのだと思ったのだろう。それも一つの原因ではあるが。
 今日一日を振り返り、美月の笑顔を一つ一つ思い出す。これからもあの笑顔を失わぬように――ただそれだけが今の望みだ。

              ◇    ◇    ◇

 あなたはいつも私の願いを聞いてくれた。
 あなたはいつも私の望みを叶えてくれた。
 私が学校に行きたいってねだった時もそう。
 そのおかげで代え難い思い出を手に入れられたの。
 友達としゃべり、お食事をして、好きな人との話題に花を咲かせる。
 私はあなたのことを話し、あなたは私のことを話す。
 誰もがうらやむ仲を自慢するの。
 だって、私達のことをみんなに知って欲しかったから。
 あなたとの思い出はこれが最後かも知れないから。
 あなたとの時間はもう残されていないから。
 少しでも長くあなたの傍にいたかったから。

 大切な――とても大切な思い出をありがとう――



   第四章


 幸せというものは手に入れるのは大変なのに、失う時は一瞬だ。不幸は知らぬ間に背後に忍び寄り、突然牙をむく。ただ幸せでいたいだけなのに、その思いが強ければ強いほど簡単に壊れてしまう。
 ただ一つの小さな望み。

 残り少ない時間をただ彼女と過ごしたい。

 その望みを叶えようとするたび、過去の呪縛が邪魔をする。
 どうか、もう邪魔をしないで。彼女が安らかな眠りにつくその日まで放っておいて。その後、俺がどうなろうと構わない。以前のように君のことを一生背負ってもいいから。だから――だからお願い!

 もう少しだけ放っておいて。

              ◇    ◇    ◇

 美月が俺の学校に行った日から数日が過ぎた。その日は大切な日であり休日で暇なこともあり、反省会もかねて悠人達と美月に会いに行った。
 美月はいつものように俺が来たのだと思ったのだろう。油断してだらけていたのだ。
「ねえ一輝、頼んでた本を買ってきてくれた?」
 あぐらをかく美月は読書に集中して顔を上げず、挨拶もせずにのっけから催促する。礼儀の欠片もない彼女の態度に、悠人達は目を丸くし、声を失っていた。俺は頭を抱えてため息を吐く。
 俺の様子がいつもと違うことを不審に思ったのか、本にしおりを挟んで閉じ、テーブルにそっと置いて顔を上げた。そして驚愕する。美月は信じられない物を見る目で悠人達を指差し、口をわなわなさせた。
「ど、どうしてみんながここに……?」
 昨日電話で話したはずだ。反省会のことを。悠人達が行くからぼろを出さぬように念を押した。時間も指定した。電話で頼まれた本も買ってきた。それなのに美月はすっかり忘れていたのだ。
 僅かながら怒りが湧くものの、自業自得だから仕方がない。そもそも本性を知られたくないからと学校で清楚な演技をしたのが悪い。清楚で卑猥なのも考え物だが。
「成瀬さんのイメージが崩れるーーーーー!」
 崩れ落ちる長津田。美月と一番長く話し、一番いい印象を抱いていたのは他ならぬ彼女だ。美月は慌てて取り繕う。
「い、いつもはちゃんとしてるのよ。姿勢だって綺麗だし挨拶もちゃんと……だ、だよね、一輝?」
 言われてみればあぐらをかく頻度は少ないし、ぱしりの礼は言う。だが、まともな挨拶はいつ以来だろうか。読書中の俺の扱いはぞんざいだし、冷やかしは自分の専売特許だと思っている。口答えしようものならどんな反論を受けることか。
 俺はしぶしぶ頷くが、今さら遅かった。
「入る前に教えてよね。ばれたの、一輝のせいだよ」
 こうして理不尽な仕打ちを受けるのもしばしば。でもまあ、その分、優しさをくれるので不満はない。飴と鞭で使役されてる感は否めないが。
「ふむふむなるほど、一輝はマゾか」
 そう呟く悠人の方が美月よりも恐ろしい。彼にネタを与えると廃人にされかねない。俺は半ば諦め、皆が落ち着くまで椅子に座りくつろぐことにした。
 数分後、立ち直った長津田は、美月に対する親近感が増したせいか、さらに話しかけるようになった。二人が会話する様子を眺めながら思う。昔もこうして多くの友達と話していたのか、と。
 過去に、病気が理由で一人、また一人友達を失った。その経験が枷になっているかも知れない。未だどこか他人行儀な気がする。長津田は大丈夫だろうか。中山はどうだろうか。悠人は……。
 俺の友人達は大丈夫だと思う。美月はこんなにもいい子だし、病気程度の理由で離れたりはしない。だが、話すのは彼女だし、判断するのはみんなだ。事実は俺の胸にしまっておくべきだ。
 今さらだが、美月の友人にはまだ会っていない。どんな気持ちで彼女の友人でいるのか聞いてみたい。だが、美月は俺に話したがらないのだ。それどころか、会わせぬように画策している。まさか浮気の心配はないだろうし、何か理由があっての配慮だと思う。
 俺は喉が渇き、病室を後にした。美月が困った顔で俺を見るが、気付かぬふりをして。
 俺がいては話しづらいこともあるだろう。たまには他の人ともまともなコミュニケーションを取るべきだ。本当は独り占めしたいが、今は我慢だ。
 待合室にある自販機で缶ジュースを買い、飲み干してから椅子に腰をかけた。ぼーっとしていると、顔見知りの看護師や患者に声をかけられた。彼らの冷やかしを適当に聞き流し、テレビのローカル番組をBGM代わりにうたた寝した。
 どれほどの時間、そうしていたのか。
 俺ははっとして時計を見る。何時間も経ったのではないかとビクビクしたが、三十分程経過しただけだった。少し安堵したが、どちらにしろ席を外しすぎた。慌てる気持ちを抑えて病室に戻ると、悠人達は帰り支度をしていた。
「やっと戻ってきたか。美月ちゃんが待ちくたびれてるぞ。あまり寂しい思いをさせるな」
 悠人にそう言われ、俺は眉根を寄せた。三十分程度で言われるようなこととは思えず、含みが感じられた。
「成瀬さん、何かあれば遠慮無く連絡してね。いつでも駆けつけるから。あ、でも、二人の邪魔はしないから心配しないで」
「ありがとう、長津田さん」
 答える美月の笑顔は、取り繕わない自然な表情だ。俺がいない間に腹を割って話せたのだろう。悠人達に会わせて正解のようだ。悠人達は美月に別れを告げて病室を出て行く。去り際、冷やかしの言葉を残して。
 何だかむず痒くて美月を直視できない。そんな俺に、彼女は隣に座るよう手招きした。促されるままにベッドに腰を下ろすと、美月が俺と同じ姿勢に座り直した。
 美月の息づかいを傍で感じ、鼓動が高まる。ちらりと横目で見ると、彼女は恥ずかしそうにうつむいていた。
 あいつらのせいだ。あいつらが余計なことを吹き込むから。こんなことなら連れてこなければ、と考えを改める。だが、今の雰囲気を作れたことには感謝しよう。
 美月の手が俺の手に触れた。彼女はびくっとしてすぐに離れるが、恐る恐るまた触れてきた。今度は離れず、美月の柔らかさと温もりが伝わってくる。鼓動がさらに高まり、ドキドキで頭が真っ白になりそうだ。
 初めて抱きしめられた時も、初めて手を握った時もここまで緊張しなかった。あの時は状況が状況だし、相手を落ち着かせるのに必死だった。でも、今は違う。お互いを想い、お互いを意識するだけで胸が張り裂けそうだ。恋をするとはこういうことなのか。これではうぶと言われても仕方ない。
 もう一度横目で見ると、美月と目があった。俺が慌てて目をそらすと、それと同時に美月も顔を背ける。恥ずかしさがさらに増し、このままでは思考が停止してしまう。その前に何とかしないと。
 俺は息を呑む。
 時計の音が響く。廊下に響く足音が鮮明に聞こえる。それらよりもさらに克明に、美月の息づかいが浸透していく。
 俺は意を決して美月の手を包み込んだ。彼女は驚き、俺を見上げて目があわさる。何かを言おうとして口を噤み、微笑んで握り返してきたのだ。
 俺は笑い返し、握る手に力を込める。すると、美月がそっと肩を寄せてきた。そんな彼女の体を受け止めた。美月がそっと目を細める。
「ふれあいってこんなに暖かいんだね」
 俺は美月の温もりを感じ、彼女が俺の温もりを感じる。ただそれだけなのに一生分の幸せを手に入れたみたいだ。
 しばらくそのまま浸っていると、突然美月が顔を上げた。
「あ、そうだ。一輝に渡す物があったの」
 そう言って俺から離れると、美月は引き出しの中を探り始めた。うーんと唸りながら何かを見つけると、小さな箱を取り出した。ピンクのリボン付きの可愛らしい包装に、美月の趣味が表れている。
「本当はすぐに渡すつもりだったけど、色々あって渡しそびれちゃって」
 はにかんで頬を赤らめる美月から持っていた箱を手渡される。
「ハッピーバースデー、一輝」
 嬉しそうに笑う美月。色々あって忘れていた俺の誕生日。今日は俺の十八回目の誕生日だったのだ。美月に出会った日、七ヶ月も前に適当に教えたことを覚えていた。それを彼女が祝ってくれる。喜んでくれる。こうしてプレゼントまでくれる。それが嬉しくて、俺は美月を抱きしめた。
「あ、ちょっと、一輝?」
 おどおどする美月に、俺は何度もありがとうと言った。こんなに俺を想ってくれる。そんな彼女の傍にいられるのがとても幸せに思えた。
「開けてもいいかな」
 美月の温もりをひとしきり感じた後、そう聞いた。彼女が頷くのを確認してから箱を開けると、見覚えのある指輪が入っていた。驚きを顔に出さぬように美月の指を見ると、変わらぬ輝きがある。これはもしかして……。
「色々考えたけど思いつかなくて。だから、おそろいにしようかなって。どう? 気に入ってくれた?」
 不安そうに俺の答えを待っている。黙って俺を見つめている。そんな美月に、黙ったまま指輪をはめてみせた。その瞬間、彼女の表情がぱあっと明るくなる。
「似合ってるかな」
 美月は頷き、俺の手を握った。
「これでおそろいだよ。何だか恋人みたいだね」
 その言葉に、俺の顔が熱くなる。その変化の意味に気付いた美月も頬を赤らめる。二人とも恥ずかしさで言葉を失った。
 胸に抱く恋心を伝えてはいない。でも、余りあるほどの気持ちが溢れていた。手を握り、肩を寄せ合い、抱きしめ合う。ただそれだけなのに、今日一日だけでこの気持ちを何度抱いたことか。

