神託の背信者 光に呼ばれし者の運命

 プロローグ



 地面が激しく揺れ動き、地面に立っていることもままならい。風は吹きすさび、時にかまいたちのように肌を引き裂く。幾度となく放たれる閃光は、そのたびに轟音と爆発を引き起こした。
 野は焼き払われ、湖は蒸発し、地面は抉られていた。遠くにそびえる山々では、どす黒い噴煙が噴き上がっていた。山肌は噴きだした溶岩で赤黒く染まっている。溶岩は側まで迫り、粉塵が山のように降り注ぎ、一帯は地獄と化していた。
 そこには2人の男が距離を空けて睨み合っている。互いに剣を握り、じりじりと距離を詰めて踏み込む瞬間を探っていた。
 大柄な男が大剣を握る手に力を込めて言い放った。
「貴様も機関の犬というわけか、エブィルよ」
 大柄の男は屈強な体を震わせ、その鋭い目で相手を見据えていた。いかつい顔がいっそう恐ろしく見える。
 対するのは中肉中背で凛々しい顔立ちの青年。エブィルと呼ばれた彼は、本来は優しい眼差しを引き締めて大柄の男を見据えている。その手に握る剣を僅かに下げ、飛び出す準備をするかのように身を屈めた。
「ロウトゥス、それは何のことだ」
 身に覚えのない発言に、エブィルは眉根を寄せて言う。大柄の男――ロウトゥスはその反応が意外だったのか、驚きを浮かべた。
「奴の部下でありながら違うだと? 片腹痛いわ」
 それでも理解できないでいるエブィルはロウトゥスに再び問う。
「機関とは何だ。それと陛下と何の関係がある?」
「笑止! 貴様ら天上人に話す言葉は持たぬ!」
 そう言い放つと、ロウトゥスが地を蹴り、一瞬でエブィルの間合いに入る。疾風迅雷の動きで、大剣を横薙ぎにした。エブィルは地を蹴り、すんでの所で躱す。続けざまの斬撃を自らの剣で捌いていった。
 ロウトゥスの攻撃は止むことがない。重くて扱いづらい大剣を振り回しているとは思えない動きだ。乱雑に見えて的確に相手の動きを捉えている。その斬撃の一つ一つが重く、衝撃で地面を抉っていく。一帯はすでに小さなクレーターに埋め尽くされていた。
 対するエブィルの動きは軽やかで、舞を踊るかのようだ。ロウトゥスと対照的な最小限の動きで攻撃を捌いている。衝撃も、彼の服にすら届かずに霧散していく。
 目を見張る動きに、周囲にいる人々は動けずにいた。
 戦う2人を挟むように、かなりの距離を取って2つの軍勢が陣取っている。だが、次元の違う戦いを前に、誰もが立ち尽くしていた。
 ロウトゥスの渾身の一撃を、衝撃のほとんどを流しつつ受け止める。剣を交えたまま、エブィルは相手に怒号を浴びせた。
「この戦争もお前達が引き起こしたのだろう?」
 周囲に広がる衝撃が草木を薙ぎ倒し、大きく地面を抉った。風となり、両軍まで押し寄せてくる。
 ことごとくいなされながらも余裕の表情を崩さないロウトゥスが鼻で笑った。
「無知とは罪だな。我らが好んで戦うと思うか」
「だからこそ聞いている!」
 フラットは身を沈め、死角から一閃した。突然視界から消える動きにも動じることなく、ロウトゥスが後ろに飛んで躱す。
「私達は今までずっと友好関係を築いてきた。それをなぜ壊す?」
「知れたことを」
 ロウトゥスは地に足を着けた瞬間に前に飛ぶ。その手には迸る力を抑えられずにうねる光球があった。
 間合いを無くすと同時に光球を打ち込まれる。その攻撃を躱す暇もなく、エブィルは剣で受け止めた。光の奔流と共に爆発が起き、体が後方に飛ばされる。どうにか着地し、構え直して前方を見据えた。
「とっさに魔術で防いだか。その剣技に合わさると厄介だな」
 爆発による粉塵で姿をくらましたロウトゥスが感心するかのように言う。彼の言うとおり、衝突の瞬間、剣を何重にも練り込んだ空気の壁で覆い、衝撃を和らげた。そうでもしないと剣が折られ、直撃を受けたはずだ。エブィルの剣から渦を巻き四散する風が、魔術の使用を物語っていた。
「質問に答えろ!」
 砂煙の中からその影を現すロウトゥスに投げかける。だが、彼は低い声で嘲笑して答えない。砂煙が落ち着くのを待たずに地を蹴ると、三度間合いを詰めてくる。後方に大きな砂塵が巻き上がり、その巨体はエブィルのすぐ目の前に迫っていた。
 ロウトゥスは大剣を振り下ろし、エブィルの残像を切り裂く。間髪入れずに、横に飛んだエブィルに向けて斬撃を繰り出した。だが、エブィルの姿がロウトゥスの視界から忽然と消える。それでも慌てず、上空からの攻撃を難なく受け止めた。
 空からの攻撃を受け止められたエブィルは、腕の力だけで後方に飛ぶ。追撃するロウトゥスの動きをかいくぐるように懐に入ると、その剣に炎を纏わせて一閃した。だが、それも空を切り、服を僅かに焦がしただけだった。
「戦う理由など無かったはずだ。それなのにこんなことをするなんて」
 エブィルの瞳が曇る。悔しそうに唇を噛んだ。それとは対照的にロウトゥスは不敵な笑みを浮かべている。
 両者は間合いを取り、動きを止めた。しばらく睨み合い、ロウトゥスが口を開く。
「理由はあるのだよ。それを作ったのが貴様らの王、聖王マクリレンだ」
 それを聞き、エブィルは耳を疑った。
 聖王マクリレン――それはエブィルが仕えし主の名。聖人として彼らの住む天上界アルヴヘイムを統べる者。そのマクリレンがなぜ?
 エブィルのあまりの驚きように、ロウトゥスは何かを察したのか、剣を地面に刺して高笑いを始めた。戦闘中だというのに、警戒心の欠片もない。
「なるほど、そういうことか。それなら全てに納得がいく」
 ロウトゥスの行動や発言の真意が分からず、エブィルは警戒を強めて問う。
「どういうことだ」
 ロウトゥスは一向に笑うのを止めずに答えた。
「奴は道化だ。そして俺も貴様も踊らされたわけだ。くっくっく、これを笑わずにいられるものか」
「何をバカなことを。侵略者の戯れ言を聞くほど私は愚かではない。魔王ロウトゥスよ、その身をもって己の罪を償うがいい。覚悟しろ!」
 エブィルは剣に風を纏わせると、ロウトゥスめがけて一撃を加えた。その瞬間に一帯を異変が襲ったのだ。
 ゴゴゴゴゴゴッ!
 大きな地鳴りと、今までにない激しい揺れが周囲を包む。吹き荒れる風もいっそう強さを増し、エブィルは膝をついた。ロウトゥスも膝をつき、倒れ込まぬように必死に体を支えていた。
「くっ、ついに始まったか」
 ロウトゥスが苦々しく言う。その言葉の意味を理解したエブィルも、顔をしかめた。
 今この地上界では、ロウトゥスが率いる軍とエブィルが率いる軍の度重なる激突で急激な地殻変動が起きている。その最中での最終決戦だったのだ。
「もうここも終わりだ。引き下がるとしよう」
 ロウトゥスは目をつぶり、何かに集中するように精神を研ぎ澄ましていく。その体が光に包まれ、この揺れの中を平然と立ち上がる。そしてエブィルに背を向けて歩き出した。その時、入れ替わるように人影がエブィルの側に来た。
「エブィル様、大変です!」
 その声に反応して人影を見る。
「どうした、アイリーン」
 側に来た年若き女性――アイリーンは際だつ美貌に酷い焦りを浮かべてエブィルの体を支える。その尋常ではない様子に、去ろうとしたロウトゥスが振り返っていた。
「私達の戦いで3つの世界の均衡が崩れ始めました。問題はもう地上界グローブラムだけではありません」
「それはどういうことだ」
 ただならぬ事態。差し迫った何かがアイリーンの顔を曇らせた。
「地上界の地殻変動で空間が歪み、天上界と魔界スヴァルトの間にあった支えが失われました。2つの世界は地上界に引かれ、じきにぶつかって消滅します」
「何だと? それは誠か!?」
 絶句するエブィルの代わりに、ロウトゥスが驚きを露わにした。魔王に言い迫られたアイリーンが、逃げるようにエブィルの背後に移動する。
 緊迫する中で、ロウトゥスが恥ずかしそうにして一歩引いた。
「怖がらせてすまぬ。だが、それが事実であれば早急に手を打たねばならぬ」
「あ、はい。その為にエブィル様に判断を聞きに来たのです」
 アイリーンはロウトゥスに答えた後、エブィルに視線を戻した。ロウトゥスもエブィルを見る。エブィルはしばらく思案を巡らし、決断した。
「ここに残る部隊で地上界を断絶する。そうすれば引き合う力は失われるだろう」
「戻れなくなるぞ。最悪、地上界は消滅する」
 ロウトゥスの指摘は正しい。だが、放っておけば全ての世界が消えてしまう。自分たちが犠牲になればそれは免れる。エブィルの決心は揺らがなかった。
 ロウトゥスは嘆息して言った。
「その覚悟に免じて一時休戦だ。我らも協力する」
「いいのか」
 信じられない物を目にするかのようにするエブィル。ロウトゥスは呆れながら言葉を続けた。
「想像以上に事態は緊迫している。我らが魔界に戻る余裕もあるまい。より確実に助かるためにも貴様の考えに賛同するだけだ。すぐにでも我が陣営に戻り、準備を指示しよう」
「その必要はありません」
 戻ろうとするロウトゥスをアイリーンが引き止めた。
「すでに使者は送りました。そろそろ準備が終わる頃です。お二人にはここに留まり、仕上げに入って頂きます」
 そのあまりの手際の良さに、ロウトゥスは驚きを隠せなかった。
「良い部下を持ったな」
 感心する彼に、エブィルは恥ずかしそうに顔を背けて言った。
「いや……妻なんだ」
 先程まで生死をかけた戦いを繰り広げていたとは思えない。そんなやりとりをしていると、すぐ側でアイリーンが咳き込んだ。
 数刻と経たずに作戦は決行された。地上界に残された者達により、他界との空間は断裂。3つの世界が消滅することは避けられた。この後、地上界の存在が表舞台から消えることとなる。天上界では、全世界を救った英雄として、エブィルの名は人々の心の中に永遠に生き続け、語り継がれていった。





 第一章 光の向こうに在りし場所


       1

 あまりの寝苦しさにフラット・エブィルは目を覚ました。
 全身が汗だくになっていた。毛布と布団を二枚重ねで寝ていたからなのか。いや、それは違う。二月もようやく終わろうとするこの時期、暖房も無しに汗だくになるのは不自然だ。血の気が引いていき、ようやくそれが冷や汗だと気付く。
 原因は分かっていた。それは毎晩のように見る夢だ。
 剣と魔法を操り、向かい来る敵を倒していく。そんなゲームの世界を映したような夢を見始めたのは一年ほど前のことだ。最初の頃は冒険心をかき立てられ、わくわくした気持ちで楽しんでいた。だが、決まって最後は世界が崩壊して終わる。
 同じような夢の繰り返し。それがたまに見る夢なのであれば気にはしない。どうせただの夢だから。だが、この一ヶ月は明らかに違った。世界が滅ぶ夢を毎日見るのだ。それはもう悪夢でしかない。
 フラットは体を起こし、周りを見渡して自分の部屋を確認した。机と本棚、戸棚があるだけの殺風景な部屋。枕元にある時計を一目見た。
「起きるにはちょっと早いか」
 そう独りごちてベッドから這い出る。
 フラットは高校一年の一五才。若干小柄な体格に、凛々しくも幼さが抜けきらない顔立ちはその年齢では平均的な男子だ。短く切られた黒髪と、澄んだ黒い目。魅力的なそれらも無気力な表情が台無しにしていた。
 部屋を出ると、階下では母がせわしなく洗濯をしていた。フラットが顔を出すと、母は珍しい出来事に目を見張る。
「寝坊助がこんな時間に起きるなんてどうしたの」
 母が驚くのも無理はない。フラットはいつも登校直前に起きて、パンを咥えたまま家を出るのを日課にしていた。それに対して、母はフラットが起きる頃には家事を終え、出勤していることが多い。こうして顔を合わせることは珍しい。当然、話すことはほとんど無かった。
「たまにはそういう日もあるわよね。もう高校生なんだし」
 意味不明な納得の仕方にフラットは不満を抱くが、すぐにどうでも良くなった。それなりに社会と関係を持ちつつ、深くは関わらない。それが今の彼の立ち位置だ。
 久しぶりのゆったりとした朝食時、母が話しかけてきた。
「来月は誕生日でしょ。もう一六才になるなんて早いものね」
 誕生日プレゼントは何かが良い? そう聞かれるのは分かっていたので、適当に答えてこの場を離れた。自分の誕生日を喜べる気分ではない。それに家系の事情も悪く、時折見せる母の辛そうな顔が暗い気持ちを助長させていた。
 出かける準備をすませて家を出たのは八時を回ってすぐのことだ。厚い雲が空いっぱいに広がり、ただでさえ寒いこの季節、体の芯まで冷たさを覚えた。今冬最後の雪でも降るのか。白い息を吐きながらそう思い、寒空の下を歩いていく。
 片手には鞄を持ち、見知った顔に会うたびに適当に手を振る。声を出して挨拶をするのも面倒だからだ。
 フラットが通う高校は、徒歩一五分の所にある。近辺では有名な進学校で、部活もそれなりに活発な学校だ。昨年は剣道部でインターハイを制覇したとか。そんな場所で、程々に縮こまって、目立たぬように高校生活を送っていた。
 ただ一つ問題なのは、それは”今”のフラットの姿だということ。
 フラットが高校に入学した頃は、明るくて活発な男の子だった。幸せを体現したような姿、IQ一六〇とも言われる頭脳、類い稀なる運動神経に憧れを抱く人は多かった。そんな彼が変化したことは全校生徒が知る事実。フラットを心配する人は未だに多い。それが面倒で仕方なかった。
 高校では、少し前に三年生が卒業して、生徒の三分の一がいない。その分だけ静かになっている。しつこかった勧誘もなりを潜め、平穏が流れていた。
 窓際の自分の席に腰を落ち着かせ、授業も聞かずに外を見ていた。まだ桜が咲くにはかなり早く、裸同然の木々が学校の前に並んでいる。本当に殺風景で、変化のない景色。たまに視線を戻しては隣の空いた席を溜め息混じりで見つめた。
 いつかは以前の元気を取り戻すだろう。そう言われて一ヶ月。良い方向に変化する兆しすら見えない。ただ学校に来て授業に耳を傾けもせず、夕方になると家に帰る。その生活は引きこもりとどう違うのか。
 静まりかえった教室に、ドアが開く音が響いた。
 フラットは何気なく視線を向け、そこにいる人物を見据えた。高校入学から一年間、ずっと世話になっている担任の教師だ。
「どうした、まだ帰ってないのか」
 その低音のきいた声を、不愉快に感じた。ここ毎日、放課後のこの時間に彼は来ていた。フラットがいるのを知ってるからだ。
(いつもの説教でもしに来たのか)
 めんどくさそうに胸中で呟くと、そっぽを向いた。そんな彼の気持ちもお構いなしに、こつこつと足音は近づいてきた。
「そんなに嫌がることもないだろう。これでもお前を一年間見てきたんだから」
 優しく努めようとするのが口調にも表れていた。この時期になって浮いた生徒が気になり、さも当然のように面倒を見る。フラットが元々優秀で、放っておかれていたからこそ余計に苛立たしく思えた。
「悩みがあるなら話してみなさい。四十年、それなりに生きてきたつもりだ。大抵のことなら答えてやれる」
 どこからそんな自信が出てくるのか、フラットには理解出来なかった。これ以上しつこく言われるのは我慢ならない。自分にもまだそんな感情が残っていることに驚きつつ、視線を外に向けたまま口を開いた。
「先生に何が分かるんだ。こうやって毎日説得に来るのも、あんたら大人の都合だろう? こんな学校、いつやめても構わないんだよ。それを―俺が優秀だか何だか言って引き止める。買いかぶるのも程々にしてほしいし、俺の好きにさせてくれ」
 図星だからか、担任は外にでかけていた言葉を呑み込んだ。そんな彼を後目に、フラットは鞄を手に立ち上がった。
「あ、ちょっとフラット君」
 フラットを引き止めようと手を出してきた。それを流れるような動きで躱すと、教室の外に向けて歩き出していた。
 担任は動きを追えなかったことに驚き、立ち尽くしていた。あまりに一瞬のことで、現状すら理解できずにいる。彼はこの体験を、後にこう答えるであろう。その動きは疾風のようだった、と。
 教室から出ていく際に女性教師とすれ違う。担任に用事でもあるのだろう。教室の中に入っていった。苛々で聴覚が過敏になっていたからか、二人の話し声が聞こえた。
「今日も駄目でしたか」
 それは女性の声に、担任の声が言葉を返した。
「ああ。あれほど傷が深いと、いつ心を開いてくれるか……」
「そうですか……」
 最近のフラットのことは全教師の悩みの種のようだ。担任だけでなく、あまり関わりのない先生も気にかけている。
 嫌なことがあって落ち込むのは珍しくない。それが一ヶ月続く場合もあるはずだ。それでも大きな問題として扱われるのは、フラット自身の成績の良さに理由があった。
 どんな学校でも問題児はいるし、それに悩まされることはよくある。だがフラットは、遅刻や欠席をしないし成績も優秀だった。そんな非の打ち所のない彼が、ある時期を境に極端に成績を落としたのだ。入学時から学校始まって以来の秀才と呼ばれ、その実力を存分に発揮してきた。その彼が今さらなぜ、と疑問に思うのが当たり前だ。だが、過去を知れば――大切な人を三人も失ったと知れば、その運命に愕然とするだろう。
 フラットの家族は全部で四人。母以外に父と兄がいた。そして、誰よりも大切に思っていた一人の少女が側にいた。みんなから夫婦と冷やかされるほど仲良しの幼馴染みだ。その内、母以外の三人が行方不明になったのだ。
 彼にとってどれほどショックだったのか。立ち直るには何年もの時間を費やしてもおかしくない。それでも傷を癒さなければ教師の名折れだ。担任はそう考えていた。しいては優秀な生徒を優秀な企業なり大学に送り出したい。それは大人の都合でしかないが、結果的にフラットの将来のためになる。
 担任の考えはフラットにも理解できた。だが、納得は出来なかった。
 行方不明になったのは昨日今日の話ではない。父と兄は一年近く前に蒸発した。それでも幼馴染みの少女が側にいたから変わらずにいられた。その彼女も一ヶ月前に消えた。捜索は行われたし、世間にも公表された。だが、足取りは掴めず目撃証言すらない。その信憑性に欠ける事件は、捜査が打ちきりになって久しい。
 嫌な記憶が思考を覆い、胸を締め付ける。それでも足早に歩き、程なくして教師達の声も聞こえなくなった。ほっと胸をなで下ろし、校舎の外に出た。
 空を覆っていた雲の隙間から夕日が差し込む。沈みかけた太陽が影となり、雲の向こうで揺らめいていた。
 やがて日は沈み、一帯を暗闇が包む。冷たい世界が安らぎを奪っていく。フラットはその異様な感覚を味わうたびに、言い知れぬ孤独感に襲われた。
「何で俺はここにいるんだろう」
 その疑問は常に付きまとっていた。そして、自分がどれだけ弱い人間なのかを思い知らされる。
 フラットが校門に向かって歩き出すと、数人の人影が集まってきた。
「どうした、もう帰るのか」
 生徒達から口々に声をかけられたフラットは、困惑しながら頷いた。
「そんなに早く帰るのなら、うちの部に顔を出してくれよ。出来れば試合にもな」
 一人の生徒がそう言いつつ、剣を振る動作をしてみせた。その動きだけで剣道部だと分かる。フラットは苦々しく笑って答えた。
「ありがとう。でも、当分は無理です」
 目の前の生徒達が残念そうに項垂れた。
「そうか……それなら仕方ないな。でも、ちゃんと考えてくれよ。お前の腕ならインターハイの連覇も夢じゃないからな」
 昨年の剣道部の偉業はフラットの手によるものだ。あの頃は明確な目的があった。側にいた少女の喜ぶ顔が見たい。それだけが原動力になっていた。だが、今は――
「そんなに褒めないで下さい。俺にはまだ……」
「分かってる、分かってる。その時が来るまで気長に待つよ」
 そう言い残して去った。その後ろ姿を眺めながら思った。
(そういえば、剣道……やってないな)
 手を握りしめて、竹刀の感触を思い浮かべた。あのしっくりくる手触りに、自分の思いを乗せていた頃が懐かしくなる。
 再び歩き出し、足早に校門に向かった。これ以上は誰とも関わらずに帰りたい。そのささやかな望みはすぐに壊された。一人の女生徒が校門の外で待ち構えていたからだ。
「フラットさん」
 校門を抜けて敷地外に出た直後、横から呼び止められた。フラットが振り向くと、目を潤ませて飛びついてきた。
「あ、ちょっと」
 突然のことに反応できず、抱きつかれて身動きが取れなくなった。強引に振り払うわけにもいかず、子犬のような目で自分を見つめる少女を見た。
「いつになったら振り向いてくれるんですか」
 その可愛らしい少女に見つめられれば、大抵の男は虜になるだろう。フラット自身もさほど悪い気はしなかった。だが、彼の表情は曇るばかり。
「ごめん。ちゃんと考えたけど、駄目なんだ」
 うつむいて首を横に振る彼に、間髪入れずに少女が言った。
「どうしてです。私だって必死なのに!」
「でも……」
 はっきりと答えられないでいた。その煮え切らない態度に耐えられず、少女は体を離し、悲しげに笑った。
「やっぱりそうなんですね。彼女のこと忘れられないんだ」
 黙ったままのフラットを見て、少女は背を向けた。そしてこう呟き、走り去った。
「私はいつまででも待ってます」
 その声は震えていて、悲しみを必死に堪えているようだ。背中越しにはよく見えないが、涙を流していた。
 こうして想いを向けられるのは嬉しい。この世の中にはまだ自分を必要としてくれる人がいる。以前の笑顔を取り戻そうと考えてくれる人がいる。そんな人達の期待に応えたい気持ちはあった。
 だが、実際に行動できないでいた。
 未だに現実を受け入れられず、自分の殻に閉じこもっている。それを自覚しながら、殻を割る決心をつけられない。結局はフラットに強い意志がないのだ。
 だからこそ彼は信じていた。父も兄も幼馴染みの少女も、どこかで生きている。助けを求めている。胸に手を当てると、何となく彼らの鼓動が伝わってくる――そんな錯覚を。
 考えれば考えるほど、やるせない気持ちになった。
 フラットは自分の家の前で立ち止まった。
 自分が住んでいる家。平穏無事の生活を送ってきたのなら、家族四人で住んでいた。今は母と二人きりになり、広い家を持て余している。使われない部屋がいくつもあり、埃がたまって掃除が大変になったこともある。それでも一応は清潔に保たれているのは、母の頑張りあってこそだ。
 ふいに、家族の姿が蘇る。優しくも厳しく、昔から自分を一人前に扱ってきた父。常に一歩先にいながら弟を気にかけていた兄。そんな家族を優しく見守っていた母。いつでも側にいてリードしてくれていた少女。
(何でいまさら……こんなこと考えてるんだろう)
 今日に限って何度も思い出していた。そんな自分自身に呆れて何も言えなくなる。
 いつもと何ら変わらぬ生活を送っている。それなのに、なぜか違和感を覚えずにいられなかった。どこかがいつもと違って見えた。周囲の景色なのか、それとも家の中なのか。もしかしたら、自分の心情が変化を始めているのか。
 どれとも言えないし、全てかもしれない。
 考えるのに疲れたからか、何となく思考を止めた。その時だった。
『……えて……くれ……』
 突然誰かの声が聞こえ、フラットは辺りを見渡した。見える範囲には人の姿はない。家々からもこちらを窺う影はない。さっきまで聞こえていたカラスの鳴き声も風の音も消えていた。人だけでもなく、生き物の息吹も感じられなかった。光が失われ、まるで無機質な世界に放り込まれたようだ。
 そう感じた直後に全てが元に戻った。周囲には普段の夕方の風景があった。徐々に人影も増え、楽しそうに遊ぶ子供の姿や買い物途中の主婦達の井戸端会議が目に映る。
(気のせい……なのか)
 そう思いながら、確かに残る感触に寒気を覚えた。だが、一秒経つごとに現実感は失われ、気付けば非常に希薄なものになっていた。
 訳の分からない感覚を振り払い、急いで自宅に入った。
 家の中は暗く、人の気配はない。母は出かけているから当たり前だ。今頃は仕事を終えて帰り支度を始めた頃か。分かりきったことなのに、なぜか今日は心細かった。
 いつもは気を遣われるのが申し訳なく、煩わしくさえ思っていた。父と兄のことで何かしらの心当たりがある。それをけして口にはしない母。そんな母でも今はなぜか恋しかった。それもこれも、心を支配する異様な感覚のせいだ。
 急いでドアを閉じ、カギをかけて家に上がった。
「ただいま」
 元気のない声が無人の家の中を静かに響いた。再び沈黙が訪れると、フラットは二階にある自分の部屋に向かった。
 階段を一段上がるごとにミシッと音をたてる。一つ一つの音がやけにはっきりと聞こえた。
 全て上り終えると、すぐ側のドアを開けて、部屋の中を見渡した。そこには朝と変わらぬ殺風景な部屋がある。
 開けっ放しの窓から冷たい風が吹き込んできた。一緒に夕日も射し込み、部屋の中を赤く染めていた。
 フラットは制服を脱いでベッドに放り投げ、私服に着替えた。その頃には日差しが弱まり薄暗くなっていた。太陽も建物の影に隠れ、すぐに地平線の彼方に消えた。
 見る見るうちに暗くなる中、電気もつけず机の前に座った。そのまま何もせず、ぼーっと自分の机を眺める。
 机には数冊のノートが開いたままにされ、その中には様々なことが書かれていた。計算問題、歴史早見表を写したもの、ほぼ毎日のように書かれていた日記。それら全ての日付が一ヶ月前で止まっている。
 視線を奥に移すと、小さな置き時計が目に入った。上には優雅に空を飛ぶタカの姿がある木の時計。少し雑に見える部分もあるが、それが手作りだと知れば驚くほどの出来栄えだ。時計の針も、しっかりと時間を刻んでいる。
 少し上に視線をずらすと、二つの写真立てが見えた。透明で長方形の、プラスチックで出来たものだ。それぞれに違う写真が飾られている。一つは家族で写ったもので、旅行先の写真だ。観光地をバックに、三十代後半ぐらいの男女と少年が二人。幼く背の低い方がフラットだ。今の彼からは想像できないほど、その写真からは笑顔があふれていた。
 もう一つの写真は、最近のフラットが写っていた。以前よりも凛々しく、少し大人びて見えた。必死に背伸びしてるのに、だらしない顔が全てを台無しにしていた。その理由は隣に写る少女を見れば一目瞭然だ。彼女はとびきり可愛い少女だったからだ。きれいと形容する方が正しいのかもしれない。それほど大人っぽく見えるのだ。どことなく不釣り合いなのに、二人の寄り添う姿はどれほど相手を必要としているかが見て取れる。彼女が例の幼馴染みなのだろう。一ヶ月前に行方不明になった……。
 二つの写真を手に取り、フラットは悲しげな表情を浮かべた。日が沈み、真っ暗になるまで見つめ続けた。そして、写真を抱えるように、机に頭を伏せた。涙が頬を伝い、同時に眠気に誘われる。それから眠るまでさほどの時間も必要としなかった。


       2

 父と兄が失踪してもうすぐ一年が経つ。
 二人の失踪事件は剰りにも不可解な点が多い。
 まず一つ目は、目撃者は直前まで一緒にいた家族だということ。フラットとその母だ。家族団らんの時に事件が起きたのだ。
 二つ目は、住宅街の真っ直中で起きたこと。事件に巻き込まれるにしても、人目のつかない場所で起きるのが普通だ。自ら消息を絶つにしても、事前の足取りがはっきりし過ぎている。家族の犯行も疑われたが、動機もなく、証拠も見当たらなかった。何より、周囲が羨むほどの仲の良さと人当たりの良さが疑惑を晴らした。
 三つ目は、断続的な強い光が住宅街を照らしたこと。この件で一番謎なのは光の正体が目撃されていないことだ。アブダクションの噂もあったが、何の信憑性もない。結局は証拠としての効力は無いとして、後に都市伝説となった。
 事件後、捜索が行われたが、未だに見つからない。だが、一つだけ手がかりがある。それは事件直前の家族との会話にあった。
 その日はフラットの十五才の誕生日だった。そのお祝いで出かけ、パーティーのために帰宅する途中のことだ。
「フラットも高校生になるのか。時が経つのも早いものだな」
 父が感慨に浸りながら言う。この数日、父は同じことを繰り返し言っていた。
「この子の頭なら飛び級で今頃大学を卒業してるのにね」
 決まって母がおだてる。実際にその知能はあるし、高校レベルの勉強は記憶済み。それでも普通に通うのには訳がある。
「嫌だよ、そんなの。友達と遊べなくなるじゃないか」
「それは確かに問題ね」
 母がわざとらしく悩んでみせる。その横で兄が、にやにやと笑っていた。
「ルシアちゃんと、だろ?」
「もう、ロウブ兄さんまで……」
 フラットは恥ずかしくて顔を背けた。兄は幼馴染みの少女のことを言っている。彼女とは家族ぐるみの付き合いで、フラットとの関係がただならぬものだと誰もが知っていた。そもそも隠すつもりはない。ただ、こうして冷やかされるのは苦手だった。勉強は出来ても、まだ思春期の少年なのだ。
「同じ学校に通いたいのよね。本当に健気だわ」
 母の容赦ない冷やかしに、フラットは家族の顔すら見られなかった。
「そういえばあの子も頭は良いはずだ。高校だって屈指の進学校だ。油断してると足下を掬われるかもな」
「もう手遅れですよ。すでに尻に敷かれてるから」
 母の一言がとどめとなり、フラットの顔が沸騰寸前になる。
「いい加減にしてよ。これから会うのに、恥ずかしくて顔を合わせられないよ」
「すまんすまん、軽率だった」
 唯一、本当に悪いと思った父が謝った。そこで会話が終われば問題はないのに、母は性懲りもなく言う。
「本人がいる時に言えば良かったのよね。そうすれば彼女の照れる顔も見られたのに」
「もう勘弁して……」
 泣きそうになりながら母にすがる。傍目には甘えているように見えたかも知れない。それすらも気にならないほど少女のことで頭がいっぱいだった。
 しばらくして父が意味深なことを言った。
「お前には早く一人でも生きていけるようになってほしい」
 親が子供に抱く気持ちとしては一般的だ。早く自立してほしい。それはありふれた想いだけど、大切なことだ。フラット自身も、いつまでも親の庇護の下で生きるのは嫌だった。家族が嫌だとか、そういうことではない。自分の足で立つこと。大抵のことは難なくこなしてしまう彼にとって、一つの目標だった。その先にはさらに大切な目的がある。恥ずかしくて誰にも話していないが。
 父は無言で自立心を養わせるタイプの人だ。今まで面と向かって言われたことはない。その父がわざわざ口にしたのだ。
「近い内に大きな試練がお前を襲う。その時、誰も傍にいないかもしれない」
 父はフラットの顔を真っ正面から見据えて言った。その真剣な表情に臆しながら聞き返した。
「父さんもいないってこと?」
「それは分からない。歯車の中にどう組み込まれるか……」
 父の表情が曇る。それがただ事ではないとを物語っているようだ。
「だからこそお前にはしっかりしてほしい。何があっても揺るがない信念を持て」
 誰もが通る人生の壁。それとは何か違うような、言い知れぬ不安がフラットの心を包み込んだ。
 母はただ強く頷くだけ。兄は哀れむような眼差しを向けて言った。
「お前が築く絆を大切にしろ。それが全てを導いてくれる」
 それきり話す糸口が見つからず、無言で住宅街を歩き続けた。
 その間もフラットの頭を父と兄の言葉が縛り付ける。試練、歯車、信念――そして絆が導くもの。それが何なのか考えても答えは出なかった。2人が言わんとすること。後に重要な鍵となるとは想像できなかった。
 空が茜色に染まり、空気が急に冷え込む。そろそろ遊び帰りの子供や買い物をする人とすれ違う時間帯だ。その割には静かで、人気が感じられない。別の空間に迷い込んだような違和感があった。
 パーティーまでの時間を幼馴染みの家で過ごす。その間に家族が準備をする。そう事前に約束したとおり、家に着く少し前に家族と別れた。その際に見た、母の暗い表情が気になり、何度も振り返っては確認した。だが、いつもの顔に戻り、手を振っている。安心して路地を曲がった時だった。
『……えて……くれ……』
 どこからか聞こえた低い声に驚き、立ち止まった。辺りを見回して声の主を捜すが、人影はない。だが、変化はすぐに起こった。
 突然世界は色を失い、平衡感覚を奪われた。一瞬、温度感覚が消え失せ、直後に全身を悪寒が襲った。その場に立っているのさえ辛くなり、うずくまった。
 自分に何かの異変が起きたのか。そう思った直後、なぜか父と兄の姿が脳裏に浮かんだ。二人は別れを惜しむかのようにフラットを見つめている。
「狙いは俺じゃない……それじゃ……」
 父と兄が消える。根拠もなく確信し、来た道を戻った。立ち上がるだけで不安に押し潰されそうな異様な感覚を振り払い、家族と別れた場所に向かった。
 路地を戻ると、家族はまだそこにいて背を向けていた。しかし、様子が変だ。三人ともうずくまり、悔しそうに空を見上げていた。フラットが視線を上げると、”それ”を視認する前に強く発光した。
 思わず目をつぶり、元に明るさに戻ると再度見上げた。だが、そこには何も無かった。正確には、渦を巻くような空間の捻れがあったのだ。
 ”それ”は断続的に発光し、徐々に光の玉の形を作っていく。姿がくっきりするにつれて一帯を照らす光が輝きを増した。目を開けているのが困難になるが、それでも家族の下に走った。少しずつ少しずつ近付いていく。
(もう間に合わない!)
 そう思うのと同時に”それ”は渾身の輝きを放ち、色を失った世界が黄金色に包まれた。その直前、父と兄が振り返り、口々に語りかけていた。
『……ない……ごめ……』
 フラットがその言葉を読み取ることはなかった。その時には視界が完全に奪われていたからだ。そして、こみあげる悔しさを噛み締めながら意識を失った。目を覚ました時には、一面に広がる眩いほどの光は消えていた。父と兄の姿も一緒に。
 フラットはいつの間にか母の側で倒れていた。近所の人に起こされて辺りを見渡すと、周囲には人だかりが出来ていた。世界には当たり前の色があり、普通に人の温もりを感じられる。ついさっき起きたことが嘘のように、感覚が戻っていた。
 ほっと胸をなで下ろしたのは束の間、いくら見渡しても父と兄の姿は見つからない。先に帰宅したのかと淡い期待を抱くが、側に眠る母を見て即座に否定した。気絶する家族を置いて先に帰るとは考えられないからだ。
 それならどこに消えたのか。
 フラットは慌てて母の元に行く。
「母さん、起きて。母さん!」
 母を必死に揺り起こす。母なら何かを知っている。そんな気がしてならず、何度も呼び続けた。不安が大きくなるにつれて声も大きくなる。気付けば泣き叫ぶように母を呼んでいた。
「……う……うん……フラット?」
 目を覚ました母がフラットを見て不思議がる。自分の身に何が起きたのか掴めていないようだ。
「父さんと兄さんがどこにもいないんだ」
 泣きながら言うと、状況を理解した母の表情がみるみる険しくなる。
「さっきまで確かにここにいたはずなのに……」
 崩れ落ちるフラットを抱き寄せた母は、辺りを見回していた。だが、いくら探しても見つからない。
「どこに行ったんだよ。ねえ、母さんは何かを知ってるの?」
 フラットの問いに、母は首を横に振るだけ。苦虫を噛み潰したようにしている姿が凄く弱々しく映る。ただ、不思議と冷静に見えた。
「あの、すみませんが、他の二人を見ませんでしたか」
 母が野次馬となりつつある近所の人達に聞くが、望ましい答えは返ってこなかった。周辺を探し回ってくれたが、それでも見つからない。やはりここにはいないのだ。
 気絶している間に消えた二人。まだ日は沈んではおらず、ほとんど時間は経っていない。その僅かな時間に起きた失踪劇。
「……とうとうこの時が来たのね……」
 母がフラットに聞こえないほど小さく呟いた。その表情には何かの覚悟と決意が秘められていた。
(やっぱり、何か知ってるんだ)
 疑惑が湧き起こる。光の正体が何なのか分からない。だが、家族は確かに”それ”を見ていた。怯えるのではなく、悔しがるように。消える直前の二人は申し訳なさそうにしていた。
(父さんも兄さんも知っていた。だから俺にあんな話を……)
 それを母に問い質す勇気もなく、母もフラットに話すことはなかった。
 この日のショックは計り知れない。同じようにショックを受けたはずの母を頼れず、そんなフラットを支えたのは幼馴染みの少女だった。悲しみを乗り越え、以前の元気を取り戻させてくれた。でも、その少女も今は……。

 いっそう冷たい空気が入り込み、身震いして目を覚ました。いつの間にかフラットの頬が濡れている。
「何で今になって父さん達の夢を見たんだろう」
 そう呟き、手元を見て納得した。
 大事に抱えていた写真を元の位置に戻す。暗闇の中、立ち上がると、差し込む月明かりに誘われて窓際に立った。身を少しだけ乗り出して夜の景色を眺める。町明かりで星は見えないが、屋根の上から満月が姿を現していた。
 大きな存在感に魅入られていると、指先までもが感覚を失っていた。窓を閉めると、寒さを避けるように離れ、上着を羽織る。母が帰ってきたのか、下の階から物音がした。それを聞き、胸をなで下ろす。
 ガシャンッッッ!
 何かが割れるような音が家中に響き渡り、体をびくりとさせる。言い知れぬ不安にかき立てられて部屋を飛び出した。
 階段を下りていくと、慌てふためく声が聞こえた。玄関を横切り居間に入ると、暗い中で母が立ち尽くしていた。入口にあるスイッチに手をかけた。
「何をしてるの、電気もつけないで」
 蛍光灯が明かりを点すと、母が振り返ってフラットを見た。母の足下には大小に砕けた皿が落ちている。さっきの音の正体はこれのようだ。
「あら、いたのね」
 そう言うと、皿に目を落とし、片付け始める。だが、すぐに手を切り、傷口から血がにじみ出てきた。見かねたフラットが母を押しのけた。
「早く消毒してこいよ。俺がやっておくから」
「ごめんね、そそっかしくて」
 そう言って部屋の中に消えた。母の後ろ姿は頼りなく、その足取りから疲労が見て取れた。皿を落とすなど、普段の母からは想像できない。
(相当、無理してるんだな)
 自分がしっかりしなければ。フラットはそう思いながら片付けると、戻ってきた母に声をかけた。
「何か手伝おうか」
 フラットに心配されたことが意外なのか、母が驚いていた。疲労を隠せていたと思ったのだろう。その必要はないと言い、台所に向かった。
「お腹がすいたでしょ。すぐに夕食を作るから」
 そう言いながらてきぱきと働き始めた。口を挟む隙が無くなり、仕方なく引き下がる。とはいえ、ただ待つだけなのも居心地が悪い。何か出来ることはないかと見回すと、取り込んだだけの洗濯物を見つけた。
 洋服を畳みながら母の様子を見ると、やけに顔色が悪かった。時計の針が九時を回っていることに気付き、どっと疲れが出る。最近はほとんど話していないことを思い出し、良い機会だと思って話しかけた。
「母さん、今日も残業だったの?」
「ええ、そうよ」
 母が手を休めずに答えた。
「毎日大変だよね」
「それはまあ、女手一つであなたを育てないといけないから」
「それは分かるけどさ、このままじゃ倒れるって」
「まだ子供に心配される歳じゃないよ」
 フラットの言わんとすることは伝わったはずだ。それでも強情な母を見ると、どちらが子供なのか疑う。だが、母の気持ちは理解できた。この一ヶ月の抜け殻のようなフラットを頼る気にはなれない。
「それでも家族だろ。今日からはしっかりするから」
 しばらく答えが返ってこなかった。沈黙する間、野菜を切る音と炒める音だけが響く。洗濯物も畳み終わり、間がもたなくなって母の傍に行った。それに気付いた母が、手を止めてフラットを見た。
「ありがとう。明日から頼むわね」
 その言葉とは裏腹に、悲しそうな目をしていた。その表情をどこかで見た記憶があった。でも、思い出そうとすると、なぜか思考が止まる。釈然としないでいる間に、テーブルに料理が並べ終わっていた。
「さっさと食べないと片付かないでしょ」
 そう言う母は、いつもと変わらない顔をしていた。さっきの表情は何だったのか。美味しそうな匂いに負けて考えるのをやめた。
「母さんは寂しくないの?」
 食事も終わり、食器を洗う母に聞いた。
「どうしたの、突然」
 答える声に僅かに動揺が混じる。
「父さん達がいなくて寂しいかなと思って。さっき、夢を見たんだ。家への帰り道、家族みんなで楽しそうに話す夢を」
「そ、そうなの。あ、あの頃は楽しかったわね」
 流しにコップを落とす音が聞こえた。慌てる理由が分からず、怪訝な目を向けた。そして、ふと思い出す。父と兄が消えた時の母の様子を。
「俺は寂しいよ、みんながいなくて。でも、母さんを一人にするなんて信じられないな。家族のことはどうでもいいんだよ、きっと」
「そんなことないわ! お父さんはいつも家族を想ってる!」
 珍しく母が怒った。一年も留守にしている一家の主を庇って。フラットの前に出て来た母の目には、愛情だけでは考えられないほど明確な意志があった。父がどこで何をしてるのか知らないと言えないほどはっきりと。
 しまった、と言わんばかりに口を押さえる母。それを訝しんで見ると、顔を背けた。
「どういうこと?」
「私はあなたまで失いたくないの。だからこれ以上は言えない」
 そう言うと、蛇口を閉めるのも忘れて寝室にこもった。それきり出てこなくなり、呼んでも答えなくなった。
 母の態度、発言で疑惑は確信に変わる。母が知ること。それを聞くとフラットが母の前から消える。夢で見た一年前の父の言葉も関係があるのは容易に想像できた。
(その時が迫っている……ということか)
 家族がひた隠しにしてきたことが、徐々にその姿を現してきた。だが、現状では何も分からぬままだ。
 何も分からない。分からないのに、何かを感じていた。
 今日は何かがおかしい。
 学校の帰り道からずっと、何かが背中にまとわりつくような感覚がある。それが何か、はっきりしなかった。だけど、今になって悟る。あの日の違和感と同じだと。


       3

「はあーーーーーーーーーーー」
 湯船につかりながら、じじ臭いため息を吐いた。少し熱めの温度が今日一日の気疲れを流してくれる。起きてる間は人目を気にし、睡眠中は嫌な夢を見る。そんなストレスだらけの生活の中で唯一安らぎを与えてくれる瞬間。この至福の時を得るために生きてるのだ。
 我ながら寂しい奴だと思った。事実、寂しくて仕方がない。だが、当面は違うことに思考を奪われた。
 ”今日”という日は何かがおかしい。今朝見た夢はよりリアルになり、珍しく早起きをし、何度も大切な人達のことを思い出した。学校では常に違和感が付きまとい、帰り道に何かの声が聞こえたりもした。
 さっきの母の様子も変だ。連日の残業で疲労が溜まっているのは分かる。でも、それなら徐々に顔色に出るはずだ。昨晩も今朝も普段通りだった。それなのに、しっかり者の母が皿を落として割るほど動揺していた。
 次々に浮かぶ疑問がフラットの頭に溢れた。それらを整理し、母との会話で得た確信と照らし合わせていく。
 何度も繰り返すが、辿り着くのは父と兄の失踪事件だ。なぜ夢にまで見たのか。あの日のことが重要な意味を持つからだ。
「あの声を前にも聞いたはずなんだ。でも、いつどこで……」
 さっきの夢を、最初から正確に思い出していく。夢は現実とは違う。その常識を理解しながら、意味を求めて反芻した。
 何かが抜け落ちている気がする。どうしても思い出せない。どうしても結びつかない。そうしてしばらく考え込んだ。
 浴槽に入ってから三〇分ほどが経っていた。さすがにのぼせそうになり、風呂から出て涼むことにした。
 ベランダに出ると、外は想像以上に冷え込んでいた。急激な気温の変化は体に悪いが、今は気にしない。妙に気持ちいいからだ。指先が少しずつ冷えていくのを実感しながら、熱々のお茶をすする。
 周囲の家から少しずつ明かりが消え、住宅街にいながら瞬く星が見られた。家屋の隙間から見える幻想的な世界にしばらく見とれる。僅かずつ姿を変え、頭上に月が昇ると思わず感嘆の声を上げた。
 最近はこうして夜空を見上げる余裕もなかった。母の心配をしたりと、確かな変化がある。未だに寂しさは拭えない。それでも人は前に進んでいくのだ。力強い月が背中を押してくれている気がした。
「これが忘れるってことなのかな」
 自分の前から去った人の記憶は嫌でも薄れていく。囚われることをやめれば加速される。それがとても空しいことに思えた。
「……忘れたくないよ」
 急に心細くなった。世界に自分だけが取り残されたような感覚に囚われる。
 父に会いたい。
 兄に会いたい。
 そして何より、彼女に会いたい。
 もう叶うはずのない望みに心を奪われた。こんなに想っているのに、なぜ全てを奪っていくのか。もし神がいるとすれば、そいつは間違いなく邪神だ。この恨みの全てを余すことなくぶつけるだろう。
 そんな絵空事を考えると余計に空しくなった。それに、ここにはまだ母が残っている。今日ほど母が弱い人間だと思ったことはない。だから自分がしっかりしなければ。
 だが、その決意もかすむほど、母をやけに遠くに感じていた。
 不安が心を支配する。頭上に広がる星空を見ると、自分がちっぽけな存在に思えた。なぜ今日に限って様々なことを考えるのか。
 何もかもが嫌になり、その場にうずくまった。
 このままだと不安に押し潰されそうだ。誰かに助けてほしかった。思考の奔流から救い出してほしかった。
 だが、ここには誰もいない。
 世界には自分一人――
 言い知れぬ孤独感に苛まれ、頭を抱えた。それもこれも運命が悪い。父の言っていた試練など、見たくもない。あの声が聞こえたから、あの光が見えたからこうも苦しむことになった。
『……こえ……るか……』
 そう、全てはこの声のせいだ。記憶から抜け落ちていたこの声が全てを狂わせた。
(……!?)
 驚いて立ち上がった。
 周囲を見回すが、人影は見当たらない。近くに人の気配もない。だが、確かに聞こえた。それは間違いなく人の声で、直接頭に響いたようだった。
 父と兄が消えた時もこの声を確かに聞いた。それは何かを求めるような声だった。いったい何を求めていたのか。
(思い出せ。思い出すんだ……)
 焦る心を静め、呼吸を落ち着かせ、感覚を研ぎ澄ませる。記憶の底からあの日のことを引っ張り出す。家族の前に現れた空間の歪み。それを確かにこの目で見た。そして消える直前に二人が言った言葉。
『もう時間がない。だから先に行く。ごめんよ』
 あの時は聞き取れなかったはずの言葉が鮮明に浮かび上がった。二人の失踪事件は不慮の事故ではない。誰かに仕組まれ、光の、歪みの向こう側に連れてかれたのだ。
 事実を確かめようと家に上がると、母の寝室に向かった。
「母さん、母さん起きて」
 何度もドアを叩き、呼び続けた。寝惚け眼で出て来た母の頬は濡れ、目が充血している。さっきまで泣いていたようだ。
「どうしたの、そんなに慌てて」
「母さん、父さん達はどこに行ったんだ」
 訝しむ母に迫るように聞くと、すぐにドアを閉められた。
「それはフラットには話せないの。ごめんなさい」
 ドア越しに母の弱々しい声が聞こえた。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。フラットは息を呑んだ。
「声が聞こえたんだ」
 短く言うと、深く息を吸い込む。驚きの声を上げる母に、続けて言った。
「一年前のあの日、俺は声を聞いたんだ。小さくて良く分からないけど、あれは助けを求める声だった。そして、父さん達は声に誘われて向こう側に消えた。そうなんだよな」
 一気に捲し立てると、しばらくの沈黙の後、母が寝室から出て来た。母は神妙な面持ちでフラットを見据えていた。
「フラット、あなたにも聞こえてたのね」
「ああ。さっきまで忘れてたけど、今ははっきりと思い出せる。その声が今日も聞こえたんだ。それも二度も。夕方に一回。そしてついさっき、二度目の声は確かに俺に語りかけてきた。あの声は何なんだ」
 フラットの話を聞き、母が驚愕で顔を歪めた。ぼそりと呟く。
「この時がとうとう来たのね」
 その言葉を聞くのは二度目だ。あの時は聞き逃したはずの言葉が蘇る。母の表情が覚悟に染まった。
「それは遙か遠き世界からの声よ」
「別の世界?」
「そう。正確には地球と――地上界グローブラムと同次元に存在していた世界」
 その説明を聞き、フラットは驚いた。地上界グローブラムの名前を夢で見て知っていたからだ。夢見がちでゲーム好きな子供が言えば笑って聞き流せた。ただの偶然だと。異世界の作り話はありふれているからだ。だが、それを母の口から聞いたとなれば話は別だ。
「お父さん達はあの日、呼ばれて向こう側に行った。それは脈々と受け継がれてきた血の運命なの」
 フラットは息を呑んだ。
「あの日、何度も呼ぶ声が聞こえた。そして三度目の声の後に異変は起きたわ。あなたも見たでしょう、あの光を」
 頷いてから言った。
「声と光には関係があったのか」
「ええ。そして二度目の声が聞こえたのなら残された時間はあと僅か。全てを説明する時間はないわ」
 母はフラットの肩を掴み、少しだけ逡巡する。それからフラットを真っ直ぐ見つめ、口を開きかけた時だった。
 突然、周囲が凍り付いた。ゆっくり流れていた空気が動きを止める。窓が開け放たれて冷えていたはずの部屋も、その温度を感じられない。
「これってもしかして……」
 これまでに何度か経験したことのある異様な感覚。目の前の母の表情が強張っていくのを見てフラットは確信した。
「母さん、教えてくれ。これからどうなるんだ」
「フラット、あなたは向こう側に行くの。そして為すべき事を為しなさい」
「どういうことだ、それは」
 世界から色が消えた。背筋が凍り付くような感覚に襲われる。誰かに見られている、そう感じてベランダから外に飛び出した。見上げると、満月の真ん中が歪み始めていた。捻れるように、その規模を徐々に広げていく。
 フラットの後を追って母が来た。背中越しに声を張り上げる。
「運命に囚われないで。フラットの思うとおりにするのよ!」
 振り返ろうとすると、上空の歪みが光を放った。フラットは光につられて、すぐに視線を戻した。色や音が失われた世界を、明滅する光が包み込んでいく。
「世界を――世界を守って!」
 母の声と共に、一際大きな輝きが一帯を照らし出した。そして聞こえた。今までおぼろげだった声がフラットの耳にはっきりと。
『答えろ、我が呼びかけに!』
 今まで幾度となく聞いた声。
『血の祝福を我らにもたらせ! 戦王の力を持って世界を!』
 それは確かな意志を備え、脳裏に響いた。
(これが父さん達を連れ去った声なのか)
 光の中にあって確かな存在感を示す歪みが徐々に光球へと姿を変え、フラットに迫ってきた。思わず目をつぶるが、痛みはなく、宙に浮き上がるような感覚に包まれた。
(くそっ、何なんだこれは)
 光から逃げだそうともがくが、抵抗は何の意味も成さない。すでに体の自由は奪われていたからだ。
 振り返っても母の姿はもう見えない。
 一帯が黄金色に染まり、その眩しさに視界を奪われた。他の感覚も徐々に失われ、自分の存在すら不確かになった。
 不安が頭を支配していく。何度も母を呼ぶが、声が届かないことが不安を増大させた。強い孤独感に襲われ、程なくして意識を失った。
 フラットを包み込む光が消えたとき、そこには変わらぬ家と崩れ落ちる母だけが残されたのだった。

 生暖かい空気が全身にまとわりつき、虫の羽音や動物の鳴き声が耳をつく。木々の清々しい匂いの中に、僅かに煙たさが混じっていた。
 汗が滲み出てきて、寝苦しさを覚え、ゆっくりと目を開いた。無数の草が目の前で揺れている。
「……ここはどこだ」
 上体を起こして周囲を見渡すと、そこが自宅の近辺ではないことがすぐに分かった。多くの木々が生い茂り、背中には見たことのない大樹がそびえていた。今までその陰に横たわっていたのだ。
 どれだけ時間が過ぎたのだろうか。そもそもここはどこなのか。どうして見知らぬ森にいるのか。疑問は尽きることなく溢れてきた。
 自分に何が起こったのか思い返す。
 意識を失う前、誰かの声が聞こえ、光に包まれた。その後、知らぬ土地で目覚めた。頬をつねり、その痛みで夢ではないことが分かった。とすると、導かれる答えは二つ。地球のどこかの森に移動したのか、母の言う異世界に来たのか。
 異世界が存在するとは思えない。常識的な考えがそれを否定したが、新たな疑惑を生んだ。
 気絶する前は当たり前のように受け入れていた事実の数々を思い浮かべた。謎の光も謎の声も、空間の歪みも全て常識の範疇を超えている。見知らぬ土地にこうして移動したことが何より非常識だ。
 それらの現実を改めて受け入れ、辺りを見渡した。ここが地球ではない確たる証拠を得られればいい。人類以外の人間、異形の生物、魔法。そういった分かりやすい答えがいい。だがやはり、何も見つからず、地球だったとオチがつくのが一番好ましかった。
 立ち上がると、大樹の陰から日差しの下に出た。
「それにしても暑いな」
 少し前まで真冬の空気にさらされていたのに、ここは非常に暑かった。気温は三十度を超している。湿度も高く、冬服のフラットには辛い。羽織っていた上着を脱ぎ、日除け代わりにした。
 滲み出る汗に苛つきながら、空を見上げた。太陽が頭上まで昇り、地上を照らしていた。十時間以上も気絶していたのかと思い、ぞっとした。こんな森の中ではいつ野生動物に襲われるか分からない。そもそもこの暑い中、眠っていられたことに感心する。
 木陰を通りながら歩みを進めた。遭難の危険はあるが、この際、気にしても仕方ない。事実、遭難してることに変わりなく、助けも期待できない。自力で人里を探す必要があった。
(人里があればいいが)
 自ら不安を煽るようなことを考え、心細くなった。だが、フラットは誰かに呼ばれてきた。近くに張本人がいるはずだ。理由無き確信が辛うじて背中を押した。
 森を奥に進むが、似たような光景が続いた。どこを見ても木ばかり。虫の声や鳥のさえずりも止むことはない。とはいえ、一つだけ変化はあった。
「この焦げ臭い匂いは何だ」
 目を覚ましたときに感じた煙たさ。ほんの僅かな匂いが、少しだけ強さを増していた。人里からの匂いとは違う。フラットに違いが分かるほどの知識も経験もない。だが、嫌な予感はあった。
 確かめるため、匂いがする方角へ走った。木々の合間を縫うように走ると、しだいに視界が開けていった。最後の木の横を通り過ぎた後、慌てて止まった。
「うわっ、危なかった」
 目の前には切り立った崖。その先には広大な樹海があった。目を凝らせば霞に覆われた山脈が見える。どれだけ距離があるのか測れなかった。
 樹海の中程に川が流れ、それに沿って無数の煙が上がっていた。煙の下では木々が炎上し、その範囲を広げている。
「山火事でも起きてるのか」
 とうに小火の域は通り越し、人の手による鎮火は無理だ。巻き込まれる前に離れよう。どこに逃げるべきか分からないが、火の手とは逆の方角が安全だ。安易な考えて背を向けようとした直後だ。
 激しい音が鳴り響き、樹海で爆発が起きた。その余波が突風となってフラットを襲った。周囲の木々が薙ぎ倒され、うずくまりながらと吹き飛ばされまいと堪える。片手で庇いながら、無数の火柱を見た。
 石油コンビナートの炎上か、それとも化学燃料の爆発か。樹海では起こりえない状況に困惑した。だが、何か異常な事態なのは嫌でも分かる。
 頭で鳴り響く警鐘を振り払い、崖まで戻った。周囲に降りられる場所がないか探すが、見える範囲には見当たらない。崖下を見下ろすと、足が竦むほどの高さがあった。だが、恐ろしい考えが浮かび、息を呑む。
(行けるのか、この俺に)
 恐れもあったが、不思議と成功する自信はあった。高さはビル五階程か。
 爆発という異常な現象が、逃げるという選択肢と正常な判断を奪った。崖の上にいながら、フラットは他人事のように理解していた。それなのに、好奇心と高揚感が背中を後押しする。
 数歩下がると、身を低くし、思い切り地を蹴った。爆発的な推進力を得て宙に浮くと、風を切りながら滑空していく。体が軽く感じられ、空を飛ぶような錯覚に陥った。ただ落下してるだけとは思えない浮揚感がある。
 ぐんぐんと木々が近付き、顔を庇いながら潜った。葉や枝で全身に無数の擦り傷を作りながら、迫る地面をしっかりと見る。大きな枝を掴んで落下の勢いを殺すと、軽やかに着地した。
 腰を屈めて地面に手をつき、視線はすぐに前方に向けられた。本当に飛び降りられたことに驚きながら、炎上する場所に向かって走り出した。
 頭上は煙で覆われ、薄暗くなっていた。周囲の温度はどんどん上がり、汗が噴き出してくる。燃え上がる炎が周りに飛び散り、火災の範囲を広げていた。木々が薙ぎ倒され、視界の先には炎の海があった。
「何がどうなってるんだ」
 爆発といい、目の前の惨状といい、理解しがたいことばかりだ。その危険な場所に身一つで来たことがさらに信じられない。そして、一番の驚愕がフラットを襲った。
 燃え尽きた木々がどんどん倒れていく。炎で熱せられた空気が陽炎のごとくたゆたい、何かの影が形作られた。それは四肢を地面につけ、のそりと近付いてきた。その形容しがたくあまりに異様な姿に、フラットは後ずさった。そこには見たことのない異形の生物が、”化け物”がいたのだ。
 光の向こうに在りし場所は、疑いようのない異世界だった。




 第二章 召喚されし者の運命(さだめ)


       1

 目の前の化け物が低い呻き声を上げた。
 そいつは、人よりも大きな体をのそりと動かした。血に飢えた眼光を向け、大きく鋭い牙を見せる。熊のような厚い毛皮を纏い、四肢の鋭い爪をぎらつかせた。
 周囲では炎が広がり、木々をどんどん燃やしていた。一帯が轟音に包まれる中、化け物の鳴き声がいっそう強まる。その視線は真っ直ぐにフラットを捉えていた。
 化け物がじりじりと距離を詰める。
 フラットは後ずさり、一定の距離を保ち続けた。見るからに凶暴な奴を相手にどうにかする自信はない。というより、殺される自信があった。
 訳の分からぬ恐怖と、確実な死のビジョンが頭を埋め尽くした。助かるためには隙を見せないこと。そう理解していたが、体が思うように言うことを聞いてくれなかった。もたつく間にも相手は徐々に近付いてきた。
 唯一の救いは化け物が舌なめずりしていることだ。その気になれば瞬時に命を奪えるのに、それをしない。理由は分からないが、助かる道はその隙をつくしか考えられなかった。
 剰りの暑さに体力が奪われていく。気付けば来た道が塞がり、逃げ場を失っていた。
 フラットは息を呑んだ。
 自らの失敗を悔やむ間もなく、化け物が咆哮を上げて地を蹴った。真っ直ぐ突っ込んでくると、跳び上がり片足を振り上げた。
 すんでの所で横に跳んで躱すと、焼けた地面の上を転がった。熱さに顔を歪めるフラットに容赦のない第二撃が迫ってきた。
 頭めがけた攻撃を屈んで躱すと、化け物の爪が背中をかすめた。それは服を切り裂いただけですみ、巨体が遙か後方で着地した。直後に炎に包まれ、悲鳴が上がる。その様子を確認する間もなくフラットは走り出した。あの程度の炎ではビクともしないのは想像できたからだ。
 炎の隙間を縫って走ると、背中越しに聞こえる咆哮が近付いてきた。炎の海の中では一度のミスも命取りだ。殺されるのが先か焼け死ぬのが先か。それよりも酸欠と熱さの方が問題だ。徐々に頭が朦朧としてきた。
 炎の中で密度の濃い湿気が流れてきた。その方向だけ、若干火の勢いが弱いように思えた。ほんの僅かな違いに気付くと構わず向かった。
(確か、近くに川があるはずだ)
 上から見たときの位置と照らし合わせるが、がむしゃらに走ったせいではっきりとしない。疲れからか、体を動かせているのか分からないほど感覚が鈍くなる。目をつぶり、いよいよ死を覚悟した。
 なぜここに来たのか。森で爆発という異常な現象を見て、好奇心を抱いた。それがどれだけ危険か、判断できなくなっていた。とはいえ化け物に遭遇するのは予想外だ。今さら後悔をしても遅い。
 短い人生を悔やみ、育ててくれた母に申し訳なく思った。そして、今までの一連の騒動を呪った。あの光は、あの声は死への誘いだったのだ。
 絶望が頭を支配した。すぐに化け物に追いつかれ、殺される瞬間が浮かんだ。その思考が何度も繰り返されると、違和感に気付いた。
(声が……遠のいている?)
 目を開くと、視界をよぎる景色がもの凄い速度で移り変わっていた。車を走らせてるような錯覚に陥った。だが、足は地につき、確実に体を前に押し出している。視線を背後に向けると、化け物との距離が走り始めたときと変わっていなかった。
 体が軽い。自分で動かしているとは思えないほど軽い。感覚が鈍いのは、脳が現実について行けてなかったからか。少しずつ感覚が蘇ってきた。
 冷静になるにつれ、自身の身体能力の異様な高さに疑惑を抱く。崖から飛び降りたときもそうだ。普通の人間には出来ない芸当をやってのけた。昨日のフラットでも出来ないことを。なぜ出来たのか、考えても答えは出なかった。
 徐々に体が悲鳴を上げ始めた。いくら異常とはいえ、全力疾走は長くは続かない。いつかは追いつかれる。その前に逃げ切る方法を考える必要があった。もしくは撃退するか。せめて武器でもあれば戦えた。だからといって勝てる見込みはない。
 周囲に視線を巡らすと、焼け落ちて煤となった木々の残骸がそこかしこにあった。それらは燻るだけで、危険はない。いつの間にか炎の海を抜け出していたのだ。
 炎は外側に広がり、未だ範囲を拡大させていた。視界は開け、遠くに水の流れが見えた。焼け野原の真ん中は大きく地面が抉られ、クレーターになっていた。そこが爆発の地点だと察したフラットは、その手前で立ち止まり、覗き込んだ。
「ここに落ちればひとたまりもないか」
 爆発の影響か、地面がマグマのようにドロドロになっていた。触れればたちまち焼き尽くされる。
 フラットは振り返ると、追ってきた化け物が足を止めた。本能が危険を察知したのか、距離を空けたまま警戒している。
 絶え絶えになった呼吸を整えると、疲労を感じながらも頭は冴えてきた。背中は熱いが、身の危険はない。炎の心配も無くなり、意識は化け物だけに向けていた。動きをつぶさに観察し、次に備えた。
 刻一刻と時間だけが過ぎた。決定打のないフラットは何も出来ない。だが、このままだといつかは力尽きる。それに、もし化け物が一匹だけでなければ囲まれて逃げ場を失う。幸い、見える範囲にはいなかった。
 最悪のケースを考えながら、クレーターの周りを進んだ。その動きに合わせて化け物も横に動く。しばらくして横目に川が見えた。川の向こう側は燃えていない。渡れば逃げおおせる可能性は上がる。見たところ、化け物は地上を這う生き物だ。高い場所なら身を守れるはずだ。
 問題は渡る方法だ。樹海を支える水源だけに、川幅は広い。跳んで渡るのは無理そうだ。尤もフラットが簡単に渡れる川なら、化け物は容易に越えられる。裏返せば、化け物が渡れない川を征すればいいということ。
「考えろ。考えるんだ」
 何度も言い聞かせ、周囲を見回して方法を探した。自力で飛び越えるのが無理なら道具を使えばいい。長い棒、縄、丸太――焼け野原にはそんな都合のいい物はなかった。それでも方法はある。諦めた時点で終わりだ。
 あくまでポジティブに考えた。化け物に出会したときの死のビジョンは消えていた。今は助かることだけを考えていた。
 慎重に川肌に寄った。視線は周囲に向けながらも、内にある殺気を必死に放出し、化け物にぶつけた。相手は怯み、焼け死ぬ危険が去った今も距離を詰めてこない。牙を持たぬフラットを怖がっている。
 はったりがいつまでも通用するとは思えない。道具がないと分かった今、泳ぐしか方法はなかった。覚悟を決め、化け物に背を向けると、一呼吸も置かずに走り出した。とっさに反応できなかった化け物が遅れて追ってきた。
 川岸に着くと、迷わず地を蹴った。体が浮き上がり、川を半分越えた辺りに着水した。すぐ側の岩肌にへばりつくと、振り向き、化け物を見た。化け物は猛然と川に突っ込み、向かってくる。
(なんて速さだ)
 驚きつつ、フラットは泳ぎだした。
 予想以上の急流でまともな息継ぎが出来なかった。それでも泳ぎ切り、陸に上がると再び走った。化け物の動きだしが遅れた分、時間の余裕が出来ていた。その僅かな瞬間で距離を開くが、次の一手を講じられなかった。
「誰だよ、木登りなんて考えたのは」
 思わず愚痴った。よじ登るほど時間はなく、飛び移れるほどの木がなかったからだ。川に沿っていくべきか、森の中に入るべきか迷う。その間にも、化け物がすぐ側に迫ってきてた。
 飛びかかる化け物を振り返りざまに躱した。化け物の攻撃は目の前にあった木を軽々と薙ぎ倒す。そして身を翻し、咆哮を上げた。
 逃げる時間を失った今、出来ることは一つだ。どうにかして倒す。少し前まで無理だと思っていたが、今は自信が湧いていた。背中越しの攻撃を躱したとき、相手の動きが手に取るように分かったからだ。
 気付けば手足の先まで感覚が鋭敏になっていた。今なら考えたとおりに動ける。そう思い、ゆっくりと構えた。
 左手を前に突きだし、左足を踏み込む。右手右足を引き、姿勢を低くした。合気道や空手ならそれなりにこなした。昔は父とよく組み手をしていた。相手の動きを読む力は剣道で鍛えた。身体能力にさほどの差がないと分かると、恐怖は消えていた。
 経験と自信に後押しされたフラットからは隙が消えた。まともな空気を吸えたことで心も落ち着いていた。
 化け物もフラットの変化に気付き、すぐには間合いを詰めてこなかった。だが、得意の剣が無くてはフラットに攻め手はない。相手が動くのをじっと待った。
 業を煮やした化け物が飛びかかってきた。ぎりぎりの間合いを取って横に躱すと、踏み込みつつ掌底を当てる。衝撃と共に化け物の体が吹き飛んだ。少し大きな力を加えただけなのに、想像以上の威力があった。
「なるほど、そういうことか」
 手応えを感じたフラットは、ふらふらと起き上がる化け物を見据えた。化け物は殺気を漲らせてまた飛びかかってくる。
「地球とここでは力の伝わりが違うのか」
 ぼそっと言いながら身を翻して攻撃を躱すと、体の回転力をそのまま裏拳に乗せた。化け物は吹き飛び、きりもみしながら地面に叩き付けられた。
「抑えられてた力が解放されたような感じか」
 非常に体が軽い。炎の中を逃げていたときよりもさらに軽い。油断さえしなければ相手に捉えられる気がしなかった。
 化け物がすぐに起き上がる。大したダメージを与えられていない。
 そもそも格闘技は急所だらけの人間に使う物だ。だから目の前の相手を倒すには、化け物じみた破壊力が必要だ。その術はなく、長期戦になると不利だ。悩みつつも少しずつ距離を詰めていった。
 その時だった。
『目覚めよ、内に眠りし力』
 どこからか謎の声が聞こえたのだ。驚いて周囲を見回すが、人影はない。いるのは目の前の化け物だけだ。とすると、また誰かが語りかけたことになる。だが、今までの声とは違って聞こえた。
 今までは視線を感じたのだが、今回は何も無い。声が年寄り臭かったのに、今度は若々しい。何よりも驚いたのは、内側から聞こえたことだ。誰かに話しかけられたのではなく、言葉が湧いてきたのだ。それと同時に、力が溢れてくる。
 全身からほのかな光が放出された。優しく暖かい何かに包み込まれていく。感覚がさらに研ぎ澄まされた。
「これはいったい……」
 自分に起きた異変に困惑した。だが、一つだけはっきりと認識できた。
「この力なら、あいつを倒せる」
 証拠など無いのに、自信だけが満ち溢れていた。いや、違う。フラットはこの力が何なのか知っている。そう、それは夢で見たあの力――
 溢れ出した力を右手に集めた。そして拳を中心にして風の層が幾重にも重なり、渦を巻き始めたのだ。
「風よ、敵を切り裂く刃となれ」
 フラットは静かに呟いた。と同時に、風の渦が激しくなった。
 待つことの危険を感じた化け物が飛びかかってきた。だが、身をすくめていたせいで大した勢いはなかった。その隙をつき、フラットは一気に距離を詰めて懐に入ると、風を纏った右手を腹に打ち込んだ。
 打撃の瞬間、風の奔流が化け物を包み、かまいたちとなって全身を切り刻んだ。そこに拳の衝撃も加わったため、その体が宙に浮き、遙か後方に吹き飛ばされた。木々を何本もへし折り、勢いが失われたときには化け物の動きは止まっていた。
 化け物を倒せたことで気が抜けたのか、フラットはその場にへたり込んだ。嘆息しつつ自分の右手を見た。
「今の力は何だったんだ」
 率直な疑問をぼやくが、半分は答えが出ていた。フラットが行使した力は、夢で奴が言っていた”魔術”という物だ。その事実に気付き、連日の夢との関連が二つになった。
 分からないこともある。そもそも魔術とは何なのか、なぜ自分が使えたのか。
 安心して腰が抜けたため、しばらくは動けそうになかった。そのせいか、答えの出そうにない疑問を考え続けた。これだけ立て続けに不思議なことが起きると、驚きを感じなくなる。少しずつこの世界の出来事を受け入れていた。
「これ以上、おかしなことはないよな」
 顔を引きつらせて笑った。
 異常な現象がまた起きて、それを受け入れる。その繰り返しは当たり前の感覚を奪い、元の生活を遠ざけていく。そんな気がした。
 その場で仰向けになると空を見上げた。空を覆う大量の煙が薄れていく。その上空では雨雲が育っていた。夜には降り始め、火災はすぐに鎮火するだろう。爆発の原因は分からぬままだが、全てが終わったかのように勝利の余韻に浸っていた。
 どっと疲れが出て、一眠りしようと目をつぶった。だが、フラットに休息は訪れなかった。
 獲物を狙う獣の声が幾重にも重なって聞こえた。それは間違いなくフラットを狙っている。そう感じて立ち上がった。
 フラットを囲むように化け物が群がっていた。さっきの戦闘で激しく立ち回ったせいで呼び寄せたようだ。さすがに多くを相手にするほどの体力はない。化け物を倒した力も、今は消え失せていた。
 今度こそ死ぬ。イメージだとか気持ちだとかの次元ではない。群れを相手にすれば確実な死が待っている。逃げ場もない。
「また後悔させられるのか」
 独りごちると、抵抗を諦めた。尤も動く体力も気力もない。せめて苦しまずに死ねることを望み、目を閉じた。
 化け物達が咆哮と共に駆けだした。他には目もくれず、一心不乱に向かってくる。同時に聞こえる足音がどんどん迫ってきた。
 もう死ぬのだ。覚悟でも何でもない確信が頭を駆け巡った。だが、聞こえた音は自分を切り裂く音ではなかったのだ。
 銃声がこだました。驚いて目を開くと、フラットを囲む化け物達の頭上から銃弾の雨が降り注いだのだ。激しい音と共に化け物達が悲鳴を上げる。血しぶきが一帯を真っ赤に染め上げ、残ったのは大量の死骸だけだった。
 頭上から轟音が聞こえた。空気が地上に向かって大量に流れてきた。フラットが見上げると、最初は点だった影が徐々に大きくなる。それが人型をしていることに気付き、ここにも人がいたと分かってほっとした。
 それも束の間。すぐに前言を撤回したくなった。その人型の色や質感が異質だったからだ。
 それは暴風を振りまきながらすぐ側に降り立った。銀色の体、滑らかなフォルム、背中には空気を送り出す機関、平らで無表情な顔――どれをとっても人間からほど遠い存在だ。警戒しつつ、敵意の感じられないそれに近付いた。
「お前は何者だ」
 声をかけると、姿勢を崩さずにフラットの方に向いた。
「ワタシハ、自立駆動型人型兵器(オートマトンドール)AMDS-08」
 それは単調な口調で、聞き慣れない言葉を喋った。
「オ、オートマ……な、何?」
「アナタノ世界デ、ロボット、呼バレル物デス。アンドレン、ト、オ呼ビクダサイ」
 目の前のそれ――アンドレンがロボットなら化け物以上に凄いことだ。現代の技術ではありえないと専門家ではなくても分かる。この世界は全てが規格外のようだ。
「何でそんな物がこんな所に」
 一歩譲ってロボットだとしても、ここにいる理由が分からなかった。アンドレンは化け物に襲われたフラットを助け、ここに降り立ったのだ。
 困惑してると、アンドレンはフラットの体を掴んだ。びくりとし、振り払おうとするがびくともしない。
「な、何をするんだ」
「説明ハ後デス。スグニ魔物ガ集マッテキマス」
「魔物ってこの化け物達か」
「ハイ。安全ナ場所マデ移動シマス」
 アンドレンをすぐに信用は出来ない。だが、化け物――魔物が森の中からどんどん姿を現してきたのだ。この場を離れた方が良いのは誰の目にも明らかだ。
「どうすればいいんだ」
 走っても逃げ切れない。方法を悩んでいると、強い風が地面にぶつかり、砂埃が起きた。横を見ると、アンドレンが宙に浮いていた。
「掴マッテクダサイ。空ヲ飛ビマス」
 突拍子もない提案に驚き、少し迷って腕にしがみついた。アンドレンの体はひんやりとしていて、それが機械なのだと再確認した。
 風が轟音を立てながら地面を削る。アンドレンの体が徐々に上昇を始めた。地上がどんどん離れ、群がってきた魔物が小さくなった。魔物達の咆哮も、風を裂く音に遮られ、フラットの耳には届かない。森を見渡せる高さまで上ると、アンドレンがフラットの体を抱きかかえた。姿勢を倒すと、更なる轟音を立てて横に跳んだ。風を切り、樹海の上を猛スピードで進む。焼け野原となった大地はすぐに遠い彼方に消えた。
 こうして未知の化け物から逃げることが出来た。だが、アンドレンはフラットをどこに連れて行くのか。その表情からは何一つ読み取れなかった。