 美月といられて幸せだよ。

 喉から出かかる言葉を飲み込んだ。口にすると儚く消えてしまいそうだからだ。もうしばらくこのままでいたい。幸せの余韻に浸っていたい。そう思って再び寄り添い、お互いの温もりを感じあった。
 だが、二人の間に流れる空気を壊すかのように、なぜか舌打ちが聞こえた。扉をよく見ると少しだけ開いていて人影が見える。悠人達が俺達の様子を窺っていたのだ。
 盗み見る理由は一つしかない。悠人が去り際に「美月ちゃんが大事な話がある」と耳打ちしていたのだ。それのせいで美月を直視できなくなったし、彼女も何かを吹き込まれたのか恥ずかしそうにしていた。そして、その結果、悠人の思惑通りになったはずだ。そのはずなのに何が不満なのか。
「……普通はキスするだろ、キスを……」
 そう小声で言うと扉が閉まり、人影が消えた。足音も遠ざかっていくと、唖然とした俺達は顔を見合わせる。俺が吹き出すと、美月も腹を抱えて笑いだした。
 言われてみればその通りだ。普通の恋人ならキスするシチュエーションだろう。あれだけいい雰囲気だったのに寄り添うだけで満足していた。それでは周囲が不平不満を漏らすのも肯ける。だが、放っておけば望み通りなったのかも知れないのに。俺達はそんなに見込みがないのか。
 とはいえ、雰囲気が壊された今、そこまでの勇気はなかった。手を繋いだまま密着していた体を少しだけ離した。今はもう人目が気になってしょうがない。
 気恥ずかしくて黙っていると、美月が話を切り出した。
「ねえ一輝、この間は楽しかったね。学校で私達、注目の的だったもんね」
 学校というのは不思議と転校生で盛り上がる。変わり映えのない生活に新しい刺激が加わるからだ。美月は一日体験入学だったけど、十二分の効果があった。個人的な意見だが、美月ほどの美人を俺は知らない。そんな彼女が来たのだから騒ぐのは当然だ。教師ですら鼻の下を伸ばしていた。
 その美月とこうしていると優越感に浸れる。彼女が俺とのことを話していた時は恥ずかしかったが、羨ましがられるのは気分がいい。
「長津田さんや他の女の子に聞いたんだけど、一輝ってけっこう人気があるんだよ。知ってた?」
 それは初耳だ。告白されたことは一度もないし、噂を耳にしたこともない。無い無いづくし高校生活のどこにそんな事実が。
 美月は頬を染めて答える。
「ほら、その……一輝は格好いいから……」
 それを聞いて顔が熱くなる。美月に容姿を褒められたのは初めてで、あまりの嬉しさと驚きに絶句する。
「あ、あの、私は前から思ってたんだよ、格好いいなって。でもね、私の感覚が普通かどうか分からないから言い出せなくて。そしたら一輝が人気あるって……」
 恥ずかしそうに口ごもる美月が余計にいじらしく、愛おしく思える。それにしても俺の人気って……。
「以前は暗くてうつむいてるのが悲劇の主人公みたいだって。元々顔立ちもいいし、今は明るくなってさらに良くなったんだって」
 同士を得て嬉しいのか。だが、おそらく気を遣われたのだろう。初対面の相手の好みを否定するほど無神経な人はいないはず。
「それでね、気になることを聞いたの。一輝には彼女がいるはずだって。いつも女の人の名前を呟いていたって」
 美月は俺をまじまじと見つめる。真剣な表情で見られて、俺は言葉を失った。
 俺はやましいことはしていない。呟いていたのは遠香の名前。中学三年の冬に死に別れた恋人。当然、それから恋はしていない。だが、以前、恋人がいたことをどう思うのだろう。その恋人のことを引きずっていると知ったら。それが俺の病気の原因と分かったら……。以前、美月に抱きしめられたとき、遠香の名前を散々口にしていた。そのことをすっかり忘れて真剣に悩んだ。
 美月には余計な心配をさせたくない。そう思って今まで黙っていた。だが、誤解で傷つけてしまうのも辛い。恋人とはとうの昔に別れたとだけ教えることにした。
 俺の暗い気持ちが伝染したのか、それともショックを受けたからか。美月は痛々しそうに顔をしかめた。
 頼むからそんな顔をしないでくれ。これ以上は聞かないでくれ。俺は心の中でそう叫び続けた。
 美月が震える俺の肩に手を回し、そっと抱き寄せる。はっとして見ると彼女はすまなさそうにうつむいていた。
「ごめんね、辛いことを思い出させて。昔のことなら気にしないよ。だって、一輝は今ここにいるんだから」
 そんな美月の優しい言葉に、俺の心が救われた気がした。美月が傍にいてくれる。俺にとってそれが一番の救いだ。今は美月を大切にしよう。痛切にそう思った。
 その日から美月との距離は確実に近付いた。逢う場所は相変わらず彼女の病室で、雰囲気もへったくれもない。それでも隙あらば手を握り、肩を寄せ合う。会話をする時も、良く見つめ合ったりする。周囲の冷やかしには一向に慣れないが、しだいに心地よく思えてきた。
 心は繋がっている。その確かな手応えがある。だが、一つだけどうしても出来ないことがあった。
 美月を見ていると時折唇に目を奪われる。あの唇に吸い込まれるような錯覚に陥る。口づけを交わしたい。そんな欲求がわき上がるたびに、その気持ちを抑え込んだ。キスをしてしまうと自制が利かなくなりそうで怖い。もしその後を求めてしまったらと思うと、生きた心地がしない。それだけは絶対にあってはならないからだ。
 清い関係でいたいとか、そういうことではない。美月の命に関わる重大な問題だからだ。だから俺は、これ以上踏み込みはしないと心に決めた。
 そうして時が過ぎ、空気が冷たくなり、木々の色が変化していった。
 そこには変わらぬ日常、変わらぬ笑顔がある。気付けば遠香の存在が顔を出さなくなり、安らかな日々が続いていた。幸せぼけしていたのだろう。目前の急激な変化に、奈落への誘いが迫っていることに気付けずにいたのだ。
 十一月の初め、俺はいつものように美月に会いに行った。隣に座り、手を握り、他愛のない会話をする。そんな満たされた時間を、扉を叩く音に遮られたのだ。
 誰かが見舞いに来たのだろうか。家族は出かけ、友人も用事があると聞いていたし、その予定はないはず。
「美月、お見舞いに来たよ。今、入っても大丈夫?」
 若い女性の声がする。それにしてもどこか聞き覚えのある声だ。
「え? あ、い、今はちょっと……」
 予期せぬ面会に、美月は慌てふためく。握る手を離し、ベッドの上で座り直した。俺は追い払われるように椅子に座ると、美月の不自然な行動を訝しんで見た。
 美月は何度も深呼吸してから顔を引き締める。
「い、いいよ、入っても」
 そう言うと、扉が開いて一人の少女が入ってきた。
「どうしたの、そんなに慌てて。着替えでもしてたの?」
「そんなわけじゃないんだけど……そういえば今日は用事があって来られないんじゃ」
「ああそれはね、キャンセルになったの。家にいても暇だったし、会いに来ちゃった。もしかして迷惑だった?」
 美月は首を横に振るが、困り果てた表情が正反対の気持ちを物語っていた。少女は怪訝な顔をし、逡巡して不敵な笑みを浮かべた。
「そうか、逢い引きしてたんだ。私が来られないからって安心して」
 その言い方はからかってるというより、責めてるようだ。その理由を俺は理解してしまった。美月が俺と少女を会わせないようにしていた理由も。
「……橋本さん」
 俺は絞り出すようにして目の前の少女――橋本優奈の名前を呼んだ。彼女は中学の後輩で、当時、遠香の親友だった子だ。呼ばれて初めて気付いたかのように俺を見ると、わざとらしく驚いた。
「相原先輩、奇遇ですね。こんなところで会えるとは思いませんでした」
 嫌な物を見るような視線を俺に向けた。蛇に睨まれた蛙のように俺の心は縮こまってしまう。俺と橋本の間にある空気が張り詰め、氷のような冷たさが部屋を満たしていく。
 その空気に耐えられず、美月が間に割って入った。
「ゆ、優奈と一輝が知り合いだったなんてびっくりだよ。こんな偶然ってあるんだね」
「ええ、そうね。私も驚いたわ。この男のためなら美月も平気で立てるんだって」
 俺に向けていた冷ややかな目を美月に向けた。美月はたじろぎ、言葉を詰まらせる。
 橋本の言うとおり、とっさに立てるほど美月の体力は残されていない。手をついてゆっくりと、何とか立てるぐらいで、トイレに行くのにも車椅子が必要だ。出会った頃は階段を上れていたのに。
 俺は美月の体を支え、ベッドに腰を下ろさせる。
「仲がいいんですね、お二人は」
 美月が怯えるように震える。橋本は本来は怖い子ではないから脅されたりはしていないはずだ。原因は俺に間違いないだろう。とすると、もしかして美月はあのことを知っているのか。
 嫌な予感に、胸が苦しくなる。めまいがしてその場に膝をついた。俺は美月に支えられ、何とか倒れずにすむ。橋本は俺達を一瞥すると視線をそらし、窓の側に歩いていった。
「私はね、何となく気付いていたの。美月に会いに来る男が相原先輩だって」
 窓を開け放ち、僅かに身を乗り出した。涼しさが混じり始めた風に橋本の短い髪が揺れる。
「病気が発覚して余命を宣告された時から美月は笑わなくなったの。それからもう何年になるかしら。友達もいなくなり、こうして私が会いに来るぐらい。私の前では笑顔を見せるけど、それは本物じゃない。私には美月の笑顔を取り戻せない。いえ、誰にだって無理よ。明日には死ぬかも、なんて言われたら私だって嫌。生きてることに価値なんてない」
 橋本は唇を噛みしめ、悔しそうに窓の縁を叩いた。美月のこれまでの人生がどれほど辛いものなのか。それを見てきた自分がどれだけ無力か。それを物語るように。
 振り返り、悲しげな瞳を俺達に向けた。
「でもね、いつからか美月が自然に笑うようになった。あれは確か冬の終わり頃よ」
 美月の著しい変化に疑念を抱き、聞いたのだという。

「ねえ美月、何かいいことでもあったの?」
「え? どうして?」
「何だか嬉しそう。まるで恋する乙女みたい」
「こ、恋? 何で私が……」
「口ごもるところが怪しいな。隠してないで教えなさい」
「えー……隠してるわけじゃないけど……うん……またいつか話すね」

「最近の美月って肌のつやがいいよね。これも恋の力かな」
「優奈はまたそういうことを言う」
「聞いたのよ、看護師から。男の子が頻繁に出入りしてるって。いい加減、認めなさいよ」
「もう、優奈には敵わないな」
「私をなめないでよね。だてに幼馴染みやってないんだから。それで、どんな人なの?」
「優しい人。でも、ガラスのような心の持ち主なの」
「ふーん、頼りなさそうね」
「そ、そんなことない。私のこと支えてくれるし、とっても頼りになるんだよ」
「へー、やっぱり恋してるんだ。カマをかけてみるものね」
「だ、騙したのね、もう」

「え? 病気のことを話したの?」
「うん。二度目に会った時にね」
「それなのに離れてかないなんて凄いね、その人。まさか、遊ばれてるなんてことはないよね。美月は女の私から見ても綺麗だから心配よ」
「ううん、それは大丈夫。彼ね、自分も病気なのに私のことを大切にしてくれるから」
「病気?」
「うん。心の病気なの。昔ね、凄く辛いことがあったみたいで。発作で気絶することもある病気なんだよ。だからね、彼が辛い時は抱きしめてあげるの」
「だ、抱きしめるってどういうことよ!」
「そ、そんなに驚かないでよ。恥ずかしいじゃない」
「誰でも驚くわよ。美月がそんなに積極的になれば。それにしても、抱き合う仲か」
「へ、変な意味じゃないから」
「はいはい」

「綺麗な指輪ね」
「うん。彼に買って貰ったの」
「ふーん、そう。美月の恋も順調で嬉しいわ」
「だからそういうのじゃないって」
「またまたぁ。それで、いつになったら紹介してくれるの?」
「そ、それはその……その内ってことで……」
「紹介できないわけでもあるんだ」
「ち、違うの。そ、その……恋人ってわけじゃないから」
「恋人になれば紹介してくれるのね。それならさっさと告白しちゃいなさい」
「ふられるかも」
「そんな心配してるの? 美月に好かれて嫌な人がいるのかな」
「初恋の子にふられたことあるよ」
「そうだったかしら。まあ、でも、大丈夫よ。話を聞く分には絶対に美月に惚れてるわ」
「うーん……でもね、忘れられない女性がいるみたい」
「そ、そうなんだ。忘れられない女性……ねぇ……」

「最近、本が増えたね。いつの間にか本棚が出来てるし」
「それはね、彼が作ってくれたの。病院にも掛け合ってくれて」
「へえ、美月のためにそこまでしてくれるんだ。そんなに想ってくれてるのに何で告白しないの?」
「出来ないよ、そんなこと。それに、気持ちを伝えたら今の幸せが消えてしまうかも」
「そんなこと言って本当は紹介したくないだけでしょ」
「そ、それは……」
「私に会わせられない理由でもあるの?」
「な、ないよ。あるわけないじゃん。それにね、優奈には認められたいから」
「それならすぐに会わせてよ」
「それはダメ。今はまだ会わせられない」
「私が怒るとでも?」
「……うん」

「学校に行くって? 何でまた……」
「一度は行ってみたかったの。もう最後だと思うから」
「言ってくれれば私の学校に連れて行ったのに」
「優奈には迷惑かけられないよ」
「彼氏には頼めても?」
「や、そ、そんなことは……」
「ああ、そういうこと。彼氏と一緒が良かったのね」
「だから彼氏じゃないって」
「ふーん、否定するのはそこだけなんだ。やっぱりね」
「もう、優奈ってばずるいよ」
「ふふふ、私の手にかかればこんなものよ。美月はうぶだから扱いやすいわ」
「もう、私の方が年上なんだからね」
「幼馴染みに一才の年の差なんて無意味よ。それで、どこの学校に行くの?」
「それは――」

 橋本が語った美月との会話。それは俺と美月が出会ってからこれまでの軌跡でもある。美月が俺のことをどう思っていたのか。気持ちをありありと示してくれた。美月が笑う理由を橋本は探り、核心に辿り着いたのだ。
「美月が語る人物像で思い当たるのは一人しかいない。だけど、確証が足りなかった。でもね、誕生日の話を聞き、学校の話を聞いて確信したわ。相原先輩に間違いないって。私に紹介できない理由も肯ける」
 紹介できない理由。それは美月が遠香とのことを知っているから。だが、なぜ知っているのか。誰が教えたのか。俺が知らないところで進行していた事実。突き付けられた現実に愕然とした。
「美月が知っているのは私が相原先輩を憎んでることだけ。でも、いい機会ね。全て教えてあげましょう。そうすれば美月も目が覚めるはずよ」
 橋本には悪意はなく、ただ美月を心配する親友の顔をしている。だが、美月は橋本と目を合わせない。
「全ては三年近く前の事件が原因なの。相原先輩には片倉遠香という恋人がいたわ。遠香は私の親友で、とてもいい子だったの。でもね、ある日、学校の屋上から飛び降りて死んだ。自殺の理由は後で知ったわ。自殺当日の消印で遠香から手紙が届き、それを読んで愕然とした。全ては先輩のせい。先輩が遠香を理解して守っていれば自殺することはなかった。遠香は先輩に殺されたのよ」
 橋本が俺を睨む。そこには紛れもない憎悪が込められていた。
「先輩は優しいよ。でもね、その優しさが時として人を苦しめるの。その悪意無き優しさが遠香を殺したの。そして次は美月の命を奪うわ」
 橋本の言葉が俺の心に突き刺さる。彼女の言うことは真実ではないのかも知れない。だが、紛れもない現実だ。今まで美月との時間が楽しくて忘れていた。思い出して心が傷つくのを恐れて目を背けていた。心が張り裂けるのに耐えられず直視を避けてきた。
 心の奥にひた隠しにしてきた事実を突きつけられ、俺は崩れ落ちる。あの時の遠香が鮮明に浮かび、脳裏に焼き付いた一語一句が走馬燈のように蘇る。
 美月が俺の肩を抱き寄せて橋本を睨んだ。
「そんなことない。一輝は悪くない!」

 ――先輩が悪いんだよ……

 俺を支配する呪縛は、美月の言葉を掻き消した。どんな時でも俺を優しく包み込んでくれる美月の温もりも、今の俺には届かない。死に際の遠香の笑顔、俺を非難する言葉の数々。美月を守ることで贖罪になると思ったのに。呪縛から解放されると思っていたのに。甘かった。俺の考えは浅はかだった。罪悪感は、美月を感じることすら許してくれなかった。
「一輝、しっかりしてよ。一輝は何も悪くない。悪くないんだよ」
 必死に支えようとする美月の言葉が遠く感じられる。対照的に、橋本の声は俺の耳を、頭を殴るかのように激しく響く。
「美月は何も知らないからそう思うの。知れば必ず相原先輩を拒絶するわ」
 橋本の声を聞くまいと、美月は自分の耳を塞いで抵抗する。それをあざ笑うように懐から一通の手紙を取り出した。
「これに全てが書かれているわ。渡してもいいし、読んであげてもいいわね。でも、やっぱり先輩の口から聞いた方がいいわ。その方が信じられるでしょう?」
 橋本が俺を見る。美月も俺に視線を向ける。
 話したくない。話したくないのに。橋本に促されると抵抗できずに口を割ってしまう。そしてあの日、遠香が自殺した時のことを俺は語り始めた。


 三年近く前の冬、雪が舞う二月、俺は中学校の屋上にいた。
 その日はいつものように学校の玄関で恋人の片倉遠香を待っていた。だが、彼女が現れたのは屋上の柵の外側だった。学校中が騒然とし、その理由も分からずがむしゃらに屋上に向かったのだ。
 屋上で向かい合う俺と遠香。俺は遠香に近付き、二メートルほどのところで止まる。そんな俺に柔らかな口調で言った。
「先輩、それ以上近付いたらすぐに飛び降りるからね」
 遠香がいつもの優しい笑顔を見せた。それとは裏腹の発言に、俺の思考は停止する。なぜそんなことを言うのか。そもそもなぜ柵の外側にいるのか。状況が全てを物語っているのに、俺の頭では遠香の真意が理解できなかった。
「先輩、私……今まで凄く幸せだったよ。今もこうして私を心配して来てくれたもの。ホントに幸せよ」
 “幸せ”という言葉を、何度聞いたことか。俺に身を委ねるたびに聞いた言葉が蘇る。その時と同じはずなのに、違って聞こえたのだ。不幸だと言われてるような感覚にめまいがする。それでも声を絞り出した。
「それなら戻ってこい」
 俺の言葉に、遠香はただ首を横に振るばかり。我慢できずにもう一度言うと、遠香は俺を見据え、儚い笑顔を浮かべて答えた。
「ううん、もうそっちには行けないの。これから私はずっと遠くに、先輩の手の届かないところに行くから。だから先輩とはもうお別れよ」
 今にも消えて無くなりそうなほど弱々しい姿に息を呑む。遠香の笑顔は沈み、その口から発せられた言葉に愕然とした。
「もう私は生きていられない。これ以上先輩の優しさに触れていたら……きっと壊れてしまう。そんな自分を先輩だけには見られたくないの」
 もう生きていられない。なぜそんな結論に至ったのか。遠香との時間を振り返っても答えに導かれない。あれだけ楽しかったのに。あれだけ幸せだったのに。どうして死のうとするのか。
 その疑問を投げかけると、遠香は俺に背を向けた。
「私達が出会った日のことは覚えてる?」
 忘れはしない、俺が八才の時、彼女が引っ越しの挨拶に来た日だ。その時、俺は彼女に一目惚れしたのだ。
「私もね、先輩に運命を感じたの。この人なら私のことを大切にしてくれる。この先ずっと愛してくれるって」
 その言葉通り、俺達はお互いを大切に想い、心の底で繋がっていた。何をするのも一緒で、俺は一生を遠香の傍で全うするのだと信じていた。
「私も先輩と同じ気持ちよ。あの頃はほんの小さな子供だったけど、いつかは身も心も全てを捧げるつもりだった。先輩となら絶対に幸せになれるって思っていた」
 そうして将来を誓い合った。そのはずなのに心は離れていった。子供の頃の恋心は、所詮は淡い幻想だったのだ。だが、あの時なぜ別れたのか、理由が見当もつかない。分かっているのは遠香の母親が亡くなってから歯車が狂い始めたことだけ。
「最初に話したよね、両親が離婚したって。私は母に連れられて新しい父親の家に越してきたの。不自由ない暮らしにそれなりに満足していた。先輩に出会えたし、良かったと思う。でもね、母が亡くなり、義父は変わった。どうして私は義父の下を離れたと思う? どうして義伯父夫婦のお世話になったと思う?」
 以前、再会した遠香に、義父が彼女を養えなくなったと聞いた。俺は経済的な理由だと考えていた。だが、本当はとても残酷な理由だった。
「義父はいつからか母に暴力を振るうようになったの。母はそのストレスが引き金に過労で死んだ。そして、はけ口を失った義父の暴力は私に向けられたの」
 遠香の生傷が絶えなくなったのがちょうどその頃だ。理由を聞いても教えてくれず、しだいに俺を避けるようになった。
「虐待だなんて先輩には言えなかった。話せば先輩は私を助けようとしたはず。それで先輩が傷つくのは耐えられない。だから私は我慢したの。先輩を避けて遠ざけ、一人で耐えたの。優しい頃の義父に戻ることを願って」
 遠香は唇をかみ、汚らわしい物を見るような目をする。
「義父は元に戻らず、暴力はエスカレートしていった。そしてついには性的な虐待が始まったの。私の“初めて”をあいつに奪われた。汚された。犯されてしまったの。先輩に捧げるはずだった体を汚れた物にされたのよ!」
 遠香の悲痛の叫びに、頭が真っ白になった。そんなことが――そんなことがあったなんて。
 俺はその場に崩れ落ちる。俺を拒絶した時の遠香の顔が思い浮かぶ。傷だらけの体、苦しそうな顔、あの涙……。それらは全て虐待に耐え、望まぬ裏切りを俺に知られないための苦悩の結果だった。
 俺が嫌われたわけではなかった。だが、それほど残酷な現実をどう受け止めればいいのか。遠香の苦しみをどう分かち合えばいいのか。
「あの後、私はあいつの家を逃げ出し、義伯父夫婦を頼った。私は頼れる血縁がいないから、あいつの血縁を頼るしかなかった。全てを告白した私を義伯父は守ってくれた。優しくしてくれた。あいつを法で裁いてくれた。それを誰にも知られないようにしてくれた。そして私はこの町を離れたの」
 遠香に会えなくなった理由。それは義父のせいであり、俺から逃げるためだった。真実を知られれば生きてはいけない。それほどまでに追い詰められ、遠香の心はずたずたに引き裂かれていたのだ。
 それなら、なぜまた俺の前に現れたのか。
「知らない場所で暮らせば全てを忘れられる。そう考えていたのに、汚された時の感覚が忘れられないの。気持ち悪くて気持ち悪くて毎日のように吐いた。おぞましい記憶に苛まれた。私はどうすればいいの? どうしたら解放されるの? ずっと悩んだ。必死に考えた。そして答えに辿り着いたの。気持ちのいい記憶で上塗りすればいいんだって」
 そうして遠香はこの町に戻ってきた。全ては過去の記憶を払拭するため。俺に言い寄り、深い関係を求めたのもそう。俺なら遠香を救える。そう考えたのだ。だが、その結果はどうなったのか。
 遠香の真意を知らぬ俺は、彼女の誘いを断り続けた。未成熟の俺の心は、恥ずかしさで遠香の想いを踏みにじったのだ。
「私の考えが甘かったのよ。先輩の性格なら受け入れるはず無い。いつまでも清い関係でいたいと願っていたもの。だから、私は無理にでも奪おうと思った。今度こそ、今度こそって思って誘惑した。でもね、最後はどうしても踏み止まるの。先輩の何も疑わない心が、真っ直ぐな目が教えてくれた。それではあいつと変わらないと。傷が増えるだけだと」
 それなら俺は受け入れれば良かったのか。遠香と関係を持てば良かったのか。真実を知れば彼女の望むままにしただろう。でもそれは同情でしかなく、遠香の心を救えはしない。本心から望まねば意味がない。
 それなら今の俺に出来ることはないのか。遠香を救うことは――
「もう無理よ。先輩には無理なの。先輩は優しすぎるの。私の醜い心には眩しすぎるのよ。先輩に会えて、また好きになってくれて嬉しかった。毎日が楽しくて楽しくて幸せだった。それなのに、私の心は汚れていくの。どんどん醜くなっていくの。先輩の優しさに触れるたび、心がぎしぎし言うの。頑張って耐えたけど、もう限界。これ以上自分を嫌いになる前に死にたい。心が壊れる前に消えたいの!」
 遠香の目から涙が溢れてくる。表情が悲しみに埋め尽くされていく。そんな彼女に何を言えばいいのか。どう慰めればいいのか。いくら考えても思いつかない。どんな言葉も遠香を追い詰めることしかできない。でも、何かを言わなければ。何とかしないと、目の前で悲しみに暮れる世界で一番大切な女性を失ってしまう。今この場で彼女を救えるのは俺だけだ。それなのに、口を割って出たのは遠香が地獄に落とす言葉だった。
「死なないでくれ。遠香が傍にいないと俺……生きていけない。だから死なないで。遠香のこと、もっと大切にするから」
 俺の言葉に、遠香は幸せそうに笑う。
「ありがとう。先輩ならそう言ってくれると思った。凄く嬉しいよ。でもね、今の私に必要なのは優しさじゃないの。先輩に辱めを受けることだけ。愛する人にめちゃくちゃにされることだけ。先輩にはそんなこと出来ないでしょ? 私のことを大切にするしかできない先輩には……」
 遠香の言うとおりだった。俺には何も出来ない。何も残されていない。遠香を救うことは不可能なのだと確信する。なぜ俺はここまで無力なのか。いつだって大切な人を救えない。守れない。守られてばかり。そして傷つけて追い詰めてしまう。また遠香を失ってしまうのか。今度こそ永遠に。
「先輩が悪いんだよ。一人だけ綺麗な心で、輝きに満ちた世界にいるから。だから私の気持ちに気付けない。こんなに辛いのに、こんなに苦しんでるのに。だからもうお別れ。先輩の目の前で落ちて死ぬの」
 俺にはもう何一つ無い。かける言葉も、何もかも全て。そんな俺に、遠香は笑顔でもう一度言った。

 ――先輩が悪いんだよ……

 そして儚げに笑い、自らの手で柵を押した。遠香の体は後ろに倒れ、支えを失って宙を舞う。落下に身を任せる彼女を抱きとめようとするが間に合わず、手を触れることすら叶わなかった。
 地面に叩き付けられて事切れる遠香をただ見ているしかなかった。校庭に上がる悲鳴も俺の耳には届かず、後悔だけが心を締め付けていった。
 遠香の亡骸に向かって幾度となく叫び、その場に崩れ落ちた。もう触れることも出来ない彼女を想い、涙を流し続けた。
 眼前に広がるのは遠香のいない世界。いつも傍にいて笑いかけてくれる彼女のいない世界。その世界で俺はこれからも生きていくのか。それはもう絶望でしかない。

              ◇    ◇    ◇

 あなたの過去を知り、かける言葉が思いつきません。
 あなたになんて言えばいいの?
 何を言えば私の気持ちはあなたに届くの?
 そんな私の迷いがあなたをもっと苦しめるなんて。
 苦しそうに去るあなたの後ろ姿ははっきりと覚えてる。
 だって、それがあなたを見た最後だから。
 もうあなたは私には会ってくれない。
 あなたの心は今も昔もあの人の物だもの。
 私にはあなたを救うことが出来なかった。
 それがとても心苦しい。
 あの時、どうして何も言えなかったのだろうって。
 私はあなたにたくさんの幸せをもらった。
 私の心は“ありがとう”でいっぱい。
 それなのに私はあなたに何も……。
 私はどうなってもいいから。
 だからお願いします。