       2

 むき出しのプロペラ機に乗るのはこんな感じだろうか。初めて生身で空を飛ぶ体験をしてそんなことを考えた。
 空気が冷たく、夏のような熱さを忘れさせた。前を向くと風が顔に当たり、目を開けるのもままならない。仕方なく下を向いて景色を見た。どこまでも広がる樹海、飛行進路に沿うように流れる川、緩やかな山々。少しずつ形を変えてはいるが、いつまでも同じ景色だった。
 しばらく進むと、飛行速度が緩まった。正面を見ると、一際大きな山があった。山の麓の一角に開けた場所があり、点のような人工物が見えた。その上空で止まると、アンドレンは姿勢を戻し、降下した。
 ゆっくりと地面に足を着けると、音や風が収まった。ようやく解放され、フラットは自分の足で立った。
 山から水が流れて出来た池と、その畔に小さなログハウスがある。周囲は変わらず森に囲まれ、一本だけ人が通れる道があった。
「オ会イシテ頂キタイ人ガイマス。案内シマス」
 アンドレンが家に向かって歩き出し、フラットは周囲を気にしながらついて行った。魔物が隠れてる様子はなく、落ち着いた雰囲気がする。とりあえずは安心できた。
 家に着くと、アンドレンは迷わずドアを開けた。中は薄暗く、外から差し込む光が明かりの変わりとなっていた。天井には電気が無く、一通りの家具だけが並ぶ殺風景な家だ。その真ん中に、一人の男が座っていた。
 男は真っ直ぐにこちらを見据えていた。
「オ連レシマシタ」
 アンドレンが中に入りながら言うと、男は頷いた。
「無事に連れてこられたようじゃな」
 恐る恐る入ろうとしたフラットは、その声を聞いて驚いた。聞き覚えある声だったからだ。途端に警戒心を強め、一歩下がった。
「何をしておる。早う入れ」
 男は呆れながら手招きをした。アンドレンの仲間のようだし、敵対行動は見られない。それに、彼はここで初めて会う人間だ。情報が欲しかった。警戒したまま中に入ると、いつでも逃げられるようにドアの側に立った。
 暗さに目が慣れると、男の容姿が見えてきた。白髪、顎を覆う白い髭、皺の多い顔に鋭い眼光、かなりの高齢だが中肉小柄で背筋が伸びている。全体的に落ち着いた雰囲気で、威厳を兼ね備えていた。
「俺を呼んだのはあんたか」
「その通りじゃ」
 睨み付けながら聞くと、老人は臆することなく答えた。それは確かに自宅で最後に聞いた声だった。フラットにとって忌まわしい記憶しかない声。何度も呼び続けた本人が目の前にいる。その目的は何なのか。なぜフラットを呼んだのか。聞きたいことは山ほどあった。
「わしはハバード・イジェフスク。見ての通り隠居老人じゃ。ようこそ我が家へ、フラット・エブィルよ」
 老人――ハバードが当たり前のようにフラットの名前を口にした。教えていないことに気付き、フラットは眉根を寄せた。
「なぜ知ってるんだ」
「あまり凄むな。慌てずともわしが話せることは全て話すつもりじゃ。お主のことや家族についてもな」
 それを聞き、剰りの驚きに叫びたい気持ちを必死に堪えた。全てを話すと言うハバードの機嫌を損ねては意味がない。
「まずは茶でも飲んで落ち着け」
 そう言うハバードの手に、いつの間にかコップが握られていた。その横でアンドレンが急須を持ち、コップに注いでいた。
 フラットはその一連の動作を目を丸くして見た。コップを受け取ってもなお、信じられない。
「こいつはある国で作られた唯一の自立駆動型人型兵器(オートマトンドール)じゃ。言っておくが、こいつは特別じゃよ」
 説明としては不十分だ。だが、聞いても理解できそうにないので無視した。飲み物を見たせいで喉の渇きを思い出し、一気に飲み干した。
 ハバードはコップを置き、手を組んだ。
「何から話すべきかのう……」
 目を閉じて深く考え込んだ。そして神妙な面持ちで語り始める。
「まずは世界の成り立ちから教えよう」

 遙か昔より、この世界は三つの大地によって形作られていた。それらは天上界アルヴヘイム、地上界グローブラム、魔界スヴァルトと呼ばれていた。神が降り立ち、生みだしたのだと言われている。
 三つの大地には大きく分けて三つの種族が住んでいた。天上界には天を飛び回る天上人、地上界には地を這う地上人、魔界には魔術という不可思議な力に長けた魔族がいた。
 初めは別の大地の存在を知らず、伝説にのみ伝えられていた。当然、移動する手段もありはしなかった。だが、長きの観測で異空間を挟み、地上界を挟むようにして三つの大地が引き合うように在ることが判明した。そして、天上人と魔族はほぼ同時期に異空間を越える術を手に入れ、地上人との交流を始めたのだ。
 地上人は他の種族のような特殊能力を持たなかった。その不自由さを解消するため、多くの技術が生み出された。記録を残すに長けた文字の発達、多種多様な織物や道具の開発、航海技術、建築技術など種類は様々だ。
 三つの種族が出会い、世界の変革が始まった。
 それぞれの種族が持つ知識や技術の共有。とりわけ地上人の技術は重宝され、世界は見違えるほど発展した。関係は良好で、互いの種族を迎え入れ、愛し、交わった。その子孫は次代を担う者として遺憾なく力を発揮した。
 だが、少しずつ異変が起こった。
 地上人と交わった種族の子孫から、代を重ねるごとに有していた力が失われていったのだ。天上人は空を飛ぶ力を、魔族は強大な魔力を。
 初めは騒然としたが、生活が豊かになると、その異変は軽視されていった。必要もなくなり、固執する理由を失ったからだ。そうして三つの大地の繋がりは強固な物となった。
 時は流れ、それぞれが大国を有するようになった頃。
 未だ自由な行き来は続けられていた。しかし、国同士の交流は外交政策を伴い、利権を争う手段に取って代わった。無条件の交流、自由は失われていたのだ。
 互いに条件を出し合い、切磋琢磨し、向上した。それは皆が人類の発展という同じ目標を持っていたからだ。だが、しだいに考えの食い違いが生まれ、均衡が崩れ始めたのだ。
 最初はただの口論から。それがエスカレートして小競り合いが始まり、交流が失われていった。最後には戦争も辞さない緊張感が生まれ、これ以上は不利益しか生まないと判断した各国が、他の大地への往来を禁止した。
 さらに時は流れ、運命の時の12年前、魔界の、魔王軍の他界への侵略を皮切り全面戦争が始まった。戦争は泥沼化し、戦地となった地上界は荒廃していった。地上人はそのほとんどが死に絶え、天上界や魔界も戦争の長期化で国力を著しく低下させた。そして、雌雄を決した最終決戦が地上界で行われたのだ。
 魔王ロウトゥス、戦王エブィル。運命の時、世界が生んだ最強の戦士の激突。それは地殻変動を引き起こし、三つの大地の均衡を奪い、全世界が消滅の危機に陥った。それを救ったのがエブィルだ。
 地上界の引き寄せる力が強まり、三つの大地が衝突する。その大惨事を防ぐため、空間を断裂させ、地上界を他の次元へ移動させる。現実的に不可能だと思われていたことをエブィルは成功させた。
 世界は救われたが、地上界は消え、世界を繋ぐ柱も消滅した。取り残された天上界と魔界は往来の手段を失い、なし崩しに戦争は終結した。エブィルの手により世界に平和がもたらされ、彼は天上界では英雄と崇められ、五〇〇〇年経った今も語り継がれている。

「こうして世界は作られ、今に至るのじゃ。そして、ここは天上界アルヴヘイム。天上人が住まう大地じゃ」
 ハバードの話をフラットは聞き入っていた。世界の仕組みが理解できたわけではない。だが、一つだけ分かったことがあった。
「エブィルとロウトゥスの戦いを俺は知っている」
「ほう、それは興味深いのう」
 ハバードが訝しみ、話すように促された。フラットは頷いた。
「この一年、繰り返し夢に見たんだ。二人が戦い、そして世界が崩壊する様を。それが五〇〇〇年前に実際に起きたことだとは思わなかった」
 その事実に気付き、背筋がぞっとした。遙か昔のことを、史実通りのことを夢に見たのか。自分が自分でない気がして、口を噤んだ。
 ハバードが立ち上がり、フラットに歩み寄った。
「あの時、何があったのかわしらは知らぬ。何でも良いのじゃ、教えてくれ!」
 ハバードがフラットの肩を掴み、迫ってきた。そこではっとし、老人の顔を正面から見据えた。くしくも彼に引き戻されたようだ。
「ごめん。続きを言うから離れてくれ」
 全身から血の気が引くのを感じながら、顔を取り繕って言った。冷静さを失ったのを恥ずかしく思ったのか、ハバードは目を背けて離れた。
「二人の戦いの途中から夢が始まるんだ。機関がどうの、聖王がどうのと言い争っていた。そして、地上界と呼ばれる場所がおかしくなって、それをアイリーンが伝えに来るんだ。エブィルは世界を救うため、彼女やロウトゥスと世界を救った。世界が別れたところで夢は終わる」
 その後の夢は見たことがない。彼らがどうなったのかも分からない。ただ一つ言えるのは、地上界は地球に名を変え、今も存在している。母が別れ際に話したことがそれを物語っていた。
「そうか、魔王も一緒じゃったのか。世界を救ったという意味では、その場の全員が英雄というわけじゃな」
 それ以上の情報が得られないと分かり、ハバードが消沈した。だが、逆に疑問を抱いたフラットは彼に聞いた。
「聖王マクリレンとは誰だ。機関って何なんだ」
 その問いに、ハバードは少しだけ考えるようにして答えた。
「マクリレンは当時、天上界で指導者の役割を担っていた」
「一番偉い人ってことか」
「そうじゃ。天上人を導いた偉大なお方。あの方無くして今の天上界はない。マクリレンは志半ばにして凶刃に倒れ、その跡をエブィルが継いだのじゃよ」
 実質、エブィルが天上人を統べていた。マクリレンに次ぎ、エブィルは偉大な人物だったようだ。ハバードはもう一つの問いにもすぐに答えた。
「そして、機関とはおそらく神託機関のことじゃろう。古来より神の声を聴き、民を導いてきたとの噂じゃ。異界へ渡る術を編み出したのも神託機関だと言われておる。じゃが、その存在を確かめた者はおらぬ」
「その機関をロウトゥスは憎んでいたようだげど」
「その理由はわしにも分からぬ。なぜ魔王は機関を知っていた?」
 誰にともなく疑問を投げかけ、首を横に振った。
「今となっては誰にも分からぬ。唯一言えるのは、神託機関が実在しておったことだけ」
 結局は何の答えも得られなかった。フラットはそれが大事なことだと感じていたが、追求するのをやめた。
 しばらく沈黙だけが流れた。
 フラットはいつの間にか警戒心を解き、その場に座り込んでいた。疲労も限界に達し、立ち続けるのは辛かった。
「フラットよ、お主を呼んだのはわしじゃ。ここ天上界で起きた事態を収拾してもらいたくて召喚したのじゃよ」
「事態? 召喚?」
 それは一番の疑問だった。異世界から呼んだ方法もそうだが、理由が全く想像できなかった。何があったのか、なぜフラットなのか。
「この天上界では二〇年ほど前から異変が起き始めた。天上界と魔界の間の空間に揺らぎが生じたのじゃ。そこは本来、地上界があった場所。その異変を調べたが何も分からず、数年前、ただ一度だけ地上界との通信に成功したのじゃ」
「地球と? それじゃ、それで父さんと?」
 ハバードが頷いた。
「お主の父、エドガルドと話し、地上界が存続していたことを知った。じゃが、通信は不安定で、短い時間だけ。そこで話せたのは三つ。エブィルはその血を後世に残し、彼の子供に受け継がれたこと。近い内に異変が起き、三界を巻き込むこと。いよいよの時は召喚してほしいと言い、その方法を教わった」
 全てが初耳だった。自分がエブィルの子孫だということも、父がハバードと話したことも。思い返せば不審な点はあった。父も母も兄も、ずっと何かを隠していた。それを知られまいとする素振りもあった。
「父さんは何を知ってるんだ」
「わしには分からぬ」
 断定されて拍子抜けした。ハバードなら全てを知っているのだと決めつけたことを恥じた。だが、新たな疑惑が浮き彫りになった。
「父と兄が召喚されたのは一年も前だ。何かあったから呼んだんだろ? それで何で今頃俺が呼ばれたんだ」
「それもエドガルドが話しておった。まずは自分を呼べと。それでも解決しなければ息子を呼べと。じゃが、一つ腑に落ちんな。奴の息子は二人いたのか」
 最後の方は独り言つハバード。ぶつぶつと言ったかと思うと、フラットを疑うような目で見た。
「一年前に兄も召喚されたとはどういうことじゃ。わしは呼んでおらぬぞ」
「そんなのおかしいよ。確かに、俺の前で父さんと一緒に消えた。俺を見て、別れを告げたんだ。それに一ヶ月前もルシアが……」
 ハバードが驚愕に顔を染めた。それを見たフラットも嫌な予感を覚えた。それは確かな実感を伴っていた。
「他の誰かが呼んだのか」
「他の誰かが呼んだのじゃな」
 目を合わせながら同時に言った。
「それなら誰が……」
「すまぬが、そこまでは分からぬ。だが、一つ言えるのは、わしとエドガルドの通信を傍受して利用した者がいるということじゃ。何の目的があるのか分からぬが」
 本気で悩むハバードを見て、フラットは彼を信用した。全てを信じたわけではないが、父が信じ、父を頼った人物だ。不思議と感じられる善意が信じるにたる理由となった。
「わしらは監視されていた。そして今もおそらく……」
 何一つ確かなことは分からない。目的も正体も何もかも。疑問が解けると新たな疑問が生まれ、尽きることはない。
 すさむハバードの表情がきりっとする。再びフラットを真っ直ぐ見据えた。
「一年前にエドガルドを召喚した。一年経っても異変が収まらなければ息子のフラットを呼べと言われたのじゃ。そしてお主を召喚した」
 そこで一度間を置き、表情を暗くして言葉を続けた。
「空間の揺らぎは激しさを増し、一月前に複数の穴が出来て魔界と繋がったのじゃ。そこから大量の魔物が押し寄せ、天上界はそいつらに埋め尽くされようとしている。その中には多数の魔族が確認された。奴らは自分らを魔王軍と名乗り、侵略を始めたのじゃ。いくつかの国は奴らの手に墜ち、滅びた地もあると聞く」
 ハバードが自分自身の手を強く握りしめる。顔をしかめ、歯ぎしりをさせた。
「この事態を収め、世界を救えるのはエブィルの子孫だけ。その内に強大な力を秘めた、エブィルの名を継ぐ者。すなわち、フラット・エブィル――お主だけなのじゃ」
 その驚愕の理由に、フラットは愕然とした。魔物の脅威は身をもって味わった。その上、過去に侵略をした魔王軍が蘇ったというのだ。ハバードとの会話で、エブィルが過去に実在し、自分がその子孫だと理解できた。だが、自分にどれだけの力があるのか。人より少し頭の回転が良く、運動神経が優れてるだけの一介の少年に。
「実感はあるはずじゃ。ここに来る前に魔物を倒したであろう?」
 その通りだ。だが、なぜそれを知っているのか。疑問に思ってアンドレンを見ると、ちょうど戦闘の映像を見ていた。
「いつから見てたんだ」
 アンドレンを睨んだ。機械には意味がないと知りながら、動じることを期待した。
「川ヲ渡ッタ辺リカラデス」
 相変わらずの単調な口調に、怒る気も失せた。代わりにハバードを睨むと、悪びれもせずに答えた。
「戦闘能力を調べていたのじゃ。魔物にとどめを刺した力、魔術を使うとは大したものじゃ。初陣で勝てるとは思わなかったのにのう」
「襲われてるのが分かってて試したのか」
「危なければ助けた。じゃが、この戦闘で確信した。お主はただの少年ではない。お主ならば世界を託せる。任されてはもらえぬか」
 熱心に頼まれても、簡単には引き受けられなかった。本当に力があるのか、という肯定的な理由ではない。昨日まで何も知らされず、突然世界の危機を突き付けられたのだ。正直に言うと怖い。無関係な自分が命をかけるのが嫌だ。
 だが、父が天上界に来ている。会って真実を確かめたい。それに、父がいるのであれば、兄や幼馴染みもいるはず。目の前には絶望しかなかったのに、唐突に光が差した。天上界で起きている事態を追うことで、再会できる可能性がある。
 そんなフラットの迷いを察してか、ハバードが提案した。
「これならどうじゃ。天上界で家族を捜し、途中で困った人を助ける。わざわざ危険な地域に行くことはない。誰にだって目の前の人を助けるので精一杯じゃ。そうして魔王軍と戦ってくれればわしらは持ち直せる。本当は旗柱になってほしいのじゃが」
 ハバードはそれで譲歩したつもりなのか。フラットは納得がいかなかった。なし崩しに戦わされるのは目に見えたからだ。
「すぐに答えを出す必要はない。どちらにしろここを旅立つのは明日からが良かろう」
 窓から夕日が差し込み、ハバードの全身を赤く染めた。それと同時にお腹が泣き出した。昨晩から何も口にしてないことを思い出し、がっくりとした。
「すぐに夕食の支度をさせよう。人里へはかなりの距離がある。しっかり体力をつけておくのじゃぞ」
 フラットはさして考えずに頷くと、首を傾げた。誰が夕食を作るのか。
「まさか、アンドレンが?」
 ハバードは自信たっぷりに笑った。
「言ったであろう? こいつは特別じゃと」
 それを聞き、フラットは呆れた。いくら特別だとはいえ、その高性能っぷりは異常だ。これで料理が美味ければ料理人も形無し。人間の時代も終わりを告げるのではないか。そう悲観して嘆息したが、すぐ後に特大のため息を吐くことになるのは言うまでもない。


       3

 背筋が凍るような異常な感覚に襲われ、フラットは目を覚ました。
 熱くて寝苦しかったのに、嘘のように寒かった。誰かに見られている。そう感じて上体を起こした。
 家の中は暗くて深い闇に包まれていた。眠る前に点っていたランプの明かりもない。すぐに目が慣れ、うっすらと周囲の様子が見て取れた。
「お主も感じたのじゃな」
 家の奥からハバードが現れた。フラットは頷き、首を傾げた。この狭い家のどこに隠れていたのか。その疑問を察してハバードが自分の足下を指差した。そこからアンドレンが顔を出した。
「地下室がこいつの整備室になっておってのう」
 めんどくさそうにぼやくと、フラットの側に来た。
「それよりもこの気配は」
「魔物に囲まれたようじゃ」
「それだけじゃないだろ」
 そういうフラットに、ハバードが感心そうに声を上げた。
「気配の違いまで分かるとはな。お主の言うとおり、魔族が混じっておる。それもかなりの手練れじゃ。どうやらアンドレンがつけられたな」
 ハバードの表情が険しくなった。それを見て、フラットは息を呑む。
「大丈夫なのか」
「分からぬ。じゃが、狙いはおそらくわしじゃ。わしが奴らを引きつける。その間にお主は逃げてくれ」
 そう言い、ハバードが視線を外に向けた。目をぎらつかせ、その先にある何かを見ている。
「アンドレン、フラットを頼むぞ」
「了解シマシタ」
 アンドレンの返事を待たずにハバードが外に出た。それを追ってフラットも外に出る。外は月明かりが思いの外強く、周りの木々の形が分かるほどだ。
「どうする気だ」
 問うフラットを一瞥して意識を周囲に向けた。
「決まっておる。戦うのじゃよ」
 そう言ってゆっくりと息を吐いて構えた。全身から青白い光が滲み出てくる。暗がりの中のハバードの姿がくっきりと浮かび上がった。老人とは思えないほどの気迫に包まれていた。魔物の殺気とは比べものにならないほどの威圧感がある。しいて言うならば鬼だ。
 周囲の森がざわつく。落ち着いていた風が吹き始め、静けさが失われていった。
 魔物の気配がいっそう強まる。森の中に、赤黒く邪悪な光がいくつも点った。魔物の呻き声がし、奴らの影が月影の下に浮かび上がった。
 激しい咆哮が立ち上り、それを合図にして魔物が木々の間から飛び出してきた。全部で八匹。魔物は地を走り、中央で構えるハバードに一斉に飛びかかった。
 ハバードはふわっと浮き上がると、正面の魔物の頭上に飛び乗った。すぐさま背後に降りると、振り向きざまに手の平を押し当てた。青白い光が魔物に流れていくのと同時に周囲に衝撃波をまき散らした。周囲の魔物が吹き飛び、手を当てられた魔物は昏倒して崩れ落ちた。
 周囲の魔物達は起き上がり間合いを取った。ハバードとの実力の差を感じ取ったのか。当の本人は涼しい顔で構え直した。敵が攻めてこないと見るや、自ら間合いに潜り込む。
 手前の魔物に狙いを定め、身を竦める間に拳を打ち込んだ。魔物が倒れるのを見ずに、横から飛びかかってきた魔物に回し蹴りを当てた。背後に迫ってきた魔物の攻撃を跳んで躱すと、空中で拳を放つ。衝撃波が打ち出され、魔物の体を押し潰された。
 衝撃の反動でハバードの体は後ろに飛ばされた。後方宙返りで勢いを殺すと、軽い足取りで着地した。
 半数を瞬時に倒され、魔物達は躊躇して動けなくなった。その隙を逃さず、ハバードが地を蹴った。二匹の間に入ると、両手を広げて同時に掌底を当てた。二匹は横に吹き飛び、それきり起き上がらなくなった。いつの間にか跳び上がり、頭上から足を振り下ろす魔物の攻撃を横に跳んで躱す。すかさず飛びかかる魔物を蹴り上げた。
 残りの一匹は怯えて後ずさった。その視界の隅に呆然としているフラットが映る。ハバードに勝てないと見るや、フラットに飛びかかったのだ。
 銃声が響く。
 慌てて構えるフラットの顔の横を何かがかすめていった。風圧を受けるのと同時に魔物が血しぶきを上げて絶命した。
「大丈夫デシタカ」
 平然として側に並ぶアンドレンをフラットは睨み付けた。
「危うくお前に殺されるとこだったよ」
 どっと冷や汗が吹き出た。ハバードの華麗な体捌きに見とれて油断していたとはいえ、側を銃弾をかすめたのだ。生きた心地がしない。
 ハバードが周囲を気にしながら歩いてきた。
「年なのに凄い動きだな」
 感心するフラットを鋭い目をして見た。
「魔術で肉体強化したんじゃよ。それよりも、わしは逃げろと言ったはずじゃ」
「そんなこと言われても、囲まれて逃げ場はないんだけどな」
 フラットは頭をかきながら平然と口にし、わざとらしくため息を吐いた。
「その為のアンドレンなのにのう」
 ハバードは呆れながら魔物の死骸が転がる方に視線を向けた。その奥から一際冷たく凍り付くような殺気が噴きだした。全身が震え上がり、フラットは足が竦んで動けなくなった。
「手遅れじゃったか」
 ハバードがぼやくと、視線の先に人影が現れた。黒いローブを身に纏い、顔を隠している。闇と同化し、そこにいるのかさえ怪しい。さっきまでの殺気が嘘のように消えていた。人影は少し高めの男の声で喋った。
「またお会いできましたね」
 汚れ無き透き通るような声にぞくりとして、フラットの目は男に釘付けになっていた。
(これが――魔族?)
 背格好は人間の物だ。巨人でも小人でもなく、一般的な中背。闇に溶け込む様は人間のそれとは異質だ。
 ハバードは腰を落とし、いつでも向かい打てるように構えた。男はせせら笑い、ゆっくりと近付いてきた。
「本来は自己紹介すべきではありませんが、あなたに敬意を表しましょう。私は魔王軍隠密部隊シュピール・ゲルス。暗殺を任務としています」
「その割には大所帯じゃな」
「それは当たり前です。あなたは第一級危険人物ですから」
 シュピールはあと五メートルほどのところで止まり、言葉を続けた。
「ハバード・イジェフスク・L・マクリレン。あなたを今度こそ抹殺します」
「マクリレン!?」
 フラットは驚きのあまり声を上げた。そこで初めて存在に気付いたのか、シュピールがフラットを見た。
「彼は誰ですか」
 反射的に正直に言いかけるフラットをハバードが制した。遅れてその理由に気付いた。エブィルは過去の大戦では魔王軍の天敵だった。わざわざ狙われるような情報を与える必要はない。二人のやりとりを不審に思ったのか、シュピールはフラットを観察し始めた。
「新しい使徒ですか。それとも別の何か……」
 シュピールが独りごちる。その様子を、ハバードが神経を研ぎ澄まして窺っていた。そんな彼に、好奇心が恐怖に勝ったフラットが聞いた。
「どういうことだ、マクリレンって。あの人はとうの昔に死んだんじゃ……」
 ハバードは答えなかった。答えたくないのか、答える余裕がないのか。背中越しには彼の心中は読み取れなかった。
 シュピールが一歩前に出る。
「それは私がお答えします。約五〇〇〇年前、天上界を統べていたマクリレンには、彼の意志を継ぐ十二人の使徒がいました。マクリレン亡き後、その意志通りに天上人を導いたと言われています。そして今も使徒は魂を転生させ、意志を受け継いでるそうです。その一人が彼、ハバードなのです」
 魂の転生が可能なのかという疑問もあるが、目下の問題はハバードが話さなかったことだ。マクリレンの意志を継ぐ者。とても重要なことに思えた。
「その様子ではあなたは使徒ではなく、一般人のようですね。しかし、ハバードと共にいるのであれば抹殺するのみ。逃げるのなら今のうちですよ」
 そう言うと、魔物の群れが姿を現した。ざっと見ても二〇匹はくだらない。さっきの魔物達は小手調べだったようだ。
「フラットよ、お主を守る余裕はない。今すぐアンドレンと逃げろ」
 そう言いながらハバードが一歩進み出た。
「あんたを置いて行けって言うのか。離れて死なれても寝覚めが悪いだろ」
「何を言うておるのじゃ」
 フラットの発言が突飛で、ハバードには理解できなかった。
「お主は戦いたくないと言うておったであろう。さっと失せろ」
「そうはいかない。ハバード、あんたは俺に父の手がかりと捜す機会をくれた。その恩を仇で返すような真似は出来ない」
 まだ聞きたいことがある。それが本音だ。とはいえ、どう戦えばいいのか。そもそもアンドレンに無理にでも連れて行かれればそれまでだ。ハバードは思案するフラットを一瞥して嘆息した。
「好きにしろ。じゃが、相手は魔族じゃ。お主は死ぬぞ」
「はっきり言うなあ」
 夕方は散々持ち上げておいて、この仕打ちは酷い。だが、フラット自身も肌で感じていた。魔物がいくら束になってもシュピールには敵わない。そう思えるほど強そうに見えた。それでも戦わなければ。不思議とそう思えた。
 戦うと決心した途端に、全身が異様な感覚に包まれた。
「フラットサン、コレヲ」
 どこから取り出したのか、アンドレンの手には剣が握られていた。剣が欲しいと言わずに差し出され、目を丸くしながら受け取った。
「どうして分かったんだ」
「昨日の立ち回りでそれが合うと思ってのう」
 さり気なく言うハバードの眼力に驚かされた。竹刀とは違う堅い感触を確かめ、握りしめる。しっくりしすぎて気持ちが悪いぐらいだ。
「あなたに人を殺せる覚悟はありますか。魔族とて人間です。場合によっては一般人を手にかけることもあります。私は軍人なのでその覚悟をしています。おそらくハバードも同じでしょう」
 これから殺そうという相手にシュピールが語りかけた。フラットが一般人であると認めての問いだ。暗に逃げなければ殺すと言っている。逃げても命の保証はないが。
 人を殺す覚悟。言われてもなお、ぴんと来なかった。目の前の男が人間に思えなかったからだ。この時のフラットの認識は、侵略する化け物でしかない。その甘い考えが後に大きな悩みを生むことになる。
「分かりました。あなたも敵と見なします。覚悟して下さい」
 再び殺気が漲らせた。それが恐怖となってフラットを襲った。魔物達がじりじりと距離を詰めてきた。
 シュピールが地を蹴るのが合図となり、戦闘が開始された。ほぼ同時にハバードも突っ込んでいった。二人の攻防が目にもとまらぬ速さで繰り広げられる。それを見る余裕はなく、フラット達は魔物に囲まれた。
 最初にアンドレンが飛び出した。迫り来る魔物達に銃弾を浴びせていく。
 孤立したフラットは呼吸を整え、神経を尖らせた。隙をつき、背後から迫り来る魔物に一閃する。目にも止まらぬ斬撃に、魔物は血しぶきを上げて崩れ落ちた。それを皮切りにフラットを囲む魔物達が一斉に飛びかかってきた。
 フラットは地を蹴り、正面の魔物に狙いを定めた。魔物の攻撃を躱しつつ斬りつけると、振り向き、続けざまに一閃した。横から振り下ろされる爪を後ろに跳んで躱した。フラットを追って翻す魔物に肉薄し、横薙ぎにする。
 三匹目が絶命するのを見届けず、すぐ側に迫ってきた魔物の攻撃を躱した。その先に待ち構えていた魔物に気付かず、繰り出される攻撃をすんでの所で受け止める。強い衝撃が全身を襲い、腕が痺れて思わず剣を落とした。これ幸いとたたみかける魔物の足を掬い、倒れ込む所に掌底を当てる。バランスが悪くて力が思うように伝わらず、魔物はその場で悶えるだけ。転がるようにして剣を拾うと、さっき躱したばかりの魔物に斬りつけた。それも大した傷を負わせられなかった。
 続けざまに斬撃を繰り出すが、魔物にはじかれる。バランスを崩しつつも後ろに跳び、間合いを取り直した。そこに魔物が迫り、足が振り下ろされる。ぎりぎりで躱しつつ、一閃。ようやく四匹目を倒し、意識を周囲に向けた。
 悶えていた魔物が起き上がる。他にも三匹の魔物もフラットを取り囲むようにして近付いてきた。
(昼間と何かが違う)
 考えたとおりに体が動かなかった。昼間は体について行けなかったのに、今は逆だ。手に取るように分かった魔物の動きも、いまいち掴めない。暗くて距離感が掴めないのか。それともこれが本来の力なのか。
 いまいち集中しきれないことに苛立ちを覚えた。フラットは唇を噛み、敵の隙を窺う。
 魔物達がじりっと距離を詰めた時、突然一帯が完全な暗闇に包まれた。近くにいた魔物の姿も、悲鳴や銃声も消え失せている。そして、一人の男の姿が浮かんだ。見覚えのあるその男がフラットに語りかけた。
『研ぎ澄ませろ、その感覚を』
 その直後、世界が元の姿に戻った。男は消え、代わりに魔物が目前に迫っていた。その時には今までの心の乱れが嘘のように集中力が蘇っていた。
 フラットは身を沈め、剣先に意識を集中させる。息を吐ききると、目の前の敵に一閃した。衝撃で吹き飛ばされる魔物に肉薄し、跳び上がって斬撃を繰り出す。為す術もなく絶命する魔物。五匹目を葬ると、フラットはすぐさま振り返り、剣を横薙ぎにした。空間が切り裂かれ、衝撃波が放射状に広がる。そして追ってきた三匹をまとめて切り裂いた。
 同時に傷つき悲鳴を上げる魔物達。
 徐々に研ぎ澄まされていく神経。
 フラットは地を蹴ると、のたうち回る一匹の魔物に斬撃を繰り出した。六匹目を倒し、立ち直り向かってくる魔物を躱しつつ一振り。背後に迫る最後の魔物を瞬殺すると、アンドレンの姿を捜した。
 アンドレンに群がっていた魔物は、銃撃で見るも無惨な姿に変えられていた。その真ん中に銀色に輝く機体。無事を確認すると、未だに激しい戦闘を続けるハバード達に視線を向けた。
 素早い動きでシュピールに翻弄されるハバード。どちらも決定打を出せず、体力で劣るハバードの動きがしだいに鈍くなった。疲労がピークに達するとついには膝をつき、完全に動きを止めた。息も絶え絶えになりつつシュピールを睨み付ける。
 シュピールも止まり、ローブの隙間から何かを煌めかせた。それが短剣だと気付いたフラットとアンドレンが同時に動いた。
 シュピールは短剣を振るおうとして異変に気付き、後ろに跳んだ。彼の前を銃弾がかすめていく。それを見過ごしてから短剣を投げた。その僅かな遅れがフラットに追いつく時間を与えた。
 フラットはハバードの前に立ちはだかり、短剣を打ち落とした。すぐに構えて次の攻撃に備える。
「ほう、あの数の魔物をもう倒したのですか。お二人は素晴らしい力の持ち主ですね。さて、どうしましょうか」
 仲間が全滅しても平然としている。そもそも捨て駒だから問題はないのだ。口元に手を当て、思案するかのように首を傾げた。
「ここで逃がせば行方をくらますでしょうし、確実に息の根を止めたいのですが。皆さんを相手にするには力を使いすぎました……困りましたね」
 その言葉とは裏腹に余裕がありそうだ。フラットはそう思い、改めて恐怖を感じた。シュピールには底知れぬ強さが秘められている。戦えば負ける。その確信だけがフラットの思考を埋め尽くした。
 覚悟をするフラットを後目に、シュピールは背を向けた。
「今夜は退かせてもらいます。次は確実に仕留めさせて頂きますので」
 そう言って一歩二歩と離れ、すぐに立ち止まって振り返った。
「あなた方の名前を聞き忘れていました。良ければ教えてくれませんか」
 その丁寧な振る舞いに調子を狂わされる。ついフルネームを答えかけて口を噤んだ。相手に気付かれぬように深呼吸して言った。
「俺はフラット。あいつはアンドレンだ」
「フラットにアンドレン……覚えておきましょう。またすぐに会うことになるのでそれまでのお別れです」
「俺はもう会いたくないがな」
「まあまあ、そうおっしゃらずに。では、後ほど」
 そう言った後、優しく笑ったように思えた。
 シュピールは闇に溶け込み、すぐに気配も消えた。どうやら去ったようだ。ほっとしたフラットはへたり込み、腰が抜けて立てなくなった。緊張が解けたのも一つの理由だ。だが、一番の理由は魔王軍との戦いに足を突っ込んでしまった事実。図らずも戻れない場所に足を踏み入れてしまった。
「フラットよ、お主に助けられたようじゃな」
 ハバードが力無く言った。それに答える気力は今のフラットには残っていなかった。


 第三章 過去からの意志


       1

「大丈夫か、ハバード」
 フラットはベッドに腰掛ける老人に声をかけた。
 ハバードはシュピールとの戦いで体力が尽き、動けなくなっていた。そこに雨が降り出し、急いで家に運び込んだ。特別怪我はなく、突発的な疲労なので休めば治る。そう判断してベッドに寝かせた。すぐに呼吸は落ち着き、眠りについた。
 見張りはアンドレンに任せ、フラットも座ったまま眠った。それから少し経ち、雨の勢いが弱まった頃、物音がして目を覚ますと、ハバードが起きていた。
 顔色がまだ悪く、疲れが抜けきっていないようだ。
「まだ寝ていた方が良いぞ」
 そう言うと、ハバードは不機嫌そうに顔をしかめた。
「肉体強化の反動じゃ。直に治るわい。若造に心配されるほど落ちぶれてはおらぬ」
 そう強がって横になろうとはしなかった。頑固な老人にこれ以上言っても意味はないと諦め、嘆息した。
 ハバードは弱々しくも鋭い眼光でフラットを見据えた。
「わしに聞きたいことがあるじゃろう」
 その問いに、フラットは頷いた。
「昨日の昼間、樹海で見た爆発は何なんだ。あの辺が焼け野原になっていたんだぞ。ハバードはシュピールって奴に追われてたんだよな。それと関係があるのか」
 そもそも爆発を見なければあの場に行くこともなく、ここにも来なかった。ハバードを助けられなかったし、魔王軍に目をつけられることもなかった。裏を返せば、誰にも会わずに路頭に迷っていたということ。
 どちらがいいか判断は難しい。だが、父の情報を聞けた。少なくとも収穫はあったのだ。世界情勢に関してあまり興味はないが、それに父の消息が大きく関わっている。その一連の流れに乗るのが一番の近道だ。そう理解はしていた。
「そうじゃな……お主の想像通りじゃよ。わしは召喚したお主を捜して樹海に入った。そこで奴らに襲われたのじゃ」
 ハバードは考え込むように目を閉じて語り始めた。