 ――どうか幸せになって――



   第五章


 美月に知られてしまった。俺が今までひた隠しにしてきた過ちを。あの日のことを。俺が遠香を死なせてしまったことを。
 橋本に促されて語った真実は、美月にどれほどのショックを与えたのか。彼女の表情を見れば一目瞭然だ。さぞかし失望しただろう。美月は俺を蔑むだろう。遠香の死を蔑ろにして自分だけ幸せな思いをした報いを受けたのだ。
 めまいや動悸、息苦しささえも罪の意識の前では赤子同然だった。
 美月の視線が怖い。
 美月の温もりが怖い。
 美月の息づかいが怖い。
 俺は美月の傍にいることが耐えられず、病室から飛び出した。さらに遠くへ、彼女のいない場所へ逃げようと駆けだした直後、俺の体は自由を失う。頭をハンマーで殴られたような衝撃に、その場に倒れ込んだ。あろうことか、美月の姿がまだ見える場所で。
「か、一輝? もしかして発作?」
 慌ててベッドから立ち上がろうとする美月を橋本が阻む。
「もう美月は関わってはダメ。私はあなたまで失いたくないの」
「でも、一輝を放っておくわけにはいかないよ」
「何の発作か知らないけど、死にはしないんでしょ。どうせここは病院だし」
「で、でも――」
「お見舞いなら私が来るから。毎日でもそうするから。だからお願いよ」
 橋本の言うとおりだ。もう関わらない方が良い。
 突然倒れた俺に気付いた周囲の人間が集まってくる。看護師に抱き起こされると、その手を振り払い、壁に寄りかかりながら病室を離れた。ここで倒れるわけにはいかない。ここで気絶するわけにはいかない。
 俺を呼ぶ美月の声が徐々に遠ざかる。聞こえなくなるまでどれほどかかったか。気付けば階段の脇にいた。
 一度振り返って美月の病室を遠目に見る。この九ヶ月間の幸せな日々を振り返った。彼女の笑顔を思い浮かべると、思い出されるのは出会う前の姿ばかり。いや、違う。これは遠香の顔だ。美月のことを考えようとすると、遮るように遠香の声が響く。俺を非難する遠香の声が。
 もう美月には会えない。美月を好きになってはいけない。美月の傍にいては彼女を不幸にする。これからずっと遠香のことだけを考え、頭を悩まし、苛まれていく。それは俺の罪であり、遠香への贖罪なのだ。
「ごめん……ごめんよ……」
 それが誰に対しての謝罪なのか。自分でもよく分からなくなっていた。
 この日から俺は病院に近寄らなくなった。病院を見ると美月のことを考えてしまう。美月を想うと遠香の死に際の言葉を思い出す。それが発作を引き起こし、悪循環が生じるのだ。当然、月一回の定期検診もやめた。
 学校に行くのも止めた。美月との思い出があるからだ。たったの一日なのに、彼女との思い出で詰まっている。もし人前で酷い発作を起こせば病院に搬送される。それほどまでに俺の精神は病んでいた。診断された頃に近い状態だ。
 病院を避け、学校を避け、悠人達を避け、全てを避けて辿り着いた先は自分の部屋だった。早い話が引きこもりだ。それまで大事にはめていた指輪も、目の届かない引き出しの奥に押し込んだ。
 一日のほとんどを布団の中で過ごし、家族とも必要以上の会話をしない。時折、声をかけられるが、適当に受け答えする。心配してるのは分かる。家族が俺の症状に気付いたのも知っている。だが、その気持ちが余計に辛い。
 何度か悠人から電話がかかってきたが、居留守を使った。彼も他の友人も美月と面識があるし、事情が伝わっているだろう。聞きたくないし、悠人も言葉に困るだろう。
 そうやって少しずつ、美月への想いと思い出を確実に端に追いやり、排斥していった。考えないように、思い出さないように必死に。
 しだいに発作を起こす頻度は減り、心も落ち着いていった。美月に出会う前の状態になるまで一ヶ月を要し、ようやく重い腰を上げる。これ以上家族や友人に心配させるわけにはいかず、学校に行くことにした。
 一ヶ月ぶりの学校は、以前と何も変わらない。多くの生徒が行き交う廊下、元気な声が響く校庭、憂鬱な授業。そこにあるのは当たり前の学校の情景だった。
 俺はうつむき、存在を押し殺し、無言で教室に入る。最近は声をかけるようになったただのクラスメートも、俺の作り出す悶々とした気配を避けて通る。本当に以前と変わらぬ教室がそこにはあった。悠人達でさえ話しかける踏ん切りをつけられずにいる。それほどまでに俺は暗かったのだ。
 授業が全て終わったことに気付かず、俺は机に向かったままだった。さすがに痺れを切らしたのか、悠人達が来た。
「一輝、もう放課後だぞ」
 悠人の声に我に返った。教室には俺と悠人達しか残っていない。時計の音と窓をこする風の音だけが空しく響いている。
「何があったのか聞かないが、無理だけはするな」
「私達は相原くんの味方だから」
 彼らは口々に言う。心配を表情に出さないように必死に堪えてるのが分かる。そんな彼らを見ると心のどこかで安堵した。ぎこちなさはしだいに消えるだろう。ただ前に戻るだけ。そう言い聞かせたのはもう何度目だろうか。
 俺はようやく立ち上がり、悠人達の後ろをついていきながら校舎を出た。
 季節はもう冬になっていた。生い茂っていた木々も紅葉で葉を落とし、並木が閑散としている。空気もいっそう冷たさが増し、制服の上にコートを羽織る姿で校庭が埋まる。衣服の隙間のむき出しになった肌に風が触れ、身震いする。
 冬はこれから深まる。深まればじきに雪を降らすだろう。今年こそは雪を見ても平気だろうと思っていたが、幻想に終わった。いつまで怯えて過ごすのか。不安は更なる不安を呼び、俺の心をかき乱す。
 俺は長津田の声に反応して顔を上げた。
「校門の前にいるの、誰だろう」
 指差しながら言う長津田の横で悠人が何かをひねり出そうとしている。しばらくうなり、はっとして手を打った。
「あの制服、確か、駅の向こうの女子校じゃないのか。あそこは可愛い子が多いって有名なんだ。そんな高校の女子を待たせるなんて、いったい……」
 制服だけでどこの生徒か分かる悠人の方がおかしい。そう思うのは俺だけだろうか。疑問を頭の端に寄せながら視線を校門に向ける。目を凝らし、それが誰なのか気付くのと同時に中山が呟いた。
「……あれは橋本じゃ……」
 そう、そこには一ヶ月前に美月の病室で再会した橋本優奈がいたのだ。なぜ橋本がここに。あれだけ憎い俺がいる学校にいるのか。出会す可能性を考えれば校門前で待つなど正気の沙汰ではない。
 立ち止まる俺をよそに、悠人が橋本の元に駆け寄っていく。
「優奈ちゃん、誰かと待ち合わせか」
 突然悠人に声をかけられ、橋本が振り返りざまに仰け反った。
「ゆ、悠人? な、何でここにいるの?」
「何で――って、ここは俺の学校だぞ。いるのは当たり前じゃないか」
 慌てる橋本に、悠人は普通に指摘した。橋本は動揺を隠せぬままおどおどし続ける。そんな彼女に、悠人はため息を吐いて言った。
「深呼吸しろ」
 言われるがままに深呼吸をすると落ち着いたようだ。それでも視線は泳ぎ、真っ直ぐ見つめる悠人とは対照的な挙動を続ける。
「俺を呼び捨てにするのは昔からだし、気にはしない。それよりも、最初の質問に答えてくれ。なぜお前はここにいる」
 穏やかな口調なのに、拒むことを許さぬような強い意志が感じ取れる。それを肌で感じた橋本は困惑し、しばらく迷って項垂れた。逆らえないと悟り、しぶしぶ口を開く。
「相原先輩に話があるの」
 それを聞いた途端、嫌な予感が頭をよぎる。
 橋本は俺に念を押しに来たんだ。美月に会うなと。そうでなければ来たりはしない。どこまで俺を追い詰める気なのか。
 橋本に気付かれる前に歩き出した。俺の異変に気付いた長津田と中山が慌てて着いてくる。しかし、校門を抜けようとした時に橋本が俺に気付いた。そして名前を呼び、全力疾走してくる。逃げ道を塞ぐかのように回り込むと、息を切らせながら俺を見た。
「はあはあ、やっと追いついた……」
 橋本を視界に入れないようにしてきびすを返すと、自宅とは反対方向へと歩き出した。そんな俺の腕を掴み、離さないように力を込める。
「どうして逃げるの!」
 俺は振り返らず、橋本を無視した。逃げる理由など、言わなくても分かるだろう。理由を作った原因は橋本にあるのだから。
 俺達の間に悠人が割って入る。
「話なら俺が聞く。いい加減、一輝を離してやれ」
「で、でも……」
 悠人の鋭い剣幕にたじろぎ、橋本が手を離した。悠人はそんな彼女の肩を掴んだ。
「いつまで一輝を縛るんだ。こいつはもう十分苦しんだはずだ。そろそろ解放してやれ」
「ち、違うの!」
 目を潤ませながら反論しようとする橋本にたたみかけるように言った。
「何が違うんだよ。お前は知らないかもしれないが、一輝は遠香ちゃんのことで心を壊しかけたんだ。最近はやっと立ち直りかけてたのに。その苦労も優奈ちゃんに台無しにされたんだ」
 悠人を正視できず、橋本が顔を背ける。
「美月に全部聞いたよ。先輩が苦しんでたこと」
「それなら何で一輝の前に現れた。知ったのならもう顔を合わせられないはず。それだけのことをお前はしたんだ」
 橋本は視線を戻し、おずおず頷く。立て続けに言おうとする悠人を、首を横に振って制した。
「私がしたことは謝っても許されることではないの」
「それならどうして……」
「相原先輩に美月のことで話があるの」
 橋本の表情が沈み、何かを言おうとして止め、その目を涙でいっぱいにする。ただならぬ様子に、俺は橋本を初めて直視した。
「本当はね、美月は先輩のことを知ってたの。会ったのは初めてよ。でもね、中学の時に私がしょっちゅう話してたから」
 橋本には遠香という友達がいて、その友達には恋人がいた。それが相原一輝――すなわち俺だ。遠香と俺がどんな人であるか、どんな関係なのか。どんな恋人だったのか。様々なことを教えたという。だが、遠香が自殺した日から話すのを止めたのだ。俺が憎い。その気持ちが美月にも伝わり、俺の話題はタブーになった。
「それからも美月は先輩のことばかり考えてたみたい。ほら、あの子って病気のせいで友達がいないし、同年代の男の子と話をしたこと無いから。だから、先輩に思いを馳せてたのだと思う。昔あげた先輩と遠香の写真を今も大事にしてたから」
 その写真をどんな思いで見ていたのか。俺に気付いた時、どんな気持ちになったのか。出会った日を思い返す。
 俺を見た時、名前を聞いた時、離ればなれになった古い友人に会ったかのように笑っていた。初対面なのにやけに親しげだった。あの時は取っつきやすい性格だと感じた。看護師からは気難しいと聞いていたのに。
 だが、落ち着いて考えれば分かることだ。ずっと病院にいて友達もいない生活だと、気持ちは塞ぎ込む。そんな環境では人と上手く関われなくなる。美月の境遇は、年頃の女の子にとって希望を失わせるだけ。それでも俺と話せたのは、橋本に多くのことを聞き、身近に感じていたからなのだろう。
 あの日、俺と出会った美月は何を思ったのか。
「出会う前から先輩に恋をしてたのよ。でも、会えなくて、けして叶わぬ恋。そう思っていたのに目の前に現れた。傍には遠香はいない。それが先輩の病気の原因だと気付いた。だから、自分が傍にいよう。先輩の支えになろうって」
 そして美月は俺の傍にいることを望み、俺もそれを望んだ。お互いが相手を想い、相手を大切にする。なぜ俺がここまで美月に惹かれていたのか。きっかけは遠香かもしれない。でも、それ以上に美月自身の気持ちが俺を掴んで離さなかったのだ。
「美月から話を聞いて分かったの。私は間違っていたって。遠香とはすれ違ったかもしれない。それで自殺に追い込まれたのかも。でも、美月は違う。美月は先輩とのことが生きる目的だった。先輩がいるから生きたいって。少しでも長く生きて、先輩を救いたかったんだって」
 橋本は涙をぼろぼろと流す。自分が犯した過ちを、美月を理解できなかった自分の愚かさを憎むかのように。だが、その涙にはもう一つ、悲惨な事実が隠されていた。それを聞いた時、俺の心はかき乱され、ずたずたに引き裂かれる。
 悲しみに歪む顔で橋本は俺を凝視する。
「美月の病状が悪化したの」
 その言葉を聞き、俺は自分の耳を疑った。だが、現実は俺の気持ちなど気にしてはくれなかった。
「先輩が美月の前を去った日、全ての話を聞いた。その後すぐに美月は発作を起こしたの。命に別状はなかったわ。すぐに回復して元の生活に戻れたよ。でもね、先輩がいなくなって美月は生きる気力を失った。ほとんど抜け殻みたいで話しかけてもちゃんと答えてくれないの。そしてうわごとのように先輩の名前を呼ぶの」
 無気力な美月。俺が入院中に院内を徘徊し、病室で外を見る美月を見た時、床に食べ残しの食事がぶちまけられていた時、あの時の横顔が思い浮かぶ。自分の死期を感じ、生きることを諦めていた。一度しか見ていないあの横顔が俺の頭を支配する。こびりついて離れなくなる。
「先生の話だと今年を乗り切ることは難しいって。次に発作を起こせば命の保証はないって。私にはもう何も出来ないの。ただ見てるしかないのよ!」
 俺はうずくまり、頭を抱えた。胸が締め付けられ、息も満足に出来なくなる。苦しむ美月の姿を想像するだけで胸が張り裂けそうだ。
 俺が傍にいれば。美月の元を去らなければ良かったのか。だが、俺がいても彼女の重荷にしかならない。傍にいても彼女の病状は悪化するだけ。それならもう会わない方が良い。その方が彼女のためだ。
 俺は泣きじゃくる橋本を見ることも出来なかった。あの日、橋本に言われたことが何度も頭を巡る。

 ――その優しさが遠香を殺したの。そして次は美月の命を奪うわ。

 その言葉が呪縛となり、俺を尻込みさせる。今日の橋本はそれが間違いだったと言った。だが、俺の頭では以前の言葉だけが反芻し続けている。もうその呪縛から離れられない。今の俺は美月を殺す。
 美月には会えない。会ってはいけない。その思いだけが強迫観念のように俺を縛り付ける。
 俺は立ち上がれなかった。目の前には自分を非難して泣き続ける橋本と、事実を知って呆然とする悠人がいる。長津田と中山も言葉を失った。彼らの思いは同じだ。美月を想い、美月の無事を祈っている。だが、こんな時でさえ俺は自分のことを考えていた。美月を想っているようで大切にしていない。ただ自分自身が大事なのだ。自分が傷つくのが怖い。美月を失って心が壊れてしまいそうで恐ろしい。今一番辛いのは誰なのか頭では分かってるのに、心はそれを拒んでいる。
「相原先輩、私が言えた義理じゃないけど、美月に会って下さい。美月には先輩が必要なんです。先輩じゃなきゃダメなんです」
 その悲痛な叫びすら俺は拒んだ。どんな顔をして美月に会えばいいのかも分からない。
「優奈ちゃん、悔しいけど今の一輝には無理だ」
「どうして。どうして悠人はそんなこと言うの?」
「今の一輝じゃ美月ちゃんを支えられない。呪縛に苦しむ一輝を見れば、美月ちゃんは絶望してしまう」
「そんなことない! 先輩を見れば……声を聞けば元気になるよ!」
「ならなかったらどうする? その上、目の前でもしものことがあれば一輝は壊れてしまう。そんなこと、誰も望んでいない!」
 俺の葛藤を代弁するかのように橋本と悠人が言い合った。それを聞くだけで胸が苦しくなる。これ以上かき乱されるのは耐えらない。
 気付けば俺はその場を逃げ出していた。
 俺を追いかけようとする橋本を、悠人が押さえている。視界の隅で一瞬だけ捉えると、周囲に目もくれずに走った。
 とにかく一人になりたい。誰の顔も見たくない。悠人も橋本も長津田も中山も――そして美月も。誰とも関わらなければ傷つきはしない。傷つけることもない。だから俺は一人になる。そうするしかないのだ。

 ――先輩が悪いんだよ……

 遠香が言った言葉が浮かぶ。遠香を抱きしめたせいで傷つけた。追い詰めた。そして命をも奪った。全て俺が悪いのだ。
 遠香を失っても無様に生き続け、美月に出会い、彼女に生きる希望を与えた。そして今、その希望を奪い、死地に追いやろうとしている。俺が無知のせいだ。無償の優しさなどという不確かな物を振りまいたせいだ。
 俺の優しさが遠香を殺し、美月の命を奪う。その事実に打ちのめされ、現実から目を背け、走り続けた俺は、なぜか病院の前に立っていた。
 敷地の外から死角にある美月の病室を見る。
 たくさんの思い出が詰まったあの場所。
 美月の笑顔に溢れたあの部屋。
 特別長くもなく、さほど濃密ではない時間ではあったけど、絶望した俺の心を溶かし、笑顔を取り戻してくれた。
 本当に大切な場所。でも、けして手の届かない場所。
 病院に入り、美月に会う。それはとても簡単なことのはずなのに、今の俺には出来ない。あれだけ自然に会えたのが不思議なぐらいだ。
 あと少し、ほんの少し勇気があれば。
 だが、ここにいるだけで思い出される美月との時間。それが俺の心をかき乱す。偽りの幸せが胸を引き裂く。
 どれほどの時間を立ち尽くしていたのか。日は傾き、横殴りの陽光に照らされ、冷たさを増す風が肌に刺さる。それでも動けず、美月の病室を見続けた。
 きっかけが必要だったのかもしれない。誰かが背中を押せば。美月の声を聞けば。美月の姿を見ればもしくは……。
 自分の気持ちが分からなくなっていた。
 なぜここにいるのか。俺はどうしたいのか。その疑問に答えてくれる人はいない。
 気付けば日は沈み、病院に背を向けていた。
 もう関わらない。そう決めた。

 ――ごめん、美月。

 謝って許されることではない。それでも目を背け、帰宅した俺は再び部屋に引きこもった。何もしない。何も考えない。布団の中に潜り込み、そう何度も言い聞かせた。気を緩めればか細い決心は一瞬で瓦解する。そしてまた周囲の人間を傷つける。もう何も見たくない。辛い過去も、苦しい今も、暗い未来も何もかも。
 俺の部屋は静寂に包まれていた。
 しばらくして部屋の外から母の声が聞こえた。夕食の時間だろうか、何度も俺を呼んでいる。
 ドアが何度も叩かれる。少しして音が止み、足音が遠ざかっていった。
 再び静寂に包まれる。
 怯えているからか、布団の中にいるのに寒気がした。毛布を探そうとしてすぐにやめる。暖かさは麻痺しかけた思考を元に戻してしまう。すぐに寒さにも慣れた。
 しだいに体の変調は落ち着いていく。息苦しさやめまいは治まったが、胸を締め付けられる感触は残っていた。いくら考えないようにしても美月の顔が浮かぶ。それが余計に苦しみを呼び起こした。
 胸中で何度も謝った。幾度となく謝り続けた。その無意味な行為を遮るかのように足音が近付いてきた。
 今度は何だ。
 帰ってきた時の姿を母親に見られていたのか。だから心配をして何度も様子を見に来るのだろうか。また心配をさせるなんて。家に引きこもることも出来ないのか。
 ドアを叩く音が二度して、間髪入れずに母の声が聞こえた。
「一輝、いるんでしょ。あなたに電話よ」
 どこか焦ってるような声に、俺は眉根を寄せた。続けて聞こえる母の言葉に耳を疑う。
「美月さんから」
 俺は反射的に布団をはねのけた。
 なぜ美月から電話がかかってきたのか。床に伏してその元気もないはずなのに。だが、母が嘘をついたとは思えない。母は美月がただの友人だと思っている。もしかして元気になったのか。
 その考えを即座に否定して立ち上がった。辛くて苦しいのに無理をして、そこまでして俺に話したいことがあるのだ。
 ドアを開け、やつれてるはずの俺の顔を見て驚く母から受話器を受け取る。すぐにドアを閉めると、受話器を見て息を呑んだ。
 電話の向こうに美月がいる。
 あれだけ関わることを拒否し、美月に酷い仕打ちをしたのに。
 受話器を恐る恐る耳に当てると、電話の向こうから美月の苦しそうな息づかいが聞こえた。その瞬間、鼓動が強く波打つ。
 胸の苦しみが増す中、俺は口を開いた。
「……美月」
 名前を呼ぶと彼女の息づかいが小刻みになった。それを聞いた途端、美月の笑顔が思い浮かんだ。俺が呼ぶと嬉しそうに笑う、いつもの笑顔を。
「良かった、出てくれて」
 美月の不安がひしひしと伝わってくる。
「一輝の声を聞くの、久しぶりだね。何だかホッとするね」
 一言一言が辛そうで、絞り出すような声に「もう喋るな」と思わず言いかけてやめた。それが美月にとって死刑宣告に思えたからだ。
 俺も今にも発作を起こしかねない不安を押し殺して答えた。
「本当に久しぶりだな。元気にしてたか」
 そんなわけない。辛いのを知っているのに、俺にはそんな普通の会話しか思いつかなかった。
「うん、元気だよ……ううん、今元気になった。さっきまで凄く落ち込んでたんだよ。一ヶ月も一輝の声を聞けなかったから」
「ごめんな、会いに行けなくて」
「謝ってもダメだぞ」
「ごめん」
「許さないから」
「だから、ごめんってば」
「うん、やっぱり許す」
「ありがとう」
「えへへ、どういたしまして」
 嬉しそうな笑い声にホッとした。
 なぜだろう、美月の声を聞くと安心する。彼女の方が辛いはずなのに、常に俺を気にかけ、優しく包み込んでくれる。
 分かってたはずなのに。いつだって美月は俺を大切に思ってくれている。そんな当たり前のことに気付けないほど気が動転していたのか。
「美月」
「なあに?」
「俺のせいで辛い思いをさせてごめん。謝ってすむ問題じゃないけど、でも……」
「何のこと?」
「橋本に今日聞いたんだ。あれからのことを。俺と別れた後に発作を起こしたって。辛い時に傍にいられないなんて友達失格だ」
「一輝は悪くないよ。仕方ないって」
「それでもやっぱり謝りたい。だって、俺は自分のことしか考えてなかったから」
「それも仕方ないよ。悪いのは優奈だから」
「それは違う! 俺が問題から逃げて先送りにしてきたから……目を背けなければこじれはしなかった」
「それなら私も悪いね。何となく気付いてたのに」
「俺の罪を美月には背負わせられない。だから言えなかったんだ」
「私って信用されてないんだね」
 声が曇り、寂しそうに息を漏らした。信用だとかそういう問題ではない。話せば美月を傷つけるだけ。不用意に傷つけたくなかった。いらぬ心配をかけたくなかった。そんな俺の考えが間違っていたのか。
「私達の関係って何なのかな」
 唐突に言われてドキッとした。友達? 恋人? そのどちらでもない。でも、この気持ちは紛れもなく恋心だ。美月を愛おしく思う気持ちは本物だ。
「どっちつかずの関係だから遠慮しちゃうのよ、きっと。だからね、そろそろはっきりさせよう?」
 美月の意見は尤もだ。いっそのこと告白してしまおう。美月の答えがどうであれ、決着がつけば解決することもある。そう思って口を開くと、俺の言葉を遮るように美月が言った。
「その前に大事なことを確認しようね。相手のことを知った上で話をしないとフェアじゃないから」
 今さら何を確認するのだろうか。告白なんて雰囲気があれば十分なのに。女性は現実的で打算的な生き物だな。そんな感想を抱き、俺は思わず笑ってしまった。美月がふくれるのが容易に想像できる。
「私は心臓の病気です。少し前までは元気だったけど、病状が悪化したので今日には死んでしまうかも。私はわがままです。ぱしりのように用事を頼みます。とっても悪い女です。以上。次は一輝の番」
 要するに自己紹介のやり直しか。包み隠さず話せばいいんだな。そう思い、深呼吸しながら言葉を整理した。
「俺は無気力症だ。何にもやる気がないダメ人間だ。死に別れた恋人が忘れられず、精神がおかしくなっている。もの凄く弱い人間だ。でも、俺を大切に思ってくれる人を大事にする自信はある。以上だ」
 自分で自分をけなすと、気分が妙に軽くなった。心の問題を直視したおかげか。いや、それを後押ししてくれた美月のおかげだ。
 真面目に言ったせいか、おかしくて吹き出した。美月の笑い声も聞こえる。お互い笑いあい、罵りあい、時間も目的も忘れた。
 笑い疲れた頃に美月がぼそっと言う。
「私のこと、好き?」
 聞き逃しそうな程小さな声だけど、やけに耳がさえていて、しっかり聞き取れた。その問いに胸が躍る。そして俺ははっきりと答えた。
「好きだ」
 とても大事な言葉がすんなり出た。今まで何度も思っては飲み込んできた言葉。口にすれば全てを失いそうで怖かった。それなのに、気持ちを言葉にした途端にとても清々しい気分になった。
「本当に?」
「ああ」
「どのくらい?」
「世界で一番だ」
「他の誰よりも?」
「ああ。他の誰よりも」
「遠香さんよりも?」
 俺は言葉を失った。ここまですんなり言えたのに、肝心なところで絶句してしまった。答えは決まってるのに、心のどこかで即答を拒んでいる。
「そっか、一輝にとって遠香さんはそれだけ大切なんだね」
「そんなことない! あ、いや、そんなことなくはないけど……でも、今は美月が一番大切だ」
 残念がる美月に反射的に言った。俺が迷ったことも、どうすれば背中を押せるのかも美月には分かるのか。電話の向こうにいるのに俺の心情の変化を敏感に感じ取ってくれる。それが非常に嬉しい。
「すぐに死んじゃうけど、それでも一番?」
「そうだ」
「神様に誓える?」
「無神論者だけどそれで信じてくれるのなら誓う。何度でも誓う」
「えへへ、嬉しい。私って幸せ者だね」
「ああ、そうだな」
「世界一の幸せ者だね」
 嬉しそうに繰り返し言うと、段々としどろもどろになっていく。そして、なぜか嗚咽を漏らした。
「あれ、何で? 嬉しいはずなのに涙が止まらないよ」
 そう言って声に出して泣き始めた。嬉しくて悲しい。相反する感情に困惑してるのか。それが嬉し泣きだと教えると、泣きながら笑い出した。
 今まで悲しみに暮れるだけの人生だった。そして輝きに照らされ、初めて喜びを知った。その瞬間に立ち会えないのがもどかしい。
 こんな俺でも美月を幸せに出来る。幸せは小さくて些細なことの積み重ね。一瞬一瞬の嬉しいや楽しいの積み重ねだ。幸せは二人で築いていくものだったのだ。それなのに、いつまでも過去に囚われていた。縮こまっていた自分が恥ずかしい。
 でも、今は違う。心の底からわき上がる気持ちを相手に伝えたから。俺の想いを受け止めてくれる人がいるから。だから頑張れる。生きていける。
 俺は十分な幸せを貰った。今度は俺が幸せを与える番だ。
「ねえ一輝、お願いがあるの」
 妙に改まって言う美月。今さら無理難題を押し付けるわけではないだろう。彼女の望みは俺と同じはずだ。
「今ね、お母さんの携帯で電話してるの。起き上がる元気もないから病室でね」
「そんなことしていいのか。看護師に怒られるだろ」
「うん、そうだね」
「そうだね――って、勝手にしてるのか」
「えへへ、ばれちゃった」
「あのなあ」
 恥ずかしそうに笑ってる場合じゃないのに。元気な患者ならまだしも、美月は起きられないほどの重病人だ。看護師にばれたら今後一切話が出来なくなるかもしれない。それなのにのんきに笑ってる。
「だって、一輝は会いに来てくれないんだもん。こうするしかなかったの」
「うぅ、反論できない」
 そうまでして電話してくれたのだ。そのおかげで気持ちを伝えられた。いくら感謝しても足りない。
「でもさ、よく母親が協力してくれたな。俺のこと、嫌ってたはずなのに」
「分かってくれたの、私達のこと。私がどれだけ本気かって」
「それでも俺が現れたせいで美月を振り回してしまったんだ。どれだけ心配させたか想像も出来ないよ」
「一輝は本当に優しいね」
「やめてくれよ。俺は優しいって言われるのが嫌なんだ。俺の優しさが遠香を死なせたんだぞ。そんな優しさなんて欲しくない」
 半ば突き放すように言うと、なぜか美月は笑い出した。
「昔は多分、与えるだけの優しさだったのよ。相手の幸せばかりを祈って自分を蔑ろにしてた。一方通行の気持ちは重荷にしかならないの。一輝はちゃんと遠香さんの気持ちを聞いてたの? 違うんじゃない?」
 思い返してみると、美月の言うとおりだ。ちゃんと遠香を見ていれば。ちゃんと遠香の話に耳を傾けていれば。些細な変化に気付いていれば結果は変わっていただろう。俺は遠香に優しくして満足していた。優しい自分に酔いしれていた。
 今はどうだろうか。美月の想いに応えられているのか。
「私の知る一輝は、ちゃんと話を聞いてくれる。私を見てくれてる。一方通行じゃない気持ちを向けてくれるよ。だから一緒にいて楽しかった。ずっと一緒にいたいって思った。あなたの傍で生きていたいって……」
 そこで言葉を詰まらせる。電話の向こうで泣いてるのか、それとも笑っているのか。電話越しにはよく分からなかった。だが、次の言葉を聞いて察した。それを言うためだけに電話をかけたのだと。
「……会いたい……」
 美月の言葉は声にもならなかったけど、気持ちは伝わった。俺も同じ気持ちだから分かったのかもしれない。喉に出かかったものを堪えて美月の言葉を待った。誰よりもそう思っているのは美月自身だから、彼女が言うべきだ。
 俺は息を呑み、じっと待った。黙って待ち続けた。
 そして美月が言った。
「一輝に会いたい。今すぐ会いたい。声だけじゃ嫌なの。顔が見たいの。その手を握りたい。その顔に触れたい。その肩を抱きしめたい。その温もりを感じたいの!」
 今までため込んだ気持ちを爆発させる。それはもしかしたら会えない一ヶ月間だけの想いではないのかもしれない。俺と初めて会った時からか、それとも橋本に話を聞いた時からか。生まれてから十八年、親にすら甘えられずにため込んだ感情をこの一瞬に解放させたかのようだった。
「一輝に抱きしめて欲しいの。その温もりを忘れられないぐらい強く。だからね、明日になったら会いに来て。私はいつもの病室で待ってるから。だからお願い。最初で最後のお願いを聞いて」
 その言葉を聞いて愕然とした。
 最初で最後――それはもう後がなく、死を前にしているかのように感じた。すぐに答えようとしたのに、悲しくて何も言えなくなる。流れ出した涙が止まらない。
 この願いを聞いていいのか。今答えれば、その直後に手の届かない場所に行ってしまう。優しい笑顔が見られなくなる。綺麗な肌に触れられなくなる。それだけは嫌だ。でも、拒否すれば本末転倒だ。それこそ美月の生きる目的を失わせる。
 それなら答えは一つ。俺の素直な気持ちをぶつけるだけだ。
「美月、俺もお前に――」
 そこまで言いかけた時、電話の向こう側で大きな音が聞こえた。それはまるで携帯電話が落ちた時の音だった。
 かすかに呻き声が聞こえて、ドアが開く音がした。駆け寄る足音と一緒に誰かの声が聞こえた。
「美月! 美月、しっかりして! だ、誰か、誰か来て!」
 それは美月の母親の声だった。その慌てよう、その言葉、それまでの音だけで電話の向こうが大変なことになっているのは推測できる。そして導き出された答えに戦慄を覚えた。
 俺は電話を切ると手近なコートを羽織り、部屋を飛び出した。
「どうしたの、一輝」
 部屋の前でずっとそわそわしてた母が目を丸くして俺を見た。
「今から病院に行ってくる」
「え? 病院――って、こんな時間にどうして……」
 今さら隠しても仕方ない。俺は美月が危険な状態なのを簡潔に話し、母が答える前に走り出した。今日は帰れないと言い残して。
 玄関まで行き、靴を履こうとして思い出した。美月に貰った指輪を外していたことを。
 急いで部屋に戻り、引き出しから指輪を取り出して指にはめる。その間も母は呆然と突っ立っていた。そして、平常心を失っていた俺に諭すように言った。
「美月さんを助けたいのなら落ち着きなさい。そして最後まで支えるのよ。お母さんはあなたが元気になれるのなら応援するから」
 今まで心配するだけの母から出た言葉に驚いた。応援する、ただそれだけなのに心強い。どれだけ力づけられたか。
 俺は母に礼を言い、家を飛び出した。美月が今も苦しむ場所へ。美月を初めて見たあの部屋へ。美月との思い出がたくさん詰まったあの病室へ。
 美月を失いたくない。
 今度こそ後悔したくない。
 その一心が俺の背中を後押しした。

 待ってろ、美月!