 周囲が暗闇に包まれる中、ハバードは家の前に描いた魔方陣の中央で瞑想にふけっていた。何かの呪文を唱え、魔方陣から光が立ち上る。それが天に消え、ようやく全身の力を抜いた。
「ふう、ようやく召喚の儀式が完了したのう」
 吐息を漏らし、直立不動のアンドレンを見た。
「エドガルド殿の時とは違い、魔王軍の目が光っておる。奴らより先に見つけなければ危険じゃぞ」
 ハバードは呼吸を整えて立ち上がった。
 召喚には難点がある。遠く離れた地上界と一時的に空間を繋ぐため、準備に時間はかかるし、多くの魔力が必要だ。その上、長距離移動で座標が不安定だ。一度目、エドガルドを召喚したときは大陸の反対側に現れた。そのおかげで会うのに苦労した。失敗を糧に改良し、大きく精度が上がったと自負している。
「おそらく樹海のどこかにおる。今すぐに捜しに行くぞ」
 そう言って動き出すと、体から力が抜けてその場に倒れ込んだ。予想以上に体力が失われていた。ハバードは夜明けまで休み、その間はアンドレンだけでフラットの捜索にあたった。
 夜が明けるとハバードは深い森の中を分け入った。途中にアンドレンと合流し、捜索を続けた。
 ハバードは心を落ち着かせ、力を探った。エドガルドの話通りフラットの力が強大なら感じ取れるはず。そう考えたが、何も感じられなかった。そのまま時間だけが過ぎ、正午を過ぎた辺りに魔物の群れに出会したのだ。
 魔物を次々と倒し、川を越えた辺りで、シュピールの待ち伏せを受けた。
「ようやくお会いできましたね」
 暑い中でも全身を黒いローブで包み、実に丁寧な口調をしている。それがシュピールの癖のようだ。
「昨夜、この近辺で強い魔力の放出が感じられました。もしやと思い、網を張っていたのですが、本当に見つかるとは思いませんでした。私は実に運がいい」
 あまりに無感情な言いぐさなのに、確信を持って動いていたことが見て取れた。ハバードは顔をしかめ、相手を見据えた。
「あいにく相手をする時間はないのじゃよ。道を譲ってはもらえぬか」
 シュピールが声を潜めて笑った。
「ご冗談を。私は任務なので、お引きするわけには行かないのです。覚悟して下さい」
 そう言うと、凍えるほど強い殺気を漲らせて近付いてきた。
「アンドレン、お前は彼を捜すのじゃ。この様子だと気付かれてはおらぬ。奴の狙いはこのわしじゃろう。わしが引きつけておる間に行くのじゃ」
「オ一人デ、大丈夫デスカ」
「構わぬ。敵を撒いて先に家に戻っておる。必ず連れて戻るのじゃぞ」
「了解シマシタ」
 ハバードがシュピールを迎え撃ち、アンドレンはその場を離れた。次にフラットに会うまでその姿をくらました。
「仲間を逃がすとは。それが最良の判断とは思えませんね」
 そう言いながら向かってくるシュピールの攻撃を躱し、距離を取った。敵は強いが、倒す必要はない。逃げに徹すれば負けない自信があった。火を放ち、煙や砂埃で姿を隠し、執拗に追うシュピールから逃げ続けた。その煙がフラットがいる場所まで流れ、近くにおびき寄せる結果となったのだ。
 冷静に見えていたシュピールの苛立ちが頂点に達すると、突然動きを止めた。何やら呪文を唱え始まると、彼の頭上に巨大な光球が現れた。
「奴め、一帯を燃やし尽くす気か」
 シュピールの考えを察したが、止める時間はない。それならば逆に利用すればいい。残りの魔力を防御壁生成に向け、出来る限り距離を取った。数秒とかからず魔術が完成し、ハバードに向かって放たれた。
 光球はハバードの近くに着弾。空気が集束していくと、次の瞬間、轟音を立てて爆発した。激しい炎が立ち上り、衝撃波が周囲の木々を薙ぎ倒した。一瞬にして炎が一帯を埋め尽くし、両者の視界を奪った。
 防御壁で辛うじて防ぐと、すぐにその場を離れた。姿を隠すには事欠かない状況だが、シュピールが血眼になって捜しているはずだ。魔力が尽きた今、見つかれば確実に負ける。今さらだが、敵の、魔族の強さを痛感した。そして家に戻り、アンドレンがフラットを連れてくるのを待った。

 無事にシュピールの追撃を振り切ったハバード。そこにフラットを見つけたアンドレンが戻って来た。無事に出会えたが、いくつもの誤算があった。
「奴は冷静じゃったようじゃ。わしがおらぬとみるや、アンドレンの後をつけ、夜襲を仕掛けた。奴の方が一枚上手のようじゃな」
 ハバードは悔しそうに語り、そう締めくくった。
 唯一の救いは、フラットの召喚をシュピールに悟られなかったことだ。とはいえ敵は強大で、どうにか出来るとは思えなかった。
 フラットはため息を吐き、もう一つの疑問を口にした。
「魔王軍が、シュピールがあんたを狙う理由は何だ。マクリレンの意志とか使徒とか、俺には話せないことなのか」
 その問いに、ハバードはしばらく渋り、首を横に振った。
「お主には全てを話すと言った。その約束は守らねばなるまい。だが、こればかりは難しくて説明しにくいが」
 ハバードが腕を組んで考え込んだ。フラットは彼が口を開くのを黙って待った。
「奴が話したとおり五〇〇〇年前に生きた聖王マクリレンには十二人の弟子がおった。その者達は特異の能力を宿し、使徒と呼ばれておった。マクリレン、エブィルに次ぐ重要人物で、軍部や政治に非常に大きな役割を果たしたのじゃ。二人の英雄亡き後、天上界を復興させたのは間違いなく彼らじゃ。彼らの尽力があったからこそ今の世がこうして成り立っておる。じゃが、なぜだかあまり語り継がれず、詳細を知る者は少ない。意図的に消されたようだが、今となっては何も分からぬ。
 マクリレンは当時の天上界の指導者じゃ。世界を脅かす魔王軍を倒し、世界に平和をもたらそうとしておった。それと同時に、世界の変革を願ってたのじゃ。『世界を一つにする』ことこそが真の目的じゃ。その為に、使徒の一人一人に別々の命令を残した。わしの前世は、世界の行く末を記録しろと命ぜられた。他の使徒には別のことを伝えたらしいが、わしら使徒の情報の共有は禁じられ、内容は知らない。それらを総称して、残された人々が聖王の意志と呼ぶようになったのじゃ。そうして五〇〇〇年もの間、何度も転生を繰り返し、記録を続けたのじゃよ。
 使徒の特異は能力。それは、ある儀式による魂の転生。わしの前世らは死期を悟ると儀式をし、それによって自らの命を絶ち、次代に記憶と能力を譲渡してきた。じゃから、わしには他人の記憶が記録として魂に刻まれておるのじゃ。マクリレンのことも当時の戦争も、実感はないが知っておるのじゃよ。その全ての知識を保有し、目的が達成されるまで転生を続けるのじゃろう。
 問題はわしが命を狙われる理由じゃったな。ここまで話せば察しはつくじゃろう。フラット殿の夢で魔王が言っていたとおり、聖王は機関と何かしらの関わりを持っておった。それを知るものは使徒の中でもごく一部で、わしは知らぬ。知らぬがゆえに機関の存在も不確かで、噂に聞く程度じゃ。魔王軍にとって聖王の意志を継ぐ者は憎むべき相手。聖王そのものと言っても過言ではない。五〇〇〇年も経ってもなおその憎しみが消えないことと、使徒への命令に何か関わりがあるのじゃろう。単に聖王と関わりのある者全てが憎いだけかもしれぬが」
 ハバードはやりきれない顔で言い終わると、嘆息した。
「それがハバードを執拗に狙う理由か。釈然としないな」
「説明が足りないのか」
 フラットは首を横に振り、言葉を続けた。
「聖王の意志、聖王を憎む魔族、命を狙われる使徒――理由があるようで不確かなものばかりだ」
「お主の言う通りじゃな。結局、わしは何も知らぬ。世界の行く末を記録したところで何の意味があるのか分からぬ。肝心なことは何一つ分からないのじゃからな」
「神託機関だったか。それが全てを知る鍵になるんじゃないのか」
 フラットが辿り着いた答えは、ハバードもすでに考えていたことだ。彼は力無く頷くと、話を続けた。
「神託機関が今も存在するのか分からぬ。少なくともわしの記録には残されておらぬ。じゃが、情報の共有さえ出来れば答えに近づける。そもそも禁じる理由も定かではなく、聖王の命だという理由だけで頑なに守ってきただけじゃ。そう思ったわしは、聖王の命を破ることにした。そんな折、観測していた異空間に異常が見られたのじゃ。
 わしは早急に手を打つべく、他の使徒の転生者を捜した。世界中を飛び回るが、何一つ情報はない。わし以外は転生できずに死んだのじゃろうか。五〇〇〇年も経ったのじゃ。転生するとはいえ儀式も必要、自らの命を絶つのは自殺のようで気持ちが悪い。わしの前世にも重圧に苛まれ、やめようとした者もおった。こうして知識を繋げては来たが、中には実際にやめた者もいたはずじゃ。不慮の事故で途絶えた者もおる。そう考えて諦めかけた頃、ようやく一人の転生者を見つけた。
 クルンテフ・マクイン・Z・マクリレン。彼は過去の技術を後世に残し、さらに発展させるため研究をしておった。その果てに作られた物の一つがアンドレンじゃ。クルンテフもわしと同じ考えを持ち、転生者を捜したが、見つからなかったそうじゃ。彼の知識にも機関などの謎は残されておらず、わしらは途方に暮れた。お手上げなのじゃよ」
 ハバードの他に転生者がいる。それは転生の現実性を高めた。ハバードの知識が偽物ではないとの証明。同じ時代を生きた者にしかない共通認識。それを確かめていけばお互いが本物であると分かる。それらは、フラットにとっておとぎ話でしかないが。
「未だに機関の情報は無し。だが、魔王軍は何かを知っている」
「そうみて間違いなかろう」
 再びため息を吐くハバード。
「他に聞きたいことはないかね」
 フラットは首を傾げて考え込んだ。すぐに思いつかず、喋り通しで疲れているハバードを見て、首を横に振った。
「そうか。それならもう休むとしよう。ここを知られた以上、いつ襲われるやもしれぬ。夜明け前には出発するぞ」
 フラットが頷くと、ハバードは横になり眠りについた。それを見届けてからフラットもまぶたを閉じた。

「作戦の中止とはどういうことですか」
 黒いローブで全身を包んだ男――シュピールが目の前の人影に対して声を荒げた。普段は冷静沈着な彼も、この時ばかりは憤慨していた。
 人影は低い声で言葉を返した。
「どうもこうもない。貴様の報告に対する上層部の返答がこれだ」
「し、しかし……」
 シュピールは信じられずにいた。ハバード抹殺の任務を失敗したのは自身のミスだ。それを責められるのならば文句はない。だが、その事は一切問われず、一方的に作戦が中止された。理由は明かされていない。
「奴の側にいた男、それが何者か確かめよ」
 人影はただ冷たく言い放った。
 シュピールは何かを言いかけてから口を噤み、引き下がった。これ以上聞いても何も答えはしまい。そう思い、彼はこの場を後にした。
 その背中を見ていた別の人影が二人。一人は大柄の男、もう一人は中肉中背の男。大柄の男が前に出た。
「俺はどうすればいい?」
 図太い声が遠慮無く響いた。
「貴様らは引き続き残党を消せ。近くに潜伏しているはずだ」
「分かったぜ」
 大柄の男は返事をするや否、身を翻して出て行った。遅れてもう一人の男がついて行く。残された人影はそれきり黙り、不敵な笑みを浮かべた。


       2

 夜が明ける少し前、フラット達はハバードの家を後にした。
 夜通し降った雨で地面はぬかるみ、歩きづらくなっていた。その中をハバードが黙々と歩いていく。置いてかれまいと必死について行くが、徐々に引き離されていった。
「ちょっと待ってくれよ」
 助けを求めるとハバードが立ち止まった。
「最近の若造はたるんどる」
「都会育ちだから仕方ないだろ」
「天上界の人間はこの程度で音を上げたりせぬ。戦いの時みたいに根性を出してみろ」
「そんなこと言われてもな」
 そう愚痴ってる間にもハバードに追いついた。
「日が昇るまで出来るだけ遠くに行きたい。お主も無駄に戦いたくは無かろう?」
「そりゃそうだけどさ」
 何を言ってもフラットの苦労は分かるまい。そう思って愚痴るのをやめた。再び歩き出すハバードに、今度こそ遅れまいと早足でついて行く。
 ぬかるんだ獣道にも慣れ、フラットはハバードと併走できるまでになった。
「さっきの話の続きだけどさ」
 ハバードが視線を向けた。
「こっちの世界に来てから体に違和感があるんだ」
「違和感?」
 フラットは頷いた。
「こうやって普通に歩いてると感じないけど、全力で動いたり神経が過敏になったとき、得に戦闘中はいつもの俺とは違うんだ」
「何が言いたいんじゃ」
「俺は自慢じゃないけど運動神経はいい。でも、それは普通の人間としてで、魔物と戦ったり出来るほど強くはない」
「言われてみればそうじゃ。今のお主を見てると、戦闘中、あれだけ激しい立ち回りをしたのが嘘のようじゃ。これではただのへたれじゃな」
「へ、へたれって……」
 さすがのフラットもハバードの言葉にショックを受けた。項垂れながら話を続ける。
「なんて言うのかな……地球では抑圧されてた何かが解放されたような感じだ。想像以上の動きが出来たり、その動きに振り回されたりする。まるで自分の体じゃないみたいなんだ。そして、時々知らない声が聞こえるんだ」
「声じゃと?」
「ああ。その声が聞こえたとき、自分でも信じられない動きが出来る。魔術が使えたときも声がした」
 ハバードは考え込み、それから答えた。
「声については分からぬ。世界が違うからと言って能力に差があるとは思えぬ」
「それなら何で……」
「抑圧されてた――そう言ったな。おそらくそれが答えじゃよ」
 フラットは首を傾げ、ハバードが口を開くのを待った。
「お主の力は何かに封じられておった。何かがきっかけに封印が破れたのじゃ」
「天上界に来たからか」
「そうとは言い切れぬが、可能性は大きい。お主の力は殻を破ったばかりの赤子じゃ。この先、どう化けるか分からぬ」
 ハバードは楽しみと言わんばかりに笑った。実感のないフラットにとっては夢物語でしかない。結局ははっきりとした答えは得られず、頭の奥のもやもやとしたものは残ったままだ。
 日が昇り、一帯が明るくなる頃には整えられた道に出ていた。
 周囲は相変わらず木が立ち並び、遠くまで見通せない。どこまでも自然が続いてる。町中で育ったフラットにとって、なかなかお目にかかれない場所だ。
「ここまで来れば一安心じゃな」
 ハバードが木陰に腰を下ろした。
 振り返ると、目の前にあった山がその形を判別できるほどになっていた。せいぜい一時間ほどの徒歩だが、かなりの距離を歩いたようだ。
 この一ヶ月、学校の行き帰りでしか外に出ていない。あれほど人生を恨み、殻に閉じこもっていたのに、今は外の世界に目を向けている。人とは案外簡単に変われるものだ。そんな自分の変化に感心した。
 理由ははっきりしていた。父がこの世界にいると分かったからだ。おそらく他の二人も。聞きたいことが山ほどある。それよりも何より会いたかった。
「いつまでそこに突っ立っておる」
 ハバードが見上げて言い、側に来るように手招きした。フラットは隣まで歩いていき、幹に背中を預けた。
「お主はこれからどうするつもりじゃ」
 昨日の答えを待っている。天上界を救う旗柱となるかどうかの答えを。
「あれから考えたんだ。自分がどうしたいのか」
 一度言葉を切り、空を見上げた。葉の隙間から光が差し込み、眩しくて手をかざした。目を細めて雲の流れを見た。そんな無意味な動作をしながら改めて考え、話を切り出した。
「結果として魔王軍と戦ったけど、やっぱり引き受けられない。シュピールを前にして恐怖で何も出来なかった。今でも思い出すだけで恐ろしい」
「そう思うのも仕方なかろう」
「だけど、この戦いから逃げられないのもまた事実」
 視線を降ろし、ハバードを見た。
「俺が呼ばれたのには戦い以外に意味があると思う。今は戦えないけど、現状を、理由を知りたいんだ」
 そして強い意志を瞳に宿らせた。
「俺は父さんを捜す。この世界のどこかにいるはずの父さんを見つけて、知ってることを聞き出してやる」
 決意を自分自身に言い聞かせるように、握った拳に力を込めた。
「それがお主の答えか」
 フラットは頷いた。
「俺は何も聞かされていないんだ。夢のことだって、この世界のことだって父さんは知っていた。エブィルの名を継ぐとはどういうことなのか。ハバードの頼みは聞けないけど許してくれ。それが今の俺の精一杯だ」
 ハバードは残念そうにうつむいた。
「お主が決めたことなら仕方ない。これ以上、無理強いはせぬ。エドガルド殿はお主が世界を救うとだけ言っておった。お主が全てを導くと。じゃからわしは、お主の判断を信じるとしよう。案ずるな。天上界はそう易々と屈したりはせぬ」
 覚悟を決めるかのよう頷くと、フラットを見上げた。
「お主の父、エドガルドは空間の歪みの原因を調べると言っておった。それが問題の根源に繋がっておると」
 ハバードは立ち上がり、日が昇るのとは反対を指差した。
「彼はこの大陸の北に向かった。そこから船で西にある大陸に向かったらしい」
「らしい?」
 ハバードは頷いた。
「連絡が取れなくなってのう」
「何だよ、頼りにならないな」
「仕方なかろう。遠くの人間との連絡手段がないんじゃから」
「不便だな」
 電話もないなんて。そう思ったが、口にはしなかった。ハバードとの話から、天上界の文明レベルが低いことは分かっていた。表向きには機械は存在せず、科学がない代わりに魔術が生活の支えとなっている。大きな火を熾したり、船を運ぶ風を吹かせたり、物質の精製も魔術の役割だ。魔術を扱える者は重宝され、博識者として尊敬されている。そういう世界だからか、連絡は人の手に委ねられる。人づてに噂を聞くのすら難しい。
「それでも一つだけはっきりしておる。一番大きな歪みがあるのは世界の中心。そこは古来より神聖な土地で、踏み入れた者は少ないと聞く。わしならば必ずそこに行く」
「どうやって行くんだ」
「一番の近道は真っ直ぐ北に行くこと。じゃが、途中に立ち寄れる島もなく、通る船を全て沈めてしまう魔の海域が待ち構えておる」
「それじゃ、船では行けないのか」
 項垂れるフラットを見て、ハバードは話を続けた。
「それを知っておったからエドガルドは西に向かったのであろう。西から北へ。時間はかかるが、陸路ならば安全じゃ。それはあくまで戦前の話じゃが」
「それでも後を追うしかない」
「そうじゃな。エドガルドが通った道を辿ればその内会える。しかし、気の長い旅になりそうじゃな」
 苦笑い浮かべるハバード。長旅の経験がないフラットには、その笑いの本当の意味が理解できなかった。世界の規模が分からず、飛行機でひとっ飛び、というわけにもいかない。土地勘のある人がいなければ必ず迷うだろう。
 ハバードが共に来てくれると安易に考えていた。それが甘いことだとすぐに気付かされることとなる。
「わしが共に行けるのは北の町までじゃよ」
「どうしても駄目なのか」
「わしにもやることがある。ここに止まり、記録を続けねばならぬし」
 フラットは肩を落とし、しばらく押し黙った。
 自分が世間知らずなのだとつくづく思った。それでもハバードはフラットに期待する。わらにもすがりたいとはこういうことなのか。フラットが世界を救うなど何かの間違いだ。そう思えてならない。
「そう悲観するな。わしも知る限りのことを教える」
「よろしく頼むよ」
 ため息を吐くしかなかった。

 道すがら、この周辺のことをハバードに聞いた。
 ここはハイネンツ大陸。天上界の南部、その中央に位置する大陸だ。
 ハイネンツ大陸は温暖な気候にある。大陸の中央には広大な荒野が広がり、それを挟むように山脈、森、平野がある。その西側の南部にハバードが住む樹海がある。
 西部には二つ国があった。一つがアキサス市国。もう一つがネンツ王国。
 アキサス市国は北端にある港町だ。ここは未だ戦火にさらされていない数少ない町である。情報と商業の拠点だが、戦略的には重要ではなく、魔王軍と事を構えようとしない珍しい国だ。
 ネンツ王国は大陸一の大国家で、規模も戦力も天上界で一・二を争う強国だ。樹海も含めて広範囲を領土とし、幾つもの都市を抱え、非常に栄えていた。だからであろう。その強大な力を恐れた魔王軍は、多くの戦力を投入し、真っ先に攻めたのだ。突然襲来した魔物の軍勢に対して、何の準備もしていないネンツ王国は為す術もなく滅ぼされた。今歩いている道も元々はネンツ王国の中だ。
「それじゃ、ここは危険じゃないか」
 滅ぼされたからには魔王軍の統治下にある。そう考えるのが自然だ。慌てて周囲を警戒するフラットを落ち着かせるように、ハバードが肩を叩いた。
「案ずるな。ここにはもう残党狩りの部隊しか残っておらぬ。主力は他の地域で戦いを続けておるであろう」
 魔王軍の侵略の目的。それは領土を広げることではない。マクリレンの意志を継ぐ者達の抹殺。抵抗する国家、のちに脅威となる国家の滅亡。明確な宣戦布告なき侵略の為、現段階で分かっているのはそれだけだ。
「戦争の真っ只中にある場所よりは安全じゃ。もっとも今や本当に安全な土地は存在せぬ。得に、命を狙われる理由のあるわしらにとってはな」
「本当にいい迷惑だよ」
 すまなそうにするハバード。
「巻き込んでしまったのは事実じゃ。面目ない」
「ハバードが謝ることないって」
 フラットは慌てて手をばたつかせ、取り繕うように言った。
「悪いのは侵略を始めた魔王軍だ。奴らがこんなことしなければ俺は今も平和に過ごせたんだ。それに、一つ気になることがある」
「エドガルドのことじゃな」
 フラットは頷いた。
「父さんはこの状況を予知してたんだと思う。何かの理由で異変を知り、手を講じたんだよ。五〇〇〇年前に戦争が終結したけど、わだかまりは、憎しみは消えぬまま。顔を合わせれば戦争が始まるのは予想できた。そして天上界と魔界は再び繋がった。今の戦争はこれから起こることの始まりかもしれない」
「いずれ三界を巻き込む。そう言っておった。それと関係があるのじゃな」
 再び頷き、フラットはしばらく黙り込んだ。考えにふけり、うつむいたまま呟くように言った。
「今まで他人事のように思っていた。この戦争も魔王軍のことも……」
 顔を上げて空を仰いだ。
「でも、違うみたいだ。巻き込まれて初めて分かったことがある。天上界と魔界、それに地球は元は同じ、一つの世界なんだよな」
 視線をハバードに向けた。フラットの問いに、ハバードは確認するかのように戸惑いながら答えた。
「地球とは地上界の今の名前じゃったな。聞き慣れぬからどうしても迷う。お主の言う通り元は一つじゃった。じゃが、どうやって地球を巻き込むのじゃ」
「方法は分からないさ。でもな、過去にエブィル達がしたことの逆を考えれば想像は出来る」
「と言うと?」
 足を止めるハバード。疑問の眼差しを背中で受けながらフラットは口元に手を当て、間を開けてから振り返った。
「世界を元の形に戻せば、地球も戦場になるだろう?」
 往き来できない今の地球なら安全だ。だが、エドガルドは予言した。それならば起こりうる一つの未来として最悪な状況を念頭に置くべきだ。
「お主の言うことは分かる。じゃが、本当にそんなことが出来るのか」
「その方法があるのかもしれない。無いのかも……でも、全てを分かっていた父が言うんだ。だからこそ父さんに会わなければ……」
 フラットは再び歩き出した。ハバードも遅れて動き出し、隣に並んだ。
「わしも調べてみよう。長年の記録の中に答えがあるやも知れぬ」
「それは助かるよ」

 少しずつ日が傾き始めていた。夕暮れにはまだ時間はあるが、若干暑さが和らいでいた。人通りのない林道を進み、そろそろ疲労が溜まる頃だ。
「そろそろ国境付近じゃな」
 ネンツ王国の北の国境。そこを越えれば魔王軍の襲撃の心配は薄れる。
「日が暮れる前に野宿できる場所を見つけたいのう」
 野宿という言葉を聞き、フラットはあからさまに嫌そうな顔をした。
「この辺に宿はないのか」
「無くはない。じゃが、魔王軍の監視の可能性を考えればやめるべきじゃよ」
「そりゃそうか」
 不用意に人と接触すれば面倒なことになる。狙われてるのは分かりきっている。だからこそ行動は慎重にするべきだ。野宿もやむなし、諦めてハバードの判断に従った。とはいえ、適した場所は見つからず、またしばらく歩き通しになった。
 林道はカーブを描き、先を見通せない場所に差し掛かった。ふいにハバードが立ち止まった。表情が険しくなる。
「どうしたんだ」
 フラットは振り返り、その表情の意味を悟った。背中にまとわりつく気持ち悪い感覚。それが何なのか察するのと同時に悲鳴が上がった。
「今のって……」
 人の声だ。これから向かう道先で誰かが襲われている。それに気付き、ハバードと顔を見合わせた。
「どうするんじゃ」
「そんなの決まってる。困ってる人は見捨てられない」
 そう言うと、すぐさま走り出した。どんどん奥に進み、曲がった道を過ぎると少ししてそれを目にした。
 一台の馬車があった。中には数人の女子供や老人、それを守るようにして数人の男が剣を構えていた。地面には無残に引き裂かれた死体が転がっていた。その一団を取り囲むように多くの魔物が群がっていたのだ。
 守りながらの戦いは明らかに劣勢だ。じりじりと詰め寄られ、今にも馬車が襲われようとしている。
 フラットは腰に下げた剣に手をかけ、走る速度を上げた。しだいに体の感覚が鈍くなる。異様な感覚に包まれるが、それにかまけてる暇はない。
「今から助けるぞ!」
 叫びつつ一団を目前にして地を蹴った。そして魔物に斬りかかるのだった。


       3

 車輪が石に乗り上げるたびに大きく揺れた。そこは全速力で走る馬車の荷台だった。
 大型の小屋型の荷台の中には二〇人近くの男女が乗っている。皆の表情は暗く、うつむいたまま。着込んだ服も所々が破れ、非常に汚れていた。洗濯を何週間もしていないようなみすぼらしさだ。
 その中に、布の外套で全身を隠した人がいた。隙間から時折見える顔は、妙齢の女性のものだ。その顔立ちは非常に整い、気品に溢れていた。緩めれば優しいはずの眼光は鋭く、思い詰めてるようだ。
「エリル様、大丈夫ですか」
 エリルと呼ばれた女性は、頭だけ外套を脱ぎ、声をかけてきた隣の男を見た。男は屈強な体付きをしていた。エリルはけして小柄ではないのに、並ぶと小さく見える。雄偉な顔立ちが、強く男らしさを際だたせていた。
「ええ、このくらいは平気です。ロンメルこそ疲れてるでしょうに」
 隣の男――ロンメル・カスターは首を横に振った。低い声で言葉を返す。
「我々はあなたを守る騎士です。休むわけにはいきません」
 頑なに拒むロンメルに、エリルは呆れ顔で吐息を漏らした。彼女は視線を外に向け、流れる景色を眺めた。
「もうすぐ国境線ね。ここまで何とか無事に来られたけど」
 物思いに耽っていたとき、唐突に馬がいなないた。と同時に馬車が激しく揺れ、乗っていた彼女たちも必然とその揺れに巻き込まれた。掴まる場所もなく、隣同士で支え合った。油断をしていたエリルは倒れそうになるが、ロンメルがしっかり支えた。彼女の頬が少しだけ色づく。
 馬車は急停止し、揺れも収まった。
「どうしたんだ!」
 ロンメルが馬を引く男に言った。男は荷台に顔を向けずに答えた。
「隊長、魔物に囲まれました!」
「何だと!?」
 馬車内が騒然とした。男達は武器を手に飛び出した。
「もうおしまいじゃ」
「せっかくここまで来たのに」
「殺されてしまうんだわ」
 口々に嘆くと、エリルの表情が曇っていく。すぐに顔を引き締め、立ち上がって残された人達を見た。
「心配はいりません。私達が必ず守りますので安心して下さい」
 エリルの力強い声に、嘆いていた人達が黙った。彼らの表情は少しだけほっとしたかのように緩む。
「ロンメル、大丈夫ですね」
「はい。皆さんはけして外に出ないように。それと、エリル様は万が一の時は手綱をお願いします」
 エリルは頷いた。
「頼みましたよ」
 その言葉に背中を押されるようにロンメルは荷台から出た。
 外はすでに戦場と化していた。周囲を多くの魔物に取り囲まれ、男達が剣を構えて対峙していた。
 魔物が飛びかかり、数人がかりで切り伏せていく。だが、数に押されて間合いを狭まれ、逃げ場を奪われていった。そして不意を突かれた数人が魔物に引き裂かれて力尽きた。
「きゃあぁぁぁぁぁぁ」
 その様子を荷台から見ていた女性が悲鳴を上げた。
「このままではいずれ全滅する」
 ロンメルは魔物を切り伏せると、状況を確認して唇を噛んだ。ちらりと横目でエリルを見ると、彼女は頷き手綱を握った。ロンメルは馬車が逃げる道を切り開く為に前に出ると、単身魔物の群れに飛び込もうとした。
 その直前、遠く後方から若い男の声が聞こえた。ロンメルが魔物を切り伏せようと剣を構えると、その横を何かが通り過ぎた。それは一陣の風のようだった。無風だった一帯に風が吹き荒れ、ロンメルは反射的に目を庇った。間髪入れずに複数の魔物が悲鳴を上げる。すぐに風は収まると、魔物の死体の前に一人の少年が立っていた。

 魔物に襲われる一団。フラットは彼らを助けようと全力で走った。視界に戦況を捉え、一番手薄で危険な場所を探した。馬車の前で一人の屈強な青年が多くの魔物と対峙している。そこに狙いを定めた。
 馬車の横を通り過ぎ、青年の前に立つと、魔物の群れに切り込んだ。突然の襲来に反応できずにいる魔物に一閃すると、振り向きざまに側にいたもう一匹を倒した。身を翻して地を蹴ると、さらにもう一匹を切り伏せた。
 即座に立ち直る魔物達と距離を空け、フラットは剣を構えた。
「お前はいったい……」
 背後から聞かれたフラットは意識を魔物に向けたまま答えた。
「俺はフラット。通りがかりの人間だ」
 そんな答えでは納得できない青年が疑惑の眼差しを向けた。
「そのお前が何で助けてくれるんだ」
「話は後にしろ。今は魔物を倒すのが先だ」
 少なくとも敵ではない。それだけは伝わったのか、青年は頷いた。青年はフラットの隣に並ぶと剣を構えた。
「俺はロンメル。助力に感謝する」
 フラットは口の端で笑うと、再び魔物の群れに飛びかかる。同時にロンメルも地を蹴り斬りかかった。
 フラットは動き出した魔物に肉薄する。瞬時に間合いを詰めて一閃。一撃で切り伏せると、後方に跳んで横からの攻撃を躱した。すかさず地を蹴り、躱されて前のめりになる魔物を切り伏せた。
 気付けば魔物に囲まれていた。逃げ場を失ったフラットに同時に飛びかかる。フラットは迷わず前進すると、魔物の攻撃よりも早く一匹を倒した。剣先に意識を集中させると、振り返り回転するようにして横薙ぎにした。
 空間が切り裂かれ、そこから衝撃波が外側に広がった。近くの魔物は切り裂かれ、遠くの魔物は風圧に負けて吹き飛ばされた。すかさず地を蹴ると、宙を舞う一匹の魔物を切り上げた。その両隣の魔物を一瞬で切り伏せると振り返った。
 衝撃波で切り裂かれて悶絶していた魔物達が起き上がる。宙を舞う魔物と戦っている間に間合いを詰め、フラットに襲いかかろうとしていた。
 魔物が振り上げた腕をぎりぎりで躱しつつ踏み込み、一閃。横に迫ってきた魔物を横薙ぎにすると、上から飛びかかる魔物の攻撃を受け流した。捌きつつ剣を片手で持つと、体を回転させて空いた手で裏拳を食らわせた。吹き飛ばされる魔物に迫り、切り上げてとどめを刺した。
 その頃にはロンメルも視界に映る魔物を全て切り伏せていた。ロンメルは急ぎ馬車の裏手に回ろうと走り出した。その足をフラットが止める。
「仲間がまだ戦っている。邪魔をするな!」
 ロンメルが憤怒の形相でフラットを睨む。フラットはたじろがず、真っ直ぐにロンメルを見据えて言った。
「向こうは大丈夫だ。今頃俺の連れが助けに行ってるはずだ。それよりも先にすることがあるだろ?」
 フラットは視線を馬車に向けた。そこには手綱を握ったまま心配そうにこちらを見る美しい女性がいた。
 ロンメルははっとして女性の下に駆け寄った。
「エリル様、ご無事ですか」
 その女性――エリルはほっとして頬を緩ませた。
「私は大丈夫です。ロンメル、あなたも無事で何よりです」
「いえ、この程度はどうってことありません。それに、彼が助けてくれました」
 ロンメルがフラットを指差した。フラットは軽くお辞儀をする。
 エリルはみすぼらしい外套の下に、軽装ではあるが立派な服を着ている。隠しきれずに醸し出される高貴な雰囲気、佇まいがよりいっそう近寄りがたく思わせる。苦手な人種だと感じたが、エリルに手招きされ、フラットはとぼとぼと歩いていった。
「何者か知りませんが、助力を感謝します」
 丁寧な口調だが、毅然とした態度は緩めない。麗しい姿と相まって、近寄りがたさが際だっていた。
「あ……うん……」
 フラットは緊張して言葉を詰まらせた。
「楽にして下さい」
 エリルが微笑むと、その横でロンメルは不機嫌そうに顔をしかめた。
(なるほど、そういうことか)
 一見、二人の間にあるのは主従関係にあるようだ。エリルに使える騎士、だろう。だが、それ以外にもロンメルには内に秘めた思いがある。フラットはそれを感じとった。とはいえ、追求はしなかった。これ以上関わる気はないからだ。
「なんとお礼を言っていいものか」
「気にしないでくれ。当然のことをしただけだ」
 エリルは首を横に振った。
「それでも助けられたのは事実。ぜひ名前を聞かせて下さい」
「俺はフラットだ。えーと……」
「エリルです。エリル・アデラスタル」
「エ、エリル様!?」
 なぜかロンメルが慌てた。エリルは名前を教えただけだ。それなのにこの慌てようは何なのか。フラットは首を傾げた。
 エリルは間に割って入るロンメルを制した。
「心配はいりません。この方は私達のことを知らないようですから」
 そう諭され、ロンメルはしぶしぶ身を引いた。疑惑の眼差しをフラットに向けたまま。その反応が気にくわないが、フラットは表情に出さなかった。
「私達は訳あって魔王軍に追われています。全滅する覚悟をしていましたが、おかげで助かりました。フラットさん、ありがとうございます」
 エリルが深く頭を下げた。慣れない反応にフラットは慌てた。
「おいおい、十五の若造にそこまでかしこまるよ」
「そんなに若いのですか!」
 エリルが目を丸くした。
「若いとは思ってましたが、十五才であれほどの戦いが出来るなんて驚きました」
「そうなのか」
 フラットは驚く理由が分からず、また首を傾げた。エリルが不思議そうに笑う。
「ええ。私も多少は心得があるので分かります。このロンメルよりも実力は上かもしれませんね」
 そう言ってエリルがロンメルを見ると、彼はそっぽを向いた。その冷たく映る反応に、エリルの顔が曇る。
(お互いに素直になれないのか)
 そんなことを考えていると、馬車の後ろから聞こえていた銃声やら悲鳴がやんだ。一人の男がフラット達の側に来た。
「隊長、敵は沈黙しました」
 その男はロンメルよりも明らかに年上だ。その彼が背筋を伸ばし、尊敬の念をロンメルに向けていた。
「ご苦労だった。被害状況を報告しろ」
「はっ。死傷者は七名。内三名が死亡。しかし、ご老人らに助けられてからは無傷ですみました」
「老人?」
 ロンメルが怪訝な顔をし、視線をフラットに向けた。
「例の連れか」
 フラットは頷いた。
「ハバード達が上手くやってくれたようだな」
 遅れたことで死者を出したが、この上ない出来だ。フラットはほっとして警戒心を緩めた。その横でエリルが驚きの表情を浮かべていた。
「……ハバード」
 ぼそっと呟いた。ちらりとその様子を窺うフラット。
「そのご老人方をこちらへ」
 エリルに促され、男は表情をきりっとさせてきびすを返した。すぐに数人の足音と共にハバード達が来た。
 ハバードがフラットを見ると、すぐに口を開いた。
「そっちが片付いたのなら加勢に来ぬか。おかげでわしはくたくたじゃ」
「ごめん。アンドレンもいるから平気だと思ってな」
 憎まれ口を叩く余裕はあるようだ。それを聞いて安心した。ハバードはフラットよりも強いから心配する必要はないが。
 エリルの顔がさらに曇っていた。彼女に気付いたハバードが驚き、しばらくして跪いた。突然のその行動にフラットは眉根を寄せる。
「こんなところでお会いするとはのう。お元気そうで何よりじゃ、姫様」
「ひめさま!?」
 フラットが素っ頓狂な声を出した。驚くのも無理はない。姫という種類の人間に会うのは初めてだからだ。なれなれしい態度を悔やむが、それを気にする人は一人もいなかった。
「ハバード・イジェフスク」
 エリルは声を押し殺して言った。そこにあるのは憎しみのように感じられた。彼女は悔しがるように唇を噛んだ。
 フラットは二人の間に割って入った。
「どういうことなんだ。二人は知り合いみたいだけど」
 事情は分からないが、二人の間にはクッションが必要だ。その考えがロンメルにも伝わり、彼は崩れ落ちるエリルを支えた。
「どうして今頃現れるの。あなたがいない間にこの国は……」
「申し訳なく思っておる」
「それならどうして!」
 エリルは悲痛の叫びをハバードに向けた。その反面、ハバードはほとんど感情を表に出さない。彼の拳は強く握られている。
「あのさ、話が見えないんだけど」
「俺もです。どういうことですか、エリル様」
 ロンメルも状況が理解できず、困惑していた。エリルは首を横に振り、それきり頑なに口を結んでる。
「それはわしが話そう。良いな、姫様」
 エリルは肯定も否定も示さない。それを肯定と取ったハバードが語り始めた。
「あれから十一年になるかのう。思えばずっと昔のようじゃな」

 今は滅びてしまったネンツ王国。そこにいた少女と老人の話。
 少女の名はエリル・アデラスタル。ネンツ王国第一王女にして第一王位継承権を保有する者。幼き頃から王位を継ぐ為の教育を受け、その可憐さと優しさで国民の中でも人気者となっていた。
 老人の名はハバード・イジェフスク。非公式にはマクリレンの意志を継ぐ者だが、その事を知る人はいない。表の顔はネンツ王国お抱えの宮廷魔術師。膨大な知識を持つ知略に長けた者で、王族や多くの家臣達から全幅の信頼を受けていた。
 ハバードはエリルの正式な教育係ではないが、幾度となく相手をしてきた。エリルからも信頼され、「おじいさま」と慕われていた。
 他のマクリレンを捜すには仕事は続けられない。そう判断したハバードは、六四才という高齢であることを理由に宮廷魔術師の座を降りた。表向きは隠居して山にこもり一人暮らし。本腰を入れて調査を始めた。
 エリルは遊び相手を失い、寂しがった。時は流れ、ネンツ王国は魔王軍の襲来を受けて滅ぼされた。
 ハバードがいれば。ネンツ王国でも一番の実力者の彼がいれば状況は変わっていた。エリルは常々そう思っていた。そんな時、ハバードが目の前に現れた。以前の実力を宿したままの姿で。

「これ以上の話は後にしましょう。皆、疲れています」
 ロンメルが口を挟んだ。彼は馬車の荷台を指差していた。女子供、年寄り達は疲労困憊のようだ。
「休めるところはないのか」
 土地勘が皆無のフラットはハバードに聞いた。
「そうじゃな……もう少し行けば小さな農村がある。滅ぼされてなければよいが」
 心配はもう一つある。魔王軍に狙われてる人間が揃って行けば、間違いなく迷惑をかけてしまう。それだけは避けたかった。だが、ここにいる人のほとんどが神経をすり減らし、今にも倒れそうだ。
「四の五の言う余裕はありません。その村に立ち寄りましょう」
 そのロンメルの判断に任せて近くの村に向かった。それから村に着いたのは日が落ちてからだった。


 第四章 襲撃


       1

 十一年と少し前。
 エリルは十三才の少女だった。遊びたい盛りだが、ネンツ王国唯一の世継ぎとして勉学に励んでいた。彼女は頭が良く、教えることをどんどん吸収していった。ただ、一つだけ問題があった。
 子供なのだから当然なのかも知れない。かなりのお転婆娘で、よく城を抜け出していたのだ。城の者達はいつも見つけられず、ほとほと困っていた。一人を除いて。
 その日も忙しい勉強の合間を縫って城を抜け出していた。少年のような装いに安物のコートを羽織り、兵士の目を盗んで城外に出る。国民に顔を見られぬように注意しながら町を出ると、城の裏手に回った。そこから一気に丘を駆け上がる。息を切らせながら頂上に着くと、眼下に広がる町並みを見下ろした。
「うわぁ、すごいね」
 大きくて荘厳な城に、立ち並ぶ家々。その周りには草原があり、目を凝らすと海や山も見える。行き交う人々の姿を想像し、それらが将来自分が守る物なのだと再認識した。この年にして王位継承者としての自覚が少しは芽生えていた。
「そうじゃろ」
 エリルの感嘆の声に誰かが応えた。それを聞いても彼女は驚きもせず、満面の笑顔を声の主に向けた。
 すぐ側に立つ大きな木。その傍らで、初老の男がくつろいでいた。その手にはめまいがするほど分厚い本がある。
「いらしたのですね、おじいさま」
 軽い足取りで男に近付いていった。
 男の名前はハバード。老人には変わりないが、今より若干若々しい。ハバードはネンツ王国の宮廷魔術師で、国一番の魔術の使い手だ。加えて、六〇代とは思えないほどの体術を兼ね備え、彼の右に出る者はいない。
「わしがいるのを分かってて来たのじゃろ」
「えへへ」
 片眉をつり上げて言うハバードに、エリルは笑ってごまかした。
 ハバードは城の人間だ。見つかれば城に戻されるはず。その危険があるのに、慌てることもなく逃げずにいるのには理由があった。彼はある意味共犯者だからだ。
「おじいさまはどうしていつもここに来るのですか」
 ハバードは目の前の景色に視線を戻した。
「世界を見通せるからじゃよ」
「世界を……ですか」
 不思議がるエリル。ハバードは頷いて答えた。
「悩んだりするとどうしても気持ちが塞ぎ込むじゃろ。そういう時は広い場所に行って、先が見えないほどの遠くを見るのじゃ。さすればどんな悩みも些細なことに思えてくる。こうして景色を見るとな、世界を見てる気分になれるのじゃよ」
「うーん、よく分かんないや」
 エリルは首を傾げた。
「姫様も成長なされば分かる日も来るじゃろう」
 そう言ってハバードは笑った。エリルもつられて笑顔になる。
 ハバードは昔からよくこの丘に来ていた。いつからかは知らないが、エリルが初めて丘に来たときもこうして本を片手に微睡んでいた。エリルは勉強が嫌で逃げ出して来たのだが、先客がいることに驚いたものだ。
 見知らぬ老人に、城に連れ戻される。そう思ったエリルは慌てて戻ろうとして引き止められた。ハバードはエリルのことを知っていて、逃げ出した理由を聞かれた。仕方なく正直に話すと、熱心に聞いてくれた。けしてしかりはせず、優しく説き伏せてくれる。そんなハバードをエリルは慕うようになった。
 城に戻り、エリルはさらに驚かされた。ハバードは宮廷魔術師だったのだ。ハバードは丘の上の密会を誰にも話さずにいた。それどころか、それからも話し相手になってくれた。嫌なことがあると城から逃げ出し、丘で会う。こうして脱走の共犯者となった。
 ある日、あることがどうしても上手に出来ず、ハバードに相談した。
「なるほど、姫様にも苦手なことがあったのじゃな」
 エリルは首をふるふるとさせた。
「苦手なことばかりなの。でも、皆の前じゃ、弱音も言えなくて」
「本当にしっかりした子じゃな」
 ハバードが優しく笑いかけてきた。この老人のこの顔を好きで、エリルは何でも素直に話した。
「魔術が上手に出来ないのじゃったな。難しい話になるが、良いな?」
「うん」
 声が跳ね上がる。そんなエリルを見てハバードは何度も頷いた。
「魔術とはそもそも自然を利用した技術じゃ。風を読み、水の音を聞き、木々の息吹を感じる。それらの自然の力を活用して大きな力を得る。元来魔術とはそういうものじゃ」
「誰にでも使えるの?」
「基本的なことはな」
 それを聞いてエリルは目を丸くした。
「へぇ、そうなんだ。素養のある人しか使えないって先生が言ってたよ。だからとても特別な力だって」
「そういう考え方もある。じゃがな、魔術が特別な物になったのは、わしらが魔族に出会ったからじゃ。魔族は知っておるな」
 エリルは頷いた。
「ずーっと昔にご先祖様と戦った悪い人達でしょ。すっごい力を持ってたって」
「その通りじゃ。じゃが、それよりも昔は仲の良い隣人じゃった。魔族は自分の力、魔力を消費して力を増幅していた。それを魔術と呼称し、誰にでも使える物と区別したのじゃ」
「それじゃ、今言われてる魔術は魔族だけの力なの?」
 ハバードは首を横に振った。
「魔術は技術じゃ。彼らは魔力を利用していたが、それも技術。個人差はあるが、魔力は誰もが持つ力。その大きさの違いを素養と考えておるのじゃよ」
「ふーん、そうなんだ。誰にでもある力なのね」
 理解したような、していないような、不思議な気分だった。でも、エリルの悩みは別の所にあった。
「何度やっても駄目なの。私には素養がないのかな」
 失敗するたびに専属の教師にしかられる。そんなことを繰り返して、すっかりやる気を失っていた。
「素養は遺伝することが多い。姫様のご家族はどうなのかな」
「うーん、どうだったかな……お父さまもお母さまも出来ないみたいだし」
「それならばわしからその旨を申し出てみよう。じゃが、少しは練習してからでないと納得せぬじゃろう」
 ハバードが不敵の笑みを浮かべたので、エリルは慌てて逃げ出した。だが、いくら走っても丘を駆け下りることが出来なかった。ハバードが魔術でエリルの体を浮かせたからだ。足をばたつかせると、バランスを崩してひっくり返った。
「何をするの!」
 エリルは逆さまのまま頬をふくらませた。そんな彼女の周辺に風を起こし、ゆっくりと体を戻した。
「わしに教わって出来なければ皆も諦めるじゃろう。形だけそうすればよい。もちろん優しく教えるつもりじゃ」
 エリルは地面に足を着けながら、疑惑の眼差しをハバードに向けた。
「本当に?」
「本当じゃ」
「怒らない?」
「怒るものか」
 エリルの顔がぱっと明るくなった。
「うん、それならいいよ」
 嬉しそうに笑うエリル。そんな彼女がハバードは好きだった。本当に孫が出来たみたいで嬉しかったのだ。
 そんな密会を誰にも知られずに続けた。だが、終わりは訪れた。
 二人の密会は、本当は密会ではなく、だいぶ前から国王は知っていたのだ。ハバードが報告していたことを後で知った。それを恨みはしなかった。恨もうにも、エリルの前からハバードはいなくなったから。
 エリルは何の相談も受けていなかった。いつもハバードに助けて貰っていたから、いつか助けになりたい。子供ながらそう思っていた。それなのに。
 ハバードが城を去る日、エリルはその事実を初めて知り、泣きじゃくった。父に当たり、母に当たり、城のみんなに八つ当たりした。そして、帰らないつもりで城を飛び出した。
 夜の町をさまよい、外でぼうっとし、行く場所が無くなると、結局はいつもの丘に行った。そこには変わらずハバードがいた。
「……して……」
 泣き続けで涙は涸れ、顔がくしゃくしゃになり、掠れて声も出ない。それでもハバードをじっと見た。
「やはり来たのう」
 いつもの調子で言うハバード。そんな彼に、エリルは飛びついた。
「どうして行っちゃうの! 何でいなくなるの?」
「…………」
 黙ったままのハバードの胸を何度も叩いた。
「何で黙ってるの? 私のことが嫌いになったから? それならそうって言ってよ!」
 ハバードは静かに首を横に振った。
「違うんじゃよ」
 そう言うと、再び口を閉じた。エリルの目から涸れたはずの涙が滲み出てきた。そんな彼女をそっと抱きしめた。
「うわーーーーーーーーーーーーん」
 エリルはハバードの胸にうずくまり、声に出して泣いた。必死に振り絞った。ハバードを引き止められない。自分がどれほど子供なのか、どれほど無力なのか思い知らされた。自分はハバードが止まる理由になれない。その事実に打ちのめされ、ただただ悲しみをぶつけた。
 ハバードはエリルが泣き止むまで待ち続けた。エリルは落ち着くと、恥ずかしそうにして横にちょこんと座った。
「どうして話してくれなかったの、お仕事を辞めること」
 普段の優しい口調に戻っていた。
「話せば悲しませると分かっておったからのう」
「それでも教えて欲しかった。相談して欲しかった」
「すまんのう」
 ハバードは本当に申し訳なさそうにしていた。
「どうしてお仕事を辞めるの?」
「もう年じゃからな」
「それは嘘。知ってるよ、おじいさまは誰よりも強いって」
 エリルはハバードをじっと見た。ハバードは困ったように苦笑いした。
「姫様には敵わぬな。確かに負ける気はせぬ。じゃがな、そろそろ自分の時間が欲しいのじゃよ」
「今でも十分暇でしょ。しょっちゅうここにいるんだから」
「ははは、その通りじゃな」
 ハバードはけして真実を語らず、そうやって話をそらし続けた。いい加減、追及するのに疲れ、エリルは諦めた。
 エリルはハバードが好きだ。本当の祖父だと思って慕っている。だからこそ彼の好きなようにさせたいと思った。たまには会いに来るという彼を信じ、快く送り出した。それからも丘の上に来たが、ハバードに再会する日は訪れなかった。
 十一年が経ち、エリルは二四才の大人の女性に成長した。結婚する年齢はとうに越えたが、未だ独身でいる。初恋(?)の相手が忘れられないとかそういう女々しい理由ではない。
 好きな人は出来た。一つ年上で、とても優しくて強い人。でも、身分が低い人だから望んでも叶わないかも。父が許さないだろう。
(違う。私が怖いだけ)
 せめてずっと側にいて欲しい。その一心で気丈に振る舞い、縁談を断ってきた。ハバードがいれば良い答えを授けてくれるはず。でも、彼はいない。
 そうやって時折ハバードを思い出しては悔やんだ。ぽっかり穴が開いたような、そんな感覚に苛まれた。
 エリルの悩みを知ってか知らぬか、国民は優秀な跡継ぎをもてはやした。美しくて優しい、誰もが憧れる女性。その期待に応えようと努力した。努力したけど、無理をし、神経をすり減らし、疲れていた。
 そんな時、ネンツ王国を大事件が襲った。今から一ヶ月前のことだ。
「どういうことだ。報告は明瞭にしろ」
 国王の怒声が響き渡った。慌てふためく兵士はそれで落ち着き、報告しなおす。
「国内に異形の生物の大群が出現。我らがネンツ城に向けて進軍を開始しました。報告によると、かつて天上界を震撼させた魔物と推測されます」
「魔物か。文献通りだな」
 国王は立ち上がると、兵士に命令を下した。
「全軍を率いて魔物を殲滅せよ。それらは世界を脅かす魔王軍の先兵だ。必ずや討ち滅ぼすのだぞ」
 そして、僅かな兵士を城に残して魔物達と戦った。だが、徐々に押し切られ、ネンツ城と城下町を残すのみとなった。
 国王は苦渋の決断を迫られた。
「エリルよ、お前は逃げるのだ」
「嫌です。私も戦います」
「ならぬ!」
 嫌がるエリルを一喝した。諭すように言葉を続ける。
「この国は滅ぶ。魔王軍に滅ぼされる。そして、次は全世界を狙うだろう。お前はこのことを知らせるのだ」
「で、でも……」
 国王は首を横に振った。
「私のことはもういい。だが、エリルには生きて貰いたい。生きていつの日かネンツ王国を復興させてくれ。それが唯一の願いだ」
「お父さま……」
 エリルは泣きそうになりながらも必死に涙を堪えていた。国王は視線を隣のロンメルに向けた。ロンメルは跪き、二人を見上げていた。
「ロンメルよ、エリルを頼んだぞ」
「はっ。この命に代えても必ず守り通します」
「うむ。貴公ならば心配はない。必ずや任を果たせ」
 視線をエリルに戻した。
「もしハバード殿に会うことがあれば伝えてくれ」
 エリルは目を丸くした。
「おじいさまに――いえ、ハバード様にですか」
 まさか父の口からハバードの名を聞くとは。エリルは困惑し、同時に悔しさがこみあげてきた。ハバードがこの場にいれば良い策を考えてくれるはず。ネンツ王国が危機に瀕することはなかった、と。
 エリルは唇を噛み、握る手に力がこもる。そんな彼女の手を国王が包み込むように握った。そして首を横に振る。
「ハバード殿を責めるな。彼には彼の使命があるのだ。その為にこの城を去った。聞き分けてくれるな?」
 エリルは国王を睨んだ。
「お父さまはいつもそう。何でも知っていて私を見透かす」
 エリルは吐息を漏らし、肩を落とした。
「何を伝えればよいのですか」
「いつも娘の面倒を見てくれてありがとう。父として礼を言いたい、と」
「はい」
 それが親子の最後の会話となった。ロンメルと数人を引き連れて城を抜け出し、しばらく行ってからネンツ城が落ちたことを知った。なぜ最後に親子らしいことを言えなかったのか。なぜ最後まで親孝行が出来なかったのか。今さら後悔しても遅い。
 そして逃亡生活が始まり、ハバードに再会した。十一年という月日を感じさせないハバード。七五才とは思えない若々しい姿を見て、以前の日々の記憶が蘇った。だけど、再会を素直に喜べない。それほどエリルの心はすさんでいた。


       2

 夜が更け、ようやく厳しい暑さから解放された。夜風が思いの外涼しく、心地がよい。虫の羽音が響き、夏の終わりが近付いてきてるのが感じられた。少し前まで真冬だったのが嘘のようだ。
「ここは南半球だったな」
 地球の暦では二月の終わり。フラットの住む地域は北半球にあるから、こことは季節が正反対だ。
「天上界も同じ、ということか」
 そんな類似点に今さら気付いた。今まで考える余裕がなかったからかも知れない。
 ここはネンツ王国の北にある小さな農村だ。宿場町とは違い、林道から外れ、奥まった場所にひっそりとあった。人口も少なく、他との関わりも滅多にない。こんな場所があることにネンツ王国の民すら驚いていた。
 村人は突然の来客に驚いたが、快く受け入れてくれた。いくつかの部屋を与えられ、皆ほっとしていた。数日間の逃亡で神経をすり減らした彼らにとって、ようやくの休息だ。だが、この辺りにいることが魔王軍に知られたのは間違いない。そう思い、今後の対応を話し合うことにした。
 その際にハバードとエリルの関係について詳しく聞いた。エリルはネンツ王国の王女であり、ハバードと旧知の仲。二人の口から話を聞き、一番驚いたのはロンメルだった。
「俺は入れ違いで騎士になったので、直接お会いするのは初めてです。ただ、高名な方だと聞き及んでいます」
「ただの隠居老人じゃよ」
「いえ、そのお力は健在のようにお見受けします」
 王女に仕えてるだけあって言葉遣いが丁寧だ。礼儀正しくもあり、出来た人間のようだ。ハバードは苦々しく否定していた。
「ハバードは有名人だったのか」
 フラットが感心していると、ロンメルが目を丸くした。
「共にいて知らないのか」
「俺も昨日会ったばかりだ。詳しいことは聞いていない」
 ロンメルがハバードに視線を向けると、ハバードは頷いた。いまいち状況が理解できず、ロンメルは首を傾げるばかり。
「そういえばエリルは?」
 フラットは周囲を見回した。さっきまで部屋にいたのに、エリルの姿が見当たらない。
「気になるのか」
「うーん、まあ……」
「惚れたのじゃな」
 突拍子もない発言に、フラットは口に含んだ紅茶を吹き出した。
「な、何を言うんだよ。確かに綺麗だけどさ」
「動揺しおって。まだまだ若いのう」
「勘弁してくれよ。ああいうタイプは苦手なんだ。それに――」
 ロンメルをちらりと見た。
「先約がいるようだし」
 顔をしかめるロンメルの手前、滅多なことは口に出来ない。ぼそっと言うと、ハバードに視線を戻した。
「エリルはハバードを避けてるんだな」
「嫌われておるじゃろう。わしは約束を破ったのじゃからな」
 ハバードは後悔の念に囚われている。それでも仕方ないのだと自分に言い聞かせているようだ。だが、おそらくエリルは気持ちを表現できずにいるだけ。だとすると、第三者が背中を押さねばなるまい。
 フラットは席を立ち、ロンメルを呼び寄せた。ハバードが不審がることに気付きながら距離を置き、耳打ちした。
「二人を仲直りさせたい。協力してくれよ」
「どうして俺が――」
「老人に焼き餅を妬くなよ。それに、エリルの笑顔を見たいだろ」
 ロンメルは驚き、頬を染めてうつむき、頷いた。
「それがエリル様の為になるのなら」
 フラットに手玉に取られたことを不満に思っただろう。それ以上に、同意の気持ちが大きいようだ。国王の口からハバードの話を聞いたときもハバードと再会したときも、エリルは辛そうだった。それを思い出したからか、ロンメルが苦々しい顔をする。
 問題はその方法だ。悩んでいると、いつの間にか背後にハバードがいた。
「うわっ、何だよ」
 フラットは仰け反った。
「余計なお世話じゃよ。自分でどうにかするわい」
「大丈夫なのか」
「何度も言わせるな。若造に心配されるほど落ちぶれてはおらぬ」
 ぶつくさ言いながら部屋を出て行った。去り際にもう一言残して。
「すまんな」
 意外な言葉にフラットは唖然とした。ハバードの背中が見えなくなると、横にいるロンメルに視線を向けた。
「お礼を言われたのか」
 その事実が信じられず、ロンメルに確かめた。彼は苦笑して答えた。
「そのようだな」

 時折、村を包む静寂。
 風が吹くたびにかすかになびく木々。
 家屋から漏れるほのかな明かり。
 村の外でエリルはたたずみ、夜空を見上げていた。
 ネンツ城を飛び出してから、こうしてのんびり出来るのは初めてだ。だが、こうして一人でいると、非常に心細かった。あの日、彼女の家族は失われたのだ。別れ際の父親の姿が鮮明に浮かび上がり、涙が滲み出てくる。
「どうしてこんなことになったの」
 悔やんでも悔やみきれない。一番辛いのは自分が無力だと思い知らされたこと。立派な王女ともてはやされても、肝心なときに逃げ出したのだ。そんな彼女に国王は国の再興を託した。
(私には出来ないわ……でも……)
 自分がするしかないことも分かっていた。
 辛さを紛らわそうと誰かを憎んだ。魔王軍を、ハバードを。これほど醜い感情が自分にあることに愕然とした。
 どうしてこんなことに。
 ずっと考えていたが、答えは出なかった。
 外に出てしばらく経つ。
「ロンメルが私を捜してるかしら」
 見つけられる前に心を落ち着かせねば。遠くから足音が近付いてきたことに気付き、慌てて表情を取り繕った。だが、現れたのは予想外の人物だった。
「満月は明日かのう」
 しわがれてるのに覇気のある声、落ち着いた口調。忘れるはずがない、本心から慕っていた大好きな人の気配。
 横に並ぶハバードを見て、エリルは複雑な表情をした。懸命に憎もうとしたものの、蘇る記憶がそれを邪魔した。どんな顔をすればいいのか分からなくなった。
「すまんのう」
 謝るハバードを見て、気持ちが溢れ出した。子供の時のように抱きしめて欲しい。無性にそう思ったが、必死に堪えた。もう子供ではないのだ。
「父から聞きました」
 何とか絞り出すも、それ以上は言葉が続かない。
(どうして肝心なときに何も言えないの?)
 悔しくて唇を噛んだ。
 言いたいことはたくさんある。でも、声が出なかった。せっかく再会できたのに、素直に言葉に出来ない。
 顔をしかめるエリルの肩に、ハバードの手がそっと触れた。
「無理せずともよい」
 優しい言葉が胸に染みこむ。エリルの目から涙がこぼれ落ちた。
「……っ、おじいさま!」
 ハバードの胸に飛び込んだ。崩れるようにして身を預け、声を出して泣いた。ハバードの温もりを感じ、気持ちが抑えられなくなる。
 エリルが泣き尽くすまで、ハバードは黙ったまま彼女の体を支えた。
「以前もこんなことがありましたね」
 エリルは恥ずかしそうにうつむき、ハバードの隣に腰を下ろした。
「そうじゃな」
 あれは十一年前。ハバードがエリルの前から去る日。
「おじいさまは私が嫌いなんだって……困らせてしまって……」
「姫様はお変わりになってないのう」
「ごめんなさい」
 暗がりでも頬が染まるのが分かる。それほど恥ずかしい思い出のようだ。
「すまんのう。約束を破ってしまって」
「それはもういいんです。こうして会えたのだから」
 エリルは嬉しそうに微笑んだ。
「あれからどうしてましたか」
 ハバードはうつむき、マクリレンに関わること以外を話して聞かせた。
 友人を捜して世界を回ったこと。フラットの父エドガルドの世話になったこと。フラットをアキサス市国に送り届ける最中なのだと。
 エリルはハバードの話を真剣に聞いた。こうしていつもハバードの話を聞いていたことを思いだした。
「姫様はどうなんじゃ」
 ハバードに問い返され、エリルはまたうつむいた。
「あれから色々とありました。勉強は辛いけど、愚痴をこぼせる相手はいない。王女であろうとすればするほど重圧に負けそうになりました。ですが、いつかおじいさまに会えると信じて頑張りました」
 決意に満ち溢れる顔をするエリル。
「それだけじゃなかろう」
「え?」
 エリルは困惑した。だが、にやにやするハバードの言わんとすることをすぐに理解し、頬を染める。
「はい……恋を……してます」
「それが今も独身でいる理由じゃな」
 エリルは頷いた。ばつの悪そうな顔をする。
「王女なのに変ですね。もう二四才になるのに結婚もしない、跡継ぎもいないなんて」
「そんなことはない。今の姫様はとても綺麗じゃぞ」
 かっと赤くなるエリル。彼女はあたふたとする。
「して、相手はあの若者かね」
「!?」
 誰を指しているのかを瞬時に察し、エリルは言葉を失った。それを肯定と取ったハバードは、エリルが観念するのをじっと見つめて待った。
 しばらくしてエリルが項垂れる。
「おじいさまは何でもお見通しですね……その通りです」
「なかなか立派な若者じゃ。姫様を本当に慕っておるようじゃし」
 それを聞き、エリルが目を丸くした。そして首を横に振る。
「あの方は主従関係が崩れるのを恐れてます。私の気持ちに気付いてるはずなのに」
「エリル様は王女。対等になるのは難しいじゃろう」
「分かってます。分かってますけど……」
 エリルは押し黙った。彼女の辛そうな表情に、ハバードは聞くのをやめた。
 二人の間に沈黙が流れる。
 先に口を開いたのはエリルだった。
「ごめんなさい、ネンツ王国を守れなくて」
 申し訳なさそうにするエリルに、ハバードは首を横に振って言った。
「仕方ない。予期せぬことじゃったからな」
 それも慰めにはならなかった。エリルの表情が曇る。
「父から聞きました。おじいさまはこの地を救おうと尽力なさっていたと。それも知らずに随分酷いことを言いました」
 ハバードは何も答えない。
「父はあなたにありがとうって。私の面倒を見てくれたことにお礼を言いたいって。そんな父も亡くなりました。もう私には何も残されていない。そう思うとやるせなくなります。でも、こうしておじいさまに会えました」
 エリルの目に決意が宿る。
「ネンツ城は落ちました。そんな今だからこそおじいさまの力を貸して頂きたい。魔王軍の手からこの地を救いたいのです。父亡き後、その意志を継いでネンツ王国を再興させたいのです」
 ハバードと話せて、その決心がついた。そしてつくづく思う。自分はまだ子供なのだと。支えがなければ一人で立てぬ未熟者なのだと。
 そんなエリルの気持ちを見透かすかのように、ハバードは憐れみの目を向けた。
 エリルの表情が再び曇る。
 ハバードは悲しそうにエリルを見た。
「悪いことは言わぬ。魔王軍と戦おうなどと思わぬことじゃ」
 ハバードに拒絶され、エリルは愕然とした。信じていたものに裏切られたような、悲痛の叫びがうかがえた。
「どうしてですか!」
 必死に冷静を取り繕うが、気持ちが抑え切れず、声を荒げていた。そんなエリルに答えながらハバードは顔をしかめる。
「魔王軍の強さは身に染みておるじゃろう。軍隊も持たぬ姫様に何が出来ましょう」
「だからおじいさまに頼んで……」
 ハバードは首を横に振り、説き伏せるように言った。
「それで勝てるのなら協力は惜しまぬ。じゃが、わしは姫様を死なせたくないのじゃ。聞き分けてくれ」
 エリルは唇を噛み、うつむいた。その目から涙がこぼれ落ちる。
「おじいさまなら助けて下さると……そう思う私が浅はかでした……でも、諦めたくありません。私一人でも戦います……」
 立ち上がると、お辞儀をし、ハバードに背を向けて走り去った。肩を振るわせるエリルを、その姿が視界から消えるまでハバードは見つめ続けていた。

 ハバードの帰りが遅いことが気になり、フラットは様子を見に行った。二人はすぐに見つかり、声をかけようとした。
「どうしてですか!」
 エリルの叫びにドキリとし、慌てて身を隠して様子を窺った。二人の雰囲気がどんどん険悪になる。最後には泣きながらフラットの横を走り去ったのだ。
「大丈夫かな」
 二人の会話に聞き耳を立てたので泣き出した理由は分かる。慰めようと後を追うが、すぐにやめた。エリルはロンメルに任せればいい。
 振り返り、項垂れるハバードの傍に行く。
「言い方がきついんじゃないか」
 責めるような口調で言うと、ハバードがちらりと見た。
「お主には関係なかろう」
 ぶっきらぼうに言うとそっぽを向いた。まるで子供がだだをこねてるようだ。フラットは呆れてため息を吐く。
「俺には世界を救えって言うのに、まるで正反対だな」
「仕方なかろう。あの子はお主と違って強くない。戦えば殺される」
 悔しそうに吐き捨てる。それを聞き、思った。
(心配なんだな)
 フラットはハバードの脇に立ち、顔を合わさずに聞いた。
「エリルが大切なんだよな。守りたいから冷たく接したんだろう?」
 ハバードは何も答えない。だが、引き下がるわけにはいかなかった。このままではエリルが可哀想だ。
「確かに魔王軍と戦うのは馬鹿げている。でも、あの王女様は一人でも立ち向かうぞ。本当に大事なら拒絶するな。受け入れろ。その上で止めるなり何なりすればいい。あんたなら分かってるだろ?」
 ハバードは首を横に振った。分からないのではなく、分かりたくない。そう言っているようだ。
 他人のフラットには厳しいことを言うのに、身内には優しい。それだけに大事なことを見失っている。ハバードも人の子のようだ。
「なあ、ハバード。この間、言ってたよな。することがあるって。それはネンツ王国を奴らから取り戻すことじゃないのか」
「だったらどうだと言うのじゃ」
「まさかとは思うが、一人でしようって言うんじゃないだろうな」
 ハバードは驚き、振り向いた。その態度から真意を読み取り、フラットは嘆息した。
「なるほど……だからエリルを遠ざけたのか」
「そうじゃよ。この戦いに関わる気のないお主には関係なかろう」
 そう言われると返す言葉もない。エリルの為とはいえ、これ以上突っかかると言いくるめられて身の破滅を招きかねない。フラットはそう思い、追及をやめた。項垂れながら元いた部屋に戻る。
 エリルを慰めるロンメル。色恋沙汰を期待出来る雰囲気ではなく、フラットは足を止めてすぐに部屋を出ようとした。だが、時すでに遅し。
「フラットさん」
 気付いたエリルが顔を上げ、フラットを呼び止めた。嫌な予感がしつつ振り返ると、期待の眼差しを向けていた。
「どうしたんだ」
「私とハバードの会話はお聞きしましたね」
 フラットは頷く。
「ハバード様には断られましたが、私は諦めたくありません。あなたの力を見込んで頼みます。ネンツ城奪還のため、お力をお貸し頂けませんか」
 予想通りのことを言われ、フラットはため息を吐いた。途端にエリルの表情が曇る。
「国を奪われた君の気持ちは想像出来る。でも、魔王軍は強大だ」
「分かってます」
 フラットは首を横に振った。
「いや、エリルは分かっていない。今日のように魔物だけなら何とか出来る。でもな、魔族の強さは異常だ。この少人数で何とかなるとは思えない」
「それでも私は叶えたいの!」
 必死に訴えるエリル。だが、フラットは関わらずに先に進みたいと思っている。
「ごめん。俺は手助け出来ない」
「そんな……」
 エリルが項垂れる。そんな彼女を見て、フラットの決心が揺らぎかける。
(だから関わりたくなかったんだ)
 嘆いたところで意味はない。そして自分に言い聞かせるように言った。
「世界には魔王軍と戦う国々があると聞いた。そこに助けを求めろ。それが最良の方法だと俺は思う」
 それを聞き、エリルは引き下がった。そんな彼女の顔は焦燥の感に駆られていた。その余裕はないのだと言わんばかりに。
 このまま見捨てればむざむざ死地に追いやることになる。ハバードも死ぬ気だ。
 なぜ天上界の人はこうも自分の身をなげうとうとするのか。彼らの思考が理解出来ず、フラットは困惑した。だが、一つだけ分かることがあった。
 彼らには大切な人がいる。大事な物がある。それを守ろうとしてるだけなのだ。
 フラットにもいた。この身に代えても守りたい人。
(そういうことだったのか)
 理解したくなかった。
 でも、理解してしまった。
 これ以上ここにいると無謀なことに手を貸してしまう。ぞっとし、気が変わる前にエリル達と別れることを心に決めた。
 そして、夜が明けた。


       3

 フラットは極力誰とも顔を会わさないようにした。起きてからしたことと言えば、アキサス市国までの道のりを聞くことぐらいだ。それ以外は部屋にこもり続けた。そしてこれからのことを思案する。
 これからは自力で旅をすることになる。あてのない旅。エドガルドが手がかりを残していればいいが、期待するべきではない。また、フラット自身も追われる身だ。魔王軍に見つからぬように慎重に行動する必要がある。
 あれこれ悩む内に正午が迫ってきた。早めに昼食をすませると、村人から食料を分けて貰い、エリルと顔を合わさぬ内に村を出た。
「本当に良いんじゃな、道案内せんでも」
 ハバードが村の出口で待ち構えていた。
「大丈夫だよ。もう少ししたら海岸に出るだろ。そこから海岸線に沿って北上すればいいんだよな」
「他に大きな町はないし、迷うことはないじゃろう」
 それでも心配なのだと言いたげな顔だ。
「そんなことよりエリルの心配をしろ。彼女は死ぬ気だぞ」
「分かっておる」
 ハバード自身も死ぬ覚悟を決めている。それが彼の表情から伝わってくる。フラットは辺りを見回して聞いた。
「アンドレンは?」
「どこかで充電中じゃ」
 エネルギーが電気だったことに驚くが、無視することにした。追及したところで、特別製だと言われるのがオチだ。
(詳しくは知らないのかも)
 そう思うと、ハバードが道化に見えてきた。アンドレンが見送りに来られないことが分かっただけで十分だ。
 別れも程々にして出発する。
「気を付けるのじゃぞ。それと、わずかだがこの宝石を渡しておこう」
 いくつかの小さな宝石を手渡された。透き通るような赤い石を見つめる。
「特別な力でもあるのか」
「いや、ただの石じゃ。換金して使うといい」
 当たり前だと言わんばかりの顔だ。変な期待をしたせいでどっと疲れが出た。だが、お金はありがたい。こんな所に来てまで無銭飲食をするわけにはいかない。
 ありがたく頂くと、村を後にした。
 背中越しにハバードの声を聞きながら林道に出ると、昨日と変わらぬ景色の中を進んだ。強い日差しを避け、木陰を踏みしめて歩く。
 天上界に来て二度目の孤独。
 最初は訳が分からず森をさ迷った。無性に寂しさを感じたものだ。だが、今回は明確な目的がある。不安を紛らわすことは出来ないが、目的が背中を押してくれる。それが自信に繋がっていた。
 一人でも立っていられる。その確信があった。
 見慣れた林道を進むこと一時間、この日一番の気温に達した。暑さに耐えかねて一休みすることにした。
 木陰で腰を下ろし、ハバードに貰った水筒に口をつける。喉が潤い、生き返るようだ。
(エリル、怒ってないかな)
 彼女には黙って出て来た。たった一日の付き合いだったが、フラットは命の恩人だ。最後に別れを言いたかっただろう。もう会うことはないから気にするべきではない。後ろ髪引かれる思いを振り払った。
 少しして再び歩き出す。
 周囲の景色を眺めながらのんびりと歩く。魔王軍の脅威にさらされてるとは思えないほど平穏な時間が過ぎていく。
 林道を抜ける前に川があるとハバードに聞いた。そこに着くまで二日。そこからいくつかの町を経由する。アキサス市国に着くまで、徒歩なら一ヶ月はかかるという。馬でもあればもっと早く着くだろう。とはいえ、乗馬の経験がないフラットの選択肢にそれはなかった。
 道中をほとんど野宿で過ごさなければならない。初めての経験だ。無事に乗り切れるのだろうか。急に不安になった。
「なるようになる……か」
 そう言い聞かせ、諦めた。
 徐々に日は傾き、一帯が茜色に染まる。風が吹き始め、生ぬるい風が体にまとわりついた。少しずつ空気が冷え、気持ちのいい風に変わる。
(…………!?)
 一瞬、背筋に寒気が走った。夏だというのに、ありえないほどの冷たさを感じた。それが初めての経験なら見過ごしていたはずだ。
 あの覚えのある気配を捜した。周囲の景色に何ら異常はない。周囲をぐるりと見渡して視線を戻し、驚愕した。
 さっきまで誰もいなかった。それなのに、すぐ近くに黒いローブで全身を隠した男が立っている。
「シュピール・ゲルス」
 フラットは男の名前を呟き、身構える。シュピールがゆっくりと近付いてきた。
「覚えて頂けたのですね」
 相変わらず抑揚のない口調だ。
「なぜあんたがここにいる」
 シュピールの動きを警戒しながら一歩下がった。額に汗がにじむ。背筋が凍り付くような感覚に襲われた。即座に剣の柄を握り、すぐに斬りかかれるように気を静めた。それでもシュピールは一向に足を止めようしない。
「フラットさん……でしたか。あなたにお聞きしたいことがありまして。こうしてお一人になられる機会を窺っていました」
 暗に見張っていたことを告げている。その事に気付き、エリルの姿が思い浮かんだ。フラットが見張られていたのなら彼女らの居所を知られている。軽率な行動をとったことを悔やむ。
「狙いはハバードじゃないのか」
 その問いに、シュピールがかすかに笑った。三メートルほどの距離を空けて立ち止まると、フードを外した。
 初めて見る魔族の顔はいたって普通だ。人間と変わらない、という意味では。整った顔立ちに切れ長の目、すらりと伸びる髪は女性と見まがうほどだ。髪を後ろで束ね、ローブの中に入れている。
「ハバードの件は私の手を離れました」
 無表情の顔に、一瞬だけ感情が表れた。それもすぐに立ち消え、読み取ることが出来なかった。
「それなら何で俺に……」
「それは先程申しあげました。私の目的はあなたなのです」
 鋭い視線を向けられ、フラットはびくりとした。エブィルの子孫であることがばれたのか。そう思ったが、取り越し苦労だった。
「ネンツ王国の近辺にあなたのような戦士がいるとの情報はありません。それに、昨日の戦いを拝見しておかしなことに気付きました」
「おかしなこと?」
 訳が分からず、フラットは眉根を寄せた。
「ええ。初めてお会いしたときと比べて動きが明らかに違います。いったいどんな手品をつかったのですか」
「それは答えられない」
 自分でも分からないのだ。説明出来るわけがない。だが、そんなフラットの都合をシュピールが察してはくれなかった。
「あなたの正体に興味を抱く方がいます。それを探るのが私の役目。何も話せないのであれば力尽くで聞き出します」
 シュピールの気配が薄れる。
 ステップを踏むのと同時に、シュピールの姿がかき消える。次の瞬間、フラットの目の前に現れた。懐から短剣を取り出し、即座は振るう。
 フラットは後方に跳びつつ躱すと、すぐに剣を抜き、投てきされた短剣をはじく。すかさず肉薄してきたシュピールの攻撃を受け止めた。
 飛び退くシュピールを追って地を蹴ると、剣を横薙ぎにした。それを軽々と躱され、頭上を舞うシュピールに背後を取られる。振り向きざまに一閃。だが、シュピールの姿はすでにそこになかった。
 次に姿を現したのはフラットの真横だった。シュピールが短剣を振るう。一撃目をぎりぎりで躱すと、踏み込みつつ繰り出される二撃目を受け止める。三撃目を繰り出そう手を振り上げる隙を狙って一閃。すんでの所で躱された。
「このスピードについてこられるのですね」
 シュピールは感心するように呟いた。両手に一本ずつ短剣を握る。
「では、これならどうです」
 再びステップを踏むと、シュピールが直進してくる。素早く詰め寄ると舞うようにして攻撃を繰り出してきた。それをフラットは丁寧に捌いていく。
 右手を躱し、左手をはじき、後方に跳んで間合いを空けるが、瞬時に詰め寄られる。すかさず繰り出される左手を受け流し、右手をはじく。勢いが弱まる隙を狙って一閃。それを軽々と躱すと、即座に詰め寄られる。
 何度も繰り返す内に連撃はその速度をどんどん増していった。
 目まぐるしい攻撃。何とか躱してはいるが、反撃の糸口を見つけなければいずれ押し切られる。徐々に余裕が失われていく中、改めてシュピールに恐怖した。
「くっ、これが魔族の実力なのか」
 フラットは息苦しさを覚えずにいられない。それなのにシュピールは平然としている。それどころかさらに速度が増す。そして、はじききれずにフラットの腕が浮いた。その隙を逃さず、攻撃を繰り出してきた。
(しまった!)
 バランスを崩してしまい、躱すことも出来ない。死を覚悟した直後、世界が光を失った。
 完全な闇。辺りはどこまでも闇に包まれていた。その果てしない闇の中に突然、一筋の光が差した。そして、一人の男の姿が浮かび上がる。中肉中背で凛々しい顔立ちの青年が優しい眼差しを向けていた。彼の口がゆっくり開かれる。
『分かっているはずだ。その身に宿る力のことを』
 この青年をどこかで見たことがある。それも、何度も繰り返して。
『我が名を継ぎし者よ。今こそその力を解き放て』
 そうだ。毎晩のように見ていた青年だ。その名は――
「……エ……ブィ……ル……」
 青年が口元を緩めて頷いた。その直後、暗闇が一瞬でかき消えた。世界が元の姿を取り戻した時、目前に短剣が迫っていた。
 フラットは膝を崩して倒れようとしている。剣は直前の攻撃で浮き上がっている。躱すことも受け止めることも出来ない。倒れ込む勢いで首が上を向いた。視界に空が映り、広がっていく。このまま身を委ねれば首もとを切り裂かれて死ぬ。だが今は、不思議と躱せる自信があった。
 体を捻ると、回転する勢いに片足を乗せてシュピールの手を蹴り上げた。
 勝利を確信していたシュピールの腕は伸びきり、体の勢いが止まらない。手ははじかれ短剣が吹き飛んだ。フラットの回転は止まらず、後ろ回し蹴りが脇腹に食い込んだ。
「ぐはっっっ!」
 シュピールの顔が歪む。と同時に体が横に吹き飛ばされた。もんどり打ち、転がりながら木にぶつかり、ようやく勢いが止まった。
 フラットは地面に手をつき立ち上がると、すぐに剣を構えた。その時にはシュピールも立ち上がり、フラットを睨み付けていた。
「そうです。その動きです」
 シュピールが口の端を歪めて笑った。
「そうやって突然動きが機敏になる」
 口をぬぐうと、何かを思い出してはっとした。
「そういえば初めてお会いした時もそうでしたね。魔物に翻弄されていたはずなのに、気付けば魔物を翻弄していました。今回も同じです。あなたが追いつけないスピードで攻撃したつもりでした。それなのに反撃を受けるなんて」
 信じられない言いたげな顔だ。フラットでさえ自分の動きに驚いている。だが、これが力の片鱗でしかないことはフラット自身が分かっていた。
 戦うたびに力が漲る。
(これが俺の身に宿る力……)
 エブィルから受け継がれた大いなる力。その力の強大さに、フラットは胸が躍るのを感じずにはいられない。
「もう一度聞きます。あなたは何者ですか」
 今まで抑えていた殺気が吹き出る。答えなければ命はない。そう言わんばかりだ。とはいえ、教えたところで結果は変わらない。
 フラットは自分の力がシュピールを勝るものと信じ、覚悟を決めた。
「答えるつもりはない」
「そうですか……」
 シュピールの表情が曇った。
「無理にでも聞き出したいのですが、口を割りそうにもありませんね」
 ローブについた汚れを払い、側に落ちている短剣を拾って懐にしまう。おもむろにフードをかぶると、殺気が嘘のように消えていた。
「私の任務はフラットさん、あなたの正体を確かめること。もうしばらく様子を見させて頂きます」
 そう言うと、フラットに背を向けて歩き出した。その行動に拍子抜けしたフラットはつい気を抜いてしまった。
 シュピールが振り返る。
「戦いの時とは違い、随分柔らかい気配ですね」
 慌てて警戒すると、シュピールがせせら笑う。
「心配せずとも今は戦いませんよ。それよりも急いでお戻りになった方が良いですね。今頃、お仲間の身が危ないですし」
「どういうことだ」
 聞き返すと、シュピールが近付いてきた。構えるフラットの横を通り過ぎるとき、囁くように答えた。
「私とは別の部隊がエリル嬢を狙っています。そろそろ火の手が上がる頃でしょう」
 振り返ったとき、シュピールの姿は無かった。元々希薄な気配も感じられない。一瞬で消えたことに驚き、底なしの力に恐怖した。”今”のフラットでは倒せないことを直感しつつ、意識を来た道に向けた。
「あの村が襲われるのか」
 一晩だけ世話になった村人。エリルやロンメル。そしてハバードとアンドレン。その彼らが魔王軍に襲われる。
 魔物が数十匹来ても平気だろう。だが、シュピールはずっとフラットを監視していた。けして驕ることのない彼なら、戦力を正しく評価しているはず。それでも戻ることを勧めるのはなぜか。
 答えはすぐに導かれた。
 魔族だ。おそらく一人とは言わないだろう。
 このまま放っておけば死人が出るのは確実。自分が戻ったとしても結果が変わるかは分からない。だが、手の届く場所に助けられる人がいる。
(くそっ!)
 舌打ちして来た道を戻った。
 なりふり構ってはいられない。自分のお人好し加減に腹立たしくなりながら、風を切り、全力で走るのだった。