   第六章


 外は寒さが厳しさを増し、降り始めた雪で路面が白く染まっていた。家を飛び出した俺は、闇に視界を奪われていたせいで雪に気付かなかった。何度も頬に当たり、体温を奪われていき、初めて気付く。
 しまった、雪が降ってるなんて。
 ドキリとして発作を覚悟した俺を待っていたのは静寂だった。動悸も息苦しさもあるのに、症状が軽いせいかそれがかえって心地いい。
 信号で足止めされながら何度も通った道を辿る。
 二月、入院先で美月と出会ってから何度も行き来した。暑い日も寒い日も、雨の日でも通った。時には学校帰りに、時には家から。気付かぬ内にそれが日常になっていた。
 彼女といる時間は安心できた。それがそう長くは続かないものだと知っていた。近い内に終わりが来ると分かっていた。それなのに、いざ直面してみると自分の浅はかさに気付かされる。失うことの怖さを知ってたはずなのに。幸せな時間がそれを忘れさせていたのだ。その日が来るのを覚悟しておくことを。

 後悔しないように。
 今度こそ心を繋ぎ止めるために。
 美月の笑顔を失わないために。

 程なくして病院が見えてきた。ほとんどの電気は消され、廃墟のように見える。夜中の病院ほど信じもしない幽霊の存在を感じる場所はない。
 玄関から入ると半ば顔見知りの警備員に怪訝な顔を向けられた。愛想笑いを浮かべて適当にあしらうと、病棟へ続く階段を登る。外科病棟に近付くと、せわしない空気が感じ取れた。消灯も面会時間もとうに過ぎている。患者は皆寝入っているのに、看護師は落ち着かない様子だ。
 見つからないようにナースステーションの前を通り過ぎ、美月の部屋を目指した。病室の近辺は静まりかえり、人の気配もない。嫌な予感に息を呑み、病室に入った。
「いない……?」
 そこにいるはずの美月の姿がない。ベッドもない。もぬけの空だと思って部屋中を見渡すと、他の荷物はあった。愛用の本棚も。
 それならどこに。
「相原先輩、やっぱりここにいた」
 振り返るとそこには橋本がいた。息を切らせて肩を振るわせている。でも、どうして彼女がここにいるのか。俺を捜していたのか。
「私はおばさんから連絡をもらったの。美月が発作を起こしたって。その時、先輩と電話してたって聞いたから来てると思った」
 橋本の話で俺の推測が当たっていたと証明された。心のどこかでそうあってほしくないと思っていたのに。
「先輩、美月は集中治療室にいます。まだ治療を受けてるはずです」
 それを聞き、俺は病室を飛び出した。そんな俺の手を橋本が掴んで止める。
「邪魔をするな!」
 手を振り払おうとする俺を、橋本が涙ぐんで見つめた。
「先輩、落ち着いて。もう二人の邪魔はしないから。だから、せめて落ち着いて。治療が終わるのを待って」
 懇願するような目に見透かされた気がして俺は止まった。平静さを失ったままだと、治療室に入り、治療の邪魔をしてしまう。結果的に美月の命を縮めてしまう。あまりの自分の愚かさに背筋が凍り付いた。
 ほっとした橋本がその場にへたり込む。
「先輩、本当にすみません。こんなことになるまで黙っていて」
 申し訳なさそうに俺を見ると、その頬に涙が伝う。
「私のせいで美月の体が悪くなったの、きっと。先輩に焼き餅を妬いてたのかな。また親友を取られると思って。美月は私じゃなくて先輩を選んだ。私には心を開かないのに、先輩には本当の笑顔を見せる。それがどれだけ悔しかったか」
 再びうつむき、何度も床を叩いた。滴がこぼれ落ち、床を濡らす。
「邪魔してやろうと思った。引き裂いてやろうと思った。二人だけ幸せになるのが許せなかったの」
 橋本からあふれ出す感情は憎しみのようだ。誰に向ければいいのか分からずにいる。そう思えてならない。
「遠香のことを一番引きずってたのは私だと思ってた。気持ちを整理できず、内側に閉じこもって。それなのに、先輩は美月に癒してもらってた。それが許せなかった! でも……先輩は遠香のことを真剣に考えていた。必死にもがいてた。心を壊すほど苦しんでた。本当に引きずってたのは先輩だったんだ」
 悲しそうに俺を見上げて言う。
「そんなことも知らずに酷いことをした。美月とのことだってこの先が約束されてない。また辛い目に遭うのに。それが分かってて一緒にいたのに。私が美月の数少ない幸せを奪ってしまった」
 それは違う。俺が分かっていなかったから。美月といつまでも一緒にいられる幻想を抱いたから。
「先輩の話をする美月は本当に幸せそうだった。それ以上に、自分がいなくなった後のことで悩んでいた。それは彼女が先輩を大切に思っていたから。先輩が美月を本当に大切にしてたから。そんな二人を私が引き裂いてしまった」
 覚悟があれば。現実を直視していれば、誰に何を言われても離れたりはしなかった。それなのに、橋本が現れ、過去の呪縛を理由に逃げ出したんだ。俺は弱い人間だ。だから美月を傷つけてしまった。
「私にはもう会わせる顔がないよ。私のせいで美月を不幸にした。全部、私が悪いの。何もかも私が……」
「それは違う。美月は橋本を恨んでない。電話で話した時、あいつは幸せそうに笑っていた。ずっと笑ってたんだ。そんなあいつの傍にいなかった俺が悪い。俺が弱くて臆病だから苦しめた。非難されるべきは俺なんだ」
 橋本は家族と共に美月を支えてきた。それを俺が横から割って入り、かすめ取った。その責任を放棄したばかりに傷つけたのだ。全ては保身のため。自分が傷つくのが怖かったから。誰に恨まれても文句は言えない。そんな俺を、美月は許してくれた。浅ましい俺の気持ちを受け入れてくれた。会いたいと願ってくれた。だから俺は美月のために何でもする。それが俺に出来る唯一の償いだ。
 そんな俺を見て、橋本が笑い出した。その理由が分からず、目をパチクリさせる。橋本はひとしきり笑って言った。
「美月と遠香が先輩を好きになった理由が分かった気がする。先輩は優しいからとかじゃないんだ。ほっとけなかったんだ」
 橋本の言うことが理解できない。そんなことを言われたこともないから。だが、橋本の目には自信が満ちあふれている。
「先輩は好きな人のことになると周りが見えなくなるの。目の前にいるその人ばかり。それが危なっかしくてほっとけないの。相手を支えてるようで支えられてる。だから美月は先輩の傍にいたんだ。守ってあげたくて」
 それが正しければ、俺が離れていくのは予想済みだったのか。だからこうもあっさり許してくれたのか。いつも欲しい言葉をかけてくれるのも、俺を理解して見守っていたから。美月を幸せにするはずが、俺ばかり幸せを貰っていた。
 それなら、美月の幸せは何なのか。
「それだけは本人に聞かないとね」
 橋本は嬉しそうに言う。やけにすっきりした顔で笑う。その態度が気に入らない。美月に聞ければ苦労しないのに。
 苦笑いを浮かべる俺に、橋本は真剣な眼差しを向けた。
「一つだけ教えておくけど、多分、美月は助からない」
 覚悟できてたはずなのに改めて言われると辛い。だが、何も言わずに次の言葉を待った。
「前に手術したことがあるの。それでも良くならなくて、助かるには心臓移植しかない。ドナーが見つかるまで耐えるしか生きる道はなかった。だから、もし今回は助かっても後何日保つかどうか……」
 最後の願いだと言ったのは、美月にはそれが分かっていたから。もう何も言えずにお別れになるかもしれない。でも、やはり話をしたい。話をしなければならない。だって、まだ聞いてないから。一番――一番大切な言葉を。
 俺と橋本は気持ちが十分に落ち着いてから顔を見合わせ、集中治療室に向かった。そこでは美月の治療がまだ続けられ、彼女の母親が額に両手を当てて無事を祈っている。何時間そうしてるのか、疲労が見てとれた。
 母親は俺に気付き、懇願するような目を向けた。そんな女性を、橋本が支えるようにしてソファーに座らせて落ち着かせる。
 俺には何も出来ない。ここまで自分が無力だと思ったことは一度もない。介入する余地がないのは辛い。母親も同じ気持ちで祈ってるのだろう。
 俺は座らず、壁にもたれかかったまま待った。
 時計の針だけが無情にも刻まれていく。
 看護師が何度も治療室を出入りし、そのたびに美月の母親が容態を聞く。未だ芳しくなく、扉が開いても中が見えず、もどかしさだけが募っていく。
 冬の廊下は寒くてコートだけでは体が冷える。それ以上に母親は凍えていた。美月よりも先に倒れそうな気がして、俺のコートを掛けてやった。
 予想外の行動に驚く母親を後目にこの場を離れた。逃げ出したように見えただろうか。今さら体裁を気にしながら自販機を見つけると、熱い缶のお茶を人数分買って戻った。それを渡すと、元の位置に立つ。
「ありがとう」
 橋本がそう言って受け取ると、一つは母親の手の中に収めた。母親は目を丸くし、しばらく迷って頭を垂れた。
 俺は素っ気なく会釈して缶を握りしめる。これで少しは寒さを紛らわせるだろう。さすがにコートがないのは辛いが。
 それからしばらくして、震える俺を心配した看護師が毛布を貸してくれた。感謝して暖まってると、治療室の扉が開き、中から美月の主治医が出てくる。憔悴しきった顔で俺達の前に立った。
「何とか一命は取り留めました。これは奇跡かもしれません。今は眠ってますがじきに目を覚ますでしょう」
 それを聞いて母親がほっとして吐息を漏らした。だが、医者の表情は暗いまま。辛くて続きを切り出せずにいるようだ。しばらく逡巡し、覚悟を決めたのか医者の目に僅かな光が点る。
 俺は息を呑み、医者が口を開くのを待った。
「ご存じの通り、以前の手術はあまり効果を上げられず、この何年かドナーを待ちましたが、それも叶いません。そして今回の発作は致命的でした。一命を取り留めたとはいえ危険な状態に変わりなく、近い内に――遅くても数日中に発作を起こし、その時は助からないでしょう。覚悟をしておいて下さい」
 そう言って医者は去った。
 最悪な結末だけは避けられたが、余命数日という現実に思考が停止する。しばらく呆然としていると、隣の二人が嗚咽をもらした。そして支え合うようにして泣き始めた。助かって嬉しいのに、それが風前の灯火とは。
 今まで漠然と感じていた美月の死を目の前に突き付けられた。もしかしたら助かるかも。それこそ奇跡にすがるように祈っていた。もう一度美月の笑顔が見たい。ただそれだけの望みも届かないなんて。
 今にも涙が溢れ出しそうになり、それを必死に堪える。気をしっかり持つように自分に言い聞かせる。
 美月が死ぬ。
 その現実を強く意識した直後、激しいめまいに襲われて尻餅をついた。胸が締め付けられ、両手で押さえてうずくまる。気管がか細くなるような錯覚に陥り、息を荒げた。
 隣で泣いていた二人は、突然のことに驚き戸惑っている。
「せ、先輩! もしかして発作ですか!」
 慌てて助け起こそうとする橋本を制し、大丈夫だと答える。だが、全く声にならず、それが相手の不安を煽る結果となる。彼女は俺を抱き寄せて必死に落ち着かせようとした。それでも俺は涙を堪え続けた。

 ――辛い時は泣いた方が良いよ。

 以前、美月に言われたことを思い出した。その方が楽かもしれない。だけど、今泣くと大事な物を失いそうで怖かった。その不安がさらに俺の症状を悪化させる。
 圧迫感を覚え、頭がぐらぐらし、意識が遠のく。
 意識を保とうと美月のことを考えた。彼女の声を、彼女の姿を、彼女の笑顔を。だが、抵抗も無駄に終わった。そして橋本の悲鳴を最期に意識を失った。


 どれほどの時間が経ったのか。
 いつの間にか明るくなったようで、窓から差す光が眩しい。手をかざしながらゆっくり目を開くと、そこは気絶する前と同じ場所だった。ソファーに寝そべり、毛布を掛けられていた。背中はひんやりしてるのにさほど寒くない。何より誰かに握られた手が温かかった。いったい誰が……。
 美月かなとあり得ない想像をして、すぐ側で寝息を立てる少女を見た。疲れ切った顔でソファーに頭だけ乗せていた。
 そっと手を離して起き上がると、目を覚ます少女が寝ぼけ眼を向ける。
「……相原先輩、起きたんですか」
 あまり寝てないのはすぐに分かった。俺を看ていたからか、そもそもさほど時間が経ってないのか。
 介抱してくれたことに礼を言うと、橋本は照れるように笑う。
「美月に聞いたんです。先輩は手を握ってあげると安心して眠れるって。でも、私じゃ気持ちがこもってないから意味ないかも」
 気絶してる人間に判別できるわけがない。でも、美月がそんなことを言っていたとは。少し気恥ずかしくなる。
 周囲を見渡すと、美月の母親が見あたらなかった。
「おばさんは美月の所です。お母さんだし、いてもたってもいられなかったみたい」
 家族だからそれも仕方ない。
 意識を失ってる間に何もなくて良かった。ほっと胸をなで下ろして、ふと思う。世間的にはただの友人である俺は美月に会わせてもらえるのか。
 その疑問を口にすると、橋本はくすくす笑っていた。
「おばさんは先輩に感心してました。気が利くいい青年だと。それに、美月は必ず会いたがります。悔しいけど、美月にとっての一番は先輩だから」
 そうであってほしい。家族を差し置いてでも。それは贅沢な望みだと思っていた。
 橋本は今までの憎しみが嘘のように優しく笑った。
「贅沢なんかじゃないよ。それは美月の望みでもあるから」
 親友のことなら何でも分かると言われた気がして少し悔しかった。今さら張り合うことではないし、俺は素直に頷いた。
 少しして治療室の中から母親の声がした。嬉しそうに美月の名前を何度も呼んでいる。俺は橋本と目を合わせてハイタッチをした。
 橋本はすぐに立ち上がると振り返って言った。
「先輩は待ってて」
「俺も行く」
 慌てて立ち上がろうとする俺を制する。
「先輩がいると美月が先輩ばかり見るからダメなの。私も話したいんだから」
 どういう理屈だよ。眉根を寄せて橋本を見ると、彼女は意地悪そうに笑った。
「二人っきりになれる時間を必ず作るからそれまで待ってて。聞かれたくない話もあるでしょ?」
 あるけど、今さら聞かれても困りはしない。俺はまだ不満な顔を向けたが、次の言葉でしぶしぶ言うとおりにする。
「美月もそれを望んでるから。ね?」
 そう言われると何も言い返せなくなる。美月の望み。それを叶えるためにここにいるのだから。
 橋本に遊ばれてる感は否めないが、しばらく待つことにした。待ってる間、安堵したせいで眠気に襲われてしまう。程なくして眠りについた。

 夢を見た。
 君が元気に野原を駆け回る夢。
 君は本当に幸せそうに笑っている。
 どうしてそんなに幸せそうなのか。
 いくら聞いても笑うだけ。
 でも、その笑顔を見て分かった。
 僕の顔が綻んでいるから。
 だから君も笑ってるんだね。
 君が笑えば僕もまた笑う。
 それが僕らの幸せのカタチ――

 目を覚ますと、美月の母親と橋本が俺を見下ろしていた。はっとしてだらけた顔を整える。今さら遅いことに気付き、顔が熱くなる。
「いい夢でも見てたの?」
 夢。確かに夢を見ていた。とても幸せな夢を。
「美月もね、さっきまで寝てたの。相原先輩と同じ顔してました。二人で同じ夢を見てたんだろうね」
 橋本がとても嬉しそうにからかう。それが余計に恥ずかしくて顔を背けた。だが、妙に納得した。二人で同じ夢を――見てた気がする。
「美月が会いたがってます。早く行ってあげて下さい」
 言われるまま立ち上がると、二人の横を通り過ぎて治療室に入る。すれ違う時、美月の母親はこう言った。「娘をお願いします」と。
 初めてかけられた優しい言葉に驚き、感謝し――そして、謝った。
 親子の最後になるかもしれない時間を奪う。それがこんなにも心苦しいなんて。俺はこの時のことを一生感謝して生きていく。それが唯一の恩返しなのだと心に刻む。
 大きな医療機器に囲まれて、美月がベッドで横になっていた。発作を起こしたばかりなのに安らかに目を伏せていた。顔を覗き込むと、彼女がゆっくりと目を開く。
「寝てたの?」
 すまなそうに聞くと、美月は首を横に振り、頬を緩めた。
 一ヶ月ぶりの再会なのに、もう何年も会っていないと思える懐かしさがある。その反面、久しぶりとは思えないほど変わらぬ笑顔があった。
 俺に優しく笑いかける美月を見てると、抱きしめたい衝動にかられた。それを堪えて、彼女の頬にそっと触れる。
 美月は目を丸くし、すぐに目をそらした。頬を染め、布団から片手を出して、自分の頬に触れる俺の手に重ねた。彼女の腕は以前よりも細くて、手も肉がそげ落ちてるみたいだ。それでも確かな温もりが感じられた。
「来てくれたんだね」
 か細い声で言う美月に、俺は声を詰まらせた。初めて俺の前で発作を起こした時も辛そうだったのに、今の彼女は一言喋るごとに命をすり減らしているようだ。
 黙っている俺を不思議そうに見つめる。葛藤に気付いたのか、俺が口を開くのをじっと待っている。この大切な時間を無駄には出来ない。そう思い、臆病な心を押さえつけた。
「約束したじゃないか。必ず会いに来るって」
「私はお願いしただけよ」
 懸命に押し出した言葉を一蹴された。こんな状態でも頭の切れがいいなんて、美月は侮れない。感心しつつ、俺は話を続けた。
「そういえばそうだっけ。改めてお願いされると、恥ずかしくて何も言えなかったんだ。でも、会いたい気持ちは俺も同じだった」
 電話の向こうで願っていたこと。美月に会いたい。ただそれだけの純粋な気持ち。
「あんなことがあって逃げ出して、一ヶ月も会えなくなった。俺はいつもそうだ。嫌なことがあればすぐに逃げ出し、殻に閉じこもって自分が傷つかないようにしてきた。本当に臆病者だ。そのせいで美月がこんなにも苦しんでたなんて」
 初めて誰かが傷つくのが怖いと思った。目の前で美月が弱っていく。その事実を突き付けられ、自分がどれだけ小さくて無力な人間か思い知らされた。
 悔やんでも悔やみきれない。自分をただ非難し続ける俺に、美月は首を横に振る。
「私は辛くなかったよ。だって、いつも一輝が支えてくれてたから」
 言ってる意味が分からなかった。傍にいなかったのに、電話すらしなかったのに支えられていたなんて。
 いつまでたっても答えを導き出せない俺に美月は呆れている。「仕方ないな」と呟き、片手を俺に見せる。その指には俺があげた指輪がはめられていた。
「これがあったから平気だったんだよ。魔法のアイテムみたいだね」
 そう言って美月は笑った。だが、俺には彼女が嘘をついてるように思えた。
 指輪が支えになったのは本当だろう。でも、それは所詮、道具でしかない。指輪を見て触れて、俺との少ない思い出を支えにしてたのだ。当然、それだけで心に開いた穴を塞げはしないし、寂しさは募るばかり。しだいに塞ぎ込んでいった。その結果、生きる気力を失い、抜け殻のようになったのだろう。それもこれも俺が現実から目を背けたから。逃げだし、美月を一人にしたから。
 それなら、なぜ美月は一ヶ月も経ってから電話をしたのか。いつでも電話を出来たはずなのに。
「一輝が私の声を聞きたくないんじゃないのかと思ったから」
 それを聞き、愕然とした。美月は自分がどれだけ辛くても俺の気持ちを第一に考えていた。それなのに、俺は自分のことだけ考えていた。美月の懐の広さを痛感する。
「でも、もう限界だったの。寂しくて寂しくて我慢できなくて」
 美月の頬を涙が伝う。会えない時間を思い出し、泣いている。
「ごめんな、俺が臆病なせいで。でも、もう寂しい思いはさせない。君が望むのならいつまででも傍にいる」
「嬉しい。これで二回目だね」
 言われて思い出した。確かにこんな気持ちになったのは二度目だ。以前も、俺は本心から望んだ。美月の傍にいたいと。だが、あの時は遠香への贖罪になると思ったからだ。でも、今度は違う。
 以前、悠人に言われたことがある。
「美月ちゃんとのこと、遠香ちゃんへの贖罪と思うな。美月ちゃんを見て美月ちゃんの為になることをしろ。それがひいてはお前の為になる」
 その言葉の意味を今になって理解した。美月は遠香ではない。美月は美月なのだ。美月を遠香の変わりのように扱えばお互いが傷つくだけ。美月を見て、美月のためになることをする。美月自身を想い、大切にする。そんな簡単なことを俺は出来なかった。時間が無くなってようやく気付いた。
「ねえ一輝、遠香さんのことを教えて」
 唐突に言われてドキリとした。
「いいのか」
 美月は頷く。
「そこまで一輝の心を掴んで離さない人のことを知りたい」
「知ってどうする?」
「私の方がいい女だってことを証明する」
 真顔で言う美月がおかしくて俺は吹き出した。言わせた俺が言うのもなんだが、今さら証明する必要はない。確かに遠香は大切な人だが、それはもう昔のこと。所詮は思い出でしかない。今は彼女よりも愛しい人が目の前にいる。気付くのが遅すぎたけど、美月が気付かせてくれた。
「笑わなくてもいいじゃない。知りたいの、私は。教えてくれないと化けて出るよ」
 ふてくされる美月。本当にそうされそうな気がする。
「分かったよ。全部、話す」
 俺が折れると、美月は嬉しそうに笑った。昔の恋人の話で喜ぶのもおかしな話だ。
 俺は語った。遠香に出会い、死に別れるまでのことを。楽しいことも辛いことも全て包み隠さず話した。それを美月は熱心に聞いている。時には怒り、時には笑い、焼き餅を妬くこともしばしば。
 最後まで話し終えた時、俺の心は妙に軽くなった。背負ってきた物を美月と共有することで、肩の荷が下りたみたいだ。そんな俺に美月は言った。
「遠香さんはとてもいい子だね。本当に一輝が好きだったんだ。でも、自分を素直に出せない可愛そうな子。ずっと……ずっと無理をして追い詰めて、死を選んだ。辛かったんだよね」
 美月は目をつぶり、俺が話した遠香の姿を思い浮かべているようだ。そして目を開け、こう続けた。
「でも、酷い死に方ね。楽しいこともいっぱいあったのに、一輝を非難して傷だけを残すなんて。私なら絶対にそんなことしない」
 決意に満ちた美月の一言一言が俺の救いとなる。いままでずっと悩み苦しんできた俺を優しく包み込んでくれる。それが本当に嬉しかった。美月が今まで以上に愛おしく思えた。でも、そんな彼女はもうすぐ……。
「美月、俺はどうしても君に聞きたいことがある」

 もうすぐ君は――

「今じゃなきゃダメ?」
「ああ、今じゃないとダメだ」

 だって君はここから――

「今度じゃダメ?」
「ああ」

 君は俺の前から――

「どうしても今なの?」
「今がいい」

 俺の前から消えて――

「どうしても?」
「今がいいんだ」

 消えてしまうその前に――

 困惑する美月をじっと見つめる。そんな俺を、美月は黙ったまま見つめ返す。俺は息を呑み、思い返した。今まであったことを。美月と共に過ごした時間を。それらを確かな形として胸に刻みたい。その為には美月の口から聞かねばならぬ言葉がある。
「俺は美月が好きだ。世界で一番大好きだ」
 電話越しではない告白。初めて直接伝える自分の気持ち。言える日をどれだけ待ち望んでいたか。顔を綻ばせる美月に、俺は聞いた。
「美月は俺のこと、どう思ってるんだ」
 俺の問いに、笑顔のまま頬を染めて目をそらす。その優しい笑顔の裏で何を考えているのか。俺はじっと答えを待った。拒否されただけで揺らいでしまいそうな希薄な決意に支えられて。
 欲しい言葉は一つだけ。今まで幾度となく口にした望みとは違う、純粋な気持ち。それを俺は伝えた。今度は美月の口から聞きたい。
 美月はゆっくりと視線を戻し、俺を見つめる。何度も口を開いては噤み、また開く。そして頬を緩ませて言った。
「私も好き。一輝が大好き」
 美月の声が、気持ちが俺の心に染み渡っていく。“好き”というただそれだけの言葉。小さな子供でも言えるありふれた二文字が、俺達にとっては特別で大切な物。それを聞けただけで幸せで満たされていく。
 俺は美月を見つめ、彼女は俺を見つめる。
 美月はそっと目を閉じた。
 俺は美月の唇に視線を移し、自分の顔を寄せた。
 目を閉じる。
 美月の息づかいを傍で感じる。