 第五章 運命のいたずら


       1

 村を出て行くフラットの背中がハバードの目には小さく映る。頼りなさ気の後ろ姿。それもそのはず、フラットはまだ十五才の少年だ。何もかもを背負うにはまだ若い。今さらそんなことに気付かされ、ハバードは項垂れた。
 フラットの姿が見えなくなると、入れ違いにエリルが来た。
「行ってしまわれたのですね」
 エリルは名残惜しそうに外を見ている。
「気になるのじゃな」
「ええ。命の恩人ですし、最後にお礼を言いたかったから」
 寂しそうにうつむいた。
「それなら追えば良かろう」
 エリルは首を横に振る。
「彼は私を避けているようでした」
「照れておるのじゃろう」
「それは違います」
「では、どうじゃと言うのかね」
 首を傾げて考え込んだ。それで答えが出るわけもなく、しばらく沈黙が支配する。じっとしていても埒があかず、悩むのを中断した。
「一度部屋に戻りましょう」
「そうじゃな」
 そう言って二人は部屋に戻る。
 エリルは昨夜のことを何度も考えた。ネンツ王国を奪還したい。その為にハバードやフラットにも助力を乞うた。だが、揃って同じ理由で断られた。無謀なことはやめろと。
 魔王軍がどれほど強大なのか。自分の国が手玉に取られ、骨身に染みている。何の力もないエリルと数人の部下で何が出来るのか。現在、近辺にはほとんど敵はいないと聞く。だが、その少ない戦力は残党狩りをし、こうしてエリル達を追い詰めている。素直に国外へ逃げ、世界に助けを求めるべきだ。
 ハバードに再会したことで希望が芽生えた。国王に託された思いがある。それでも不十分だと理解するのに一晩かかった。そのせいで寝不足となり、フラットとの別れ際に間に合わなかった。
 エリルは考えた。そしてようやく答えを出した。それは苦渋の決断だった。親を捨て、城を捨て、国を捨て、国民を見捨てることになる。王位を継いでいなくとも今やエリルは一国の主。そんな彼女が逃亡するのは相当に辛いはずだ。
「いつ村を発つのじゃ」
 ハバードに聞かれ、エリルは少し迷った。
 逃げるのなら早いほうがいい。だが、一緒に逃亡してきた人達は未だ疲労が抜けていない。すぐには動けない状態だ。
「動けぬ者は残していくべきじゃ」
「でも……」
「奴らの狙いは姫様じゃ。共にいれば争いに巻き込むことになる。お互いに迷惑をかけるのが目に見えておる」
 ハバードの言うことは尤もだ。
 魔王軍は侵略者だ。だが、対象と無関係の村や町を安易に襲わない。逆に言えば、対象となるハバードやエリルと一緒だと襲われる、ということだ。だからこそ村を早く発つべきだとエリルは考えた。
「そうですね」
 ここで村人として生きれば、比較的安全だ。それは安直な考えかも知れない。だが、エリルと共にいるよりは確実だ。エリルは決心すると、ハバードを真っ直ぐ見据えて言った。
「皆を説得してみます。早ければ夕方にでも発ちます」
「それが良かろう」
 ハバードが背を向けて部屋を出ようとした。そんな彼をエリルは呼び止める。
「おじいさまはこれからどうするのですか」
「わしは家に戻る。やり残したことがあるのでな」
「そうですか」
 エリルはうつむいた。一緒に来ることを期待したのだろう。寂しげな眼差しをハバードに向けた。
「そんな顔をするな。生きておればまた会える」
 必死に涙を堪えるエリルを見て、ハバードの心にも悲しみが膨らむ。このままだと別れが辛くなる。ハバードは必死に笑顔を作った。
「そうじゃ。早く行ってフラットを拾うといい」
「でも、嫌がられるんじゃ……」
 ハバードは首を横に振った。
「その心配はない。あ奴は戦わされるのが嫌なのじゃよ。それにのう、そろそろ徒歩に嫌気が差す頃じゃ。馬車に乗せてやれば喜ぶじゃろう」
 少しでも明るい話題を。そう思って話したが逆効果となった。エリルの表情はさらに暗くなる。そんな彼女の反応がハバードは苦手だった。
 いたたまれなくなり、エリルの元を離れた。ハバードはその足でアンドレンを捜した。

 エリルの説得は時間がかかったが、皆に気持ちは通じた。一般人は村に残ることになる。だが、ロンメルを始め、兵士達はエリルを守ると言って譲らなかった。結局はエリルが譲歩し、無傷な兵士が共に行くこととなる。
 エリルは複雑な気持ちだった。
 共にいて欲しい人がいる。
 その人が危険な目に遭うのは忍びない。
 その彼が一番に一緒にいることを望む。
 愛情ではなく、忠義から来る気持ちだと思うと余計に辛い。
 自分の為に身をなげうつ覚悟。
 そんな気持ちを抱かせる自分が嫌だ。
 渦巻く感情にエリルは顔をしかめる。誰にも悟られぬように顔を隠した。王女である自分の気持ちが相手には重荷だと分かっている。だからこそ必死に隠した。黙々と準備を始める同行者から逃げるようにして部屋にこもるのだった。

「これで整備は終わりじゃ」
 ハバードはアンドレンの体を軽く叩いた。ゴンと鈍い音が響く。
「充電も完全。銃弾の減りが気になるが仕方なかろう」
「アリガトウゴザイマス」
 長い時間中腰でいたからか、ハバードは痛そうに顔をしかめて腰をさすった。立ち上がり、ゆっくりと背筋を伸ばす。こういう瞬間に自分が年寄りだと実感するのだ。
「そろそろ総点検の時期かのう」
 そうぼやきながら空を見上げた。いつの間にか夕暮れ時になっていたのに驚き、吐息を漏らした。
 馬のいななく声が聞こえる。
「出発の時間じゃな」
 整備中に一度だけエリルが来て、日が沈む前に発つと報告を受けた。見送りに行こうと村の出口に向かう。そのままハバードも出発するつもりでいた。
 出口にはロンメル達数人の兵士がいた。馬車の荷台に食料などの荷物を載せている。もうすぐ準備が終わろうとした頃にエリルが来た。彼女の目が充血している。不審に思ったハバードが側に寄った。
「何かあったのか」
 ぼーっとしていたエリルは、声をかけられて初めてハバードに気付き、目を見張る。
「おじいさま……」
「泣いてたのじゃな」
 エリルは逡巡してから頷いた。
「皆に迷惑をかけてばかりで何も出来ない。それが悲しくて」
 ぎこちない笑顔を作る。無理をしてるのは誰の目にも明らかだ。
「もっとしっかりしないと……」
「もう十分じゃよ。そうやって背負い込まず、周りの者を頼るのじゃ。彼らを見てみろ、姫様を慕うあの目を」
 準備を終えたロンメル達がエリルを見ていた。その期待の眼差しが彼女には辛いようだ。表情が曇る。
「問題は山積みじゃ。今からこれではこの先、どうにもならんぞ」
「分かっています」
 ロンメルが側に来る。
「エリル様、準備が出来ました」
 エリルは頷き、ロンメルの横を通り過ぎて馬車の所に行った。素っ気ない態度にロンメルの表情が曇る。ハバードはそんな彼の肩を叩いた。
「しっかり受け止めるのじゃぞ」
 困惑するロンメルの背中を押した。ロンメルはつんのめるように数歩進むと、振り返り頭を下げた。すぐに背を向け、エリルの傍に行く。いくつか言葉を交わすと、全員が馬車に乗り込んだ。
 ハバードは馬車に歩み寄った。
「姫様、また会える日を楽しみにしておる」
「はい。お元気で」
 そしてゆっくりと馬車が動き始める。馬の足音、車輪のがたつく音が響き、エリルの姿がしだいに小さくなっていく。
「もう会うことは無かろう」
 誰にも聞こえないように言う。
 暗い表情をするハバードのすぐ横に荷物を抱えたアンドレンが現れた。見向きもせずに荷物を受け取る。
「わしはこれからネンツ城に向かう。お主はどうする」
「ゴ命令ノママニ」
「そう言うと思っておった。最後まで付き合ってもらうぞ」
「了解シマシタ」
 そう言うと二人は歩き始めた。
 視界の先で馬車が消えようとしている。エリルが手を振っているのが見えた。ハバードも手を振り、最後に一度だけ笑った。その笑顔が一瞬にして消え去る。
 一帯を異様な気配が包む。それが殺気に変わるまで数秒とかからなかった。
「こ、この殺気は……!?」
 燃えたぎるような気配を肌で感じ、それが何を意味するのか気付いたハバードが地を蹴った。アンドレンもすぐに後を追う。だが、間に合わなかった。
 馬車の側に上空から飛来した光球が着弾。爆発を起こし、そこを中心にして爆風が広がる。木々を薙ぎ倒し、飛び散る火の粉が一帯に燻る。
 ぎりぎりで方向転換した馬車は直撃を免れたが、風に煽られて転倒した。エリル達が投げ出される。
「姫様!」
 砂が巻き上がり視界が奪われる。猛然と突き進みエリルを見つけると、そっと抱き起こした。擦り傷だけで、意識もはっきりしている。
「……おじいさま」
 何が起こったのか分からず困惑している。そこにロンメルが駆けつけた。
「エリル様、ご無事ですか」
 エリルは頷く。起き上がり、辺りを見回して聞いた。
「何が起きたの?」
「分かりません……しかし……」
 ロンメルも殺気を感じているようだ。だが、その異質で強大な気配に困惑していた。その正体は視界が回復したことで明らかになる。
 薄れていく砂煙に大柄な人影が浮かび上がる。少し遅れて、人影を取り囲むように大量の影が現れた。
 兵士達の叫び声が上がる。と同時に何か引き裂くような音が聞こえた。
 馬の悲鳴、獣の呻き声、様々な声と気配が入り乱れ、取り残されたハバード達は震え上がった。エリルにいたっては身の毛立つ気配に涙目になっている。
 砂煙が静まると、大柄の男が前に踏み出た。
 長身で筋骨隆々、厳つい顔に鋭い目つき、逆立つ短髪や不敵な笑み。内から溢れる凶悪な気配。ただでさえ存在感のある体躯の上に巨大な斧を肩に乗せている。
 男はにやりと笑った。
「俺の名はサーディルン。貴様らを狩る者よ!」
 咆哮のような声が低く大きく響き渡る。空気を木々を、地面をも大きく揺らした。まるで地震のようで、思わず手をついた。
 サーディルンと名乗る男、そいつこそがエリルを狙って来た魔王軍の刺客だ。


       2

 横たわる荷台の横でエリルはへたり込んでいた。
 馬車の周りには馬と兵士の死体が転がっている。側にはロンメルとハバードとアンドレン。四人を取り囲むようにして大量の魔物がいる。そして、中央に陣取るようにサーディルンが立ちはだかっていた。
「これが魔族……」
 エリルにとって初めて相対する魔族。シュピールが静だとすると、サーディルンは正反対の動。たぎるような熱気と邪悪な気配、何より恐ろしいのは体を竦ませる威圧感だ。魔族の気に当てられ、恐怖に呑まれそうだった。
 エリルを支えるハバードの手に力がこもる。ロンメルは今にも逃げ出したい気持ちに必死にあらがっている。
「ようやく見つけたぞ、ネンツの残党共。天上人のくせによくここまで逃げられたな。褒めてやろう」
 嘲笑うかのように声を張り上げた。
 エリルはびくりとし、ハバードの後ろに隠れる。サーディルンを恐れているのはハバードも同じだ。目的の為なら何でもしそうな男が目の前にいる。確かな恐怖が実感を伴って残された四人を包み込んでいた。
「だが、俺が全てを終わらせてやる。死をもってな」
 背中から巨大な斧を降ろした。ずしりと重い音が響く。それが合図となり、彼らを取り囲む魔物が包囲を狭めた。
「アンドレン、魔物共を頼む」
「了解シマシタ」
 アンドレンが前に進み出た。
「ロンメルよ、エリルを連れて村に戻るのじゃ」
「しかし、それでは村が!」
「逃げろと言うておるのではない。この様子じゃと村も危ない。お主が残された者を守るのじゃぞ」
「それではハバード様が危険に……」
 渋るロンメルを見かねたハバードは、エリルを立たせて背中を押す。おぼろげな足取りのエリルはロンメルにしがみついた。
「姫様がいては邪魔じゃ。さっさと行け!」
「そんな……」
「おじいさま……」
 有無も言わさぬ眼光にエリルとロンメルは息を呑み、引き下がった。名残惜しむ目をするエリルの手を引き、ロンメルが村に戻る。二人を追おうとする数匹の間に割って入ると、瞬時に叩き伏せた。
「ほう、弱い二人を逃がしたか。貴様が一番の使い手というわけか」
「そうとは限らぬよ」
 ハバードの心中にはフラットがいる。騒ぎに気付けば助けに来るはず。さほど遠く離れていないことを期待しつつ、それでも一人で何とかしようと覚悟を決めた。幸い、エリル以上に美味しい餌が目の前にいる。魔王軍なら必ず飛びつくはずだ。
「ハバード・イジェフスク・L・マクリレン。貴様の抹殺は俺の任務ではない。だが、立ちはだかるならば排除するのみ」
 強い敵と戦えるのを喜ぶかのように笑った。
「アンドレン、分かっておるな? 出来るだけ派手にじゃぞ!」
 ハバードが叫ぶと、アンドレンが空を飛んだ。迷わず魔物の群れに銃弾を浴びせる。アンドレンを追って翼を持つ獣たちが羽ばたいた。
 地を這う魔物達は銃弾を避けながらハバードを囲む。
 ハバードは呼吸を静めた。
「魔の力、我紡ぐ強靱な牙となれ」
 目を閉じて呟くと、全身から青く淡い光が滲み出てくる。一呼吸するごとに光が大きさを増す。しだいに全身を包む鎧と化していく。
「肉体強化か。まずはお手並み拝見だ」
 サーディルンが合図をすると、ハバードを囲む群れが一斉に飛びかかってきた。
 ハバードは身を低くすると、地を蹴って正面の魔物に肉薄した。相手が攻撃をするよりも速く突きを与える。魔物は遙か後方に吹き飛んだ。すぐさま横にいる魔物を蹴り飛ばすと、振り向きざまに回し蹴りで三匹目を昏倒させる。
 さっきまでハバードがいた場所に、魔物達がつんのめるようにして群がっていた。勢い余ったのだろう。魔物達が立ち直るよりも先に距離を詰めると、地面に拳を叩き付けた。
「爆砕!」
 拳が触れた場所が陥没すると、放射状に衝撃が広がる。地面が荒れ狂い、魔物達を勢いよく呑み込んでいく。
「律儀に相手をする余裕はないんじゃよ」
 振り返ると、宙を舞って揺れの外側に降り立った。
 近場にいる魔物の横腹に拳を食い込ませる。魔物は激痛に顔を歪め、悲痛の叫びを上げながら吹き飛ばされた。
 一瞬遅れて動き出す魔物達。数匹がハバードの上にのしかかってきた。
 ハバードは手の平に意識を集中させる。空気の壁を幾重にも重ねると、舞うようにして魔物の体に触れていく。その瞬間、風の刃に全身を切り刻まれた。
 触れられる先から倒れていく魔物達。すぐさま襲いかかる別の魔物も次々と倒れ、死体の山を築いていく。
 勢いが収まると、足の裏に青い光を集めていく。力強く足踏みすると、足を機転に地面が激しくうねった。それは一帯を包み、魔物が足を取られてバランスを崩した。
「炎上!」
 両手を振り上げると、崩れた地面からカーテンのように炎が吹き上がる。半分以上の魔物が呑み込まれ、無残にも焼き尽くされた。
 消し炭となって跡形もなく消えた魔物。アンドレンが倒したのを含めれば五〇匹はくだらない。脅威の戦闘力におののいた魔物達が後ずさる。だが、殺傷本能に後押しされて一斉に飛びかかってきた。
「待てっっっ!」
 サーディルンの怒号が響き、残った魔物が縮み上がり足を止めた。その群れをかき分けてサーディルが進み出る。
「貴様の強さは十分に分かった。これ以上無駄に手駒を消されるのは気に入らん」
 斧を持ち上げて構えると、舌なめずりする。
「魔物共は村を襲え」
 静かに言うと、魔物は戦うのをやめて一斉に村に向かった。ハバードの横をどんどん過ぎ去っていく。
 サーディルンを警戒したせいでハバードの動きだしが遅れた。先頭の魔物を追って地を蹴ると、何とか追いついて叩き伏せる。その勢いで数匹倒して振り向くと、目の前に巨大な斧が迫っていた。
 後方に跳んで躱すと、十分の距離を空ける。サーディルンの攻撃は空を切り地面を抉った。土埃が舞い、強烈な風圧にハバードは吹き飛ばされかけるが、何とか踏み止まった。
「貴様の相手はこの俺だ」
 サーディルンは斧を振り上げる。
「くっ、このままでは……」
 魔物を追ってもサーディルンに迫られ、攻撃される。そんなことを繰り返していると被害が村に及ぶ。だが、手をこまねれば魔物が村を襲う。
 迷う余裕はなかった。
 サーディルンが地を蹴る。
 ハバードは宙を飛び回るアンドレンに視線を向けた。
「アンドレン、村を守るのじゃ!」
 その声に応え、アンドレンが方向転換する。猛然と滑空すると、サーディルンを追い抜き、ハバードの横を通り過ぎた。サーディルンが剰りの速さに目を見張っている。それでも動きを止めないのはさすがと言うべきか。
 サーディルンが斧を横に振るった。それを上に跳んで避けると、頭上からかかと落としを食らわせようとした。ハバードの下から空を切ったばかりの斧が迫り、体を捻って躱す。斧に手を当てて横に跳ぶと、振り向きつつ着地した。すかさず地を蹴り、肉薄する。
 振り下ろされる斧を軽やかなステップで躱し、間合いを殺す。サーディルンの目の前で踏み込み、掌底を放った。
 サーディルンは慌てて仰け反ると、攻撃から逃げるように後ろに跳んだ。ぎりぎりで躱せる。その目測を嘲笑うかのようにハバードの手が伸びてきた。攻撃が当たると、衝撃がサーディルンの全身を包み、勢いよく吹き飛ばされた。
 すぐに立ち上がるサーディルン。
「リーチの差をこうもあっさり縮めるとはな。末恐ろしい奴だ」
 にやりとすると、構え直した。
「こちらは時間がないのじゃよ。速攻で片付けさせてもらう」
「大した自信だ。だが――」
 サーディルンが全身に力を込めると、筋肉が膨れあがる。一回りも大きくなった。
「俺も全力でいく。こうなってはいつ決着がつくか分からんぞ」
「そのようじゃな」
 ハバードは姿勢を低くし、いつでも飛び出せる準備をした。
 一呼吸置くと、サーディルンが地を蹴った。そのスピードはさっきとは比べものにならず、一瞬で間合いを詰めてくる。
 振り下ろされる斧をハバードは身をよじって躱し、懐に飛び込みつつ拳を放った。その直前、並々ならぬ威圧感を覚える。転がるようにして横に跳ぶと、頭上を斧がかすめた。体勢を立て直すよりも早くサーディルンが迫ってきた。
 斧が振り下ろされる瞬間、ハバードは頭上で腕を交差させて魔力を練った。強い衝撃が全身を襲う。地面がえぐれ、重さに耐えきれずに膝をついた。
「防御壁で防いだか。だが、いつまで保つかな」
 サーディルンは力を強め、斧に体重を乗せる。陥没する地面が範囲を広げ、ハバードの体がさらに沈む。
「くっ、このままでは……」
 防御を続けてもいずれは押し潰される。巨大な斧を振り回すサーディルンの腕力は底知れない。ハバードは改めて魔族が恐ろしいと感じていた。だが、力だけなら戦いようがあることにも気付いていた。
 ちらりと村を見る。
 すでに火の手が上がり始めていた。

 ロンメルはエリルの手を引き、村に戻った。
 村からでも大量の魔物が見える。気付いた村人が錯乱し、収拾がつかなくなっている。傷ついた兵士の一人がエリル達が気付いた。
「何があったのですか」
 慌てて駆け寄る兵士もただならぬ事態であることを察している。目と鼻の先で爆発が起きたのだ。当たり前と言えよう。
「魔王軍の追っ手だ」
「ではやはり魔族が……」
 ロンメルは頷いた。
「一番恐れていた事態だ。出鼻を挫かれるとは」
 苦々しく言うと振り返り、始まる戦闘を見据えた。
「我々はどうしますか」
「村人の避難誘導をしろ」
「隊長は?」
 ロンメルは押し黙り、ちらりとエリルを見た。少しは落ち着いてはいるが、未だ放心状態だ。このままでは逃げられるものも逃げられない。
「後からエリル様を連れて行く。先に避難しろ」
「了解!」
 兵士はすぐに村人を集め、避難を始めた。魔物がどこに潜んでいるか分からない。だが、じきにここも魔物で溢れる。あてのない避難だ。
 エリルは小さな声で何度もこう繰り返していた。
「……私のせいで……」
 ロンメルは彼女の肩を抱く。
「しっかりして下さい。王女であるあなたがこれでは死んだ者が報われません。ちゃんと立って戦って下さい!」
 目は虚ろで、聞こえてないように思える。ロンメルはうつむいて唇を噛んだ。このままでは国王に託された目の前の命を失う。それが恐ろしくなり、彼の目に覚悟の火が点る。肩を抱く力を強めて声を荒げた。
「エリル様、しっかりして下さい……エリル様……エリル! しっかりしろ、エリル! お前がしっかりしないでどうするんだっっっ!」
 仕えるべき相手になんて口の利き方か。ロンメルは後悔を念に囚われながらも、気怖じせずにエリルを真っ直ぐ見据えた。
「……ロン……メル……」
 エリルの目に生気が戻る。
「エリル様」
 ほっとするロンメルをエリルが鋭い目で見た。
「ロンメル、あなたは今、私を呼び捨てにしましたね」
「あ、そ、それは……」
 しどろもどろになり慌てて肩から手を離す。完全に怖じ気づいていまい、直視する勇気を失った。怒られることを覚悟し、びくつきながら目をつぶった。
 エリルはくすりと笑った。ロンメルの頬にそっと触れる。
 意外な行動に驚き、ロンメルは目を見開いた。
「ロンメルの声はしっかり届きました」
 エリルが優しく笑う。
「私はもう大丈夫です。それよりもあちらを」
 エリルは戦闘が続けられている方向を指差した。魔物達が村になだれ込もうとしている。それを追ってアンドレンが飛び込んできた。
「アンドレン、ハバード様は!?」
「魔族ト戦闘中デス」
 アンドレンは空中で反転すると、バーニアを噴かして魔物の群れに突っ込んだ。両手からサーベルが飛び出し、間を縫って次々と切り裂いていく。その様は人間の動きを逸脱していた。激しく上下し、左右に流れ、さながら鳥のように優雅に見える。
 取りこぼしされた魔物が一匹、ロンメルに向かってきた。
「エリル様は下がって下さい」
 エリルを庇うように進み出ると、腰から剣を抜いた。魔物が振り下ろす手を受け流すと、すかさず剣を振るった。攻撃は寸前で躱され、薄皮一枚切るだけに止まった。ロンメルは舌打ちし、魔物が動くよりも早く踏み込んで一閃。のど元を切り裂いた。
 絶命する魔物を見下ろすロンメル。そんな彼の裾をエリルが引っ張る。
「ロンメル、私も戦います」
「いえ、エリル様は後ろに」
「私でも手助けぐらい出来ます」
「し、しかし、万が一のことがあれば困ります。あなたは兵士とは違い、代わりはいないのです。自重ください」
 ロンメルはただでさえ困惑しているのに、エリルの目を見て動転しそうになった。彼女は瞳を潤ませ、今にも泣き出しそうだった。
「エ、エリル様……?」
「悲しいこと言わないで!」
 エリルが声を荒げた。
「私に代わりがいないように、あなたにだって代わりなんていない。ロンメルはロンメルよ。私の大切な人なの!」
 エリルの頬を涙が伝って流れた。嫌というほど気持ちが伝わり、ロンメルは胸を締め付けられた。
「ロンメルがいないと私は生きていけない。あなたが守ってくれるように、私もあなたを守りたい。いいでしょ?」
 エリルに懇願され、ロンメルは拒否するのを諦めた。強情なのは知っていたし、何よりその気持ちが嬉しいのだ。ぎこちない笑顔をエリルに向けて言った。
「けして俺の前に出ないで下さい。あくまで援護に止めるのです」
 エリルは涙を拭きながら頷いた。その口元は緩んでいる。
 彼女は共に戦えることが嬉しいのだ。王女として国民の役にたつのではなく、一人の女性として大切な人の為に何かしたい。幸い、エリルには戦う力がある。彼女の剣の腕は並の兵士の比ではない。
 危なっかしくも頼りになる相棒を背に、ロンメルは剣を構えた。
 アンドレンが手こずっている間に、隙をついて村の中に三匹の魔物が入ってきた。ロンメルは地を蹴ると、切り込んでいく。
 近場の魔物を横薙ぎにし、腕を斬り落とす。悲鳴を上げて悶絶する一匹を無視し、隣のもう一匹の横腹を斬り上げた。それだけではひるまず、奇声を発して腕を振り回した。受け止めつつ後ろに跳ぶと、地面に足を着けてすぐに走った。
 攻撃されるよりも早く距離を詰めると、腹に一突き。引き抜き、電光石火のごとく斬りつけた。絶命しかけた魔物を蹴飛ばして視界を確保すると、その背後から迫る三匹目の攻撃を躱した。
 横から一匹目の攻撃が襲う。すんでの所で受け止めると、身を翻して魔物の死角に入った。首元を切り裂き、倒れ込む魔物を踏み台にして跳び上がった。三匹目の頭上から剣を振り下ろし、脳天をたたき割る。
 着地するロンメルの両脇を二匹の魔物が通り過ぎた。さすがに同時に相手をする余裕はなく、一匹に狙いを定めた。
「エリル様、そっちをお願いします!」
 魔物を追うロンメル。別の魔物を迎え撃つエリル。
 先に接触したのはエリルだった。
 エリルは魔物の攻撃を軽やかに躱すと、素早く振るった。常人ほどの腕力しかないエリルの剣は細くて軽い。その分、殺傷能力に乏しい。だが、素早い身のこなしと正確な剣捌きで、次々と急所を捉える。あっという間に魔物の動きを止めた。
 ロンメルは魔物に追いつくと、併走しながら剣を振る。横に飛び退きつつ躱す魔物を追い、振り向く前に一閃した。背中を大きく抉り、血が吹き出た。すかさず首元を狙うが、痛みに苦しみ暴れ回る魔物の腕に阻まれた。慌てて距離を空けると、攻撃をかいくぐり喉元に剣を突き立てた。
 ロンメルが振り返ると、また一匹村に入り、それをエリルが斬り伏せていた。
「エリル様、大丈夫ですか」
 駆け寄ると、エリルが息を切らせてロンメルを見た。
「平気です。ロンメルも無事で良かった」
 エリルが笑みを浮かべた。そんな彼女の頭を抱き寄せる。嬉しそうに笑うのが見え、ロンメルは心が躍った。
 すぐに手を離し、視線を村の外に向けた。大量にいた魔物はあらかた片付き、アンドレンが余裕を持って戦っている。その向こうで、激しい土埃が上がり地面が陥没している。ハバード達の戦いは熾烈を極めていた。
「あの二人の強さは凄いですね」
 エリルは次元の違いに唖然としている。だが、ロンメルは冷静に観察していた。
「それ以上にあの魔族は強い。このままでは負けます」
「え? おじいさまが……そんな……」
 エリルの表情が曇る。助けを乞うような目をロンメルに向けた。
「私達も手助けを……」
 ハバードの下に向かうエリルの手をロンメルが掴んだ。信じられないと言いたげなエリルに、首を横に振って悔しそうに言った。
「我々では足手まといです。ハバード様の言う通り、逃げるべきです。それに、先に逃げた彼らが気がかりです」
 エリルは名残惜しそうにハバードを見てから頷いた。
「急ぎましょう」
 彼女の表情は王女らしい凛々しいものに戻っていた。とりあえずは一安心だ。ロンメルはそう感じ、村人達が逃げた方向に意識を向けた。
 エリルを伴って走り出した。そんなロンメルの頭の隅に何かが引っかかっていた。嫌な予感と言うべきか。それを拭い去ることが出来ず、足を速めた。


       3

 村の裏手からあぜ道を通り、森に入る。新しい足跡を見つけ、それを追うと裏道に出た。表の林道と比べると道と呼べるほどの代物ではない。
「どっちに行ったのでしょうか」
 分かれ道で立ち止まり、エリルがきょろきょろする。
「アキサス方面でしょう」
 ロンメルは迷うことなく進んだ。
 魔王軍から逃げるのであればネンツ城から遠ざかる。単純な推理だ。
 即決した理由はもう一つあった。風に乗って漂う鼻を衝く匂い。それが何なのか考えずとも分かった。
 ロンメルは顔をしかめ、足をさらに速めた。エリルとの距離が徐々に離れていく。
「ロンメル、待って!」
 懸命に追うエリルは息も絶え絶えになり、突然立ち止まったロンメルに気付かず、その背中にぶつかってようやく止まった。
「置いてくなんて酷いです」
 非難の声に対してロンメルは何の反応も示さなかった。エリルはむっとして、振り向かせようと腕を掴んだ。そして体の脇からそれを見て絶句する。
 吐き気を覚え、その場にうずくまった。エリルはもう一度見るのが怖くて目をつぶる。
 彼女が見た物。今もロンメルが呆然と見続けている物。その視線の先には村人達の変わり果てた姿があった。
 戦った形跡もある。魔物の死骸も転がっている。
「……うぅ……」
 かすかな呻き声がした。
 ロンメルは声が聞こえた方を見る。村人の一人が僅かに体を震わせていた。すぐに駆け寄り抱き起こした。
「大丈夫か。しっかりしろ」
 傷の具合から虫の息なのは分かっていた。
「……ま、魔物が……」
 助けを求めるように手を伸ばす。その血だらけの手を握り、助けに来たことを教えると安心するかのように体から力が抜けていった。
 無力感に苛まれ、悔しさに耐えきれず涙がこぼれた。
「くそっ……こんなことが……」
 地面も何度も叩いた。それで悔しさが晴れることはないと分かっていながら何度も。その手を誰かが握った。
 ロンメルが顔を上げると、エリルがすぐ側にいた。
「エ、エリル様……?」
 気持ち悪さを必死に堪えるエリルが、ゆっくりと首を横に振る。
「これ以上傷つけないで」
「し、しかし、俺が無力なばかりに」
「違うの。私がここに立ち寄ったのがいけなかったの」
 真っ先に弱音を吐きたいはずなのに、彼女はロンメルをなだめようとしている。気丈に振る舞い、王女の役目を果たそうとしていた。
「隊長? エリル様?」
 聞き覚えのある声に驚き、二人は顔を上げた。そこには片腕をだらりと下げた兵士が立っていた。
「お二人は無事だったのですね」
 兵士は疲れ切った顔を僅かに緩ませた。すぐに苦痛を浮かべ、言葉を続けた。
「見ての通りの有様です。魔物に待ち伏せされていて、ほとんどの人が殺されました。女子供を逃がすのが精一杯で」
「生存者がいるのか」
 ロンメルの問いに兵士が頷いた。森の方を指差して言う。
「木陰に隠れています。私は近くに魔物が潜んでいないか見回りをしていました」
「そうだったのか」
 生き残った人達が安全を確認して出て来た。その姿を見て、エリルとロンメルはほっと胸をなで下ろした。
「これからどうしますか」
 兵士が切り出した。
「このまま近くの街に避難するべきか」
「馬車がなければ二日……いえ、三日はかかります。皆にその体力は残されているとは思えません」
「それもそうか」
 兵士の言うことは尤もだ。生存者の表情には明らかな疲労が見て取れた。食料や水の準備もせずに発てば結果は目に見えている。かといってこの場に止まればサーディルンが来る。ハバードとアンドレンを信じていないわけではない。それほど魔族の力が強大なのだ。
 八方塞がりとはこのことだ。打つ手を失い、ロンメルは唇を噛んだ。
 突然、風が吹きすさぶ。
 エリルの綺麗な髪がなびく。
 風が吹いてくる方を見ると、いつの間にか誰かが立っていた。全身を覆う外套が性別の判別すら不可能にしている。
 一つだけはっきりしていることがある。それは、そいつが敵だということ。あふれ出る殺気が全てを物語っていた。
「ロンメル・カスターだな」
 ぼそっと言うその声は低く男の物だ。男がゆっくりと近付いてきた。その足取りは軽やかで、地面に触れても砂が一粒として舞い上がることはない。
「あなたは誰ですか」
 そう言って不用意に近付こうとするエリルを制した。
「そいつの相手は俺がします」
「で、でも……」
「心配はいりません。エリル様は皆と下がって下さい」
 ロンメルの判断が最良なのはエリルも分かっていた。だが、敵だと分かってて相対するのを止められないのが悔しかった。渋々引き下がると、村人達を連れて距離を取る。後は兵士に任せて彼女自身は先頭で様子を窺う。
 ロンメルは男の前に進み出た。
 男は五メートルほどの距離を空けて止まった。
「お前の目的は何だ」
 剣の柄に手をかけ、相手の動きに注意を払った。男は嘲笑し、剣を抜き放つ。
「知れたことを」
「お前も魔族か」
「だとしたら?」
 ロンメルも剣を抜いた。
「一つ聞きたい」
「いいだろう」
 そう言う男の動きには寸分の無駄もなく、流れる水のようだ。隙のない佇まいにロンメルは息を呑み、口を開いた。
「村人を襲わせたのはお前か」
「ああ、その魔物達のことか。答えはノーだ」
 思わぬ答えにロンメルは唖然とした。自分達に敵意を向けるのは総じて魔王軍だと思っていたからだ。魔王軍の手先である魔物とは無関係であるならば男は何者なのか。ロンメルは困惑を隠せなかった。そして、次の言葉を聞き、愕然とする。
「だが、魔王軍に変わりない」
 すぐに警戒を強めた。
「厳密に言うとその魔物はサーディルンの手駒だ。俺と奴はネンツ王国の残党を追っていた。そして、この辺で戦闘が始まったことに気付き、加勢しに来たのだよ」
「あ、あなた達がお父さまを!?」
 ロンメルの後ろからエリルが声を荒げた。
「エリル王女か」
「どうしてこんなことをするの!?」
 エリルは涙をにじませて叫ぶ。
 サーディルンを相手には怖じ気づき震えていたのに、この男にはやけに突っかかる。弱そうだとかそう言うことではない。初めて会話の成立する敵を相手にして抑えていた感情が暴発したのだ。
「あなた達のせいでお父さまは、国民は、村の人達は亡くなったのよ。人の命を何だと思ってるの!?」
「あいにくその質問には答えられない」
「そんな……」
 男の初めての拒否。やはり他の魔族と変わらないのだと悟り、出来うる限りの憎悪を込めて睨み付けた。
「俺はこの国の人を誰も殺していないからな」
「え? どういうこと?」
 拍子抜けする答えにエリルは困惑した。
「あなたは魔王軍なのに……」
「俺は人殺しに興味はない。私怨で協力してるに過ぎないからな」
「私怨だと!?」
 二人のやりとりを黙って聞いていたロンメルが口を挟んだ。侵略者の言い分としては考えられない意外な目的に驚いたのだ。
「貴様の質問は一つだけしか許可した覚えはないぞ」
 外套の影から口の端が吊り上がるのが見えた。その嘲るような口調からバカにされていることを察し、ロンメルは顔を引きつらせる。下手な挑発に乗せられたことを自覚しながら声を荒げた。
「人殺しに興味がない? 私怨? 魔王軍に協力? ふざけるな! 魔王軍の為に多くの人の命が奪われた。それでも関係ないとは言わせない!」
 ロンメルは剣を構える。次の言葉如何では飛び出す覚悟を決めた。だが、ロンメルの気持ちを知ってか知らずか男は声に出して笑った。
「貴様の言う通りだ。その言い分なら俺も同罪と言えよう」
「またバカにするのか」
「そうではない」
 男は剣を地面に突き立て、僅かに姿勢を崩した。
「先に言っておくが、俺が魔王軍に参加したのはネンツ城が落城してからだ」
 そんな意外な発言に、真っ先に反応したのはエリルだった。
「本当に関係ないの?」
「それだけは誓って言える」
「それならなんで……」
 魔王軍に身を置く理由がエリルには分からなかった。なぜ最初からではないのか。その理由はすでに男の口から語られていた。
「さっきも言ったはずだ。私怨だと」
「私怨……?」
 父殺しと関係ないという言葉が嘘には思えず、敵意を向ける相手を純粋に憎めなくなった。話を聞きたいとさえ思えたのだ。そんなエリルをロンメルが制した。
「エリル様、敵の言葉に耳を傾けてはいけません。我々を動揺させるのが目的です」
「でも……」
 困惑するエリル。凄むロンメル。そんな二人を見て、男は高らかに笑った。
「くくく、変わらぬ奴よ」
 意味深な言葉に、二人は目を丸くした。それを無視するかのように口を開く。
「一ヶ月前、俺はネンツ王国の外れにいた。ある男に昔受けた屈辱を返す為、修行に明け暮れていた」

 人里離れた場所で修行をしていた彼は、風の噂に魔王軍のことを聞いた。
 ネンツ王国の領内に突如として現れた謎の軍勢。それが、遙か昔に天上界を震撼させた魔族の子孫だと分かり、実情を知る為に人里に降りた。そこで待ち受けていたのは悲惨な現実だった。
 街は焼かれ、人々は無残な姿に変えられ、地獄絵図と見まがう光景だ。
 魔王軍は酷いことをする。そう感じながら、憎しみにより俗世間を捨てた彼が心を痛めることはなかった。
 程なくしてネンツ城が落城したことを知った。そして、彼が憎しみを向ける相手が王女と共に逃げたことを知った。
 今こそ憎しみを晴らす好機だと感じ、駐留する魔王軍の部隊に踏み入った。突然現れた彼を敵だと思うのは至極当然のことだ。戦いになるが、彼の目的は伝わり、利害の一致から行動を共にすることになった。

「そうして奴らの情報網を利用し、残党となったその男を追ったのさ」
「それじゃ、あなたは……天上人?」
「そうなるな。あらかじめ魔族が送り込まれていなければだが」
 エリルは男の話を聞き、愕然とした。まさか天上人が魔王軍に荷担しているなんて。侵略の片棒を担ぐなんて。エリルは剰りのショックに呆然と立ち尽くしていた。
「エリル様、奴の言葉は嘘です。天上人がそんなことするはずがない!」
 そんなロンメルの声も今のエリルには届かなかった。ショックを受けたのはロンメルも同じだ。しかし、男の発言を認めるわけにはいかない。
 自らの発言でロンメル達の動揺を誘うことが出来たからか、男は嬉しそうだった。
「昔からそうだ。知らぬことはそうやって目をつぶり逃げていた。全く変わらぬ奴よ、なあ、ロン」
「な!?」
 ロンメルは剰りの驚きに、口をぽかんと開けて固まった。次に言葉を発するまで男はじっと黙っていた。
「な、なぜお前がその呼び名を……そう呼ぶのはあいつしかいないはずだ」
 そこまで言って重大な事実に気付いた。
 ”ロン”とはロンメルがまだ少年だった頃、ただ一人の人物だけが口にしていた呼び名だ。後にも先にも一人だけ。ロンメルという短い名前をさらに短くして呼ぶ。そんな変わり者は一人しか心当たりはない。
「だが、そんなはずはない。そんな……」
 ロンメルは行き着いた答えを端に追いやった。必死に否定した。それだけはあってはならないからだ。だってそれは、彼は唯一無二の親友だったから。決別した日から一度として会っていない。会えるはずがない。
「でも、まさか……お前がそうなのか」
 ロンメルには確信があった。これだけ長く話せば嫌でも思い出す。昔と比べて大人びたとはいえ、親友の声を忘れるはずがない。聞き間違えるはずはない。
 完全に否定することが出来なくなった。
 ロンメルは膝をついた。放心状態になり、完全に隙だらけだ。今襲われれば一溜まりもない。ショックで周りが見えなくなり、視界に映るのは目の前の男だけ。観念するかのように男の名前を呼んだ。
「ギーレン・ゲ・ビエト」
 そして、男は外套を脱ぎ捨てた。
 中肉中背、よく言えば渋い顔、老け顔で切れ長の目の青年。全体的に引き締まった顔立ちで、常に不敵な笑みを浮かべている。ぼさぼさの緑髪がずぼらな性格を表していた。
「少し背が伸びたか」
「貴様ほどではない」
「老けたな」
「それはお互い様だ」
「いや、お前はとても老けたよ」
 一見すれば感動の再会を果たした親友と冗談を言い合っているようだ。だが、二人の心中はそれとはかけ離れていた。ギーレンの目に、言葉の節々に憎しみが込められている。ロンメルはショックに打ちのめされていた。
「この日をどれほど待ち望んだか。本気の貴様をたたきのめす為に生き恥をさらしてきた。ようやく恨みを晴らすことが出来る」
 拳を突き出し、にやりと笑った。
「お前、まだあの日のことを……」
 ロンメルは唇を噛んだ。そんな彼らに困惑を隠せずにいるエリルが聞いた。
「どういうことなの」
 ロンメルが振り返る。その悔しさを湛えた顔を向けて言った。
「エリル様、覚えてませんか。三人で過ごしたあの日々を。俺とエリル様とギーレン、親友だった幼き頃のことを」
 噛み締めるように言うロンメルを見て、エリルははっとした。思い出したかのように表情を曇らせる。
「ギーレン……」
 これを運命のいたずらと言わずして何というのだろうか。ロンメルは苦々しい気持ちで満たされていた。




 第六章 エブィルの名を継ぐ者


       1

 ロンメルがギーレンと出会ったのは今から十五年も前のことだ。
 ロンメルはネンツ王国の中流階級の生まれだ。父は王国の兵士として国を守り、民を守ってきた。そんな父を誇りに思い、ロンメルは十才ながら自分もいずれは同じ道を歩むと心に決めていた。
 一方、ギーレンはよそからの流れ者で、父子二人で各地を旅していた。旅の途中、父親が病に伏せ、安住の地を求めてネンツ王国に訪れたのだ。ギーレンの父親を迎え入れる手続きやその後の世話などをしたのがロンメルの父だった。親を通じて二人は出会った。同い年と言うこともあり、意気投合して親友となった。
 ギーレンは父親の治療費を払う為、一番手っ取り早い兵士の道を選んだ。既にいっぱしの剣術を身につけていたし、ロンメルの父が後見人となってくれたので約束されたようなものだった。だが、程なくしてギーレンは父親を失った。
 哀しみを振り払うかのように鍛錬にのめり込み、ロンメルと競うようにして腕を磨いた。二人が十四才になる頃には、ネンツに二つの奇才有りと呼ばれるほど有能な少年へと成長したのだった。
 時を同じくして、城を無断で抜け出す王女のことが王国を騒がしていた。それ以外にこれと言った問題もなく、平和その物だった。
 ある夜、ロンメルとギーレンは不思議なことを目撃した。城で寝ているはずの王女エリルが疲れ切った顔で街をさ迷っていたのだ。
 この国にエリルの顔を知らぬ人はいない。王女だから公の場に顔を出すこともある。だが、人々の印象に残る一番の理由はその容姿だ。成長すれば絶世の美女になるのは間違いなしと言われるほどの美少女。可憐で人当たりも良く、同年代はともかく大人も憧れるほどの人物だった。表向きは。
 エリルは努力家だ。それ以上にお転婆娘だった。その事実を二人はすぐに知ることになる。
 エリルの様子がおかしいことに気付き、二人は後を追った。そして、城の裏手にある丘に辿り着いた。
「王女様がお忍びで何をしてるんだ」
 当然の疑問をギーレンが口にした。
「さあ。でも、一緒にいるのは宮廷魔術師のハバード様だ。まさか逢い引きじゃないよな」
「冗談を言うなよ、ロン。それに、あのじいさんは隠居するはずだ。世話になった礼でもしてるんだろ、きっと。そうじゃなきゃ夢に出そうだ」
 近付けば話を聞けただろう。だが、エリルに笑顔が戻るのを見て二人は安心し、その場を後にした。エリルは城に残り、ロンメルが想像した可能性は否定された。だが、公の場に現れる彼女の表情に影が差すようになった。
 エリルが気になり、まさかと思ってあの日の丘に行った。そこで目にしたのは悲しみに暮れる少女だった。
「お姫様、このような場所で何をなさってるのですか」
 突然声をかけられ、エリルは怯えた。ロンメル達が怖いからではない。何せお転婆娘だ。同年代に引けを取るはずがない。理由は簡単だ。城に戻されることを恐れたのだ。すぐに誤解は解け、打ち解けた。
「二人はよくここに来るの?」
 エリルはばつが悪そうに二人を見て聞いた。ハバードとの最後の密会を見ていたことや、その後の様子が気になり丘に来たことを話すと、恥ずかしそうに笑った。
「見られてたんだ、えへへ。うん、二人の思った通りよ。いつか会いに来てくれるのを待ってるの。でもね、やっぱり寂しいんだ」
 遠い目をするエリル。人前で気丈に振る舞う彼女も、まだ十三才の少女だ。慕っていた人がいなくなれば誰だって寂しい。そんなエリルを慰める為、ロンメルはハバードの代わりになることを決意した。この時には既に特別な感情を抱いていた。ギーレンも同じように好意を抱いていた。
 ロンメル達と会うようになると、エリルは笑顔を取り戻していった。
 再び幸せな時間を手に入れたエリル。そんな彼女の気持ちに変化が現れたのは出会って一年後のことだった。同時に、決別へのカウントダウンが始まった。
 エリルがロンメル達と会うとき、決まって鍛錬の場に現れる。兵士に見つかるといけないので、ロンメルの父の勤務を狙ってくる。相変わらず無断外出を繰り返すエリルだが、ロンメル達は今や共犯。
「ばれれば打ち首かな」
「王女をたぶらかした罪でか」
「そんなことはさせないよ。私のわがままに付き合わせてるんだから」
「その時は頼むよ」
「その前に俺達が王宮に入ればいい」
「そうなると嬉しいね」
「だが、今のような自由はなくなる」
「ロンの言う通りだな」
「それは困る!」
 そんな子供じみた会話を三人は顔を寄せ合ってした。座り込むと身動き一つ取れない狭い場所。そこは町外れにある使われなくなった納屋だ。内緒話をするときはこうして身を隠して行うのが決まりだった。恥ずかしくない素振りを見せているが、本当は気が気でない。十四・五の年頃の少年では仕方のないことだが。
「そういえば話があるんだっけ」
 ロンメルが思い出したかのように言うと、エリルは逡巡してから頷いた。
「いい話だと思ってきたけど、言う気が失せちゃった」
「気になるじゃねえか」
「やっぱりそうよね。うん、分かった」
 そう言って一枚の紙を懐から取り出した。それを受け取ったロンメルが頬を染めた。出したばかりでエリルの匂いや温もりが残っていたからだ。本人を目の前にして今さら意識するのもおかしい。気付かれぬように紙で顔を隠し、読むふりをした。
「私付きの近衛騎士の募集をするの」
「近衛騎士の?」
 ギーレンが眉根を寄せた。エリルは頷いて言った。
「ほら、私も直に成人だし、公務で出かけたりするでしょ。そのたびに選ぶのも大変だし、先に決めておこうってことになったの」
「それで募集か。変な話だな。そういうのは偉い奴が勝手に決めるんだろ」
 ギーレンがつい本音を口走ると、エリルはむっとして顔を背けた。
「どうせ変ですよ。せっかく私が頑張ったのに」
「どういうことだ」
「出来るだけ強い人がいいから大会形式にしようって。そうすれば二人にもチャンスがあるでしょ。誰でもいい訳じゃないから推薦が必要だけど、ロンメルのお父さまなら問題ないし。大会で優秀な何人かを選出するんだけど、二人のどちらかが優勝するから大丈夫だよね」
「よくそんな横暴が通ったな」
「凄いでしょ。二人とはもっと一緒にいられるかなって思って張り切ったの」
「信じられん奴だな。この国の将来が心配だ」
「もう、ギーレンはどっちの味方なの? ロンメルも何とか言ってよ」
 話を振られてロンメルが顔を上げた。首を傾げてエリルを見つめている。
「聞いてなかったの? 信じられない……」
 一から説明し直し、ロンメルはようやく理解した。
「近衛騎士か……自由は減るけど、まだ若い俺達にはいい機会か」
「ロンメルならそう言ってくれると思った」
 ぱあっと明るい笑顔になる。ただでさえ可愛い顔が、余計に可愛くなる。それはもう、二人にとっては凶器でしかない。卒倒しかけて何とか踏み止まった。
 二人の反応の意味が分からず、エリルは首を傾げた。そんな一つ一つの動作が、彼女がまだ無垢な少女であると物語っていた。
「ロンはエリルに甘すぎるぞ」
「いいじゃないか、俺達を思ってのことなんだし。それに、ギーレンは虐めすぎだ。好きな子をからかう子供か、お前は」
「な!? お前こそ点数稼ぎしてるだろ」
 照れを隠そうとして墓穴を掘った。恐る恐るエリルを見ると、彼女は笑っていた。
「本当に仲がいいね」
「誰がこいつなんかと!」
「勘弁しろよ!」
 当時に叫び、エリルが身を竦めた。だが、我慢出来ずに吹き出す。それにつられてロンメルとギーレンも笑い出した。
 しばらく笑い転げていると、エリルが帰る時間になった。ギーレンは用事を思い出して先に戻り、エリルとロンメルが取り残された。
 城の近くまで送るのが男の役目。などとエリルに言われて帰路に付き合わされた。
「あのね、一つ言い忘れてたけど、優勝者には普段から専属の護衛になれるの」
「え? そうなのか」
「うん。だから頑張ってね」
 ロンメルは動揺を隠せなかった。優勝者以外はどうなるのか。もし自分が勝てばギーレンは……。そう悩むには大きな理由が二つあった。一つは、本気で戦えばロンメルが勝つ可能性が高いこと。もう一つは、ギーレンの気持ちが本気になりつつあること。つい先日、相談されたばかりだった。
「ギーレンにも教えないとな」
 そう言って戻ろうとするロンメルの腕を掴み、エリルは首を横に振った。困惑するロンメルにこう告げると、逃げるように去った。「ロンメルに頑張って欲しいの」と。
 エリルの言葉の真意を理解出来ず、ロンメルは呆然と立ち尽くした。そして、言われたとおりギーレンには教えなかった。
 悶々としたまま大会の日を迎えた。
「ロン、今日は本気の勝負だ。手を抜いたら承知しない」
 そう言うギーレンに対してしぶしぶ頷いた。だが、負けようと心に決めていた。
 二人は順当に勝ち残り、決勝戦で雌雄を決することになった。ロンメルはちらりとエリルを見た。彼女は期待の眼差しをロンメルに向けている。既に目の前の戦いしか見えていないギーレンは、エリルの変化に気付かない。
 後ろめたい気持ちがロンメルの心を支配した。そんな彼を嘲笑うかのように試合は始まった。本気で戦うギーレン。どう上手く負けるかを考えるロンメル。二人の勝敗は戦う前に決まっていた。
 剣を打ち合う二人。ギーレンがすぐに異変に気付いた。
「なぜだ、ロン! なぜ本気を出さない!?」
 その問いに答えられるはずがなかった。答えれば今まで築いてきた三人の関係が壊れる。それが一番怖かったのだ。だが、黙っていてもいずれは……。
 ギーレンの視線が、エリルの声援がロンメルを射貫く。
「答えたくなるまでいたぶってやる」
 ギーレンの表情が悪意に塗り固められた。
 一方的な攻撃をロンメルは捌く。だが、本気を出させようと急所を狙うギーレンに、徐々に余裕を奪われていった。
 ロンメルの表情がどんどん曇る。焦る気持ちとは裏腹に、罪悪感が募っていった。それでも勝つことだけは出来ない。
「……めなんだ……」
 ついには口を割って出た。手を休めるギーレンに気持ちを爆発させる。
「駄目なんだ、俺が勝っては。俺は二人を失いたくないんだ。だからもう戦えない。分かってくれ、ギーレン」
 ロンメルの真意が分からず、ギーレンは困惑した。なぜロンメルが勝つと悪いのか。大会の隠れた理由を知らぬギーレンには想像も出来ない。それでも、今にも泣き出しそうな顔をするロンメルを見て一つの可能性に気付いた。
 ちらりとエリルを見て確信する。彼女は目を丸くし、口を両手で覆う。涙をにじませ、喘ぐように声を漏らしていた。
「俺に隠れてこそこそと……」
「ち、違う! 俺は何もしてない」
「それならなぜエリルがあんな顔をする?」
 苦しむロンメルを見てエリルが苦しんでいる。それだけでもギーレンが二人に疑惑を向けるのには十分だ。
「そうか……そういうことか」
 合点がいったようだ。ギーレンの表情が沈む。
「俺は道化を演じさせられていたのか」
 呟くように言うと、憎悪で満たされた顔をロンメルに向けた。剣を構え直すと、殺気を漲らせてロンメルを襲った。為す術もなく斬りつけられ、一瞬でぼろぼろになって倒れ込んだ。止めを刺そうと剣を突き立てる。
「最後に言うことはないか」
 それが最後のチャンスだった。ギーレンを親友として繋ぎ止めるには誤解を解かなければ。その為にはエリルとの約束を反故にしなければならない。迷っている間にギーレンの心は決まった。
「俺は貴様を親友と思っていたが違ったようだ。何があったかは知らん。だが、本気を出さぬ貴様に価値はない。俺の手にかかって死ね」
 鬼のような形相で剣を振り上げる。ロンメルを本気で殺す気でいることに気付いた周囲の人達が止めに入るが、間に合いそうもなかった。誰もが諦めかけたとき、誰よりも早く飛びだしたエリルが間に割って入った。
 ギーレンは慌てて軌道をそらすが、間に合わずにエリルの腕を傷つけた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
 エリルはロンメルに覆い被さり、ぼろぼろと涙をこぼした。必死に謝る様を見てギーレンは驚きを隠せなかった。
「どうして……」
「私が全て悪いの! 私がロンメルに余計なことを言ったから……だから彼を責めないで! 責めるなら私を責めて!」
 エリルが泣き崩れた。
 ギーレンがエリルを責めることはなかった。エリルの気持ちは嫌と言うほど伝わったし、何より気を遣わせたことが悔しかった。自分たちの気持ちに振り回されたことよりも、ロンメルとの真剣勝負に水を差されたことよりも。
 そして、一つの思いに気付いた。ギーレンが一番望んでいたのはロンメルとの真剣勝負だ。本気で戦えることを一番……。エリルへの思いよりも遙かに強い気持ちだ。どんな理由であれ、それをロンメルに踏みにじられた。この先、何があっても本気のロンメルとは戦えない。その事に気付かされた。
 ロンメルへの憎しみが芽生えた。それは見る見るうちに膨れあがった。だが、この場で晴らすことは不可能だ。
 二人に背を向け、ギーレンは去った。そして、二度と姿を現さなかった。
 エリルは自分の浅はかさを悔やみ、塞ぎ込んだ。笑顔を取り戻してくれた親友の一人を失ったことを悔やんだ。
 エリルはこの日の出来事を記憶の奥に押し込めた。そうして精神を正常に保ったのだ。記憶は薄れ、いつしか思い出すことはなかった。その間も、ギーレンはずっと囚われたまま。時間は憎しみを深く大きな物に育てたのだった。

 過去の過ちの記憶が溢れ出し、エリルは喘ぎながらへたり込んだ。再会出来て嬉しいはずなのに、素直に喜べない。何より、ギーレンの憎しみの深さが恐ろしくて気持ちが、体が竦んでしまう。
「あの日には戻れないの?」
 何とか絞り出すが、即座に否定される。
「きっかけを作ったのは貴様だということを忘れたのか」
「で、でも……」
 必死に食い下がろうとするが、言葉が続かない。変わり果てたギーレンの雰囲気がエリルを気怖じさせる。
「俺の目的は今も変わらん。その為に魔王軍に魂を売ったのだ。憎むべき敵なのだよ」
「どうしてそんなことを……」
 瞳を潤ませるエリルを見ても、ギーレンの意志が揺るがない。低い声で嘲るように笑った。
「何度も言わせるな。俺はあの時に受けた屈辱を返す為だけに生きてきた。その為に魔王軍をも利用した。そしてようやく念願が叶う時が来た。今日こそ目的を果たさせて貰う。ロンメル、剣を持て」
 ギーレンは剣を手にしながら言った。立ち上がるロンメルとの間にエリルが割って入る。
「二人が争うなんて駄目よ!」
「いい加減にしろ!」
 阻むエリルの腹を殴った。鈍い音と共にエリルが崩れ落ちる。
「どうして……」
「俺は貴様らの敵だ。もう遠慮することはあるまい」
「…………」
「これでも黙りを続けるのか。それなら仕方ない。嫌でも戦う気を起こさせてやる」
 進み出て足下のエリルに剣を突き立てた。
「ギーレン、お前は本気か」
「ああ、本気さ」
「一度は好いた人に剣を向けるなんて正気の沙汰とは思えない」
「俺を裏切る奴に興味はない」
 エリルが悲しげな眼差しを向けている。それでギーレンが動じることはなく、あまつさえ殺気を彼女に向けた。
「これで終わりだ」
 剣を振り上げると、一瞬も迷うことなく振り下ろす。ロンメルの目の前でエリルが串刺しにされようとしていた。かつての友の手で。
「やめろーーーーーーーーっっっ!」
 ロンメルは力の限り叫んだ。


       2

 村の近くの地面は抉れ、激しい戦闘で木々も薙ぎ倒され、根こそぎ消し飛んでいた。
 被害は村にも及んでいた。家屋は倒壊し、炎上している。村人が避難したおかげで人的被害はない。だが、住めるような状態ではなかった。
 豪快なサーディルンの攻撃をハバードは何とか避けていた。最初は打撃を与えられていたが、今は防戦一方だ。時間が経つにつれ、サーディルンの攻撃が速まっていく。その反面、ハバードの動きは緩慢になっていった。
 体が悲鳴を上げる。これ以上避け続けるのは難しいと思えるほど全身が重い。
 サーディルンの渾身の攻撃を躱した。すかさず後ろに跳び、十分な距離を取った。
 息を切らせるハバードをサーディルンが嘲り笑った。
「もうお終いか。思ったほどではなかったな。シュピールの奴がこいつに後れを取るとは信じられん」
 反論しようとして前に乗り出した瞬間に膝ががくんと落ちた。ハバードの体は言うことを聞かない。もう限界だった。
 対するサーディルンは、肩を震わせてはいるが余裕に満ちていた。
「そろそろ終わりにしよう」
 サーディルンが斧を持ち上げる。ゆっくりと足を進め、ハバードの目の前で立ち止まり斧を振り上げた。
「これで一人目だ」
 サーディルンの顔から憎悪が溢れ出す。腕に力を込め、斧を振り下ろした。その直後に風が荒れ狂い、金属音が鳴り響いて動きを止めた。視線の先には銀色に輝くアンドレンがいた。自身のサーベルで斧を防いでいたのだ。
「ほう、受け止めたか。だが!」
 歯を食いしばり、斧に体重を乗せた。バキンと折れる音が響き、真っ二つになったサーベルの片割れが地面に突き刺さった。
 力を見せつけてもなお表情を変えないアンドレンを不気味に感じ、サーディルンは飛び退いた。そもそもロボットに表情はないが、それを知るはずがない。
「アンドレン、お主の敵う相手ではない。すぐに逃げるのじゃ」
「イエ、最後マデオ共シマス」
「命令を聞かぬじゃと? ついに故障したか」
「最優先事項ハアナタノ護衛デス」
「そうじゃったな」
 ハバードは苦々しく顔を歪め、手を膝について立ち上がった。自由には動かないが、魔術ならば戦える。
「少しだけ時間を稼いでくれ」
「了解シマシタ」
 自信ありげに言いながら、ハバードは勝機を見いだせずにいた。それでも戦いはやめられない。残りの力を一撃に乗せる。僅かな可能性に命運をかける決意をした。その希望すらあっさり打ち砕かれることになる。
「どちらにしろ結果は同じだ」
 サーディルンが地を蹴ると、同時にアンドレンも前に飛んだ。一瞬で間合いを詰めると、お互いの武器がぶつかる。残されたサーベルもあっさり折れ、後ろに飛んでいった。すかさず繰り出される攻撃を、アンドレンは空に飛び上がって避けた。
「甘いな」
 サーディルンは膝を曲げると、アンドレンに向かって跳躍した。空中で肉薄すると、避ける暇も与えずに一撃を繰り出す。
 斧がアンドレンの腕に食い込んだ。鋼鉄のボディは抉れ、火花が飛び散る。片腕が機能を失い、だらりと垂れた。
「アンドレン、避けろ!」
 地上からハバードの声が響き、アンドレンは反転して離れた。サーディルンが視線を降ろして驚愕に顔を染めた。
 ハバードの両手には、渦巻く球体と燃えたぎる光球が浮かんでいる。二つを重ね合わせると炎に風が絡まり、竜が踊り狂うように球体を描いた。
「風よ、炎を纏い荒れ狂え」
 それがサーディルンに向かって突進する。力を失って落下するサーディルンは避けることも出来ず、とっさに出した斧に直撃した。大きな爆発を起こし、奔流が炎のかまいたちとなって相手を包み込む。
 激しい煙の中からサーディルンが落下してくる。受け身を取れずに地面に激突した。その周囲に破片が散らばり、僅かにかけた斧がどすりと落ちる。だが、擦り切れた全身にはそれ以上に目立った外傷もなく、すぐに立ち上がった。
「強力な魔術だ。さすがに驚かされたぞ」
 塵をはたきながら不敵な笑みを浮かべた。
「だが、力を使い果たしたようだな」
 サーディルンの言う通りだった。ハバードは膝をつき、絶望の色を浮かべている。打つ手も体力も魔力さえも残されていない。
 アンドレンがハバードの前に降りたった。
「まだやる気か。ならば相手をしてやる」
 斧を拾うと、一歩、また一歩進む。相手が恐怖を感じるのを楽しむかのように。完全なる勝利を前にして余裕を見せていた。獲物を前にして舌なめずりするのは殺し屋としては三流だ。だが、この場において勝利は誰の目にも明らかだ。そう、この瞬間までは。
「シュピールには悪いが手柄は俺の物だ。安心しろ。苦しまずに殺してやる」
 高らかに笑うと、ぼろぼろになってまで立ち向かうアンドレンを叩き伏せた。ハバードの頭上から斧を振り下ろした。
 風を切る音がした。
 斧が地面に突き刺さる。地面が抉れ、土が舞い上がった。だが、真っ二つにされるはずのハバードの姿がない。
 直前に前を通り過ぎた影を追い、視線を巡らす。
「大丈夫か、ハバード」
 若い男の声。若々しい出で立ちに、サーディルンが初めて見る顔。その男に支えられ、ハバードが目を丸くした。そして、ほっとしたかの表情が緩む。
「戻ってきてくれたのじゃな、フラットよ」

 シュピールからハバード達の身に迫る危機を知られ、フラットは無我夢中で走った。そして村の近くでの大きな爆発を目撃した。
 膝をつくハバード、たたき伏せられるアンドレン、斧を振り上げる男。その周囲の地面は抉れ、大量の魔物の死骸が転がっている。一瞬で状況を理解し、ハバードを救うべく駆けた。足に意識を集中し、風に乗る。
 突風のごとき加速を得て、サーディルンの前を横切った。ハバードを抱えて通り過ぎると、フラットの背後で土埃が巻き上がった。
 心配そうにハバードを見る。ほっとしたハバードをその場に座らせた。
「貴様は何者だ」
 サーディルンが声を荒げた。それを無視するかのようにフラットは口を開いた。
「何とか間に合ったな。さすがにひやっとしたよ」
「面目ない。わしはもう年かのう」
「やっと自覚したのか、このじじいは」
「ははは、すまんすまん」
 絶望に苛まれていたハバードから笑みがこぼれる。彼にとってそれほどまでにフラットの存在が大きかった。
「何者かと聞いている!」
 サーディルンが声を張り上げた。
「こんなにぼろぼろになって」
 フラットの表情が沈む。
「名誉の負傷じゃよ、フラット。お主が心配せずとも良い」
「俺が一緒にいればこんなことにはならなかった」
「えらい強気になったのう」
「茶化すなよ。俺がどれだけ心配したか……」
 ハバードの肩を握る手に力がこもる。全身が震え、涙で地面を濡らした。
「ふざけるな! 俺様を無視するのか!?」
 サーディルンが力の限り叫ぶ。それすらも無視して、フラットは辺りを見回した。
「エリルは……他のみんなはどうしたんだ」
「ここから避難しておる」
「それじゃ、無事なんだな」
 期待に胸を膨らませるフラットに、ハバードは首を横に振って言った。
「敵がこれだけとは限らぬ。今頃襲われておるやも」
「それなら、早く倒して助けに行くぞ」
「フラット、奴は強いぞ。お主が勝てるのか」
 不安に表情を曇らせるハバードに、何も答えずに笑顔を見せた。自信を口に出すのは簡単だが、実行するのは甘くない。それでも何とかしてみせる。その強い思いが全身に満ち溢れていた。ハバードを安心させるほど確かな気持ち。
「そうか、分かったぞ。貴様がシュピールの報告にあった男か。ハバードよりも弱いと聞いている。そんな奴が俺様に勝とうなど百年に早いわ!」
「弱い奴ほどよく吠える」
「何だと、貴様ぁ!」
 憎悪を漲らせると、側で倒れたままのアンドレンを踏みつけた。
「こいつがどうなっても――」
「足を離せ」
「はあ?」
「足を離せと言ったんだ」
 フラットは立ち上がり、振り返った。その顔を見てサーディルンが身を竦ませる。反射的に怯えてしまうほど気迫に満ちていた。鬼のような形相で相手を睨み、全身から溢れ出す闘気が一帯を包む。
 背筋が凍り付くような錯覚がサーディルンを襲った。自分に絶対の自信がある彼でさえ、その足を離してしまう。
 フラットが進み出ると、反射的に後ろに下がった。
「くっ、この俺様が天上人ごときに怯えるのか」
 サーディルンの顔が強張る。何とか踏み止まるも、既にフラットはアンドレンの側だ。フラットはかがみ込んだ。
「アンドレン、大丈夫か」
「回路ニ異常ガアリマス。修理ガ必要カト」
「そうか。それならしばらく待ってろ」
 再び立ち上がると、サーディルンを見据えた。未だに怯えを隠せず、必死に振り払おうとしている。
 ハバード達を傷だらけにした相手。サーディルンに対して言い知れぬ憎しみが芽生えた。殺気を漲らせると敵は驚愕に顔を染めたのだ。
「き、貴様、その気配は何だ! なぜ同じ――」
「ご託はもういい。確かなのは敵だということだけだ」
 剣を抜き放つと、目を閉じて呼吸を整える。意識を集中し、感覚を研ぎ澄ませた。溢れ出ていた殺気が一瞬で消え去る。
 サーディルンは呪縛から解き放たれると、薄ら笑いを浮かべた。
「貴様の言う通りだ。所詮、勝った奴が正しいだけのこと。貴様の首を手見上げにすれば目的に近づける。くくく、俺様の前に出て来たことを後悔しろ」
 サーディルンは全身に力を漲らせた。腕が足が胸板が、全身の筋肉が盛り上がる。ハバードとの戦いの時より一回り大きい。
 膨れあがる殺気にフラットは息を呑んだ。気怖じしそうになるが、すぐに気持ちを静めた。シュピールとの戦いの最中の感覚を思い起こす。
(俺なら出来る。エブィル、俺に力を貸してくれ)
 そう言い聞かせると、一瞬だけエブィルの姿が浮かんだ。自信に満ちた優しい笑顔に後押しされ、目を開いた。フラットの表情から迷いが完全に消え失せていた。
 ゆっくりと剣を構える。
 サーディルンが地面を踏みしめ、斧を構えて飛び出そうと前のめりになった。地を蹴り、フラットめがけて突進する、まさにその時だった。
 フラットが踏み込むと、サーディルンの視界から姿が消えた。残るのは僅かに巻い上がる砂煙だけ。次に姿を現したのはサーディルンの目の前だった。
 避ける間も与えずに一閃。とっさに斧で防ぐサーディルンに、さらに一撃を加えた。
 衝撃に耐えきれず、後ずさるサーディルン。たまらず後方に跳ぶと、それを追ってフラットも地を蹴った。
 間合いを空ける暇も与えず、フラットは距離を詰めた。上段から頭上めがけて剣を振り下ろすと、手首を返して相手の手首を狙った。防がれるのも構わず胴体めがけて横薙ぎにする。激しい金属音と共に衝撃が返ってくる。それを上手に逃がし、身を翻して反対の脇腹めがけて剣を振るった。
 斧を出すのが精一杯のサーディルンは、フラットの最後の攻撃を受けて体が横に吹き飛んだ。手をつき、地面に打ち付けられるのだけは避け、体勢を立て直す。前方を見据えると、既にフラットはいなかった。
「くっ、どこに消えた」
 探す隙すら与えなかった。フラットは身を低くし、数歩で距離を詰めると懐に飛び込む。すかさず斬り上げた。
 突然視界の下に現れた敵に対し、サーディルンは身をよじって距離を取った。フラットの斬撃が鼻先をかすめる。体制が崩れるが、今が好機と見るや体が伸びきるフラットめがけて斧を叩き付けた。
 斧は空を切り、地面を抉る。フラットは跳び上がって攻撃を躱すと、頭上から剣を突き立てた。視線を上げるサーディルンが驚愕して目を見張る。攻撃が当たる瞬間、斧から手を離したサーディルンが光球を放った。避ける間もなく直撃。光球が真っ二つに切り裂かれると同時に爆発。衝撃で吹き飛ばされた。
 宙を舞い、難なく着地するフラットを見てサーディルンが信じられない物を見るような目をした。それもそのはず、爆発の中で傷一つついてなかったのだ。軽い身のこなしも、重力を無視していると思わざるを得ない。
 サーディルンは目を凝らし、異変に気付いた。
「そうか、風の魔術か」
 合点がいき、サーディルンは口の端をつり上げた。
 フラットの足下で砂が巻き上がり木の葉が舞い、風が渦を巻いている。
「光球がぶつかる瞬間に風で身を守るとはな。貴様の実力を見誤った――」
「口数が多いのは焦っている証拠か」
 全く表情を崩さず、フラットはぼそっと言った。サーディルンの顔が怒りで染まる。歯を食いしばり、握る拳に力がこもる。
「き、貴様ぁ、俺様を愚弄するかっっっ!」
 サーディルンが吠えるかのように叫んだ。怒声は地面を揺らし、空気を震わし、木々をなびかせる。立っているのもままならない揺れの中で、フラットは平然としていた。
 サーディルンがフラットを睨み付けた。
「貴様は俺様の全力を持ってねじ伏せる。塵一つ残す気はない」
「そっくりそのまま返す」
 フラットの挑発が更なる怒りを誘った。サーディルンにはもう平常心の欠片もない。
 怒りは力を最大限に引き出すとよく言う。だが、それが間違っていることをフラットは知っていた。怒りは枷を外すだけ。それで冷静さを失っては元も子もない。どれだけ高揚しても平常心だけは保ち続ける。それをエブィルの血が教えてくれた。
 サーディルンが斧を拾う。斧を振るうと、炎が迸った。
「業火よ、我に纏え」
 激しく燃え上がる炎が斧を包み込む。
「これで終わりだ!」
 サーディルンが地を蹴った。だが、フラットは身動き一つせず、意識を剣先に集中する。剣を中心に風が渦巻き、幾重にも重なって包み込んでいく。
「風よ、敵を切り裂く刃となれ」
 剣を水平に倒し、身を屈めながら後ろに引く。足下を舞う風が急激の速度を上げた。サーディルンが目前に迫ると、臆することなく踏み込んだ。
 炎を纏う斧と風を纏う剣が激しい音を立ててぶつかった。火の粉が飛び散り、風が地面に突き刺さる。互いにせめぎ合い、力は完全に拮抗していた。
「これならどうだ!」
 サーディルンが体重を乗せる。腕に更なる力を注ぎ込んだ。フラットの足下が沈む。陥没する範囲が広がる。体が後ろにずり、完全に力負けしていた。
(もっと鋭いイメージを)
 風を研ぎ澄ませる。剣を覆っていた空気が、徐々に凝縮していった。さっきまで巻いていた渦がかき消えた。
 サーディルンが勝利を確信した。にやりと笑い、渾身の力を込める。
 鈍い音が響いた。
 怪訝な顔をするサーディルンの目の前で斧に亀裂が走った。再び鈍い音がすると亀裂が広がる。何が起きるのかを察したサーディルンが目を見張った。
 フラットの剣が斧に食い込む。見る見るうちにひびは広がり、豪快な音を立てて真っ二つに割れた。慌てて跳び退るサーディルンに剣は食らいつき、咄嗟に張った魔術による防御壁もろとも吹き飛ばした。
 サーディルンの体は地面すれすれを飛び、家屋を巻き込みながら森の奥へ転がった。多くの木々を巻き込み、ようやく止まる。ぐったりとして動かなくなった。
「倒したのじゃな」
「まだだ。見た目ほどのダメージはない」
 足を引きずりながら近付いてくるハバードを手で制した。よろよろと起き上がるサーディルンに視線を向けたまま。
「あまり向こうへ行っては――」
 ハバードの忠告も聞かずにフラットは地を蹴った。ぐんぐんと速度を上げてサーディルンに駆け寄る。
「――そっちには姫様達が!」
 言い終える頃には並の大声では聞こえぬほどの距離があった。その速度も、その凄まじい攻撃も、ハバードの知るフラットとはまるで別人だ。驚愕しつつ後を追おうとしてアンドレンが目に映った。
 動けずにいるアンドレンの胴体を蹴った。
「どうじゃ、直ったか」
 アンドレンがすくっと起き上がる。
「コレハ修理デハナイ。スグニ停止スル可能性大デス」
「後でちゃんと直してやる。それよりもわしを抱えてフラットを追え」
 剰りの原始的な直し方に、機械のアンドレンでさえ呆気に取られる。だが、とりあえずは動くことを確認すると、ハバードの指示に従った。その時にはフラットとサーディルンが再び接触していた。