 そして、美月の唇に自分の唇を重ねた。

 最初で最後の口づけはしょっぱかった。レモンの味とか甘い味がするとよく言うが、何でこうもしょっぱいのか。
 これは悲しみの味だ。溢れ出す涙が頬を濡らし、俺達の唇を濡らした。だからこんな味がするんだ。
 俺はあまりの悲しさに余韻に浸れず、すぐに離れた。驚いて目を見開く美月を抱きしめる。我慢できずに声を出して泣いた。もうすぐ失われてしまう命を強く抱きしめた。最初は強張っていた彼女も身を委ね、俺の背中に手を回す。その手にも力が込められる。
 後ろで扉が開く音がして人が入ってきたが、お構いなしに抱きしめ合う。そしていつまでも泣き続けた。
 泣き疲れた俺は、あまりの恥ずかしさに美月を直視できなくなった。そんな俺に、彼女は優しい眼差しを向けている。
 俺達を少し離れて見守る人達がいた。美月の家族や橋本、連絡を受けて来た悠人達だ。俺の人騒がせな泣き声に驚いて入ってきたのだ。美月に何かあったと思ったのだろう。本当に申し訳ない。
 大人数がひしめく治療室は窮屈で、長い沈黙が余計に狭さを感じさせた。その沈黙を破ったのが美月の提案だった。それを聞き、皆が一様に驚きの声を上げる。一番驚いたのはおそらく俺だ。
 美月は恐る恐る手を挙げ、恥ずかしそうに言う。
「私、結婚式がしたい」
 俺は腰を抜かした。周りのみんなが口々に何かを言っていたが、俺の耳には届かない。
「だ、だめならいいんだけど……」
 美月はおずおず引き下がり、しょぼくれる。
「せっかくだし、みんなに立会人になってもらえるって思ったの。でも、これって私のわがままだよね」
 ぶつぶつ言いながら美月が落ち込んだ。それを慰めるように友人達が賛成する。美月の家族も異論はないらしい。全員の視線が俺に集中する。
「ほら、こういうのは当人達の問題だから。先輩の意思を尊重しないと」
「だよな、一輝が決めるべきことだよな」
「そうよ、相原くんが決めなさい」
「相原……」
 と友人達が口々に言う。美月の母親も一緒になって言う。
「あなたに娘のことは託しました。二人が望むようにしてほしい。それが母の望みです」
 こういうのを八方塞がりというのか。
 この場の全員に後押しされた美月が、強い決意を秘めた眼差しを俺に向けた。彼女に見つめられると、反論が出来なくなる。なんと意志の弱いことか。でもまあ、悪い気はしない。結婚式――それを美月が望むのなら叶えてやりたい。
「どうやってするんだ」
 頬をかきながら言うと、美月の顔がぱあっと明るくなる。
「あ、あのね、今からじゃ式場は無理だからここでするの。結婚指輪は私達のを代用するとして――」
 そこでなぜか全員が驚く。俺と美月は顔を見合わせ、お互いの手を挙げてお揃いの指輪を見せる。それを見てようやく納得した。全員が知ってるはずなのになあ。
「ペアリングだったなんて思わなかった」
 そんな感想にかえって驚かされる。
 美月の言う結婚式は、婚姻を結ぶ儀式の真似事だ。指輪を交換し、誓いのキスをする。説明する美月は、恥ずかしそうだけど嬉しそうだった。
 家族と友人の立ち会いの下、俺と美月はお互いの左手薬指に指輪をはめた。そこで改めて見て気付く。プレゼントした時はちょうど良かったのに、今はかなり余裕があった。本当に痩せたな、と。
 後は誓いのキスをするだけ。俺達は見つめ合い、その瞬間を待つ。
「さっきのが最初で最後のはずだったんだけどな」
 ぼそっと言うと、美月は少し不機嫌になった。
「あんなのキスじゃないよ。キスって本当は優しくて甘い物なの」
 ふてくされて顔を背けようとした美月の唇を奪う。驚いて目を見開く彼女の唇にもう一度、自分の唇をそっと重ねた。今度は本当に優しく、美月も抵抗せずに身を委ねてくれた。一生分の愛情を込めた口づけは美月の言うとおりの味がした。
 人目をはばからずに十分堪能すると、ゆっくりと離れた。歓声が上がる中、美月はぶすっとして俺を睨む。
「不意打ちするなんてずるい!」
「心外だな。最初のは不意打ちだけど、二度目は違うぞ」
「え? そうだったの?」
 美月が見回すと、全員が頷いた。神父の役を買って出た悠人が笑って事情を説明する。一度目のキスで美月が驚いてる時に、誓いのキスをするように悠人が指示していた。俺はそれを聞き逃さなかったのだ。
「やり直ししよ、やり直し!」
 美月が子供のようにだだをこねると、どっと笑いが上がる。誓いのキスを何度もねだる新婦を今まで見たこともない。とはいえ、拒否する理由もなく、美月の申し出は受け入れられた。俺は恥ずかしいのだが、周りが完全に乗り気だ。それどころか、美月はすでに目をつぶって待っている。
 最初で最後と格好をつけたのに。胸中で嘆きながら四度目の口づけを交わす。だが、これが正真正銘の最後になるなんて――


 結婚式を終えた後、疲れた美月を寝かしつけてから俺は病院のロビーで休んでいた。本当は友人達が帰った後も彼女の傍を離れず、日が暮れるまで寝顔を見ていたのだが。目を離した隙に消えてしまいそうで怖かったからだ。疲労困憊が見て取れたのだろう。美月の母親に説得され、休むことにした。
 とはいえ、美月が心配で気が休まらなかった。静まりかえったロビーのソファーに腰を下ろし、最後に交わした言葉を思い出す。
「これは私の最後の思い出。一輝はこの先の人生でたくさんの思い出を作るんだよ」
 俺はもう何もいらない。美月の傍にずっといたい。そう言う俺に、美月は首を横に振る。
「それはダメ。私は遠香さんのように一輝の重荷になりたくない。私はもう十分すぎるほど幸せを貰ったよ。だから、一輝はどんな形でもいいから幸せになって。でも、時々でいいから思いだしてね」
 そう言って美月は眠りについた。その寝顔は本当に幸せそうだった。かなり遠回りしたけど、努力した甲斐がある。そう思えるほど価値のある笑顔を見せてくれた。だが、今は喪失感でいっぱいだった。
 ようやく掴んだ物がもうじき消え去る。自分が無力だと思い知らされる。数時間後か、それとも数日後か。
「ここにいたのね」
 美月の母親が俺の前に立っていた。俺が頷くと、隣に座る。
「一輝くんにはなんてお礼を言えばいいんでしょうね」
「俺はお礼を言われるようなことはしてません」
 素っ気なく言い放つ。でも、それは本当のことだ。俺は美月に出会って好きになり、望んで傍にいた、ただそれだけだ。
「一つだけ分からないことがあるんです」
 僅かな沈黙の後、俺は話を切り出した。
「何で今日の美月はあんなに元気なんですか……声を出すのも辛いはずなのに」
 それだけが分からない。今にも止まりそうな心臓を動かし、最後まで笑顔を浮かべ続けた。俺に弱音を見せようとしなかった。
「それは確かに不思議ね。親の前ではしおらしくて自分から話そうともしなかったあの子が、一輝くんとは最後まで楽しそうに話してた。どこに元気が残ってたのか」
 母親にも分からないのか。
 落胆する俺の横で、美月の母親は考え込んでいた。何かを理解したのか、はっとして俺を見る。そして少し笑い、こう言った。
「きっと、自分の苦しむ姿ではなくて、元気な姿を覚えていて欲しかったのね。他ならぬあなたに」
 美月は俺に、重荷になりたくないと言った。それが答えだったのだ。
 母親はうつむき、言葉を続けた。
「美月にはあなたのような人が必要だったの。病気を知ってもなお踏み込んできてくれる人が。あの子にも昔は友達がたくさんいた。でも、優奈ちゃん以外は離れていった。本当は寂しかったと思う。だけど、それを誰にも言えなかった」
 言いたいことを言えない美月を想像できない。俺の前では素直に感情を出していた。それでは、俺以外にはどうだったのか。俺に出会う前は。考えてみると、それほど恐ろしいことはない。ただでさえ死と隣り合わせで辛いのに、そのはけ口が八つ当たりだけだなんて。そんな生活では心が安まらない。
「美月はあなたに会えて変わったわ。親としては男性と会うのは気が気じゃない。その上、学校に連れ出したりと冷や冷やさせられた。でもそれはあの子が望んだこと。それを応援するのが親の務め。幸せそうなあの子を見て気付かされた」
 母親は常に美月のことを想ってきた。だから見ず知らずの俺を嫌っていた。普通の家庭でも愛情を与えて育った娘をよその男に取られるのは嫌だろう。それでも俺を認めてくれた。家族に見守られ、祝福された美月はやはり幸せなのだろう。
「何よりも感謝してるのは美月に恋をさせてくれたこと」
 改めて言われ、顔が熱くなる。
「こ、恋って俺が勝手に好きになっただけで」
 何を今さら動揺してるのだ、俺は。家族の前で散々キスをしておいて照れるなんて。だが、そんな純粋な気持ちで美月を好きになったのが良かったのだろう。美月の母親はもう一度俺に頭を下げる。
「美月に恋をさせてくれたことを感謝してます」
 深々と頭を下げる。その目から涙がこぼれ落ちた。
 俺と美月が幸せになりたいと願った気持ちが、結果的に母親の心を救った。幸せは伝染するのだと知った。
 程なくして俺は一人になった。母親は美月の元に戻ったのだろう。
 それからしばらく時間が過ぎ、俺の所に橋本が走ってきた。俺を捜して走り回ったからか、息を切らせている。そして橋本の口からその時を知らされた。美月が息を引き取った、と。
 その事実を突き付けられてショックを受けたが、安らかに眠りについたと思うと、悲しいけれどほっとした。なぜだろう。その疑問の答えはすぐ側にあった。美月の母親との話が俺の心を落ち着かせたのだ。
 俺は美月に会いに行った。彼女は俺が傍を離れた時と変わらず、安らかに――本当に安らかに眠っていた。
 いい夢を見てるのだろう。そう思えてならない。
 家族との当たり前の日常、俺との思い出、あったかもしれない俺との未来。美月の寝顔を見ると、彼女が本当に幸せであったと実感できた。
 もう苦しまなくていいんだね。
 俺は美月に優しく語りかけた。

 ――俺も君に出会えて本当に幸せだったよ。

 と。



   エピローグ


 あなたに会えない日々がとても辛い。
 こんなに寂しいのなら出会わなければ良かった。
 そうすれば、変わらぬ生活を送れたのに。
 どうしてあなたは私の前に現れたの?

 でもね、あなたに会えて知ったことがあるの。
 この世界には“幸せのカタチ”があるってこと。
 私が笑うとあなたは笑う。
 あなたが笑うと私も嬉しくなってまた笑う。
 ただそれだけなのに私の心は満ち足りていた。
 そんな幸せにも終わりはあるんだよね。
 私たちの幸せは幻想だったのかな。
 私が幸せを求めたからあなたを傷つけた。
 そしてあなたは私の前からいなくなった。

 あなたは今、何を思ってるの?
 私のことを想ってくれてるなんておこがましいことは望まない。
 けど、知りたいの、あなたの気持ちを。
 私に出会ったこと、後悔してるのかな。
 してるんだろうな。
 もう会えないって分かってるのに、どうしても気になるの。
 ねえ、今、あなたはどうしてるの?

 会いたい。
 私はあなたに会いたい。
 会って話をしたい。
 声が聞きたい。
 その手に、その体に触れたい。
 私の気持ちを知ってほしい。
 私は幸せだって。
 だって、あなたは私にたくさんの幸せをくれたから。
 だから今度は、私がたくさんの幸せをあげる。
 この世界にある“幸せのカタチ”を教えてあげるの。
 私はもういなくなる。
 だからこそ教えてあげたい。

 あなたが幸せになれないなんて酷すぎるよ。
 死んでも死にきれないよ。
 だからね、優しいあなたの未来を祈ることにしたの。
どうか、幸せになって、と。
 もう会えないけど、私は祈ってる。
 あなたが幸せになれますように。
 誰よりも幸せになれますように。

 最後に一つだけ。
 もう一度、あなたに会いたかった。

              ◇    ◇    ◇

 美月が息を引き取った後、彼女の母親から数通の手紙を受け取った。俺と出会ってから書き溜めてきた手紙だ。どれだけ幸せだったのか、どれだけ俺の幸せを願っていたか。その手紙には書かれていた。
 美月の想いが俺の心に染み渡り、涙が頬を伝って流れた。美月の存在がとても大きく思えた。こんなに想われてた俺は世界一の幸せ者だ。
 生きる勇気が湧いてくる。涙と共にあふれ出てくる。美月の想いがあれば、俺はこの先のどんな困難にも立ち向かっていける。そう確信した。
 それから二ヶ月ほど経った今も、美月の手紙は俺の机の引き出しに眠っている。その返事、ではないけれど、俺の気持ちをしたためた手紙を携えて美月の家を訪れた。
 美月の母親が俺を出迎え、美月の前に案内された。遺影を前にしてこれまでの報告をして、手紙を渡す。
「一輝くん、色々とありがとうございます。あの子も本当に幸せだと思います」
「幸せを貰ったのは俺の方です。感謝しても感謝しきれない」
 美月の母親とは、顔を合わすたびにお礼を言い合っている。今頃あの世で美月が笑っているだろう。いつまでたっても俺は成長しない。
「あなたがこうして来てくれるのは嬉しいけど、いつまでも囚われないでほしい。あの子のことは母である私が背負っていくから」
 そう言って俺の将来を案じてくれる。俺のことを本当の息子のように心配してくれる。その気持ちが嬉しかった。
 俺はありがとうと言い、首を横に振った。
「俺は美月のことを絶対に忘れない。彼女がいたから今の俺がいる。だから、美月は俺の心の中に生き続けるんです」
「それではあの子の望みが叶えられないわ」
 美月の望みは俺が幸せになること。彼女のいない世界で幸せになること。だけど、残念ながらそれは無理だ。美月にとって俺が全てであるように、俺にとっては彼女が全てだ。それでももし、それでもいいという人が現れたら――
「美月のことも含めて愛してくれる人が現れたら、その人のことを全身全霊で大切にする。それが俺にとっての幸せだから」
 美月なら許してくれるだろう。だって、俺が真剣に悩み、導き出した答えだから。
 母親はそれ以上聞いてくることはなかった。不満はあるようだが、美月をいつまでも大切にする俺の気持ちが嬉しいのだろう。
 他にも報告があることを思いだし、それを美月に伝える。
「重大ニュースがあるんだ。あの橋本が悠人に告白して、付き合うことになったんだ。中学の頃から好きだったけど、遠香のことで半ば諦めてたらしい。でも、俺達を見て頑張る気になったって。それで、悠人もまんざらじゃなくて、二人は今じゃ目も当てられないほど仲良しだ。長津田と中山も俺に気を遣うこともなくなったし」
 友人達は皆、前に進み始めた。俺もそろそろ過去にけりをつける頃だろう。その報告が今日の一番の目的だ。
「今日は遠香の命日なんだ。何の皮肉か、あの日と同じ天気で憂鬱だけど、これから墓参りに行く。これまでのこと、美月のことを話してくるから」
 遠香のことを考えると、今でも胸が締め付けられる。それでも真っ正面から立ち向かわなければならない。だが、今は美月が傍にいる。見守ってくれる。だから恐れることは何もない。
 外ではちらほらと雪が降っていた。すぐに溶けて積もることのない雪は、悲しみの欠片のようだ。だが、今なら分かる。雪が溶けるのは、その先に春が待ってるから。悲しみも同じで、その先に幸せが待っている。美月と過ごした時間がそれを教えてくれた。だから、これからも俺は――

 ねえ一輝、私ね、あなたに会えて幸せだよ。

 ――これからも俺は生きていける。この先もずっと。