 ギーレンの剣がエリルに迫っていた。なりふり構っていられなくなり、ロンメルは剣を手に取り地を蹴った。エリルを傷つけるよりも早く受け止めた。
「やっとやる気になったか」
 ギーレンはせせら笑うと剣を引き後ろに跳んだ。ロンメルはかがみ込み、エリルの様子を見る。痛みで唸ってはいるが命には別状はない。ほっと胸をなで下ろし、ギーレンを睨み付けた。
「お前の望み通り本気を出す。だからエリル様には手を出すな」
「保証は出来ん」
「くっ、ギーレン……」
 唇を噛むロンメルに対し、やれやれと言いたげにギーレンが手を上げた。
「俺は約束してもいいが、他の奴まで保証は出来ないということだ。エリル王女は魔王軍に命を狙われている。貴様も知ってるだろ?」
 ごく当たり前のことだ。だが、ギーレンも、今やその魔王軍の一員だ。その全てを信用するわけには行かない。とはいえ、ロンメルに選択肢は残されていない。
「俺はお前を倒す。そして魔王軍も退ける」
「理解が早いな。所詮は敵同士。剣を交えるしかないということだ」
 ギーレンが剣を構えた。
 ロンメルはエリルの前に進み出る。
「……争って……ダメ……」
 声を絞り出すエリル。ロンメルは振り返らずに首を横に振った。
「すみません」
 震える声で謝ると、剣を構えて跳びだした。
 斬撃を受け流したギーレンがすかさず一閃。ロンメルは後ろに跳んで躱し、間髪入れずに剣を振るった。互いの剣が何度もぶつかり、そのたびに甲高い音が響く。二人は肉薄し、距離を空けるとすぐに懐に飛び込む。
 不毛に見えた戦いに変化が訪れた。
 エリルから引き離そうと押し込むロンメルに対し、ギーレンは逆らわずに下がり続けていた。十分に距離が空くと、踏み込みつつ一閃したのだ。
 素早い斬撃に、ロンメルは防ぐので手一杯になり攻撃に繋げることが出来なかった。立て直す暇もなく、次の攻撃がロンメルを襲う。
 連続で繰り出される攻撃を防ぐと、ギーレンが手を休める隙を狙って剣を振るった。それは空を切り、続けざまに繰り出した攻撃も躱される。三撃目も難なく受け止められた。
 身を翻しつつ繰り出される横一線の攻撃がロンメルの脇腹を襲う。剣を下に向けて受け止めるが、強い衝撃で体が吹き飛んだ。横に転がり体勢を立て直すと、すぐ側までギーレンが迫っていた。
「貴様の力はそんな物か」
 頭上から振り下ろされる剣を何とか受け止める。力を横に流しつつ懐に入り込むと斬り上げた。だが、ギーレンは軽々と宙を舞い、攻撃を躱したのだ。
 ギーレンは着地すると同時に地を蹴り、一瞬で間合いを詰める。
 低い体勢から脇腹に放たれる攻撃をロンメルは後ろに跳んで躱した。続けざまの斬撃を受け止める。
 剣を合わせたままつばぜり合いを始め、力が均衡を保ち続けた。
「昔よりも弱いな」
 ギーレンがにやりと笑いながら言った。
 ロンメルはギーレンの強さに驚いていた。昔と比べて遙かに強くなっていたのだ。ロンメルも鍛錬を怠ったわけではない。ギーレンがそれ以上に成長していたのだ。
「まだこれからだ!」
 力任せに剣を押すと、ギーレンが後ろに下がった。間髪入れずに地を蹴る。
 ロンメルは最初から全力だった。迷いはある。だが、自分が戦わなければエリルを守れない。それだけは紛れもない事実だ。だから本気でギーレンを叩き伏せようとした。しかし、ロンメルの攻撃は相手を捉えられなかった。
 ギーレンの動きには余裕がある。本気を出していないのは明らかだ。他人に本気を出すようにけしかけておきながら。
 ロンメルはギーレンに肉薄し、斬撃を繰り出した。難なく躱され、はじかれ、受け止められる。それでも攻撃の手を緩めなかった。真意は分からぬが、今の内に勝負をつける。それしか勝機はない。
「何のつもりだ。それで全力か」
「そうだ!」
 相手の挑発を聞いている暇はない。早く、さらに速く。
 ロンメルがいくら念じても、いくら全力で斬りつけても状況は変わらなかった。それどころか、ギーレンの反撃がどんどん重さを増していった。
「これまでか」
 ギーレンが僅かに肩を落とす。斬り合いの最中に見せる、失望感。それが何なのか考える時間はロンメルにはなかった。
 ロンメルの攻撃をはじくと、ギーレンは後ろに跳んで距離を空けた。構え直すと、姿勢を低くして剣先に意識を集中した。向かってくるロンメルを見据えると、ゆっくりと息を吐き出す。目前に迫ったところで踏み込み、目にもとまらぬ速さで斬り上げた。
 神速の斬撃。ロンメルは反応すら出来ず、握っていた剣が跳ね上がる。体勢を立て直す間もなく、鼻先に剣を突き立てられた。完全な敗北だ。ロンメルは死を覚悟して膝をついた。
「これだけ望んだ戦いがこうもあっさりとけりがつくとはな」
 ギーレンは剣を引いた。
 命を救われたのか。ロンメルはそんな甘い考えをすぐに否定した。ギーレンから殺気が消えてなかったからだ。
「こんなくだらないことに十年もの歳月を費やしたとは。だが、これではっきりした。貴様にはもう生きる価値もない」
 吐き捨てるように言うと剣を振り上げた。哀れな物を見るような目でロンメルを見下ろす。そして、逡巡することもなく振り下ろしたのだ。
 エリルを守れなかった。ロンメルの頭の中がその悔しさで埋め尽くされる。だが、もう苦しむことはない。自分が裏切った親友の手にかかるのなら仕方ない。完全に諦めかけたその時だった。
 ドゴーーーーン!
 激しい衝突音が一帯を包んだ。耳を塞いでも防げない、鼓膜の奥をつんざく大きな音。その直後に、暴風が吹き荒れた。周囲の木々が根こそぎ吹き飛び、ギーレンもバランスを崩してその場に膝をついた。
 風が吹いてくる方に視線を向けると、何かがきらりと光った。と同時に何かの影が勢いよく向かってきたのだ。それは視界の前を通り過ぎ、地面にぶつかった。
 再び衝突音が響き、地面が陥没。衝撃波と共に舞い上がった土埃が周囲に飛び散った。その量もさることながら、勢いが凄まじく、視界を奪われた。倒れまいと必死に踏ん張るが、それも叶わず後方に吹き飛ばされたのだ。
 すぐに衝撃は収まり、視界も戻った。何かがぶつかった場所に目をやり、ロンメルは驚愕した。ギーレンも驚きに目を見張る。
「何が起きたの?」
 エリルは何とか起き上がり、ロンメルを支えにして前方を見据えた。そこには誰もが信じられぬ光景があったのだ。
「サ、サーディルン?」
 誰とも言わずその名を口に出し、さらに困惑した。村の近くで戦っていたサーディルンが目の前にいたのだ。ハバード達を倒し、自らの意志で来たのではない。何かに飛ばされ、クレーターと化した地面でぐったりしている。
 状況が理解出来ずにいる三人。
 強風が吹き荒れ、エリル達の前に見知った影が降り立った。
「エリルとロンメルか。無事だったんだな」
 ちらりと二人を見て言うと、優しく笑った。そう、その影――彼こそがフラット・エブィルその人だったのだ。


       3

 フラットは降り立ち、近くで膝をつくエリルとロンメルを見た。目を丸くする二人に笑いかけるが、反応が返ってこない。無事と思って安心した先から不安に駆られた。よく見れば、擦り傷だらけだ。
「もしかしてやばいのか」
 途端にあたふたし出すフラット。颯爽と登場した割に、剰りに子供らしい慌てようだ。エリルが思わず噴きだした。
「フ、フラットさん、あははは、何なんですかもう」
 腹を抱えて笑うエリルを見て、気恥ずかしくなった。フラットは頭をかきながら顔を背けた。その反応がおかしくてロンメルも笑い出す。
「ロンメルまで笑うことないだろ」
 フラットはふくれて背を向けた。しょんぼりとして肩を落とすと、ぼそっと言った。
「良かった、無事で」
 その言葉で、どれだけ二人を心配していたかが伝わり、エリルが目を潤ませる。しばらく感傷に浸り、はっとして言った。
「争いに関わりたくなかったんじゃ……」
 エリルの問いに、フラットは首を横に振った。振り返り、彼女の目を真っ直ぐに見た。
「関わりたくないよ。でも、目の前に助けられる人がいて放っておくなんて俺には出来ない。それだけのことさ」
「それでも……それでも嬉しいです。ありがとう」
「礼は後にしてくれ」
 駆け寄ろうとするエリルを制してまた背中を向けた。フラットの視線の先には口から血を吐きながらも立ち上がるサーディルンがいた。
「貴様は何者――」
「シュピールの報告にあった奴だ」
 サーディルンがギーレンの問いを遮った。
「こいつが……」
 即座に構えるギーレンの前に出ると、邪魔者を払うかのように突き飛ばした。
「こいつの相手は俺様だ。天上人ごときが出しゃばるな」
 サーディルンの目にはフラットしか映っていない。その顔は怒りで塗り固められている。自分を手玉に取り、傷を負わせたフラットに激しい憎悪を向けていた。
「これほどの屈辱は初めてだ。どうあってもこの手で仕留めねば気がすまん」
 吐き捨てるように言って足を踏み出すと、がくりと膝を落とした。手を地面につき、すぐに立ち上がる。そんなサーディルンをフラットは冷ややかな目で見た。
「いい加減諦めろ」
「ふざけるな!」
 サーディルンが地を蹴った。その動きには戦い始めた頃の機敏さは失われていた。それでも怪力は健在だ。
 大振りの拳を僅かな動きで躱していく。フラットは攻撃をかいくぐると懐に入り、剣の背を押し当てた。剣身に掌底を当てる。衝撃が剣をすり抜け、刃の形となってサーディルンを切り裂く。
 後方に吹き飛ばされ、サーディルンはそれでも何とか踏み止まった。
「なんだ、その生ぬるい攻撃は」
 ロンメルが非難の声を上げる。フラットはそれを背中に受け、胸がずきりとした。彼の言うことは分かる。相手は侵略者で、多くの人間を殺したから。その仕返しをするのは当然の権利だ。確かにサーディルンは憎い。だが――
(魔族も人間……)
 以前、シュピールに言われた言葉を思い出す。『あなたに人を殺せる覚悟はありますか』と。答えはノーだ。どんな理由であれ、殺人は悪いことだと教えられ、その通りだと確信しているフラットにとって許されることではない。
 とはいえ、放っておくとサーディルンはエリルを殺め、ロンメルやハバードを殺し、これからも多くの人の命を奪う。それを止める力をフラットは持っている。フラットが罪をかぶれば、失われるであろう命を救えるのだ。
 勝敗が明らかになりつつなると、急に命を奪うことが怖くなった。
 答えは出ず、悩み続けて戦った。そしてロンメルに問われ、悩みは深く大きくなった。だが、敵は待ってはくれない。
 サーディルンが全身を振るわせ、雄叫びを上げた。猛然と突進してくる。
 もう迷ってはいられない。
 フラットは地を蹴ると、サーディルンの攻撃を避けて懐に飛び込んだ。斬り上げるとすんでの所で躱される。構わず踏み込み、手首を返して袈裟斬りにした。
 サーディルンの左肩から血が吹き出る。斬られた方の腕がだらりと落ちて動かなくなった。痛みに絶叫を上げ、後ずさった。
 すかさず間合いを詰めると、残された方の拳が放たれた。フラットはしゃがんで躱し、膝の上をめがけて横薙ぎにした。ぎりぎりで躱したはずの剣先から風の刃が突き抜け、サーディルンの足を切り裂く。
 がくりと膝を落とし、サーディルンがそのまま前に倒れ込んだ。
「くっ、貴様は何をした!?」
 痛みに顔をしかめ、立ち上がろうとするが足に力が入らないのだ。訳が分からず、困惑を隠せないでいる。
「腱を斬った。繋がるまでは動かない」
 フラットはサーディルンに歩み寄った。剣を喉元に突き立てると、威勢のいい彼も口を噤んだ。死への恐怖に怯えている。
「これ以上迷惑をかけないのなら見逃す」
 突拍子もない発言にサーディルンが目を見開いた。とはいえ、プライドの塊の彼が受け入れるわけもなく、苦々しく顔を背けた。
「フラット、お前は何を言ってるのか分かっているのか」
 ロンメルが疑わしげにフラットを見ていた。
「分かってる」
「そいつらは憎むべき敵だぞ」
「分かってる」
「見逃せばまた襲われるんだぞ」
「分かってる」
「いや、お前は何も分かってない。魔族がどんな奴らか、魔王軍が何をしたのか。そいつらは多くの人の命を、友人を家族を、エリル様のお父上の命を奪ったんだ。何度殺したってその罪は消えない」
 ロンメルに言われずとも分かっていた。十分に承知している。それでも”人”の命を奪う気にはなれなかった。
 ロンメルは呆れて言葉を失っていた。うつむき、唇を噛み、拳を強く握る。フラットの剣を奪い取ると、代わりにサーディルンに剣を突き立てた。
「お前がやれぬなら俺がやる。みんなの仇だ!」
 喉元を切り裂こうと剣を振るった瞬間、何かの影がロンメルの懐に現れた。集中を解いていたフラットはその接近に気付かなかった。目で追ってその姿を確認する。
「シュピール!?」
 驚くフラットを後目に、シュピールはロンメルの腹部を殴打した。反応する間もなく崩れ落ちる。
「お、お前は何者……だ……」
 痛みに顔を歪めながらロンメルは声を絞り出した。
 シュピールは大柄なサーディルンを軽々と拾い上げると、フラットの方を向いた。
「実に素晴らしい戦いぶりでした」
「ずっと見てたのか」
「申しあげたはずです。様子を見ると」
 平然と言われ、フラットはぞっとした。彼の言葉から、近くにいたことは分かった。誰にも見つからず潜んでいたのだ。戦いが終わってすぐに現れられるほど近くに。
 今さら慌てて構えるが、シュピールは苦笑するだけで戦う気配すら見せない。
「何がおかしい?」
「いえ……ただ、今回は私達の負けです。魔物は全滅、サーディルンは敗北、協力者の彼はやる気がないようですし。ここは退かせて頂きます」
「あんた一人でも勝てるんじゃないのか」
「それは買いかぶり過ぎです。ですが、目的の一つは果たさせて頂きます」
 そう言ってステップを踏むと、フラットの眼前から消えた。まるで瞬間移動するかのようにエリルの前に降りたったのだ。突然現れたシュピールに恐怖し、エリルは全く動けずにいた。
 シュピールが懐から短剣を取り出す。その目的を悟ったフラットは全力で駆けた。エリルを守ろうと必死に走るが、間に合わない。止めようと手を伸ばすが、嘲笑うかのように短剣がエリルに吸い込まれていった。
 エリルが悲鳴を上げる。フラットは顔を歪めた。目をつぶり、天に祈るような気持ちで奇跡にすがった。
 短剣が肉に食い込む生々しい音がした。
「くっ……姫様……」
「ハバード?」
 フラットは目を見開いた。そして驚愕した。エリルとシュピールの間にハバードがいたのだ。腹に短剣を刺されて大量に出血していた。地面を赤く染めていく。エリルの表情がみるみる険しくなる。今にも泣き出しそうな感情を必死に抑えている。目の前で起きたことを否定しているようだ。だが、そんな無理は数秒と続かなかった。
「いやぁーーーーーーーーーーーっっっ!」
 悲鳴と共に涙が溢れ出した。感情の奔流が止まらなくなる。
 さすがのシュピールもハバードの介入は予期していなかった。驚きの声を漏らし、口の端を歪める。そして短剣を引き抜いた。さらに血が噴き出し、ハバードが崩れ落ちる。何も言わずに標的を切り替え、再びエリルを刺そうとした。
 フラットは自分の剣を拾って肉薄。短剣がエリルに到達するよりも速く斬り上げた。金属音と共に短剣が跳ね上がり、目を見張るシュピールに一閃。シュピールは後ろに跳んで避けた。すぐに新しい短剣を取り出す。
「何てことを……」
「私は侵略者です。相手を刺すのは当然のこと」
「それでもこんなことって」
「あなたが悔やむことはありません。さあ、そこをおどき下さい」
 フラットは血の味がするほど歯を食いしばった。涙をにじませて首を横に振る。
 守れたはずの命が目の前でこぼれ落ちていく。守れるはずの命を奪われようとしている。フラットは剰りの無力さに憤りを覚えた。そして考えた。どうすれば救えるのか。どうすれば相手を退けられるのか。
 ここで戦っては駄目だ。そう直感し、ある取引を思いついた。その方法なら敵意を自分に集められる。だが、自分を危険にさらし、当初の目的の父捜しがままならなくなる。それでも皆を助けたかった。
 フラットは覚悟を決めた。
「もうこの人達には手を出すな」
「それは出来ない相談です」
「俺の正体を教える。聞けば心変わりするはずだ」
「ほう、実に興味深い意見ですね」
 シュピールが短剣を持つ手を下ろした。話を聞こうとしている。第一関門は無事に通過出来た。後は約束を取り付けるだけ。
「手を出さぬと約束しろ」
「内容によりますが……」
 思案するシュピール。ハバードが苦しそうにうめきながら顔を上げる。
「……フラット……駄目じゃ……それを言っては………」
 そこまで言ってぐったりとする。正気に戻ったエリルがハバードを横たわらせた。ハバードの言葉に、シュピールは怪訝な顔をした。
「よほど重大なことのようですね。分かりました。ネンツ王国の人にはもう手を出しません。ですが、それ以上の譲歩は出来ませんよ」
「いいのか、独断でそんな約束をして」
 ギーレンが口を挟む。シュピールは頷き、平然と言った。
「私にはそのぐらいの権限があります。あなたも魔王軍に居続けるのなら従って頂きます。よろしいですね」
 ギーレンは渋々下がった。シュピールはフラットの方に向き直る。
「お話を聞きましょう。あなたは何者ですか」
「俺の名前はフラット・エブィル。エブィルの血を引き、名を継ぎし者だ」
 それを聞いて驚いたのはシュピールだけではなかった。エリルやギーレンも驚愕に表情が染まっている。
「フラットさんが英雄の子孫……」
「そんな奴が何で……」
 押し黙ったシュピールが腹を抱えて笑い出した。
「素晴らしい、実に素晴らしい。あなたがエブィルの子孫……エブィルの名を継ぎし者だったのですね。それが事実なら世界を天秤にかけてもいいぐらいです。いいでしょう。約束は守ります。このことは上層部に報告させて頂きますが」
 フラットに背を向け、嬉しそうに高笑いを上げて歩き出した。瞬きする瞬間にその姿を消した。「約束は必ず守る」と言い残して。
 フラットは未だ残り続けるギーレンを睨み付けた。ギーレンは呆れ顔でため息を吐いた。フラット達の方に近付きながら言った。
「俺は魔王軍には残らん。ロンメルとの真剣勝負が望みだったが、禁じられては何も出来んからな」
 フラットは敵意を向けたまま。ギーレンは慌てて弁解する。
「心配するな。もう争う気はない」
「ギーレン……」
 エリルが悲しげな顔で、それでも嬉しそうにほっとしたかのように名前を呼ぶ。それに反応したのは瀕死のハバードだった。
「……まさか……ハーレン・ゲ・ビエトの息子か……」
「親父を知ってるのか」
 突然の父親の名にギーレンは目を丸くし、すぐにはっとした。ギーレンの父親を知る人はネンツ王国にはいくらでもいる。だが、次の言葉にギーレンは興味をかき立てられた。
「……お主……迷っておるな……それなら……ハーレンの故郷に行け……」
「親父の故郷?」
 ハバードは顔をしかめたままゆっくりと頷いた。
「どういうことだ、親父の故郷って。それが何の関係があるんだ」
 詰め寄るギーレンをエリルが制した。
「これ以上おじいさまに喋らせないで」
 泣きそうになりながらも真剣な眼差しをギーレンに向けた。ギーレンはエリルの気持ちに負けて引き下がろうとした。それをハバードが止める。
「……姫様……すまんのう……じゃが……これだけは話して……」
 エリルは頬を濡らしながら頷いた。黙ったところでその後に訪れる現実からは逃れられない。それなら最後は思うままにさせたい。辛さを我慢してまた頷いた。
 ハバードは頬を緩ませ、傍で膝をつくギーレンに視線を向けた。
「……ハーレンはお主の父ではない……お主はある国から連れ出した子じゃ……」
「親父が実の父ではない? その国って……」
 顔を寄せるギーレンにハバードが耳打ちした。それは剰りにも小さく、周りの誰も聞き取れなかった。だが、それを聞き、ギーレンは怯えるようにして離れた。立ち上がると、脇目を振らず去っていく。そんな彼にハバードがもう一言言葉をかける。
「……そこなら答えが見つかるはずじゃ……」
 言い終わる前にギーレンは姿を消した。行動の理由が気になったフラットはハバードに問い質そうとしてやめた。剰りに苦しそうだったからだ。
 ハバードがフラットに視線を向ける。
「……お主、バカなことをしたな……」
「自分でもそう思うよ」
「……お主は命を狙われる……もう逃れられぬじゃろう……」
「そんなことはもういい。もっとエリルと話してやれ」
「……そうじゃな……」
 ハバードがエリルを見た。エリルは優しい笑顔をハバードに向ける。必死に表情を作ってるのは誰の目にも明らかだった。いたたまれなくなり、フラットは目を背ける。
「……姫様……」
「おじいさま」
「……すまんのう、助けになれず……」
「いいんです、もう。おじいさまが元気でいて下されば」
 必死に涙を堪えるエリル。それでも何度も溢れ出す。その悲しみは深く、我慢したところで止められはしない。そんな彼女の頬をハバードが優しく触れた。
「……すまんのう……かすんでよく見えぬ……」
 頬に触れるハバードの手に優しく重ねた。
「私はここにいます。だから元気になって下さい。お願い、おじいさま」
 必死に訴えるエリルに、ハバードが笑いかける。
「……姫様はわしがおらずとも大丈夫じゃ……しっかりするんじゃぞ……」
「はい……おじいさま……」
 うつむくエリル。そんな彼女をじっと見詰めるハバード。しばらくしてハバードが口を開いた。それが最後の言葉となる。
「……最後に笑顔を見せておくれ……」
 流れ落ちる涙。何度も何度もぬぐい、必死に笑顔を作るがうまくいかない。それでもハバードは満足し、ゆっくりと目を閉じた。そして全身から力が抜け、ぐったりとした。それを目の当たりにし、エリルの顔がみるみる沈んでいく。
「……おじいさまぁ……」
 愛しい人に抱かれ、ハバードが息を引き取った。その表情は幸せに満ちていて、これまで苦しんでいたのが嘘のようだ。
 エリルが泣き崩れてハバードの胸にうずくまった。それを慰める術をフラットは知らない。フラットは黙ってまま立ち尽くしていた。
 ロンメルが側に寄り、エリルの肩にそっと手を触れる。エリルはロンメルの胸に飛び込み、わんわん泣いた。そんな彼女を抱きしめる。悲しみを吹き飛ばそうと、強く抱きしめる。ロンメルの力に呼応するかのようにエリルが声を張り上げた。
 彼らの時間は止まったまま。エリルが泣き疲れて眠りにつくと、ようやく動き出したのだった。




 エピローグ



 その夜は、まん丸に満ちた月が空に浮かんでいた。夕方の戦いを象徴するかのように、怪しく地上を照らす。生き残り疲れ切ったエリル達は、それでもまともな眠りにつけず夜を明かしたのだった。
 明くる日、エリル達は亡くなった人々を弔う為に墓を建てた。もちろんハバードの墓もである。その作業にフラットは加わらなかった。辛うじて残った部屋の隅で、分厚い本と格闘していたのだ。
 フラットの前にはアンドレンが横たわっている。
「『誰にでも出来る簡単機械整備』って何だよ。こんな難解な説明書じゃどうにもならないぞ。ハバードはこんなのでよく整備が出来たな」
 愚痴をこぼしながらもアンドレンの損傷箇所を点検していった。
 機械には興味はなく、工業高校に通っていたわけでもなく、フラットは全くの専門外だ。それでも一つ一つ理解しながら作業を続けた。作業中はアンドレンは停止し、言葉を返さない。思考の許容範囲が限界に達しようとしていた。
「ああもう、これでどうだ」
 半ば投げやりに作業を終えると、アンドレンを起動させた。かすかな駆動音がし、目に光が点る。しばらくして上体を起こした。
「チェック終了。オールグリーン。問題アリマセン」
 それを聞き、ほっと胸をなで下ろす。手にしていた本を返すと、アンドレンはそれを体内に収納した。
「ちゃんとした修理は必要だな」
「肯定。開発者ニ依頼ノ必要ガアリマス」
「もう一人の転生者、クルンテフか。どこに行けばいいんだ」
「西ノ大陸、高山地帯ニイマス。飛行機能ヲ修理スレバ自力デイケマス」
「それが出来ないから困ってるんだ」
 フラットは嘆息して立ち上がった。
「少し遠回りだが仕方ないか」
 そう呟きながら部屋の外に出ると、強い日差しが目をさす。明るさに慣れると、小走りに近付くエリルを見据えた。
「フラットさん、ここにいたのですね」
 息を切らせて立ち止まるエリル。フラットを探して走り回っていたようだ。嬉しそうにフラットを見ていた。すぐに表情が沈む。
「何かあったのか」
 心配になって聞くが、彼女は首を横に振った。
「お墓を建て終わったので、みんなでお別れをするんです」
「そうか……」
 多くの人が亡くなり、ハバードが息を引き取った。目の前の惨劇を思い出し、憂鬱な気持ちになる。物思いに耽るフラットの手をエリルが引く。
「みんな待ってます」
 エリルの手の温もりを感じ、フラットは恥ずかしくて頬を染めた。フラットの動揺を知ってか知らずか、エリルがどんどん先に進む。手を引かれては抵抗も出来ず、そのまま付き従うことにした。
 遠くにロンメルが見えると、慌てて手をふりほどいた。怪訝な顔をするエリルに、照れながら言った。
「ほら、ロンメルが見てるし」
「焼き餅を妬くの? まさか……」
 エリルは二四才でフラットは十五才。せいぜい年の離れた兄妹だ。その二人が手を繋いだとしても大の大人が焼き餅を妬くだろうか。そう思って首を傾げるエリルに、ロンメルを見るように促した。
 ロンメルが鋭い目つきで二人を見ている。正確にはフラットを睨んでいた。
「ど、どうしよう。あの人、きっといじけてしまう」
 エリルが慌てだし、回避する方法を思いつかなくてしょんぼりした。その表情の変化がおかしくてフラットは声に出して笑った。
 ふくれっ面をするエリル。初めて会った時は高貴な雰囲気、綺麗な佇まい、美しい顔立ちの全てが近寄りがたくて苦手だった。だが、話して分かったことがある。心は少女のように幼くて可愛らしかった。
「子供の頃みたいに甘えてみたら?」
 そう提案すると、エリルは考え込んで顔を赤くした。
 フラットは昨夜、エリル達の出会いやその後の日々の話を聞いた。ギーレンのことも。無邪気だけど、他者を意識する多感な頃のことを。当然、エリルがどうやって甘えていたかも。
「先に行けよ。後からゆっくり追うから」
 エリルの背中をそっと押した。彼女は目を泳がせてから頷き、ロンメルの元に走っていった。その背中を見送り、フラットは満足げに笑った。
 ロンメルが口を開くよりも早く、エリルが彼の腕に抱きついた。
 あたふたするロンメル。嬉しそうに頬を染めてうつむくエリル。墓の前でいちゃつくのは不謹慎だ。だが、周囲の人達は非難するどころか歓声を上げた。二人の気持ちを知っていたのか、単に騒ぎたいだけなのか。
 どちらでも構わなかった。暗い顔で送られるよりも笑顔の方がハバードも嬉しいはずだ。フラットはそう信じていたし、エリル達も同じ気持ちだろう。
 フラットは墓の前に立ち、改めてハバードのことを考えた。
 彼の手によって天上界アルヴヘイムに連れてこられてから四日目。ハバードに多くのことを教わった。これからも多くのことを教わるはずだった。父エドガルドのこと、世界のこと、他にもたくさんのことを。
 また一人になった。
 そう考えると途端に心細くなった。縮こまり、体を震わせる。何かに怯えるかのように。世界に自分だけが取り残されたかのように。
 うつむくフラット。そんな彼の肩に、何かが優しく触れた。
 はっとして顔を上げると、フラットの横でエリルが優しく笑いかけていた。
 反対の肩を誰かが力強く握る。
 視線を向けると、ロンメルが力強い目でフラットを見つめて頷いた。
(そうだった。俺はもう一人じゃない)
 傍にいる二人はフラットを一人の人間して認め、信頼している。共に旅をするわけではない。それでも同じ空の下にいると思うだけで心強かった。
 ハバード達に別れを告げると、村は急ピッチで復旧に向けて動き出した。フラットは旅支度を追え、エリル達との別れを惜しんでいた。
「もう発たれるのですね」
「そういつまでものんびりしていられないからな」
「それもそうですね」
 寂しそうにうつむくエリル。例のごとく疎ましげにフラットを見るロンメル。
 ロンメルは独占欲が強いのだろうか。その反面、エリルは嫉妬心に鈍感だ。けして相性がいいとは言えぬが、これまでもこれからもそうして気持ちを育んでいくのだ。フラットはそう感じながらもむずがゆさを覚えた。
「エリルはこれからどうするんだ」
「しばらくは身を潜めます。魔族の言うことを鵜呑みには出来ないので」
「それもそうだな」
 さっきのエリルと同じように納得すると、おかしくて噴きだした。そして言葉が続かないことに嫌気が差した。これ以上感傷に浸っていては別れるのが辛くなる。そう思って側を離れることにした。
 別れを言うとエリルは瞳を潤ませた。
「また会えますよね」
「分からないけど、いつか必ず会いに来るよ」
 エリルに耳打ちした。
「それまでロンメルと仲良くな」
 かあっと赤くなるエリルから離れると、フラットは一番の笑顔を見せた。
「それじゃ、またいつか!」
 頷くエリルに背を向け、フラットは歩き出した。途中、何度か振り返っては笑顔で手を振るエリルに手を振った。最後には振り向くのをやめ、破壊された村を後にした。フラットの後ろからアンドレンがしっかりとついてくる。
 村が視界から消えたところで、フラットは驚いて立ち止まった。そこに意外な人物が立っていた。気さくに声をかけてくる。
「ギーレン……?」
「俺を知ってるのか。それなら話は早い」
 近付くギーレンを警戒して剣の柄に手をかけた。
 手を挙げるギーレン。敵意がないことの証明のつもりだろうか。それだけでは警戒を解く理由にはならなかった。
 ギーレンは困り果てて頭をかく。
「ああ、なんだ、ロンメルに聞いたとは思うが、俺はあいつと戦う為だけに魔王軍に身を置いた。その前もその間も、人を殺めることに関わっていない。罪がないとは言わんが、それでも奴らとは違う」
 いい訳がましく聞こえ、フラットは眉根を寄せた。
「何が言いたいんだ」
「何のことはない。お前の旅に同行しようってな」
 軽い調子で言うギーレン。フラットは驚いて目を丸くした。
「話によると世界の事情に疎いだろ? だから俺が西の大陸まで案内してやる」
「頼むにして偉そうだな」
「それは悪かった。だが、悪いようにはせん」
 敵意の欠片もない。騙すにしても無計画すぎる。魔王軍の監視の線も捨てきれないが、ギーレンの生真面目な性格からその可能性は低い。それに、案内を必要なのは確かだ。敵であれ利用出来るものは利用しよう。そう結論づけ、頷いた。
 と、その前に、フラットはどうしても気になることが一つあった。
「あのさ、まだエリルのことが好きなのか」
 ギーレンにとって予想外の問いだった。驚き、目を丸くし、顔を引きつらせて笑い出した。フラットもそれに付き合って笑う。
 答えは分かっていたが、はっきりと聞きたい。好奇心にかき立てられ、ギーレンが口を開くのを待った。
 ギーレンは顔を背けて僅かに頬を染める。
「それはまあ、好きと言えばそうだが」
「入り込む隙間はないのに?」
 ギーレンはむっとしてフラットを睨んだ。
「言われんでも分かってる。とうの昔に諦めた。だがな、あんないい女は他にはいない」
「へえ、引きずってるんだ」
 にやにやすると、ギーレンが顔を赤くした。
「大人を冷やかすな! あいつはロンメルに譲ったんだ。俺はもう関係ない」
「だからエリルのいない土地に逃げるのか」
「それも一つの理由だが……って、おい!?」
 ギーレンの反応がおかしくてついふざけた。そのやりとりで、背後に魔王軍がいないことも分かり、フラットはほっとした。ロンメルを圧倒したギーレンが仲間になるのは心強い。だが、もう少しからかっておこう。
「エリルよりもいい女性を知ってるよ」
「本当か!?」
 案の定、食いついてきた。
「でも教えない」
「ちっ、冷やかしかよ」
 残念がるギーレンを後目にフラットは先を急いだ。怒りながらもギーレンが歩調を合わせてついてくる。
(本当なんだけどな)
 少なくともフラットにとっては。
 互いの胸の内を知るはずもなく、フラットの旅は始まった。この先に数々の障害が待ち受けているとは知らず。その運命を呪う日がいつか来るとは思いもせず。